多利思北孤一覧

第2536話 2021/08/13

太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)

 九州王朝の都、太宰府条坊都市に消耗品である食器(土器)を供給したのが牛頸(うしくび)窯跡群です。同窯跡群は水城の西側、大野城市南端の牛頸山からその周囲へと広がる、古代の三大須恵器窯跡群(注①)の一つとされています。六世紀中頃から九世紀中頃まで操業していますが、六世紀末から七世紀初頭に急拡大したことが明らかにされています。その後、七世紀中頃に縮小し、八世紀になるとまた生産活動が増えます。この牛頸窯跡群の活動規模の変遷が、九州王朝の歴史に対応していることをわたしは発表しました(注②)。
 文献史学の研究により、九州年号の倭京元年(618年)に九州王朝の天子、阿毎多利思北孤は筑後から太宰府(倭京)に遷都したと考えられていますが(注③)、それに対応する考古学的出土事実が、六世紀末から七世紀初頭にかけての牛頸窯跡群の急拡大です。九州王朝の全国支配のため、数千人の官僚群が執務し(注④)、その家族が生活する太宰府条坊都市へ、消耗品である食器(土器)供給のために牛頸窯跡群が造営されたと思われます。
 ですから、太宰府条坊は七世紀前半には造営されていたとしたのですが、現地の複数の考古学者にたずねても、太宰府条坊は七世紀前半には遡らないとのことなのです。わたし自身も発掘調査報告書を調べましたが、その通りでした。そこから、わたしの苦難の研究調査が始まりました。(つづく)

(注)
①堺市の陶邑、名古屋市の猿投山(さなげやま)とともに牛頸は三大須恵器窯跡群遺跡と称されており、古代(古墳時代~)においてこれらの地域に権力中枢が多元的に存在していたことを想像させる。
②古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
 古賀達也「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2017年7月。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④律令制による全国支配に必要な官僚の人数は約八千人であり、その家族の生活のための巨大条坊都市の必要性を指摘した次の論稿がある。
 服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『発見された倭京』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2422話 2021/04/02

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(3)

 法隆寺釈迦三尊像の光背などが大きく傷んでいることを説明しましたが、この事実は法隆寺が私寺か国家的官寺かの論争にも関係しそうです。「洛中洛外日記」2265~2299話(2020/10/18~2020/11/19)〝新・法隆寺論争(1~8)〟で紹介しましたが、若井敏明さんは法隆寺は斑鳩の在地氏族による私寺とする説を発表しました(注①)。その概要と根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げます。この若井説に対して、田中嗣人さんから厳しい批判がなされました。
 田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)とされました。
 本シリーズで説明したように、釈迦三尊像の光背の飛天は失われ、その上部は折れ曲がっています。もし法隆寺が国家的な官寺であれば飛天の修復くらいはできたはずです。それがなされず、脇侍の左右入れ替えで済まされているという現状は、若井さんの私寺説に有利です。
 他方、田中さんが官寺説の根拠とした「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ」という事実は、九州王朝による官寺とその国家的文物が大和朝廷以前に存在し、それらが移築後(王朝交替後の八世紀初頭)の法隆寺に持ち込まれたとする多元史観・九州王朝説を支持するものに他なりません。今、斑鳩にある法隆寺と釈迦三尊像こそ、九州王朝の実在を証言する歴史遺産なのです。

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊、塙書房、1997年。


第2421話 2021/04/01

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(2)

 法隆寺金堂の釈迦三尊像が傷んでいることを古田先生からうかがっていましたが、脇侍が左右反対に置かれていることも不思議でした。更に光背も大きく傷んでおり、本来その外縁にあった飛天(注①)が失われていたことを最近になって知りました。
 ブログ「観仏日々帖」(注②)によれば、同光背周縁に長方形(幅約8mm、縦約25mm)の枘(ほぞ)穴が左右に各々13個ずつ穿たれており、本来は飛天が装飾されていたと考えられています(注③)。その根拠として、国立東京博物館の「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられており、中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背も、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることを指摘されています。そして、光背の飛天復原が東京芸術大学で行われたことを紹介され、その写真も掲示されています。

《以下、「観仏日々帖」より転載》
【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】
 2017年。周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。
 このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。
《転載おわり》

