多利思北孤一覧

第944話 2015/05/04

隋使行程記事と西海道

前話に続いて「肥後の翁」問題を考えます。隋使はどのような行程で「肥後の翁」に接見し、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。この問題を考えるために『隋書』「イ妥(タイ)国伝」を見直しました。そこには、隋使の倭国への行程記事として次のように記されています。

1.百済を渡り竹島に至り、南にタンラ国を望み、
2.都斯麻国(対馬)を経、はるかに大海の中に在り。
3.又東して一支国(壱岐)に至る。
4.又竹斯国(筑紫)に至る。
5.又東して秦王国に至る。
6.又十余国を経て海岸に達す。

()内はわたしが付したものですが、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、筑紫(博多湾岸から太宰府付近)までははっきりしているのですが、秦王国や「十余国を経て海岸に達す」については論者によって見解が分かれますし、この記事からは断定しにくいところです。
この行程記事では方角を「東」と記されていますが、実際には「東南」方向ですから、秦王国の位置は、二日市市・小郡市あたりから朝倉街道(西海道)を東南 方向に向かい、杷木付近で筑後川を渡河し、その先の筑後地方(うきは市・久留米市)ではないかと、わたしは考えています。もちろん、太宰府条坊都市の成立 (倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝の都は筑後にあった時期です。
問題は「十余国を経て海岸に達す」です。方角が記されていませんから、この記事だけでは判断できませ。しかし、隋使が阿蘇山の噴火を見ていますから、肥後方面に向かったと考えるのが、史料事実にそった理解と思われます。
従来、わたしは「十余国を経て海岸に達す」を久留米市から柳川市・大牟田市方面に向かい、有明海に達したという意味に理解すべきと考えてきましたが、近 年、熊本県和水町とのご縁ができたこともあって、土地勘が少しずつですがついてきましたので、この行程も古代の官道「西海道」を隋使は進んだと考えたほう が良いと思うようになりました。それは次の理由からです。

(1)筑紫(福岡市)から小郡、そして東へ朝倉街道(西海道)を進み、筑後川を渡り、久留米に到着してたとすれば、これは古代西海道のコースである。
(2)十余国を経て海岸に到着していることから、久留米市から大牟田市までの間にしては国の数が多すぎるように思われる。
(3)これが内陸部を通る西海道に沿って十余国であれば、久留米市から肥後に向かい、菊池川下流か熊本市付近の海岸に達したとするほうが、国の数が妥当のように思われる。

以上のような理解から、わたしは筑後(秦王国か)に着いた隋使は古代官道の西海道を通って、鞠智城や江田舟山古墳方面に行ったのではないかと、今では考え ています。こうした理解から、この地域(菊池市・玉名郡・熊本市など)で隋使は「肥後の翁」と接見し、阿蘇山の噴火も見たのではないでしょうか。更にこの ルートを支持する『隋書』の記事として、「鵜飼」があります。筑後川や矢部川は鵜飼が盛んな所でした。(つづく)


