「 邪馬壱(壹)国 」一覧

第1860話 2019/03/17

吉野ヶ里遺跡から弥生後期の硯

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からまたまたビッグニュースが届きました。吉野ヶ里遺跡から弥生時代後期(1〜2世紀)の硯が出土していたとのニュースです。3月14日付の西日本新聞、朝日新聞、読売新聞の当該記事切り抜きをメールで送っていただきました。同切り抜きはわたしのFaceBookに掲載していますので、ご覧ください。
 弥生時代後期といえば邪馬壹国の時代で、有明海側からの初めての出土でもあり、興味深いものです。学問的考察はこれから深めたいと考えています。ご参考までにNHK佐賀のNEWS WEB の記事を転載します。

【NHK佐賀のNEWS WEB】2019.03.13
弥生時代に文字介し海外交易か

 弥生時代の大規模な環ごう集落跡として知られる吉野ヶ里遺跡から出土した石器が、弥生時代のすずりとみられることが分かりました。
佐賀県教育委員会は「有明海を通じて行われた海外との交易に文字が使われていた可能性が高い」としています。
 県教育委員会によりますと、吉野ヶ里遺跡から見つかったのはいずれも弥生時代の住居跡などから出土した2つの石器で、人の手で加工した形跡があります。
 このうち1つは長さ7.8センチ幅5.2センチの「石硯」、もう1つは長さ3.8センチ幅3.5センチの墨をすりつぶすための道具「研石」と見られています。
 これらの石器は平成5年から7年にかけて吉野ヶ里遺跡で行われた発掘調査で見つかっていましたが、用途がわからないままになっていました。
 しかし、去年11月福岡市の遺跡で弥生時代のすずりがまとまって見つかったことから、この石器を改めて調べ直したところ、いずれも形状や厚さなどが中国大陸や朝鮮半島で出土したすずりなどと似ていることから、「石硯」と「研石」である可能性があると判断したということです。
 弥生時代のすずりなどが佐賀県内で見つかったのは唐津市の中原遺跡に次いで2例目ですが、有明海沿岸の地域で見つかったのは初めてだということです。
 県教育委員会は「弥生時代に有明海を通じて行われた中国大陸など海外との交易に、すでに文字が使われていた可能性が高い」と評価しています。


第1811話 2018/12/30

「邪馬壹国の領域」正木説の紹介

 「洛中洛外日記」1804話「不彌国の所在地(2)」で、「山門」という地名を根拠に邪馬壹国の領域に筑後が含まれるのではないかとしたのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が久留米大学での講演で既にこの見解を発表されていたことを、正木さんからのご連絡で知りました。優れた説ですので、「洛中洛外日記」でも紹介します。
 正木説によれば、「上山門」「山門」「山国」「山国川」などの地名と倭人伝に七万戸とされた「人口」などを根拠に邪馬壹国を「筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国」とされました。その試算によれば、「三千餘家」とされた一大国(壱岐)の面積138平方kmと邪馬壹国の「七万戸」を比例させると3220平方kmとなり、それが先の領域に対応するとされました。
 この正木説は、北部九州の神籠石山城に囲まれた領域が邪馬壹国の範囲とされた古田先生の見解とほぼ一致しています。古田先生の見解を聞いたとき、6〜7世紀頃に築造されたと考えられる神籠石山城の位置を3世紀の邪馬壹国の領域の根拠とすることに納得できませんでした。ところが今回の正木説により、古田先生の見解が有力であったことに気づきました。


第1805話 2018/12/19

「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」

 『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国名「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」とする古田説を「洛中洛外日記」1803、1804話で紹介しました。この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされました。ここは明治時代には「須玖村岡本山」と表記されていましたが、これは「須玖村」の大字「岡本」の小字「山」という三段地名表記です(春日村の大字「須玖」、中字「岡本」、小字「山」と表記された時代もあります)。
 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域であると思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置します。そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないかと古田先生は考えておられました。また、日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないかとされました。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったと考えられます。


第1804話 2018/12/19

不彌国の所在地(2)

