筑後国府一覧

第2085話 2020/02/16

「筑後国風土記」の疾病記事と八面大王

 「洛中洛外日記」2050話(2019/12/04)〝古代の九州と信州の諸接点〟において、遺伝性の病気(アミロイドポリニューロパチー)の集積地が熊本県と長野県に分布を示していることを紹介しました。このことは「洛中洛外日記」読者のSさん(長崎市の医師)から教えていただいたのですが、最近、そのSさんからメールが届き、興味深い仮説が記されていました。
 それは、「筑後国風土記逸文」に見える次の疾病記事は、アミロイドポリニューロパチーによるものではないかというアイデア(作業仮説)です。

 「(前略)ここに、官軍、追ひ尋(まぎ)て蹤(あと)を失ひき。士、怒(いかり)やまず。石神の手を撃(う)ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)しき。古老の傅へて云へらく、上妻の縣に多く篤き疾(やまひ)あるは、蓋しく茲(これ)によるか。」

 この逸文は、筑紫の君磐井が官軍(近畿天皇家)との戦いに敗れた事件を記したものですが、古田先生は上妻の地に病人が多いのは白村江戦敗北などによる戦傷者が多かったことが背景にあったのではないかとされました。
 ところが、信州に残る「八面大王」伝承は「ヤメ大王」のことであり、それを磐井のこととする仮説も提唱されていることから、Sさんの推定のように、「筑後国風土記逸文」に記された上妻の縣(現在の八女地方)に多い疾病がアミロイドポリニューロパチーによるものであれば、その遺伝性疾患は信州まで逃げた「八面大王」(磐井)らによって、当地に伝えられたと考えることもできそうです。
 ただし、九州におけるアミロイドポリニューロパチーの集積地は熊本県荒尾市とのことですから、「上妻の縣」(福岡県八女地方)とは少し離れています。こうした検討課題が残ってはいますが、Sさんの推定を作業仮説の一つとして、検討の俎上に載せても良いのではないでしょうか。


第1135話 2016/02/07

大善寺の十二弁菊花紋の御神像

「洛中洛外日記」1130話で肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究を紹介したところ、鳥栖市のTさんから久留米市大善寺にも十二弁菊花紋を持つ祠があることをお知らせいただきました。メールで送信していただいた写真には確かに石の祠に十二弁菊花紋があり、御神像が安置されていました。
 そこで、久留米市の研究者で威光理神や筑後国府のことをお調べいただいた犬塚幹夫さんにその祠のことをお伝えし、調査協力をお願いしたところ、早速次のメールが届きました。
 なんと十二弁菊花紋の祠の神様は女性の恵比寿様とのこと。恵比寿様といえば男性と思いこんでいたのですが、これには驚きました。ちなみに、筑後地方には恵比寿信仰が濃密に残っており、その淵源は九州王朝や高良大社とも関係がありそうです。楽しみな研究テーマがまた一つ増えました。当情報をお知らせいただいたTさんと犬塚さんに感謝いたします。
 以下、犬塚さんのメールをご了解の上、転載します。

古賀達也様
十二弁菊花の祠について

 先だっては、貴重なお話を聞かせていただき大変刺激になりました。ありがとうございました。
 さて、遅くなりましたが、十二弁菊花の祠について現在までに判明したことをお知らせします。

1  現地調査
 祠は西鉄大善寺駅の近く、明正寺という浄土真宗のお寺の脇にあります。祠自体にご祭神の情報がなかったため、お寺の方に聞いてみたところ、ご祭神は恵比須様であること、毎年七月下旬に町内の子どもが集まってお祭りをすること、祠がいつの時代からあるのかはわからないことなどを聞かせていただきました。

2  文献調査
 この祠と神像について、「久留米市史第5巻」では、「大善寺町には、明正寺前の祠にも木彫の恵比須(女形)が祭られている」とあり、ご祭神は恵比須様の女神であることがわかります。
 また、加藤栄「史料とはなし 鄕土大善寺」では、「恵比須さん 明正寺の道端にある町祠。明治初年からの木像がある。」とあるます。明治になって木像が補修されたのでしょうか。
 坂田健一「恵比須の中の筑後」で、次のように述べています。
 「恵比寿を単体で祭祀する場合、抱鯛型通相の神像がほとんどであるが、時に女神だけの事例もある。」として、久留米市大善寺にある二例の女神だけの恵比寿神像について説明しています。
 一つは、大善寺藤吉の称名院前の石祠にある神像で、「筑後秘鑑」によれば日本最初の市蛭子ということです。現地で確認したところ、神紋は「十二弁の菊花紋」ではなく「三つ蔓柏」でした。
 もう一つが大善寺宮本の恵比寿像です。坂田氏はこれについて、「石祠は大型の入母屋平入りの堂々たる構えで破風面に十二花弁の菊花が彫り出されているのが特徴的で珍しかった。『享和元年(一八〇一)酉年十月吉馬焉』の銘の外に、『上野町願主 江口吉右衛門』や庄屋の江口小右衛門、別当の田川儀七などの刻銘がある。
 内部の神像は高さ約二五センチほどの木彫で、頭頂部分が欠失しているが、明らかに垂髪の女神像である。目は線状に彫りくぼめ、鼻は三角形の小さな突起をつくり、両手を膝上に組んで何かを捧げている態様であるが、詳細は不明。小袖・袿・長袴姿を着た平安期の正装女性を感じさせるが、着衣の袖が左右に大きく張り出し、全体の形が三角形を呈しているのが出色である。
 神像の周囲に素焼きの恵比須・大黒像が置かれていて、この女神像が恵比須として祭祀されていることは明らかである。」としていますが、十二弁の菊花紋が使用されている理由などについては特に触れていません。