第943話 2015/05/03

筑紫舞「肥後の翁」考

前話に続いて筑紫舞がテーマです。筑紫舞の代表作「翁(おきな)」には「都の翁」が必ず登場するのですが、西山村光寿斉さんの説明では、舞の中心人物は「肥後の翁」とのこと。筑紫舞でありながら、「都の翁」(九州王朝の都、太宰府か)が「主役」ではなく、「肥後の翁」が中心であることも、不思議な ことでした。
実は、九州王朝研究において、肥後は重要な地域であるにもかからず、筑前・筑後地方に比べると研究が進んでいませんでした。そうし た事情もあって、この筑紫舞における「肥後の翁」の立ち位置は研究課題として残されてきたのです。ところが幸いにも、昨年から「納音付き九州年号」史料の 発見により、玉名郡和水町を訪れる機会があり、肥後地方の地勢や歴史背景などに触れることができ、わたし自身もより深く考えることとなりました。その結 果、様々な作業仮説(思いつき)に恵まれることとなりました。そこで、今回はこの「肥後の翁」について考えてみました。
古代史上、「肥後」関連 記事が中国史書に出現したのは管見では『隋書』の「阿蘇山」記事です。筑紫に至った隋使たちは何故か阿蘇山の噴火を見に行っています。隋使は何のために肥 後まで行き、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。観光が目的とは考えにくいので、この疑問が解けずにいました。そこで考えたのですが、隋使は筑紫舞に登場す る「肥後の翁」に接見するために肥後へ行ったのではないでしょうか。
それでは肥後にそのような人物がいた痕跡あるでしょうか。わたしの知るとこ ろでは次のような例があります。ひとつは肥後地方に多い「天子宮」です。当地に「天子」として祀られるような人物がいた痕跡ではないでしょうか。二つは鞠 智城内の地名「長者原」です。筑後地方(浮羽郡)には「天の長者」伝説というものがあり、その「天の長者」は九州王朝の天子のことではないかと、わたしは 考えていますが、恐らく九州王朝が造営した鞠智城内にある「長者原」という地名も、同様に九州王朝の天子、あるいはその王族の一人ではないでしょうか。
筑紫舞の「翁」において、中心人物とされる「肥後の翁」を九州王朝の天子、あるいは九州王朝の有力者とする理解は穏当なものと思われるのです。


第905話 2015/03/22

筑後の「阿麻の長者」伝説

 『隋書』「イ妥(タイ)国伝」によれば、九州王朝の天子の姓名は阿毎多利思北孤(アメ〈マ〉・タリシホコ)と記されています。近畿天皇家の天皇にこのような人物はいませんが、筑後地方に「阿麻の長者」伝説というものがあり、この「阿麻の長者」こそ阿毎多利思北孤かその一族の伝承ではないかと考えています。
 『浮羽町史』(昭和63年)によれば、久留米の国学者・舟曳鉄門『橿上枝』の説として、浮羽町(現・うきは市)大野原にあった「天(尼)の長者の一朝堀(ひとあさぼり)」について次のように紹介しています。

 「原の西北に阿麻の一朝堀と云へる大湟(ほり)の趾あり。土俗の伝に上古ここに阿麻と云へる貴き長者あり。その居館の周囲に大湟を一朝に掘れるより此の号ありと云へり。高良山なる神篭石を鬼神の一夜に築きけりと云へる里老の伝と全く同じかり。阿麻とき名とも氏とも云へず。いとも遙けき上古の事と云へれば、文書の徴とすべきたづきもなかりしかど、上記の文に據りてよく案へば天津日高の仙宮敷まししをかくは語り伝へしなるべし。」(156頁)

 この「天(尼)の長者の一朝堀」は大字山北字宇土の国道210号線沿いの北側にあったもので、長さ240m、幅68m、深さ20mの掘割で、昭和57年(1982)合所ダム建設工事の排土で埋没されたとのことです。同地域には「こがんどい」と呼ばれる堤防もありました。この「天の長者の一朝堀」を『日本書紀』斉明紀の「狂心の渠(みぞ)」ではないかとする論稿「天の一朝堀と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』40号、2000年10月)をわたしは発表したことがあります。本ホームページに掲載されていますので、ご覧ください。
 筑後地方は筑前と共に九州王朝の中枢領域です。そこにあった巨大土木工事跡と「阿麻の長者」伝説を九州王朝の天子・阿麻多利思北孤やその一族のものとすることは穏当な理解と思います。