 この飛天が復原され、脇侍が本来の位置に戻された〝クローン釈迦三尊像〟の写真を見て、脇侍が左右逆に配置された理由がようやくわかりました。それは光背と三尊像の左右幅バランスの問題だったのです。すなわち、飛天が復原された光背は一回りも二回りも大きくなり、その大きな本来の光背であれば、脇侍裳裾の長い方が外側になる本来の配置により、左右の幅が大きな光背にバランス良く収まります。ところが、飛天が失われた現状の光背では、脇侍の裳裾が左右に大きくはみ出し、見るからにバランスが良くないのです。そこで、短い裳裾が外側になるよう、左右逆に脇侍を配置すれば、飛天がない現状の光背の幅に脇侍の裳裾が収まるのです。
 従来、脇侍が左右逆に置かれた理由を、九州王朝の仏像を奪い、法隆寺金堂に納めた大和朝廷側の人々が、本来の正しい脇侍の配置を知らなかったためと、わたしは理解してきました。しかし、それは誤解でした。移築された法隆寺金堂に、飛天を失った光背と釈迦三尊像を置いたとき、その美的なバランスの悪さを取り繕うために、脇侍を左右逆に配するというアイデアを採用したのではないでしょうか。これは、移築・移転に携わった技術者たちの優れた美的センスのなせる技だったのです。
 なお、この飛天が失われた光背や、二体の脇侍の金箔剥落の大きな差異は、これら仏像の保管状態がかなり劣悪だったことを推測させます。光背に至っては、上部が手前に折れ曲がっており、大きな力が加わったことを示しています。この状況は同釈迦三尊像の元々置かれていた場所が、遠く離れた九州王朝の都太宰府付近だったのか、あるいは比較的近距離にある難波複都だったのかという未解決のテーマに対し、何らかのヒントになるかもしれません。よく考えてみたいと思います。

(注)
①仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人で、仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。〈ウィキペディアによる〉
②https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
③平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」『考古界』6-9号、1907年(後に『仏教芸術の研究』所収)。


第2420話 2021/03/24

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(1)

 過日、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問、前代表)のお宅にうかがい、多くの書籍をいただきました。その中に『国宝法隆寺金堂展』(朝日新聞社、平成20年)がありました。同書は平成20年6~7月に奈良国立博物館で開催された「国宝法隆寺金堂展」の図録で、多くのカラー写真を含む豪華本です。
 法隆寺金堂内の仏像などを対象とした図録ですから、釈迦三尊像や薬師如来像などのカラー写真があり、その状態が比較的よくわかります。ある意味では、法隆寺の暗い金堂内で離れた位置から見るよりも、仏像の細部がよくわかります。そこで思い起こしたのが、あるとき少人数での会話で、古田先生がこの釈迦三尊像について、「写真で見るときれいですが、実物は結構傷んでいます」と仰っていたことです。
 図録の写真には、釈迦像のお顔を左右両面から撮影したものもあり、表面の金箔が剥がれ落ちている状況などがはっきりとわかります。更に、二体の脇侍(注①)ですが、向かって左側のものは表面の金箔が全体に残っていますが、右側の方はほとんど残っていないように見えます。これも不思議な現象です。同時期に造られたのであれば、同じような経年劣化をするはずですが、表面の金箔に関しては全く異質です。また、この脇侍は左右が逆に配置されていることも知られており、これもおかしなことです。
 古田学派では法隆寺の金堂・五重塔などは、六世紀末頃に建立された別寺院が移築されたものと考えられており、釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎多利思北孤のために造られたもので、これも移築時に持ち込まれたとされています。移築元寺院がどこにあったのかについては、当初、太宰府観世音寺が八世紀初頭に移築されたとする説(注②)が発表されましたが、それについて賛否両論が出され(注③)、移築元寺院がどこにあったのかは未だ特定できていません。
 脇侍が左右逆に配置されていることも、九州王朝の寺院から移築時に持ち込まれたとき、本来の配置を知らなかったた大和朝廷側が誤ったものと考えられてきました。しかし、脇侍の衣の裾は左右で長さが異なっており、長く伸びている方が釈迦像の左右の外側になるのが本来の配置であり、現状は長く伸びた裾が両脇侍とも釈迦像の台座に隠れてしまっています。
 寺院を移築できるほどの技術者集団の誰一人として、これだけ明瞭な差異を持つ脇侍の配置を間違うとは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①釈迦の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩とされている。
②米田良三『法隆寺は移築された ─太宰府から斑鳩へ』1991年、新泉社刊。
③大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」『多元』43・44号、2001年6月・8月。
 川端俊一郎「法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築」『北海道学園大学論集』第108号、2001年6月。
 飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」『古田史学会報』46号、2001年10月。
 古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』49号、2002年4月。
 古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。