3  御廟塚
 大善寺町から約2キロメートル離れた三潴町高三潴にある高良玉垂命の墓と伝えられる御廟塚に祠がありますが、「三潴町文化財探訪」に「正面鳥居の前に小さな石祠がある。恵比須神の石祠である。」とされています。
 また、坂田氏の「恵比須の中の筑後」では、「三潴町の恵比須  塚崎の高良廟の境内に石祠がある。もとは古い石祠だったと思われるが、現在の祠は奥壁の一枚を保存して再建したものと推測される。この奥壁は平石の中央を彫りくぼめ、左右の縁部を前方に突出した形になっている。半肉彫に表現された恵比須は、高さ三二センチほどあり、両手で大鯛をがっちり抱え込む珍しい様式のものである。再建石祠の向かって右側面に『文政五年(一八二二)六月吉日 昭和七年十月再建』の銘がある。」とされています。
 念のため現地で確認したところ、大善寺藤吉の神像と同じく「三つ蔓柏」の神紋を使用していました。

4  十二弁菊花の神紋について
 十二弁菊花の神紋については、どの文献も触れていなかったため、神社に関するサイト「玄松子の記憶」を参照しました。玄松子さんが自ら調査した神社という制約はあるもののかなりの数の例が挙げられていますので大変参考になります。
 菊花の神紋を持つ254社のうち
十二弁       3社
    宇佐神宮  大分県宇佐市
    明治神宮  東京都渋谷区
        荏原神社  東京都品川区
 八弁       4社
十四弁       5社
十五弁       1社
十六弁その他    241社
(分類・集計は犬塚による)

 以上現在まで判明した事項についてお知らせしました。今後、私も十二弁、十三弁の神紋について探していきたいと思っております。

参考文献
加藤栄「史料とはなし 郷土大善寺」 1977
久留米市史編さん委員会「久留米市史 第5巻」 1986
坂田健一「恵比須の中の筑後」 1998

犬塚幹夫


第1119話 2015/12/31

筑後国府「前身官衙」が出土

 今年最後の「洛中洛外日記」となりますが、地元久留米市の研究者、犬塚幹夫さんから教えていただいた筑後国府「前身官衙」の出土について紹介します。
 筑後国府の研究は江戸時代には行われており、17世紀後半頃には真辺仲庵(まなべちゅうあん)は高良山西麓の「府中」(御井町付近)に国府跡があると『北筑雑藁』に記しています。幕末の久留米藩士の矢野一貞は合川町の「フルゴウ」付近としました。付近には字地名「コミカド」(小朝廷)などもあり、久留米藩最後の御用絵師・三谷有信(1842〜1928)はその「小朝廷」の復元図『御井郡国府図』を書いています。
 現在までの発掘調査によれば、筑後国府は場所を移動させながら1期から4期までの遺跡が知られています。1期は最も西に位置し、高良山麓へ移動しながら4期が最も東側となります。このことから筑後国府は他の国府には見られないほど長期間にわたり存続したことになります。しかも、最新の発掘調査では1期の遺構にそれよりも古い「前身官衙」が発見されたとのこと。
 現在の考古学編年ではこの「前身官衙」を7世紀中頃から末としていますが、北部九州の7世紀頃の編年は大和朝廷一元史観の影響により50年ほど新しく編年されている可能性が高いので、おそらくこの「前身官衙」は6世紀末から7世紀前半までさかのぼるのではないかと、わたしは考えています。
 今までの九州王朝研究の成果から考えると、九州年号の倭京元年(618)に多利思北孤が太宰府遷都するまで、5〜6世紀頃は九州王朝の国王・天子は「玉垂命」を襲名しながら筑後に都をおいたと考えられていますから、その宮殿遺構の候補として筑後国府跡や同「前身官衙」が比定できるのではないかと考えています。これからの考古学調査と分析が必要です。同時に文献史学との整合性をもった研究も重要です。おそらく2016年はこうした研究が一層進展することでしょう。そのためにも犬塚さんら地元研究者への期待が高まります。
 それでは読者の皆様、よいお年をお迎えください。新年も「洛中洛外日記」をさらに充実させていきますので、お力添えをお願い申しあげます。


第1117話 2015/12/30

吉野河尻の井戸と威光理神(井氷鹿)

