(元壬子年)三壬子年木簡一覧

第785話 2014/09/14

倭国(九州王朝)遺産

・文字史料編

前話に続いて「倭国(九州王朝)遺産」です。今回は文字史料について「認定」します。もちろんわたしの個人的見解であることは、前話と同様です。九州王朝の実体を知る上で、文字史料はとても貴重です。それではご紹介します。

〔第1〕法隆寺釈迦三尊像・後背銘
九州王朝の天子、阿毎多利思北孤がモデルとされる「飛鳥仏」を代表する仏像です。従来は大和朝廷の聖徳太子のこととされてきましたが、古田先生の研究により九州王朝の天子の仏像であることが判明しました。後背銘にある「法興」が九州年号(正木裕説では多利思北孤の法号)であることも注目されています。

〔第2〕法華義疏
皇室御物である「法華義疏」を古田先生は京都御所で実見し、調査されました。その結果、九州王朝の上宮王が収集した文書であることをつきとめられました。冒頭部分に記された「大委国上宮王」は多利思北孤であるとされ、本来所蔵されていた寺院名が書かれていた箇所が切り取られていることも発見されていま す。

〔第3〕「十七条憲法」(『日本書紀』所収)
古田先生の研究によれば、『日本書紀』に聖徳太子によるとされている「十七条憲法」は九州王朝史書からの盗作とされています。『日本書紀』には九州王朝の事績が盗用されていることは知られていましたが、「十七条憲法」も九州王朝の「憲法」であれば、その研究により九州王朝の政治体制や実体解明にとって有効な史料となります。

〔第4〕芦屋市出土「元壬子年」木簡
芦屋市三条九の坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、当初「三壬子年」と判読され、『日本書紀』に見える「白雉三年壬子」(652年)のことと理解されてきました。ところがわたしたちの調査(赤外線撮影、光学顕微鏡観察)により、「元壬子年」であることが確認され、『二中歴』などに見える九州年号の 「白雉元年壬子」(652年)を示していることが明らかとなりました。この発見により、九州年号実在の直接的な証拠となる同時代の木簡であることがわかりました。この史料事実に対して、大和朝廷一元史観の学界や九州王朝説反対論者は今も沈黙を続けています。卑怯というほかありません。

〔第5〕「年代歴」(『二中歴』所収)
九州年号群史料として最も原型に近いとされているのが、『二中歴』に収録されている「年代歴」です。特にその細注に記された記事は九州王朝系史料に基づいていることが判明しており、とても貴重な史料です。

〔第6〕太宰府市出土「嶋評戸籍木簡」
2012年に太宰府市から出土した最古(7世紀末)の戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域であるこの地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせるもので、その内容は九州王朝の実体解明を進める上で貴重なものでした。正倉院文書の大宝二年『筑前国川辺里戸籍断簡』などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていましたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなりました。

〔第7〕倭王武の「上表文」(『宋書』倭国伝所収)
九州王朝(倭国)と中国南朝との交流において、『宋書』に収録された貴重な倭王武の「上表文」は倭国の歴史や文化、文字使用の伝統などを知る上で貴重な史料です。史料そのものは中国史書ですが、その「上表文」部分は倭国遺産に認定したいと思います。

〔第8〕「君が代」(『古今和歌集』他所収)
日本国国歌「君が代」の歌詞も「文化遺産」として認定したいと思います。古田先生の研究により、その歌詞には糸島博多湾岸の地名・神名などが読み込まれており、同地域で弥生時代に成立したとされています。ちなみに、次の地名・神名などが読み込まれています。
「千代」福岡市千代
「さざれいし」糸島市細石神社
「いわお(ほ)」糸島市井原(いわら)山水無鍾乳洞
「こけのむすまで」糸島市志摩町桜谷神社祭神「古計牟須姫命」「苔牟須売神」

〔第9〕祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓」
「六月の晦(つごもり)の大祓」の祝詞も文化遺産として認定したいと思います。古田先生の著書『まぼろしの祝詞誕生』(古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、1988年)によれば、「六月の晦(つごもり)の大祓」は「天孫降臨」当時(弥生時代前半期)に糸島博多湾岸(高祖山連峰近辺)で成立したとされています。

〔第10〕稻員家系図(福岡県八女市、広川町、他)
筑後国一宮である高良大社の神官であり、同社祭神の高良玉垂命を祖先とする稻員氏が九州王朝の王族の末裔であることが、古田先生の研究で明らかとなりました。同家の系図には7世紀以前の人物に「天皇」や「天子」の称号を持つものがあり、同系図が九州王朝系図であることもわかってきました。九州王朝王族にはいくつもの支流があるようで、その全体像はまだ不明ですが、稻員家系図や他家の系図の史料批判により、今後解明が進むことと思います。

以上の史料を「倭国(九州王朝)遺産」に認定したいと思います。いずれも、九州王朝研究にとって貴重な史料です。(つづく)