第2391話 2021/02/25

「蝦夷国」を考究する(8)

 ―多利思北孤の時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることが『日本書紀』の記事から見えてきます。その初期の頃の様子が、「日本武尊」(実は九州王朝の東山道軍)による蝦夷(日高見國)征討譚として、次の景行紀に現れます。時代的には五世紀頃ではと、わたしは推定しています。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 このように倭国(九州王朝)と蝦夷国は戦争状態になったのですが、六世紀後半頃までには一定の安定した〝主従関係〟になったと思われる記事が次の敏達紀に突然のように現れます。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したというものです。二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝します。そして三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約する、というものです。
 いわば、国境紛争解決の外交記事ともいうべき内容ですが、ここで注目されるのが、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、そのことを『日本書紀』は記述したという史料事実です。すなわち、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子(天皇)」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのではないでしょうか。その根拠として、斉明紀に次の記事がみえます。

○『日本書紀』斉明元年七月条(655年) ※〈〉内は細注。
 難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」……

 斉明元年条の記事によれば、倭国の都(複都の一つ)〝前期難波宮〟で蝦夷や百済からの使者を饗応しており、同五年条では唐の天子に対して、倭国の使者が「今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す」と、蝦夷国が倭国に毎年朝貢していると述べています。
 これらの記事から六世紀頃から七世紀中頃までは、倭国(九州王朝)と蝦夷国(熟蝦夷)とは冊封体制下の主従関係にあり、比較的平和な関係が続いていたと思われます。このことを支持する国外史料に『隋書』俀国伝があります。同伝には次の記事があります。

○『隋書』俀国伝
 …其國境東西五月行南北三月行各至於海。(其の國の境、東西は五月行。南北は三月行。それぞれ海に至る。)
 …雖有兵無征戰。(兵有れども征戰無し)

 古田先生は「東西五月行」「南北三月行」という国の領域を、筑紫から本州(東北地方を含む)までと、対馬・壱岐・筑紫から琉球方面に至る範囲とされました(注)。そうであれば東北地方(蝦夷国)や南方の島国(屋久島・種子島・奄美大島・沖縄など)も自国の領域と認識していたことになり、その前提の一つとして蝦夷国との冊封体制という関係があったのではないでしょうか。
 また、「征戰無し」とあることから、これらの領域の国々と平和裏に共存していたと考えざるを得ません。
 こうした『隋書』の記事からも、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤の時代(在位:589~622年)の倭国(九州王朝)と蝦夷国との比較的平和な関係をうかがい知ることができます。(つづく)

(注)古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。


第2366話 2021/02/02

正木講演「聖徳太子1400回忌は2020年」

 今日は、大阪市福島区民センターで開催された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演(主催:誰も知らなかった古代史の会)を聴講しました。テーマは、聖徳太子の1400回忌を迎えた令和三年にふさわしく〝覚醒した「本当の聖徳太子」〟というものです。
 ところが講演では、「1400回忌」の説明と『日本書紀』との齟齬を指摘され、『日本書紀』によれば厩戸皇子は621年2月5日に没したとされており、その記事に従えば「1400回忌」は昨年2020年になるとされました。この一年の齟齬は、『隋書』に見える九州王朝の天子、阿毎多利思北孤(あめ・たりしほこ)の没年(622年2月22日。法隆寺釈迦三尊像光背銘による)を近畿天皇家の厩戸皇子のこととしたことが原因です。
 この他にも多利思北孤の伝承が厩戸皇子(聖徳太子)の事績に転用された例(注)を史料をあげて紹介されました。古田ファンであればお馴染みのテーマですが、一般の市民を対象とした講演会では驚きを以て受け止められたようです。こうした一般市民向けの取り組みも「古田史学の会」や古田学派にとって重要な取り組みです。
 なお、同講演会もZoomシステムによるネット配信テストが久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)により行われました。