 今日は久留米に帰省し、JR久留米駅で犬塚幹夫さん(久留米市在住)とお会いしました。久留米市にある威光理神社の調査にご協力いただいたことは、「洛中洛外日記」925話でご紹介したところです。その犬塚さんと初めてお会いし、2時間以上にわたり筑後地方の古代史(神籠石・筑後国府・威光理神社)や九州年号についての調査報告をお聞きしました。
 さすがは地元の研究者の強みで、わたしが知らないことや、思いもつかなかった仮説や視点が次から次へと出てきました。中でも素晴らしい仮説と思ったのが、『古事記』神武記に見える吉野の河尻で井戸から井氷鹿が出現することに着目されたことで、なぜ川のそばなのに井戸があるのかという問題でした。
 川が近くにあれば井戸など不要なはずなのですが、佐賀や筑後の有明海付近の弥生時代の遺跡からは井戸が数多く見つかっているとのことで、その理由は、干満の差が大きい有明海付近では塩水が逆流することから、川からは安定して真水を得られないため、近くに川があるにもかかわらず真水を得るために井戸が掘られているとのことなのです。従って、有明海付近の筑後や肥前こそ、近くに川があっても井戸が必要な地域だというのです。
 従って、『古事記』に見える「吉野の河尻」とは奈良県の山奥の吉野川の上流付近(「河尻」ではない)が舞台ではなく、吉野ヶ里付近から有明海に流れ込んだ嘉瀬川下流域(河尻)付近の伝承とするわたしの説(神武東遷記事中の「天神御子」説話は天孫降臨説話「肥前侵略譚」からの盗用)を支持するものでした。
 このように『古事記』神武記の「河尻」にいた井氷鹿が「井戸」から登場するという記事には、深い背景があったわけです。このことに気づかれた犬塚さんの着眼点と解説には脱帽しました。犬塚さんのお話はさらに続きます。(つづく)


第905話 2015/03/22

筑後の「阿麻の長者」伝説

 『隋書』「イ妥(タイ)国伝」によれば、九州王朝の天子の姓名は阿毎多利思北孤(アメ〈マ〉・タリシホコ)と記されています。近畿天皇家の天皇にこのような人物はいませんが、筑後地方に「阿麻の長者」伝説というものがあり、この「阿麻の長者」こそ阿毎多利思北孤かその一族の伝承ではないかと考えています。
 『浮羽町史』(昭和63年)によれば、久留米の国学者・舟曳鉄門『橿上枝』の説として、浮羽町(現・うきは市)大野原にあった「天(尼)の長者の一朝堀(ひとあさぼり)」について次のように紹介しています。

 「原の西北に阿麻の一朝堀と云へる大湟(ほり)の趾あり。土俗の伝に上古ここに阿麻と云へる貴き長者あり。その居館の周囲に大湟を一朝に掘れるより此の号ありと云へり。高良山なる神篭石を鬼神の一夜に築きけりと云へる里老の伝と全く同じかり。阿麻とき名とも氏とも云へず。いとも遙けき上古の事と云へれば、文書の徴とすべきたづきもなかりしかど、上記の文に據りてよく案へば天津日高の仙宮敷まししをかくは語り伝へしなるべし。」(156頁)

 この「天(尼)の長者の一朝堀」は大字山北字宇土の国道210号線沿いの北側にあったもので、長さ240m、幅68m、深さ20mの掘割で、昭和57年(1982)合所ダム建設工事の排土で埋没されたとのことです。同地域には「こがんどい」と呼ばれる堤防もありました。この「天の長者の一朝堀」を『日本書紀』斉明紀の「狂心の渠(みぞ)」ではないかとする論稿「天の一朝堀と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』40号、2000年10月)をわたしは発表したことがあります。本ホームページに掲載されていますので、ご覧ください。
 筑後地方は筑前と共に九州王朝の中枢領域です。そこにあった巨大土木工事跡と「阿麻の長者」伝説を九州王朝の天子・阿麻多利思北孤やその一族のものとすることは穏当な理解と思います。


第897話 2015/03/13

スタジオジブリの

「かぐや姫の物語」

 テレビでスタジオジブリ作品の「かぐや姫の物語」を観賞しました。水彩画のようなタッチの作品で素朴な日本の原風景の中で展開される物語がとても素敵でした。
 「かぐや姫の物語」は古典「竹取物語」をアニメ化したものですが、原作の持ち味を失うことなく見事に映画化したもので、現代人の心にもうったえる名作として蘇っています。さすがはスタジオジブリの仕事だと思いました。
 「竹取物語」について、わたしも小論を書いたことがあります。「八女郡星野村行」(『新・古代学』第6集、2002年、新泉社)所収の「筑後のかぐや姫」という拙論で、本ホームページにも収録されていますので、御覧いただければ幸いです。
 久留米市の大善寺玉垂宮の縁起絵巻(1370年成立、重要文化財)に三池長者の娘の説話が記されており、その美しい姫を天子が牛車で迎えるが、姫は死ん だと偽るという物語です。この説話が「竹取物語」の原典ではないかとする論文です。すなわち九州王朝の説話ではないかと、わたしは考えたのです。『源氏物 語』でも「竹取物語」は「わが国の物語の初めの親」と記されており、九州王朝の姫君の説話ではないかと空想しています。