 長垂山の南側を抜けた早良区にある「上山門」「下山門」という地名は「山(やま)」という領域の入り口を意味する「山門(やまと)」であり、その「山(やま)」とは邪馬壹国の「邪馬」ではないかということにわたしは気づきました(既に先行説があるかもしれません)。
 倭国の中心国名について、熱心な古田ファンにも十分には知られていないようですので、説明します。倭人伝には女王卑弥呼が倭国の都とした国の名前は「邪馬壹国」と表記されているのですが、正式な名称は「邪馬」の部分であり、言わば「邪馬国」なのです。そして「壹」(it)は「倭国」の「倭」(wi)の「当て字」であり、本来なら「邪馬倭国(やまゐ国)」です。これは倭国の中の「邪馬」という領域にある国を表現した呼称と理解されます。このことを古田先生は『「邪馬台国」はなかった』で解説されました。同じく倭人伝に見える狗邪韓国も「韓国(韓半島)」内の「狗邪」という領域にある国を意味しています。これと同類の国名表記方法が「邪馬壹国」なのです。
 このような理解から、倭人伝に記された卑弥呼が倭国の都としていた国は「邪馬国」であり、その西の入り口が福岡市早良区の「上山門」「下山門」という地名に残っていたと考えられます。従って、早良区は邪馬壹国の領域内であり、今津湾付近を不彌国とする正木説をこの「山門」地名は支持することになるわけです。更に付け加えれば、福岡県南部に位置する旧「山門郡」(現・柳川市、みやま市)も同じく「邪馬国」の南の入り口と考えることができそうです。そうであれば、筑後地方も「邪馬国」(邪馬壹国)の領域に含まれることになりますが、これは今後の研究課題です。


第1803話 2018/12/18

不彌国の所在地(1)

 「洛中洛外日記」1791話「西新町遺跡(福岡市早良区)ですずり片五個出土」で、その地を魏志倭人伝に見える不彌国(ふみ国)とする作業仮説(思いつき)を紹介しました。そのことをFACEBOOKでも紹介し、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)にすずりが出土した早良地域を不彌国とすることの当否についてたずねたところ、当地は邪馬壹国内に相当し、不彌国は今津湾付近とのご意見が寄せられました。
 わたしは1791話で次のように不彌国の位置を考えていました。

 〝古田説では、糸島半島方面から博多湾岸に入り、不彌国に至り、その南に邪馬壹国があるとされています。その邪馬壹国の中心地域は春日市の須玖岡本遺跡付近と考えられていますから、博多湾岸に位置する西新町遺跡が邪馬壹国の北の玄関口に相当する不彌国の有力候補と考えられるのです。〟

 ですから、今津湾付近では西過ぎるのではないかと感じたのですが、正木さんの説明によれば、福岡市西区今宿付近から長垂山の南側を通って吉武高木遺跡がある早良方面に抜ける道が当時の主要ルートなので、倭人伝の「南到る邪馬壹国」とある行程記事と見なして問題ないということでした。この正木説に説得力を感じましたので、今津湾や今宿付近を不彌国とできる痕跡が地名などに残っていないか検討しました。たとえば「ふみ」という地名が当地に残っていないかを調べてみました。
 その結果、長垂山の南側を抜けた早良区に「上山門」「下山門」という地名があることを見いだしました。江戸時代の史料にも「下山門郷」という地名が記されていることを知ってはいたのですが、その地名の意味することに今回気づくことができました。それは「山(やま)」という領域の入り口を意味する「山門(やまと)」であるということです。そしてその「山(やま)」とは邪馬壹国の「邪馬」ではないかという問題です。(つづく)