第835話 2014/12/10

「聖徳」は九州年号か、法号か

 昨晩は名古屋で仕事でしたので、「古田史学の会・東海」の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人、瀬戸市)や石田敬一さん(名古屋市)とSKE48で有名な栄で夕食をご一緒しました。
 会食での話題として、明石書店(秋葉原のAKB48劇場のやや近くにあります)から出版していただいている『古代に真実を求めて』の別冊構想について相談しました。というのも、毎年発行している『古代に真実を求めて』とは別にテーマ毎の論文や資料による別冊の発刊企画を検討しているのですが、私案として「九州年号」資料集も別冊として出版したいと考えてきました。そこで永く九州年号史料の収集を手がけられてきた林さんにその編集を引き受けていただけないかとお願いしました。
 そうしたこともあり、九州年号についての意見交換を林さんと交わしたのですが、『二中歴』には「聖徳」は無いが、「聖徳」が九州年号かどうかとのご質問が出されました。基本的には九州年号群史料として『二中歴』が最も優れていると考えていますが、『二中歴』には無く、他の九州年号群史料に見える「聖徳」(629〜634、『二中歴』では「仁王」7〜12年に相当)を九州年号とするのかという問題は、研究途上のテーマでもあり難しい問題です。
 ホテルに戻ってからもこの問題について考え、何とか史料根拠に基づいた論証ができないものかと思案したところ、次のような論証が可能ではないかと気づきました。

1.九州年号原型論研究において、『二中歴』が最も優れた、かつ成立が古い九州年号群史料であることが判明している。
2.その『二中歴』に見えない「聖徳」は本来の九州年号ではない可能性が高いと考えるべきである。
3.しかし、それではなぜ他の九州年号群史料等に「聖徳」が九州年号として記されているのか。記された理由があるはず。
4.その理由として正木裕さんは、多利思北孤が出家してからの法号の「法興」が年号のように使用されていることから、「聖徳」も利歌彌多弗利(リ、カミトウのリ)の出家後の法号ではないかとされた。
5.この正木説を支持する史料根拠として、『二中歴』の九州年号「倭京」の細注に「二年、難波天王寺を聖徳が造る」という記事があり、倭京2年(619年)は多利思北孤の治世であり、その太子の利歌彌多弗利が活躍した時代でもある。従って、難波天王寺を建立するほどの九州王朝内の有力者「聖徳」を利歌彌多弗利とすることは穏当な理解である。
6.『日本書紀』に、四天王寺を大和の「聖徳太子」が建立したとする記事が採用されたのは、九州王朝の太子「聖徳」(利歌彌多弗利)が天王寺を建立したとする事績を近畿天皇家が盗用したものと考えることが可能。しかも、考古学的事実(四天王寺の創建年が『日本書紀』に記された6世紀末ではなく、620年頃とする見解が有力)も『二中歴』の細注を支持している。
7.以上の史料根拠に基づく論理性から、九州王朝の天子(多利思北孤が没した翌年の仁王元年・623年に天子に即位したと考えられる)「聖徳」(利歌彌多弗利)の「名称」を政治的年号に採用するとは考えられない。
8.従って、利歌彌多弗利が即位の6年後に出家し、その法号を「聖徳」としたとする正木説が今のところ唯一の有力説である。それが後世に、「法興」と同様に年号のように使用された。その結果、多くの年代記などに他の九州年号と同列に「聖徳」が記載された。ちなみに、多利思北孤も天子即位(端政元年・589年)の2年後が「法興元年(591)」とされていることから、即位後に出家したことになる。利歌彌多弗利も父の前例に倣ったか。
9.付言すれば、利歌彌多弗利「聖徳」の活躍がめざましく、その事績が近畿天皇家の「聖徳太子」(厩戸皇子)の事績として盗用されたと考えられる。
10.同様に九州王朝内史書にも「聖徳」としてその活躍が伝えられた。『二中歴』倭京2年の難波天王寺聖徳建立記事も、利歌彌多弗利出家後の法号「聖徳」の名称で記載されたことになる。

 以上のような論理展開が可能ではないでしょうか。引き続き検証を行いますが、今のところ論証として成立しているような気がしますが、いかがでしょうか。なお、正木さんも「聖徳」法号説の論証を更に深められており、関西例会で発表予定です。