第887話 2015/03/03

九州王朝の「曲水の宴」

 今日はおひな祭りで、毎年の3月3日になるとご近所のMさんから手作りのちらし寿司がお裾分けされます。美味しいだけでなく、見た目もきれいなちらし寿司で、毎年楽しみにしています。M家のお嬢さんと我が家の娘が同い年ということもあり、二人が赤ちゃんの頃からのおつきあいです。両家とも娘のお見合い相手探しなどが共通の話題となっている近年です。
 古代史研究で3月3日といえば、「曲水の宴」の日として有名です。特に古田史学では九州王朝の宮廷行事として古田先生が以前から注目されていたテーマでもあります。『日本書紀』では顕宗天皇元年(485)三月条の「曲水の宴」の記事が初見で、同2年さらに3年の三月条に見えますが、それ以後は見えず、『続日本紀』の文武天皇5年(701)になってようやく現れます。この顕宗紀の記事が歴史事実がどうか、あるいは九州王朝史書からの盗用の可能性もあり、701年のONライン(九州王朝から近畿天皇家への王朝交代)以後になって近畿天皇家の行事として散見されることから、ONラインより以前は「曲水の宴」は九州王朝のみに許された宮廷行事だったのではないでしょうか。
 ちなみに、「曲水の宴」遺構は久留米市の「筑後国府」跡から出土しており、7世紀以前の九州王朝により催されていた「曲水の宴」の考古学的痕跡です。
 なお、太宰府天満宮では「曲水の宴」が毎年催されており、今年は3月1日に開催されました。九州王朝の故地にふさわしい行事です。


第786話 2014/09/18

倭国(九州王朝)遺産・遺跡編

 今回の「倭国(九州王朝)遺産」は遺跡編です。すでに失われた遺跡も含めて、九州王朝にとって重要な遺跡を認定してみたいと思います。

〔第1〕太宰府条坊都市と「政庁」(紫宸殿)
 太宰府に条坊があったかどうか不明とされてきた時代もありましたが、現在では考古学的発掘調査により条坊跡がいくつも発見されており、疑問の余地はありません。その上で、条坊がいつ頃造営されたのかが検討されてきましたが、井上信正さんの研究により7世紀末頃には既に存在していたとする説が地元の考古学 者の間では有力視されています。さらに井上さんの緻密な研究の結果、大宰府政庁2期遺構や観世音寺創建よりも条坊の造営の方が早いということも判明しまし た。
 こうした一元史観に基づいた研究でも太宰府条坊都市の成立が藤原京と同時期かそれよりも早いという結論になっているのですが、わたしたち古田学派の研究によれば太宰府条坊都市の成立は7世紀初頭(618年、九州年号の倭京元年)まで遡ります。従って、わが国初の条坊都市は通説の藤原京ではなく、九州王朝の首都太宰府となります。
 大宰府政庁遺跡は3期に区分されていますが、2期が九州王朝の紫宸殿と思われます。「紫宸殿」や「大裏(内裏)」という字地名が残っており、同地はいわゆる「政庁」ではなく、九州王朝の天子の宮殿と見なすべきです。ただ、規模が王宮にしては小さいので、天子が日常的に生活する館は別にあった可能性もあり ます。
 2期の造営年代は使用されている瓦が主に老司2式とされるもので、観世音寺の造営と同時期かやや遅れた頃と推定されます。観世音寺の創建年を九州年号の白鳳十年(670)とする史料が複数発見されたことから、政庁2期の造営もその頃と考えられます。九州王朝の首都遺構ではありますが、まだまだ研究途上ですので、古田学派内での論議と解明が期待されます。

 *考古学的報告書などの用語は「大宰府」が使用されていますので、考古学的遺跡名としての「大宰府政庁」などについては、現地名や九州王朝の役所名の「太宰府」ではなく、「大宰府」を使用し、使い分けています。

〔第2〕水城(大水城・小水城・上津荒木水城)
 九州王朝の首都太宰府を防衛する国内最大規模の防塁施設が水城です。『日本書紀』天智三年条(664年)の記事により、水城は白村江戦(663年)後の 造営と通説では理解されていますが、理科学的年代測定(14C同位体測定)によれば、それよりもかなり早くから造営が開始されていたことが判明していま す。
 通常知られている水城(大水城)以外にも太宰府方面への侵入を防衛するために小水城も造営されています。さらには有明海側からの侵入を防ぐための上津荒木(こうだらき)水城が久留米市にあります。これら水城は「倭国(九州王朝)遺産」に認定するに値する規模で、現在でもその偉容を見ることができます(上津荒木水城は今ではほとんど残っていません)。
 ちなみに、この水城は鎌倉時代の元寇でも太宰府防衛に役だったことが知られています。

〔第3〕神籠石山城群
 水城と共に、九州王朝の首都太宰府や近隣の筑後国府・肥前国府を囲繞するような防衛施設(水源を内部に持ち、住民の収容も可能な大規模施設)としての神籠石山城群は九州王朝を代表する遺跡です。直方体の切石が山の中腹を取り囲む列石遺構は同じ規格で造営されていることから、統一権力者によるものと、一元史観の研究者からも指摘されてきました。瀬戸内海方面にも神籠石山城がいくつか点在しており、九州王朝の勢力範囲がうかがえます。
 水城や神籠石山城群の造営という超大規模土木事業は九州王朝の実力を推し量ることができます。文句なしの「倭国(九州王朝)遺産」です。