第1791話 2018/11/24

西新町遺跡(福岡市早良区)ですずり片五個出土

 今朝、川岡保さんがFacebookに昨日の西日本新聞の記事を掲載されていました。川岡さんは福岡市早良区のお住まいで、Facebookを通して知り合いました。過日の久留米大学での講演会にもお越し頂き、その翌日には早良区や糸島半島をご案内いただきました。そのFacebookに掲載されていたのは当地の福岡市早良区西新町遺跡から古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)のすずりが5片出土していたという記事でした。近年、福岡県各地で弥生時代・古墳時代前期のすずりが発見されていたのですが、なんと西新町遺跡からは5片も出土していたことが確認されたというのです。その西日本新聞の記事【資料1】を末尾に転載します。西新町遺跡・藤崎遺跡の解説【資料2】が福岡市博物館のホームページにありましたのでそれも転載しました。
 今回の発見で注目されることが三つあります。ひとつはその数の多さです。破片とは言え5個も発見されたことから、当地においてかなりの文字を書く人々が集団で住んでいたと考えられます。新聞記事でも同遺構は「交易拠点」とされており、博多湾岸という立地条件から考えても妥当な推定と思われます。朝鮮半島の土器の出土が多いこともこの推定を支持しています。
 二つ目は3点から朱の痕跡が認められたことです。通常の墨だけでなく、朱も使用していたのですから、その必要がある職掌とは何かということが重要な検討課題として提起されています。今のところまだわかりませんが、墨と朱を文書記録に使用するというケースを調査してみたいと思います。
 三つ目は最も関心がある問題で、それは西新町遺跡が博多湾岸に位置するという点です。その地は砂丘上であり、農耕にも居住にも適しているとは言えません。従って、そのような地に存在した西新町遺跡は交易や外交など特定の目的を持った勢力が居した場所ではないでしょうか。そこで思い当たるのが、倭国の女王俾弥呼がいた邪馬壹国への里程記事です。
 古田説では、糸島半島方面から博多湾岸に入り、不彌国に至り、その南に邪馬壹国があるとされています。その邪馬壹国の中心地域は春日市の須玖岡本遺跡付近と考えられていますから、博多湾岸に位置する西新町遺跡が邪馬壹国の北の玄関口に相当する不彌国の有力候補と考えられるのです。不彌国の規模は「千餘家」と記されており、それほど大きな国ではありません。にもかかわらず、倭人伝の里程記事に掲載されていますから、それなりの理由があったと考えられます。
 不彌国の候補地としては博多駅付近の比恵遺跡もあるのですが、「千餘家」という不彌国の規模よりも大きな遺跡のようですから、西新町遺跡のほうが比較的妥当のように思われます。更に全くの思いつきに過ぎませんが、今回のすずりの出土から、当地には文書行政を司った集団がいたと考えられます。そうであれば、不彌国とは「ふみ(文)国」の漢字表記とは考えられないでしょうか。作業仮説として提起したいと思います。

【資料1】
=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
邪馬台国時代のすずり5個出土
 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡

 邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。
 弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。
 5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10.4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0.5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4.4〜5.4センチ。3個には朱を使った跡があるという。
 西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している。

【資料2】
福岡市博物館ホームページ
「西新町・藤崎遺跡群」の説明

 博物館もよりの西新・藤崎には3000年位前から砂丘が形成されており、人々が暮らしていました。
 古くから弥生土器や三角縁神獣鏡などの発見があって、学史的にも注目されてきた遺跡ですが、今から約40年前の昭和50年代以降の市営地下鉄や藤崎バスターミナルの建設、県立修猷館高校の建て替え工事などにともなって発掘調査が進み、弥生時代から古墳時代前期を中心とする集落や墳墓の全容が明らかになってきました。
 弥生時代といえば、稲作農耕文化のイメージですが、西新町・藤崎遺跡群は農耕不適地に立地しており、出土遺物などからも、漁村的な遺跡であったと考えられます。また、中国や朝鮮半島など遠隔地からもたらされた遺物も多く出土することから、漁撈とともに海を介した対外交易などをも担った集団が暮らした遺跡と考えられます。


第1616話 2018/03/01

「邪馬台国」畿内説の論理(4)

 今朝は東京駅の東北新幹線待合室で始発の山形行き新幹線つばさ123号を待っています。昨日、大阪なんばで仕事をした後、午後に東京入りしました。今朝は春の爆弾低気圧が関東を通過中とのことで、早朝にホテルを出て東京駅で待機することにしました。