(補注)上記の論理展開において、7が最も重要な論理性です。


第834話 2014/12/09

鬼前太后と「キサキ」

 図書館で遠山美都男著『古代日本の女帝とキサキ』(平成17年、角川書店)が目に留まり、流し読みしたのですが、実は日本語の「キサキ」(お妃・お后)について以前から気になっていたことがありました。それは「キサキ」の語源についてでした。「キサキ」の意味について同書では「古代においては、キサキというのは天皇の正式な配偶者ただ一人を指して呼んだ」(10頁)とされており、それはよくわかるのですが、なぜ天皇の正式な配偶者「大后」(皇后とも記される)を「キサキ」と訓むのかについては説明が見あたりませんでした(わたしの見落としかもしれませんが)。
 九州王朝の天子、多利思北孤のために造られた法隆寺の釈迦三尊像の後背銘冒頭に次の記述があります。

 「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩」

 この鬼前太后は「上宮法皇」(多利思北孤)の母親のことですが、この「鬼前」の訓みがはっきりしませんでした。とりあえず古田学派内では「きぜん」とか「おにのまえ」と訓まれてきたようなのですが、この鬼前が「キサキ」の語源ではないかとわたしはかねてから考えていました。すなわち、「鬼前」の訓みを「きさき」ではないかと考えているのです。もちろん、絶対にそうだというような根拠や自信はありません。
 このアイデア(思いつき)の良いところは、その語原がはっきりしない「キサキ」について、とりあえず九州王朝中枢で成立した古代金石文(後背銘)が根拠であるということと、王朝に関する用語の訓みを九州王朝で先行して成立したとすることは、九州王朝説論者にとっては納得しやすい点です。弱点としては、鬼は「き」と音読みし、前は「さき」と訓読みするという「重箱読み」であることです。
 これは仮説というより単なる思いつきにすぎませんので、皆さんに披露し、ご批判を待ちたいと思います。あるいは「キサキ」の語源をご存じの方があれば、ご教示ください。


第809話 2014/10/25

湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。

 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。

 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。

 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の 推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。

 告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第767話 2014/08/16

倭国水軍と造船

 今日は大文字の送り火の日ですが、朝からの大雨で中止になりそうです。遠くから京都に来られた観光客の方々には残念なことですが、拙宅前は静かで読書にはありがたいことです。拙宅付近から大文字焼きがある如意ヶ岳が見え、送り火の日は大勢の見物客で夜遅くまでごった返しますから。

 前話で元寇や白村江戦について触れましたが、海戦に必要な水軍について興味深い論稿があります。『宮崎市定全集21 日本古代』(1993年、岩波書店)に収録されている「大和朝廷の水軍記事 ー和歌山市鳴滝遺跡を見るー」に次の記述があります。いわゆる騎馬民族征服説を批判し、

 「実は日本の統一のためには騎馬戦の前に海戦が必要であった。というのは日本の統一は瀬戸内海の統一から始まるからである。内海の沿岸に割拠した土豪勢力を配下におくために、大和朝廷はまず軍隊を送らねばならなかった。これには陸上郵送よりも海上が効果的である。兵員はもちろん、糧食、武器を陸上で輸送しようとすれば莫大な負担がかかる。ところが船による海上輸送だと、普通に陸上に比べて十分の一ですむと言われている。現に熊本県弁慶穴古墳の絵画には、何と馬が船に乗せられている姿が現れているではないか。
 大海軍力は言いかえれば大船隊である。そして船隊を軍事に用いるためには、個々の船が規格に従って建造されていなければならなかった。速力も容積も、一定の規格に合っていなければ命令に従って団体行動をとることができぬからだ。ところで同一規格の船を一時に多数建造するためには、十分な森林資源が必要とされる。無尽蔵の林木の中から選ばなければ、規格に合った多数の木材を入手することが出来ない。」(331頁)

という指摘がなされています。特に船の規格が統一されていなければ船隊として統一した行動がとれないという指摘は、なるほどと思いました。また、瀬戸内海の統一(制海権)が日本統一に不可欠という指摘も重要です。九州王朝の天子、多利思北孤による瀬戸内巡航伝承が各種史料(伊予「温湯碑」、厳島縁起など)に散見されるのも、こうした倭国統一と支配のための軍事的側面があったと考えられ、こうした視点からも今後の研究を行う必要を感じました。