〔第4〕大野城
 太宰府の真北にある大野城は、首都防衛と水城が敵勢力に突破された場合、「逃げ城」としての機能も併せ持っています。大規模で頑強な「百間石垣」はその代表的な遺構ですが、山内にある豊富な水源や倉庫遺構群は長期の籠城戦にも耐えうる規模と構造になっています。首都太宰府の人々にとっては水城や神籠石山城とともに心強い防衛施設だったことを疑えません。逆から考えれば、当時の九州王朝や「都民」にとって恐るべき外敵の存在(隋や新羅、あるいは近畿天皇家)もうかがえます。
 近年の発掘や研究成果よれば、出土した木柱の年輪年代測定の結果、大野城が白村江戦(663年)以前に造営されていたことは確実です。このことは同時に 大野城が防衛すべき条坊都市太宰府もまた白村江戦以前から存在していたという論理的帰結へと至ります。従って、一元史観の通説で日本初の条坊都市とされてきた藤原京(694年遷都)よりも太宰府条坊都市の方が早いということになるのです。このことも多元史観・九州王朝説でなければ合理的で論理的な説明はできません。

〔第5〕基肄城(基山)
 太宰府の北にある大野城に対して、南方には基肄城(基山)があり、首都を防衛しています。基肄城は交通の要衝の地に位置し、現代でも麓を国道3号線と JR鹿児島本線が走っています。山頂からの眺めもよく、北は太宰府や博多湾方面、南は筑後や有明海方面、東は甘木や朝倉方面が望めます。また、太宰府条坊 都市の中心部の扇神社(王城神社)がある「通古賀(とおのこが)」は、真北(北極星)と基山山頂を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基肄城 は「ランドマーク」の役割を果たした可能性もあります。九州王朝にとって重要な山城であったこと、これを疑えません。

〔第6〕筑後国府跡(含む曲水宴遺構・久留米市)
 倭の五王の時代、九州王朝は筑後に遷宮していたとする研究をわたしは発表したことがあります。筑後国府は3期にわたり位置を変えながら長期間存続していたことが判明しています。中でも「曲水宴」遺構は珍しく、九州王朝の中枢にふさわしい遺構です。高良山神籠石や高良大社なども、九州王朝中枢にふさわしいものでしょう。ちなみに高良大社の御祭神の玉垂命を祖先に持つ稻員家が九州王朝の王族の末裔であることは既に述べてきたとおりです。

〔第7〕鞠智城
 九州王朝研究で検証がまだ進んでいないのが鞠智城です。おそらく九州王朝による造営と思うのですが、古田学派内での調査検討はこれからです。あえて認定することにより、今後の研究を促したいと思います。

〔第8〕岩戸山古墳(八女古墳群)
 現在異論のない九州王朝の王(筑紫君磐井)の墓が岩戸山古墳です。おそらく八女丘陵に点在する石人山古墳・鶴見山古墳などは九州王朝の歴代の王の墓であることは確実と思われます。さらには三潴地方の御塚古墳なども倭の五王の墓ではないかと考えています。これらも含めて認定します。

〔第9〕装飾壁画古墳(珍塚古墳・竹原古墳・他)
 北部九州の装飾壁画古墳も九州王朝を代表する遺跡です。中でも珍塚古墳や竹原古墳の壁画は古田先生の研究により、その謎が解き明かされつつあり、貴重なものです。

〔第10〕宮地嶽古墳
 巨大な横穴式石室を持つ宮地嶽古墳は、その超豪華な副葬品(金銅製馬具・他)と共にダブル認定です。これも異論はないと思います。その石室内で九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞が舞われていたことも「倭国(九州王朝)遺産」にふさわしいエピソードです。

 以上の他にも認定するにふさわしい遺跡は数多くありますが、とりあえず「遺跡編」はここまでとします。なお、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮も候補の対象ですが、検証過程の仮説ですので、今回は認定しませんでした。(つづく)


第454話 2012/08/12

久留米は日本の首都だった

 9月1日(土)に久留米大学の公開講座で講演します。テーマは九州王朝史概論で「久留米は日本の首都だった」という内容です。15日には正木裕さんも講演されます。詳細は久留米大学ホームページをご覧ください。故郷の馴染み深い久留米大学御井キャンパスでの講演をとても楽しみにしています。ちなみに、わたしは同大学の近隣にある御井小学校を卒業しています。
 同公開講座てで配布されるパンフレットに掲載されるレジュメを下記に転載します。