(注)隋との対等外交、「十七条憲法」「冠位十二階」制定、『法華義疏』、他


第2296話 2020/11/16

古代日本の和製漢字

     (国字)法隆寺「多聞天光背銘」

 わが国最初の国字とみなされることもある例が『文字と古代日本 5』に紹介されていました(注①)。それは、やはり「聖徳太子」と関わりがある法隆寺金堂の「四天王(多聞天像)光背銘」に見られる「鐵師*閉古」の「*閉」〔「司」のなかが「手」の字体〕という字です。同書では次のように解説されています。

 〝白雉元年(六五〇)「法隆寺金堂四天王(多聞天像)光背銘」に見られる「鐵師*閉古」の名に含まれる「*閉」〔「司」のなかが「手」の字体〕は、最初の国字とみなされることがあるが〔杉本つとむ―一九七八〕(注②)、朝鮮、日本でも見られた中国製字体(「門」→「˥」)に、日本化字体(「才」→「手」)が重なった「閉」の異体字であると考えられる。「玉門」「陰門」のように、「門」を女陰にあてる引伸義を、さらに応用したもので、読みが近世以来説かれている「まら」だとすれば、日本製字義(国訓)である可能性があり、その最古の例となるが、「へ」という音仮名という可能性も残されている。〟284頁

 冒頭に「白雉元年(六五〇)」とあるのは、同四天王の広目天像光背銘に見える「山口大口費」が『日本書紀』白雉元年是年条に見える「漢山口直大口、詔を奉(うけたまわ)りて、千仏の像を刻る。」の「山口直大口」と同一人物と考えられ、広目天像もこの頃に造られたとされていることによります。
 法隆寺の「観音像造像記(銅板)」の銘文中の「鵤」、伊予温湯碑文中の「*峠」〔山偏を口偏に換えた字体〕、『法華義疏』の国字に加えて、法隆寺金堂多聞天像の「*閉」など、いずれも「聖徳太子」(九州王朝の多利思北孤)に関係する文物に「国字」が見えることは、九州王朝による「新字」作成説の傍証となりそうです。(つづく)

(注)
①笹原宏之「国字の発生」『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
②杉本つとむ『異体字とは何か』桜楓社、1978年。


第2295話 2020/11/15

古代日本の和製漢字(国字)『法華義疏』

 今朝の八王子も快晴で、絶好の勉強日和となりました。昨晩は、わたしの部屋で安彦さん(東京古田会・副会長)らと夜遅くまで和田家文書研究について意見交換・情報交換を行いました。今日は古代戸籍における二倍年暦について研究発表します。今日も一日、勉強漬けです。大学セミナーハウスは学問や勉強をするにはとてもよい環境です。

 上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)に触発されて、九州王朝「新字」というテーマへと進んできました。そして、国字として法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」の銘文中(注②)の「鵤」、伊予温湯碑文中の「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕を紹介しました。いずれも九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤との関係がうかがえることから、多利思北孤時代(六世紀末から七世紀初頭頃)の九州王朝「新字」誕生という作業仮説を導入し、検証を続けました。
 先行研究を学ぶために読んでいる『文字と古代日本 5』に興味深い指摘がありました(注②)。七世紀前半頃に「聖徳太子」が撰した『三経義疏』に国字が多く見られるとして、自筆本とされる『法華義疏』(皇室御物)中の国字研究(注③)が紹介されていました。たぶんJIS高水準にもないような特殊字体で紹介しにくいのですが、次の偏旁を付加・置換した字例が示されていました。

○「慚」字の下部に「心」を付加した字体。
○「嬉」字の「喜」の下部に「心」を付加した字体。
○「指」字の手偏を「骨」に置換した字体。
○「戯」字を女偏が付いた「虚」とした字体。

 古田説では、『法華義疏』冒頭に付記されている「大委国上宮王」を多利思北孤の自署名とされており、九州王朝の多利思北孤による「新字」の誕生を示す有力史料ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②笹原宏之「国字の発生」『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
③花山信勝「聖徳太子御製法華義疏の研究」『東洋文庫論叢』18-1・3、1933年。