(追記)本日の大文字の送り火は予定通り行われました。午後8時には雨がやみました。さすがは京都の伝統行事です。実行委員会の執念の勝利です。


第764話 2014/08/13

大分県の「日羅」伝承

 九州における「聖徳太子」伝承を伴う寺院の開基や仏像について紹介し、それらの伝承は本来九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績であった可能性が高いことを説明してきましたが、6世紀末頃の九州における寺院開基伝承として、「日羅」によるとされるものが少なくありません。
 日羅は『日本書紀』(敏達紀、583年に帰国)に登場する百済王に仕えた倭人ですが、その日羅が熊本県や宮崎県・大分県に多数の寺院を開基したとする伝承や史料が残っています。もっとも『日本書紀』によれば、日羅は帰国後二ヶ月で百済人から暗殺されており、その短期間で多数の寺院を建立できるはずもありません。従って、日羅による開基とされてはいるものの、歴史事実としては九州王朝内の有力者による寺院開基が『日本書紀』に記されている「日羅」によるものと、後世において書き換えられたものと思われます。もしかすると「日羅」に似た名前の人物が九州王朝内にいたのかもしれません。
 その「日羅」伝承に早くから注目されていたのが藤井綏子さん(故人)でした。藤井さんは作家として文筆活動されるかたわら、「市民の古代研究会」にも参加されていた古田ファンで、著作の中で古田説を取り上げたり、ご自身でも研究されたりしておられました。大分県久重町に住んでおられ、直接お会いすること はできませんでしたが、わたしもお手紙や著書をいただき、何かと気にかけていただきました。
 ちょうど「市民の古代研究会」の分裂騒動を経て「古田史学の会」を立ち上げたばかりの1994年6月に藤井さんから次のようなお便りが届きました。

 「古賀達也様
 こちらは山々の頂きも隠れがちな風景ですが、京都の方もはっきりしないお天気でしょうか。 ところでこの度、同封のような著書を上梓いたしました。景行説話で最も激戦地であった豊後南部について、一度よく考えてみたいと思っていたのを、実現したわけですが、あまり自信はありません。お暇な折りにでもお目 通しいただき、ご教示でも賜れるようであれば、幸せです。
 だいぶ前ですが、ご丁重なお手紙をありがとうございました。まわりに会員の方が住んでおられるでもなく、一人で山の中に居て、何がどうなっているのか、さっぱりのみこめないでいるのですが、中央?に居られると、何かと気苦労も多いのでしょうね。
 ともかく、同じようなことをやってきた(つもり?)の者として、今後のご健闘を祈ります。お体に気をつけて下さい。
       一九九四年六月三〇日  藤井綏子」

 この手紙に同封されていた著書『古代幻想・豊後ノート』(1994年4月25日刊、株式会社双林社出版部)を20年ぶりに読んでみました。その中の「日羅の影」という一節には次のような記述があります。

 「九州には、この日羅の創建と伝える寺が、あちこちに散見する。熊本の郷土史家平野雅曠氏によると、肥後には計十二、三カ寺もあるという。
 豊後にも、『豊後国誌』があげる確実なところで少なくとも五つの、日羅開基伝承の寺がある。大野郡の大恩寺、普光寺、阿西寺、大分郡の岩屋寺、海部郡の円通寺がそれである。海部郡では、もう一つ、例の端麗な臼杵石仏の寺が満月寺で、鶴峰戊申の前掲『臼杵小鑑拾遺』はこの寺にも日羅を開山とする縁起があったことを紹介している。」

 藤井さんが注目されたように、「日羅」や「日羅伝承」は九州王朝史研究にとって重要なテーマと思われるのです。


第762話 2014/08/09

『肥前叢書』の

「聖徳太子」伝承

 昭和12年に肥前史談会により発行された『肥前叢書』(昭和48年復刻版)によれば、肥前の寺院に「聖徳太子」御作とされる仏像に関する記事が散 見されます。おそらく九州王朝の天子、多利思北孤か太子の利歌彌多弗利に関わる仏像記事が、後世に「聖徳太子」伝承に置き換えられたものと推察されます。 そうであれば、作られたのは仏像だけではなく寺院も建立されたはずです。同書によれば次のような「聖徳太子」関連記事があります。