 久留米は日本の首都だった
     -九州王朝史概論-
    古賀達也(古田史学の会・編集長)
 古田武彦氏が『失われた九州王朝』(朝日新聞社・1973)において、古代中国史書などで「倭国」と記されてきた日本列島の中心王朝は近畿天皇家(大和朝廷)ではなく、太宰府を首都(7世紀)とした九州王朝であることを明らかにされた。すなわち、志賀島の金印を授与された委奴国(1世紀頃)を縁源とする、後に三国志魏志倭人伝に邪馬壱国と称された王朝である(2~3世紀。「邪馬台国」とするのは「ヤマト国」と訓みたいための原文改訂であり、学問的には誤った手法である。)。
 6~7世紀、隋書によれば倭国(「イ妥国」と記されている)には阿蘇山があることも記されており、引き続いて北部九州に都をおいていたことがわかっている。7世紀初頭には、その王「阿毎の多利思北弧」が隋の皇帝に国書を出し、それには「日出ずるところの天子」と自称されている。旧来の日本古代史学界では、この国書を近畿天皇家の聖徳太子によるものとしてきた。しかしそれは誤りであり、古田武彦氏が指摘するように、阿蘇山がある国、九州王朝の国書であることは自明といえよう。
 九州王朝(倭国)は白村江敗戦後の7世紀末には衰退し、701年には倭国の分家筋に当たる近畿の大和朝廷が列島の代表王朝となった。旧唐書に「日本国」と記されているのが大和朝廷である。旧唐書には「日本国は倭国の別種」と記されていることからも、このことは明らかである。
 古田武彦氏による九州王朝説は多くの支持者を得た反面、旧来の日本古代史学界はこれに有効な反論をなし得ず、あろうことか無視を続け、今日に至っている。他方、九州王朝研究の進展に伴い、九州王朝の年号が記された木簡「(白雉)元壬子年(652年)」(芦屋市出土)などが発見された。それら九州年号研究は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。2011)などで発表され、反響をよんでいる。
 このように古田武彦氏の九州王朝説は「多元的歴史観」として、歴史の真実を求める心ある人々からは学問的に正当に評価されているのである。今回の公開講座では、こうした九州王朝史を概説し、7世紀初頭に九州王朝が太宰府を首都としたこと、4~6世紀には筑後地方(中心は現・久留米市)に首都をおいていたことを、文献史学などの成果により明らかにする。さらには、今も筑後地方に九州王朝の末裔の家系が続いていることも紹介する。


第291話 2010/11/13

母校、久留米高専で講演

来る11月27日(土)、わたしの母校である国立久留米工業高等専門学校(福岡県久留米市)で古代史の講演をすることになりました。学生時代に有 機合成化学を教えていただいた恩師、鳥井昭美先生の要請によるものです。ちなみに、わたしの卒業研究は鳥井研での「アクリジン関連化合物の合成と反応性の 研究」でした。
鳥井先生は同校を退官された後も、「高専シンポジウム」などの教育活動に長く関わられており、日本化学会教育賞も受賞されています。その恩師の要請と あっては断れないどころか、専攻した化学ではありませんが、母校で日本古代史の講演ができるのですから、大変名誉なことと感謝しています。
主催は鳥井先生が立ち上げられた「バリアフリー研究会」で、異業種交流などを目的とした卒業生や在校生による研究会です。もちろん講演内容は古田史学・ 九州王朝説の紹介です。理系の人々への講演なので、初歩的な説明から行いますが、理系の論理的な頭脳は古田史学を理解し支持されるであろうことを確信して います。およそ三十年ぶりに訪れる母校に、今からドキドキしています。


第290話 2010/11/02

神籠石山城の固有名称

古代の山城や軍事施設には当たり前ではありますが固有の名称があったはずです。例えば大野城や水城は『日本書紀』(天智紀)に記されていますので、一応 は九州王朝内でもそのように呼ばれていたものと思われます。しかし、北部九州に点在する神籠石山城それぞれの固有名称は残念ながら文献には残っていませ ん。 失われた神籠石山城それぞれの名前を復原できないかと考えているのですが、久留米出身のわたしの土地鑑の範囲内で試案を考えてみました。まず杷木神籠石で すが、これはそのものズバリの「はき」あるいは「はぎ」ではないでしょうか。「き」は「城」ですから、語幹は「は」です。「は城」が後に杷木の字が当てら れたと考えています。「は」の意味はまだわかりませんが。
次に高良山神籠石ですが、高良山の旧名が高牟礼山(たかむれ)であること、古くからの地主神が高木神とされ、麓には高樹神社があります。ですから、高良山神籠石山城の固有名称は「高城」(たかき・たかぎ)ではなかったでしょうか。
今のところこの二つしか試案は出せませんが、他の神籠石山城も地元の地名や神社名から固有名称を類推できるのではないかと期待しています。どなたか調査研究されませんか。


第92話 2006/07/29

筑後の九州年号

 九州王朝の筑後遷宮説や筑後副都説を裏づける史料状況として、九州年号の残存量が上げられます。以前に「筑後地方の九州年号」という論文(『古田史学会報』44号)で紹介したのですが、私が調べてわかっただけでも筑後地方には下記の九州年号史料が存在しています。
 初期の「善記」から末期の「朱鳥」まで多くの九州年号が諸史料に残存しているのですが、青森県から鹿児島県まで分布している九州年号史料の全国的状況と比較しても、かなり濃密な分布です。こうした史料状況からも九州王朝筑後遷宮説は有力な仮説と思われます。現地史料を丹念に調査すれば、さらに多くの九州年号が見つかるはずです。地元研究者の活躍に期待したいところです。
 なお、端正元年(589)から白鳳まで80年ほど史料の「空白」がありますが、これは7世紀初頭の大宰府建都により、九州王朝の中心勢力が筑前に移動したことと対応しているのではないでしょうか。