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 「邪馬台国」畿内説への反論や批判の方法として、いくつかのアプローチを考えましたが、わたしは安村さんとの対話を通して、氏のような誠実な考古学者に対しては論争や批判ではなく、大和朝廷一元史観と「邪馬台国」畿内説とを一旦は切り離して論議することが有効ではないかと思うようになりました。すなわち、「畿内で発生し巨大化した前方後円墳の全国伝播が大和朝廷発展の考古学的痕跡である」とする日本古代史の基本フレーム(岩盤規制)と、『三国志』倭人伝の中心国である邪馬壹国とを切り離し、文献史学での邪馬壹国所在地の説明を丁寧に行うという対話方法です。
 こうした方法が有効だと思う理由は三つあります。一つは、前方後円墳発生や伝播に関する論争を専門の考古学者に挑んでも、彼らを説得できるほどの研究が古田学派ではまだ進んでいないように思われることです。
 二つは、考古学者は出土物の理解や歴史的位置づけついては、文献史学の「安定した通説」、すなわち一元史観によらざるを得ません。従って、文献史学の通説が間違っていれば、考古学者の出土物に対する理解や歴史的位置づけも不正確になりますが、そのことの主たる責任は文献史学側にあり、文献史学での「結論」を採用した考古学者を一方的に責めるのは酷というものです。倭人伝に基づく「邪馬台国」論争はまずは文献史学のテーマですから、『三国志』倭人伝における古田説(原文改訂は研究不正であることや行程記事・短里の解説)を丁寧に考古学者に説明することは、わたしたち古田学派の得意分野でもあり、責務でもあります。
 三つは、畿内説の考古学者でも鉄器の出土分布など北部九州が優勢な考古学的事実があることを知っていることです。この畿内説論者でも認める考古学的事実を根拠に、倭人伝に記された文物が出土する北部九州の勢力と、前方後円墳を造営した勢力は別であり、倭人伝に記された中心国(邪馬壹国)と畿内の前方後円墳を結びつける学問的(文献史学の)根拠がないことを説明するという方法は、誠実な考古学者には有効ではないかと考えられることです。
 以上のようなことから、わたしは誠実な考古学者との学問的良心と理性に基づいた対話こそが現状を変化させる一つの効果的な方法ではないかと考えています。そのためにもわたしたち古田学派は、考古学に対する研鑽と異なる意見が発生した根元を見極める洞察力、そしてそのことを的確に説明できる対話力を高めることが重要ではないでしょうか。(おわり)


第1615話 2018/02/28

「邪馬台国」畿内説の論理(3)

 「邪馬台国」畿内説は①の考古学的事実に基づく実証を、②の文献根拠と結びつけるという、③の「離れ業」により「成立」しているわけですから、反論や批判の方法としては次のアプローチが考えられます。

(a)箸墓古墳の編年を3世紀中頃ではなく、従来通り4世紀であることを考古学的に証明する。あるいは、3世紀中頃ではあり得ないことを証明する。
(b)『三国志』倭人伝の史料批判を根拠とする文献史学の立場から、「邪馬台国(正しくは邪馬壹国)」は畿内ではあり得えず、文献を「邪馬台国」畿内説の根拠とできないことを考古学者に解説する。
(c)畿内の巨大前方後円墳と『三国志』倭人伝の中心国の邪馬壹国を関連付ける学問的根拠がないことを説明する。あるいは関連しているとする根拠の明示を求める。
(d)文献史学における「邪馬台国」畿内説が原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、壹与→台与、南→東)の所産であり、理系では許されない方法(研究不正)であることを古代史学界と社会に訴える。

 このようなアプローチが考えられますが、わたしたち古田学派は「邪馬台国」畿内説の考古学者を説得するのか、文献史学の分野で論争を続けるのか、その双方を行うのか、最も効果的なやり方を自らの力量も含めて考えなければなりません。(つづく)


第1610話 2018/02/21

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(3)