○勝楽寺
 「新庄の里勝軍山勝楽寺本尊は阿弥陀如来の尊僧聖徳太子の御作也」

○桐野山
 「桐野山妙覺寺は聖武天皇の勅願行基菩薩の開基、本尊は大悲観世音菩薩即ち行基の御作也、又護摩堂の本尊は太聖不動明王聖徳太子の御作也」

○黒髪山
 「黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子の御作也」

○圓應寺
 「武雄圓應寺、本尊は聖観音の座像也、薩捶聖徳太子の御作、利生無双の霊像也」

 こうした「聖徳太子」伝承を持つ寺院や仏像は、本来は多利思北孤か利歌彌多弗利に関わるものであれば、7世紀初頭頃に肥前の地でも九州王朝による寺院が少なからず建立された可能性をうかがわせます。これもまた土器や瓦などの考古学的出土による編年研究が必要です。


第745話 2014/07/13

復刻『古代は輝いていた III』

 ミネルヴァ書房より古田先生の『古代は輝いていた III 』が復刻されました。これで同シリーズ全三巻の復刻が完結しました。同書は九州王朝の輝ける時代と滅亡の時代、6~7世紀が対象です。わたしの研究テーマ の一つである「九州年号」の時代ですので、今回読み直してみて、古田先生の研究の深さと広さを再認識でき、とても触発されました。
 7世紀末には大和朝廷との王朝交代の時期を迎えますので、九州王朝研究にとってもスリリングなテーマが続出します。また、第三部にある「出現した出雲の金石文」で取り上げられた岡田山1号墳出土の鉄刀銘文「各田卩臣」(額田部臣)の「臣」に注目された論稿は、列島内に実在した多元的王朝(九州王朝、出雲王朝、関東王朝、近畿天皇家)や「臣」の痕跡を改めて明確にされたものです。
 九州王朝の輝ける天子、多利思北孤の活躍など同書は九州王朝史研究にとって最も重要な一冊です。皆さんに強くお勧めします。


第727話 2014/06/14

九州年号「光元」改元の理由

 九州年号研究において不思議な現象のあることが、以前から知られていました。それは、中国の隋の年号が改元された年に、なぜか九州年号も改元されるケースが多いというものです。たとえば次の通りです。

西暦 隋の年号  九州年号 (それぞれ元年)
581 開皇    鏡當
601 仁寿    願轉
605 大業    光元
617 義寧    --
618 皇泰    倭京