九州年号    西暦      出典・備考
善記 元年    522    大善寺玉垂宮縁起
明安戊辰年    548    久留米藩社方開基、三井郡大保村「御勢大霊大明神再興」 ※二中歴では「明要」。
貴楽 二年    553    久留米藩社方開基、三井郡東鰺坂両村「若宮大菩薩建立」
知僧 二年    566    久留米藩社方開基、山本郡蜷川村「荒五郎大明神龍神出現」 ※二中歴では「和僧」。
金光 元年    570     柳川鷹尾八幡太神祝詞、久留米市教育委員会蔵。
端正 元年    589    大善寺玉垂宮縁起軸銘文・太宰管内志 ※二中歴では「端政」。
白鳳 九年    669    筑後志巻之二、御勢大霊石神社 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」の可能性も有り。
白鳳 九年    669    永勝寺縁起、久留米市史。久留米市山本町  ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」の可能性も有り。
白鳳 元年    672    全国神社名鑑、八女市「熊野速玉神社縁起」 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳十三年    673    高良玉垂宮縁起
白鳳十三年    673    高良山高隆寺縁起
白鳳十三年    673    高良記  ※他にも白鳳年号が散見される。
白鳳 二年    673    二十二社註式、高良玉垂神社縁起。 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    高良山隆慶上人伝 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    家勤記得集 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    久留米藩社方開基、竹野郡樋口村「清水寺観世音建立」 ※後代の改変型「白鳳」。
白鳳中    661〜683    大善寺古縁起二軸 外箱蓋銘
白鳳年中     661〜683     筑後志巻之三、御井寺
白鳳年中     661〜683    久留米藩社方開基、山本郡柳坂村「薬師堂建立」
白鳳年中     661〜683    高良山雑記
朱雀二年     685    宝満宮年譜、井本家記録。三池郡開村新開。
朱雀年中     684〜685    高良山雑記
朱鳥元年丁亥    686    高良山隆慶上人伝 ※干支に1年のずれがある。二中歴では朱鳥元年は丙戌。


第90話 2006/07/16

『筑後国正税帳』の証言

 筑後国府には考古学的に謎が多いことを述べてきましたが、文献上にも不思議な記事があります。既に古田先生が指摘されているテーマですが、天平10年(738)の正倉院文書『筑後国正税帳』に筑後国より都あるいは律令制下の大宰府に献上された品目が記されています。その中に他国の正税帳とは全く異なる品目が列挙されているのです。
 たとえば、銅釜工、轆轤工3人、鷹養人30人、鷹狩り用と思われる犬15匹です。そして何よりも驚きなのが、白玉113枚、紺玉71枚、縹玉933枚、緑玉72枚、赤勾玉7枚、丸玉4枚、竹玉2枚、勾縹玉1枚という大量の玉類です。これら全ての玉類が筑後地方から産出するとは考えられませんから、他国から筑後国に集められたと思われます。
 こうした史料事実は通説では説明不可能です。九州王朝説やわたしの筑後遷宮説でなければ説明できないと思います。すなわち、天子や王侯の遊びであった鷹狩りが行われていた証拠である「鷹養人30人」や「鷹狩り用の犬」の献上は、この地に九州王朝の都があった証拠なのです。大量の玉類も同様です。もしかすると、九州王朝の「正倉院」が筑後国にあったのではないでしょうか。そうすると、大量の玉類はそこに収蔵されていた可能性が濃厚です。
 第三期筑後国府跡に曲水の宴遺構が隣接していたことも、このことと関連して考察するべきでしょう。
古田史学会報36号「両京制」の成立 古田武彦 参照)

 話は変わりますが、昨日15日に古田史学の会・関西例会が行われました。残念ながら勤務の都合で私は欠席しましたが、テーマのみお知らせしておきます。
  〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕

 ○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「天台の道」

 ○研究発表
  1. 伊予の大族、越智・河野系譜にみる、国政とのかかわり伝承(豊中市・木村賢司)
  2. コバタケ珍道中・信州編(木津町・竹村順弘)
  3. 彦島物語・別伝(大阪市・西井健一郎)
  4. 九州年号古賀試案の検証(奈良市・飯田満麿)
  5. 大野城創建と城門柱の刻書(岐阜市・竹内強)
  6. 熊本県浄水寺の平安時代石碑群(相模原市・冨川ケイ子)
  7. 敵を祀る・旧真田山陸軍墓地(豊中市・大下隆司)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・教科書から消える聖徳太子・他(奈良市・水野孝夫)


第89話 2006/07/08

筑後国府跡の字地名

 第一期筑後国府跡は合川町枝光の南側にありますが、同地には「フルコフ」と呼ばれていた字地名があることが、『久留米市史』(昭和七年発行)に紹介されています。同書によれば「フルコフ」とは「古国府」のこととされ、そうであれば「古国府」と呼ばれるようになったのは、「新国府」である第二期筑後国府成立以後と考えられます。地名の遺存性の強さには本当に驚かされます。
 さらに、「フルコフ」の「西隈高隆の地を『コミカド』と称す」とあり、「小朝廷」の意味ではないかとしています。大変興味深い地名で、もし「小朝廷」であれば、九州王朝説や筑後遷宮説にとって貴重な傍証となるでしょう。
 この他にも「チョウジャヤシキ」などの地名も記されており、筑後国府跡地名の多元史観による調査検証が待たれます。