第2294話 2020/11/14

古代日本の和製漢字(国字)

     「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕

 上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)は研究のヒントの宝庫と前話で述べたように、「鵤」以外にも「聖徳太子」伝承と関係する国字の存在に気づかせていただきました。それは、九州王朝の天子、多利思北孤の年号「法興六年(596)」銘(注②)を持つ伊予温湯碑文中の文字です。
 同碑文には「臨朝(あした)に鳥啼きて戯れさえずる」という文章があり、この「さえずる」という字(動詞)に「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕という国字が使用されています。同碑は行方不明となっており、『風土記』逸文などに碑文が遺されていることから、厳密にいうと、その逸文執筆者が碑文の字体を正確に書き写しているということが、六世紀末の法興六年と同時代の字体とするための必要条件です。しかし、「さえずる」という別の字が、書写者により「*峠」という珍しい字に書き換えられたとは考えにくいのではないでしょうか。原碑文にその字があったので、そのまま書き写され、その後も書写されたと考える方が穏当と思われるのです。
 以上の理解が間違っていなければ、「*峠」という国字が六世紀末までに成立していたことになり、それはまさしく九州王朝「新字」の誕生となるわけです。そうすると、法隆寺「観音像造像記銅板」銘文中に見える「甲午年」も、通説の694年(持統八年)だけではなく、その60年前の「甲午年(634)」の可能性が復活します。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②正木裕氏(古田史学の会・事務局長)は、「法興」は仏門に入った多利思北孤の「法号」であり、それを「年号」のように使用したとする説を発表されている。
 正木裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年6月。


第2293話 2020/11/14

古代日本の和製漢字(国字)

    「天武十一年条の『新字』」

 今朝は〝八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー2020)〟に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。新幹線に乗るのは今年八月のリタイア以来のことです。現役中は週に何度も新幹線のお世話になっていました。まだ四ヶ月も経っていないのに、車窓から見える風景が懐かしく、「帰省列車」のような気分です。もちろん座席は富士山を観賞できる、いつものE席です。

 今、拝読している上原和さん(1924~2017)の『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)は研究のヒントの宝庫です。その中から生まれた新テーマ「古代日本の国字」を続けます。
 国字について勉強するために読んでいるのが『文字と古代日本 5』(注②)です。全5巻で、古代日本の文字に関する論文が網羅されており、各専門家による優れた著述と思われました。幸い、岡崎の京都府立図書館(拙宅から自転車で10分)に置いてあり、精読中です。
 同書中の論文笹原宏之「国字の発生」によれば、国字発生の研究史について次のように説明されています。

 「古代における国字の実態については、近世以来、伴直方『国字考』など諸書において論考があり、春日政治〔春日―一九三三〕や橋本進吉〔橋本―一九四九〕などにも言及があるが、その後には国字は九世紀末まで存在しなかったという意見まで見られる」同書284頁(注③)

 このような意見の影響を受けてか、私も「国字は九世紀末まで存在しなかった」と思っていた時期もありました。そして、笹原稿の結論として次のように締めくくられています。

 「国字とみなしうる確例はほとんどすべてが天武朝以降に現れているということは、『日本書紀』天武天皇十一年(六八四)三月に記されている、境部連石積らに命じて、はじめて造らせたという「新字」四四巻を想起させる。その内容については諸説あり、そもそも中国の史書を模倣した記述であり、日本の史実であったかも疑わしい。しかし、時期の符合は、これ以前に残存文字史料自体が少ないことを差し引いても、何らかのできごとを反映した記事であったと考えられる。
 (中略)これらは、次の奈良時代に合意の国字や合字となっていくものである。国字の活動はもはや止められない時代となっていたのである。」同書296頁

 天武紀に見える「新字」記事(注④)を国字の発生と関連付ける笹原さんの指摘は刺激的です。この見解が正しければ、「観音像造像記銅板」銘文中に見える「鵤」という国字の発生は天武期以降となり、その「甲午年」も通説の694年(持統八年)でよいとなるからです。(つづく)