 福岡市比恵遺跡群から出土したすずりの編年が新聞記事によれぱ3世紀後半とされ、「邪馬台国の時代」と紹介し、それを「古墳時代」としています。従来は「邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)」は弥生時代とされてきたにもかかわらず、今回の記事では「古墳時代」とされたのですが、そこには性格が異なる二つの学問上の重要な問題があります。そのことについて説明します。
 まず一つ目は、「邪馬台国」畿内説成立のために古墳の編年を変更するという問題です。『三国志』倭人伝によれば、倭国の女王、卑弥呼は3世紀前半に没しているようですから、3世紀後半であれば卑弥呼の次代の壹与が女王に共立された時期に相当します。もちろん従来の古代史学では両者とも弥生時代と認識されてきました。他方、畿内には弥生時代の倭国を代表するような王者にふさわしい墳丘墓がありませんでした。学界の多数説となっている「邪馬台国」畿内説論者にとって、この考古学的事実が自説に「不都合な真実」だったことは容易に想像できます。そこで彼らが目を付けたのが、初期の前方後円墳である箸墓古墳です。その編年を従来説の4世紀前半から3世紀前半〜中頃とすることで、箸墓古墳を卑弥呼あるいは壹与(台与)の墓と見なしました。
 そもそも「邪馬台国」畿内説というものは、日本列島の代表王朝(権力者)は弥生時代の昔から大和の天皇家であるというイデオロギー(戦後型皇国史観)を論証抜きで「是」と定め、それに合うように倭人伝の原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、南→東、壹与→台与、など)を行ったり、考古学的事実を恣意的に解釈するという、学問的には禁じ手の乱発で「成立」した学説です。このことは拙論「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房に収録。初出「洛中洛外日記」737〜744話)で詳述していますので、是非ご覧ください。
 こうして「古墳時代」の代表的初期前方後円墳の一つである箸墓古墳を「邪馬台国」の卑弥呼か壹与の墓と見なしたいがため、その時代を「古墳時代」としなければならなくなったのです。そして、各新聞社はそうした古代史学界・考古学界の「空気」を「忖度」して、3世紀後半と編年されたすずりの時代を「古墳時代」「邪馬台国の時代」とする、実に奇妙な新聞記事の出現となったのです。(つづく)


第1609話 2018/02/20

福岡市で「邪馬台国」時代のすずり出土(2)

 犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきた朝日新聞(2月17日)には、「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しですずり出土が報じられていました。読者の興味をひくための見出しと思われますが、それであれば本文中に何を書いたのかの解説があってしかるべきです。ところが、古代の博多にあった奴国が文字を使用していたと述べるにとどまる中途半端な記事となっています。
 朝日新聞社と言えば古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(初期三部作)を発刊し、日本古代史学界や古代史ファンに激震を走らせた会社です。その新聞記事の内容がこのレベルでは、朝日新聞も「地に落ちた」と言わざるを得ず、とても残念です。
 『古代史再検証 邪馬台国とは何か』(別冊宝島誌のインタビュー)でも紹介しましたように、古代日本列島において筑前中域(糸島博多湾岸)は、文字文化の先進地域です。『三国志』「魏志倭人伝」には次のように倭国の文字文化をうかがわせる記述が見えます。

「文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す」

 このように倭国やその中心国の邪馬壹国では「文書」による外交や政治を行っていると明確に記されているのです。福岡市の文化欄担当記者であれば、この程度の知識は持っていてほしいと思うのですが、無理な期待でしょうか。
 更に同記事では出土した福岡市を「奴国」としていますが、もしそうであれば「奴国」よりも上位で大国でもある邪馬壹国の地はどこだとするのでしょうか。この「奴国」とされた糸島博多湾岸よりも大量のすずりが出土した弥生時代や古墳時代の遺跡は他にあるのでしょうか。たとえば「邪馬台国」畿内説によれば奈良県の弥生時代の遺跡からもっと多くのすずりが出土し、文字文化の痕跡を示していなければなりませんが、同地の弥生遺跡からすずりの出土はありません。
 「古墳時代 博多で何書いた?」という見出しで読者の興味を引くのであれば、こうした「答え」も記事に盛り込み、読者の知識の幅やレベルを高めることができます。そうした真の教養に裏打ちされた記事こそ、「クオリティーペーパー」と呼ばれるに相応しいものと思います。なお、公平を期すために言えば、このニュースを掲載した他の新聞も、その内容は朝日新聞と五十歩百歩です。(つづく)