第88話 2006/07/07

筑後国府の不思議

 第87話で紹介した、久留米市の筑後国府跡から出土した大型建造物の柱穴について、この一週間検討を続けてきました。特に筑後国府に関する文献や発掘調査報告書を丹念に読み直したのですが、筑後国府には実に不思議な問題があることがわかりました。
 まず第一に、筑後国府跡は第一期から第四期まであり、通説でも第一期の国府(合川町古宮地区)は七世紀末の成立とされ、最古級の国府であること。なぜ、近畿ではなく九州の筑後国府が最古なのか、通説では説明困難です。
 第二に、律令体制が全国的に崩壊していた12世紀後半まで国府(第四期、御井町)が存続していたこと。このように500年も続いた国府は筑後国府だけです。
 第三に、第二期国府(合川町阿弥陀地区)は太宰府政庁と同じような配置を有していたこと。
 第四に、第三期国府(朝妻町三丁野地区)は全国最大希望の国府であったこと。
 第五に、第三期国府の東側に隣接して「曲水の宴」遺構が存在していたこと。
 第六に、国府跡の発掘調査報告を読むと、弥生時代の住居跡なども出土しているのに、古墳時代や飛鳥時代の遺跡がほとんど見当たらず、いきなり八世紀以後の遺跡となっていること。この地帯が古墳時代や飛鳥時代は無人の地だったとは考えられません。須恵器を中心とする土器編年がおかしいのではないでしょうか。

 以上、ちょっと考えただけでも不思議だらけなのです。おそらく、これらは九州王朝説に基づかなければ解決しないものと思われますが、それでも判らないことが多く、研究課題は山積しています。
 8月5日には愛媛県の松山市で講演しますが(古田史学の会・四国主催)、この問題をテーマにしたいと思います。それまでに、どれだけ解決している、今からワクワクするような研究テーマです。


第87話 2006/06/28

九州王朝の筑後遷宮

 わたしは「九州王朝の筑後遷宮」というテーマを発表したことがあります(『新・古代学』第4集、1999年)。4世紀後半から6世紀にかけて、九州王朝は筑前から筑後へ遷宮したという仮説です。九州王朝は、高句麗や新羅の北方からの脅威に対して、より安全な筑後地方に首都を移したと思われ、それはちょうど倭の五王や筑紫の君磐井の時代にあたります。また、筑後川南岸の水縄連山に装飾古墳が多数作られる時期とも対応します。そして、輝ける天子多利思北孤の太宰府建都(倭京元年、618年頃)により再び筑前に首都を移すまで、筑後に遷宮していたと考えられるのです。この論証の詳細は「玉垂命と九州王朝の都」(『古田史学会報』24号)、「高良玉垂命と七支刀」(『古田史学会報』25号)をご参照下さい。
 しかしながら、この仮説には解決すべき問題がありました。それは九州王朝の王宮に相応しい遺跡が筑後地方になければならないという考古学的な問題でした。一応の目途としては、久留米市にある筑後国府跡(合川町、他)や大善寺玉垂宮(三瀦町)付近にあるのではないかと推定していましたが、やはり5〜6世紀の王宮に相応しい規模の遺跡は発見されていませんでした。ところが、先週、ビッグニュースが飛び込んできたのです。
 福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から毎日新聞(6月22日、地元版)のコピーがファックスされてきました。「筑紫国の役所か」「7世紀後半の建物跡」「九州最大規模、出土」という見出しで、久留米市合川町から、ひさし部分も含めて幅18メートル、奥行き13メートルの建物跡の 柱穴(直径30〜60センチ)40本が出土したことが報じられていました。近くで出土した須恵器から7世紀後半の遺跡とされていますが、この時期の九州北部の編年はC14測定などから、土器編年よりも百年ほど古くなりますから、6世紀後半の遺跡と考えるべきでしょう。そうすると、筑後遷宮期の九州王朝の王宮の有力候補となるのです。なによりも、この時期の九州最大規模の建物という事実は注目されます。
 新聞記事からは遺跡の正確な位置や詳しい内容がわかりませんので、これ以上の推測はやめておきますが、わたしの筑後遷宮説にとって、待ちに待ったニュースでした。


第24話 2005/08/21

稲員家と菊の紋

 高良玉垂命の家系は七世紀末頃に五家に分かれます。その内の一つが草壁氏となり、後に稲員(いなかず)姓を名乗ります。この流れがAさんの家系へと続くのですが、この稲員家は八女郡広川村の大庄屋となり、近現代にまで至ります。
 稲員家には多くの古文書や記録がありますが、その中の一つに『家勤記得集』(江戸時代成立)という同家の歴史や由緒を記した書物があります。その末尾には次のような興味深いことが記されています。

 「稲員家の紋、古来は菊なり、今は上に指合うによりて止むるなり。」

 稲員家の家紋は皇室と同じ菊の紋だったが、「上」との関係で止めた、という内容です。九州王朝王家末裔の家紋が皇室と同じ菊だったということで、この事実も興味深い問題です。付け加えれば、Aさんのお話しでは皇室の十六弁の菊とは異なり、十三弁の菊だったとのこと。筑後国府跡から出土した軒丸瓦の十三弁の文様とも対応しており、偶然とは思えない一致ではないでしょうか。
 また、高良大社の御神幸祭では稲員家が主役ですし、その行列には皇室と同じ三種の神器が連なります。こうした伝統も稲員家が九州王朝の末裔であることの証拠ではないでしょうか。本当に歴史とは不思議なものです。歴史学界の大家がいかに九州王朝説を無視否定しようと、このように「真実は頑固」(古田武彦談)なのです。

参照
高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝(古田史学会報二十六号)