〔後記〕八王子の大学セミナーハウスに着きました。八王子は快晴でぽかぽか陽気。「本日、勉強日和」です。

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
③春日政治「仮名発達史序説」『岩波講座 日本文学』五 岩波書店、1933年。
 橋本進吉『文字及び仮名遣の研究』岩波書店、1949年。
④『日本書紀』天武天皇十一年(六八四)三月条に次の記事が見える。
 「丙午(13日)、命境部連石積等、更肇俾造新字一部四四巻。」


第2292話 2020/11/13

古代日本の和製漢字(国字)「鵤(いかるが)」

 「洛中洛外日記」で連載中の〝新・法隆寺論争〟執筆のため、通説における法隆寺や聖徳太子の研究史を勉強しています。今、読んでいる本が上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)で、40年以上前の本ですがなかなかの名著と思いました。もちろん学問的には一元史観に立っており、批判的に読まなければなりませんが、その博識には学ぶことが多々ありました。
 その中で触発されたことのひとつが和字「鵤(いかるが)」の指摘でした。「洛中洛外日記」2274話(2020/10/26)〝新・法隆寺論争(3) 法隆寺持統期再興説の根拠〟で紹介した、法隆寺に伝わる「観音像造像記(銅板)」の銘文(注②)に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、この中の「鵤」という字が和製漢字(国字)であることが、『斑鳩の白い道のうえに』に記されていたのです。わたしは国字の存在は知っていましたが、その発生が7世紀まで遡るとは思ってもいませんでした。
 この銘文の「甲午年」は六九四年(持統八年)とされていますが、干支一巡前の六三四の可能性もあるかもしれないと思うのですが、本体の仏像は不明で、仏像の様式による編年ができません。そこで銘文の文章や字体から編年できないものかと思案していましたので、「鵤」という字が国字であれば、国字の成立時期がヒントになるのではないかと考えました。そこで、国字成立に関する研究論文が収められている『文字と古代日本 5』(注③)を読んでみました。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②「観音像造像記銅板」銘文
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓
③『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。


第2290話 2020/11/11

アマビエ伝承とダルマさん

 今朝、テレビで縁起物のダルマさんのお店(神奈川県平塚市)が紹介されていました。ダルマさんの製造工程の説明があり、木型に和紙を貼り付けてハリボテを作るのですが、着色前の白いダルマさんの輪郭が例のアマビエによく似ており、もしかすると何か関係があるのではないかと思いました。そのときです。ダルマ人形の由来として、江戸時代に流行した天然痘を防ぐためにダルマさんが作られたと説明があったのです。ダルマさんはアマビエと同じ、流行病を防ぐためのものだったのです。もちろん、ダルマ人形の起源については諸説あるのですが、この説は知りませんでした。
 コロナ禍にあって注目された、流行病を防ぐという言い伝えを持つアマビエについて、九州王朝の「天彦(アマヒコ)」を淵源とする仮説を「洛中洛外日記」(注①)で発表したことがありますが、もしかするとダルマさんはこのアマビエの一つの進化形ではないでしょうか。ダルマさんとよく似たアマビエの絵も江戸時代以降のものが残っていることから、ダルマさんの発生時期と共通しています。
 わたしがアマビエを九州王朝の「天彦(アマヒコ)」に淵源するものと考えた理由は下記の通りです。
アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました(注②)。九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注③)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられ、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前と思われる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。阿毎多利思北(比)孤の名前が千年に及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。
 『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注④)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのです。
 ちなみに、多利思北孤をモデルとする法隆寺の釈迦三尊像も、天平年間に大和朝廷の光明皇后らから、おそらく当時流行していた天然痘封じのために厚く祀られていたことが史料に遺されています(注⑤)。アマビエとダルマさん、そして法隆寺の釈迦像は「流行病封じ」という不思議な縁により、時代を超えて繋がっているかのようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)〝
アマビエ伝承と九州王朝(1~4)〟
②アマビエは元々は三本足の猿のような妖怪「アマヒ(ビ)コ」だったと考えられている。両者の名前の違いは、書き写す際に「書き誤った」か、瓦版として売る際にあえて「書き換えた」とみられる。
 ※誤写例(案):「アマヒ(ビ)コ」→「アマヒユ」→「アマヒ(ビ)エ」
 瓦版などの記述によれば、アマビコの出たとされている海の多くは肥後国の海であったとされる
③古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
④「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。
⑤古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集所収(明石書店、2012年)