 もちろんこの期間に他の九州年号の改元、たとえば勝照(585)・告貴(594)・定居(622)もあり、両王朝のすべての改元が一致しているわけではありませんが、短命な隋の改元(5個のうち4個の年号が九州年号の改元と同年)が偶然にしてはよく一致していることから、その理由についてどのよう に解釈したらよいのか、説得力のある仮説はありませんでした。
 通常、改元はその王朝の天子の交代や、吉兆・凶兆が現れたことにより改元されます。中国と九州王朝とで、たまたま天子の交代が同年だったという偶然も皆無ではないでしょうが、やはり学問としてその合理的な同年改元の真因を解明したいものです。
 そこで今回わたしが注目したのが、『二中歴』に記された九州年号「光元」(605年。他の年代暦等には「光充」とするものもある)と隋の「大業」との一致でした。遠く離れた隋と九州王朝(倭国)において、同時に発生しうる吉兆・凶兆として天文現象が考えられます。そして、わたしは九州年号「光元」の 「光」の一字に注目したのです。前漢で年号が使用されたとき、「元光」(BC134)という年号が採用され、その理由は「彗星」の出現が契機になったとい われています。それと同様に605年に何らかの光に関係する天文現象が起こり、それが要因となり、九州王朝も隋も改元したのではないかとの作業仮説(思い つき)に到達したのです。
 この作業仮説を検証するために史料根拠を探したところ、『日本書紀』の推古12~13年条(604~605)にはそれらしき記事は見えません。特に12 年条は有名な「十七条憲法」記事で占められており、この時期には彗星などの天文現象記事は記録されていません。次に中国側の史料として『隋書』の帝紀と天 文志を調べました。
 「帝紀第二高祖下」の仁寿四年(604)には高祖の崩御(7月)があり、翌年1月には改元され大業元年となりますから、この改元は天子の交代によるものでしょう。天文現象としては、6月に「星有りて月の中に入る、数日にて退く」、7月には「日青く光り無し、八日にして復す」という記事が見えます。その 後、高祖が崩御しますから、これらの天文現象は凶兆と見られたようです。これらの現象の詳細がわかりませんので、日本列島(九州王朝)でも見られたのかどうかも判断できません。
 次いで「志第十六天文下」には仁寿4年6月の「星有りて月の中に入る」について、「占いて曰く、大喪有り、大兵有り、亡国有り、軍破れ将殺す」とあり、 七月の「日青く光り無し」についても、「占いて曰く、主勢奪。又曰く、日に光無く王に死有り」と記録されています。やはりこれらの天文現象は凶兆として捉えられていたことがわかります。
 もし九州王朝でも「日青く光り無し」という不思議な天文現象が観測されていたとすれば、隋と同様に占われ、凶兆とされたことと思われますので、二度と「日青く光り無し」にならないようにと、翌年に「光元」という文字使いで改元されたことはよく理解できます。ちなみに、この時期は九州王朝の天子、多利思北孤は健在ですので、天子の交代による改元とする理解はあり得ません。
 以上の考察から、九州年号「光元」の改元理由として、『隋書』に見える「日青く光り無し」という天文現象を契機としたとする作業仮説(一つのアイデア) を提起したいと思います。この作業仮説が有力仮説となるためには、隋で見られた「日青く光り無し」という天文現象の解明と九州王朝でも観測できたという証明や根拠が必要です。天文現象に詳しい方のお力添えを賜れば幸いです。


第718話 2014/05/31

「告期の儀」と九州年号「告貴」

 テレビで高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さんのご婚約のニュースを拝見していますと、皇室の婚姻行事の「告期の儀」について説明がなされていました。お婿さんの家から女性の家へ婚姻の日程を告げる儀式のことだそうです。古代にまで遡る両旧家のご婚儀に古代史研究者として感慨深いものがあります。

 その「告期」という言葉から、わたしは九州年号の「告貴」(594~600)を連想してしまいました。婚姻の期日を告げるのが「告期」であれば、九州年号の「告貴」は「貴を告げる」という字義ですから、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とは何のことだったのだろうかと考え込んでしまいました。改元して「告貴」と年号にまでしたのですから、よほど貴い事件だったに違いありません。

 この年に何か慶事があったのだろうかと『日本書紀』(推古2年)を見ても、それらしい記事は見えません。その前年には四天王寺造営記事がありますが、そのことと「告貴」とが関係するようにも思えません。

 漢和辞典で「貴」の字義や用語を調べてみますと、「貴主:天子の娘」というのがあり、多利思北孤の娘か息子(利歌彌多弗利)の誕生を記念しての改元ではないかと考えました。もちろん確かな根拠があるわけではありませんが、作業仮説(思いつき)として提案したいと思います。なお、利歌彌多弗利の生年を 577年とする説を「『君が代』の『君』は誰か — 倭国王子『利歌彌多弗利』考」(『古田史学会報』34号、1999年10月)等で発表したことがありますので、こちらもご参照ください。

 もう一つ注目すべき記録があることに気づきました。九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の「国分寺(国府寺)建立」記事です。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 もし、この『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという 「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性があります。そう考えると、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事の意味がよくわかります。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 『日本書紀』推古2年条はこの短い記事だけしかないのですが、この佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「告期の儀」の連想から、「九州王朝による国分寺建立」という思いもかけぬところまで展開してしまいました。これ以上の連想は学問的に「危険」ですので、今回はここで立ち止まって、もっとよく考えてみることにします。若いお二人のご多幸をお祈りいたします。