第706話 2014/05/09

「九州年号」の王朝

 「洛中洛外日記」第705話『「改元」と「建元」の論理性』で記しましたように、和水町での講演会で近畿天皇家以前に「九州年号」を公布した王朝があったとする論理性(理由)を説明しました。次いで、その王朝がどこにあったのかについて次のように説明しました。
 『二中歴』などに記された古代年号が「九州年号」と呼ばれてきた事実こそが、それらの年号が九州の権力者によって公布されたことを意味します。たとえば、江戸時代の学者、鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に九州年号が紹介され、古写本「九州年号」によったと出典を記しています。
 また、『二中歴』の九州年号部分の「細注」の考察からも、この九州年号記事部分が北部九州で成立したことがうかがわれます。それは「倭京二年(619)」に「難波天王寺を聖徳が造る」という天王寺(大阪市の四天王寺)建立記事と、「白鳳」年間に「観世音寺を東院が造る」という太宰府観世音寺建立記事の比較分析です。観世音寺には地名がなく、天王寺には難波という地名が付記されていることから、こられの記事は、太宰府の観世音寺のことを「観世音寺」だけでそれと理解できる地域で成立したことがわかります。すなわち、北部九州で成立した記事であり、読者も同じく北部九州の人々を想定しているわけで す。
 他方、天王寺のほうは「難波」と地名を付記しなければ、遠く離れた大阪の天王寺であることが、北部九州の読者には特定できないから、地名を付記した表記になったわけです。このように、九州年号記事の細注の分析からも、これら「九州年号」記事が北部九州で成立したことが推定できます。このことも、『二中歴』に記された「九州年号」が、九州で成立したことを指示しているのです。(つづく)


第624話 2013/11/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」(3)

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を深く実感できた学問的経験が、わたしにはありました。それは「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の発見のときです。
 長期間にわたる九州年号研究の成果として、『二中歴』(鎌倉時代初期成立)に見える「年代歴」の九州年号群が最も真実に近いとする原型論が史料批判や論証の結果、成立したのですが、その「白雉」年号の元年は壬子の年(652)で、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(650)とは二年の差がありました。従って、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」は本来の九州年号「白雉」を2年ずらして盗用したものとする結論に至りました。
 ところが、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡に「三壬子年」という紀年銘があり、奈良文化財研究所の「木簡データベース」では『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子(652)の木簡とされ、『木簡研究』に掲載された「報告書」でも「白雉三年壬子(652)」とされていました。この発掘調査報告書(実証) を読んだわたしは驚きました。これまでの九州年号研究の成果(論証)を否定し、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」が正しいとする内容だったからです。しかも、 同時代の木簡という第一級史料だけに、鎌倉時代初期成立の『二中歴』よりもはるかに有力な「実証力」を有する「直接証拠」なのです。
 永年の九州年号研究の結果、成立した仮説(論証)と、同時代史料の木簡の記述(実証)とが対立したのですから、わたしがいかに驚き悩んだかはご理解いただけることと思います。そこで、わたしが行ったのは、「論証」結果を重んじ、「実証(木簡)」の方の再検証でした。兵庫県教育委員会に同木簡の実見・調査の許可申請を行い、調査団を組織し光学顕微鏡や赤外線カメラを持ち込み、2時間にわたり調査しました。その結果、それまで「三」と判読されていた字が、実は「元」であったことを確認できたのでした。
 このときの経験により、わたしは村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を心から実感できたのでした。(つづく)


第460話 2012/08/29

九州年号改元の手順

 先日、正木裕さん(古田史学の会・会員)が見えられ、最近の研究テーマや話題について意見交換しました。主な話題は札幌市の阿部周一さんが「発
見」された九州年号群史料『日本帝皇年代記』でした。二人ともこのような史料がまだ残されていたことに驚き、おそらくわたしたちがまだ知らない史料が各地に遺されているであろうことなどを話し合いました。古田学派の研究者の数がもっと増え、切磋琢磨して研究レベルを上げることができれば、こうした史料発掘や研究がさらに進むことでしょう。今回の阿部さんの史料発掘には感謝の気持ちでいっぱいです。

 「洛中洛外日記」第459話でご紹介した九州年号改元記事(各地からの白雉などの献上に基づいて改元されたという記事)について、わたしの見解を述べたところ、正木さんからするどい指摘がなされました。それは、改元の動機と手順についての基本的な論理性についてでした。

 正木さんが指摘されたのは、白雉や赤雀・赤雉が献上されたから、白雉・白鳳や朱雀・朱鳥に改元されたのではなく、まず改元の動機となる事件(国家的災難・吉兆や辛酉改元の慣習など)が発生し、ついで改元予定の発表があり、それに基づいて各地から献上品が届けられ、その上で新元号が定められ、最後に改元の詔勅が公布されるのではないか、という考え方です。

 細かい点はいろいろとあるにせよ、基本的に改元とはこうした行政手続きを経て行われるというのは、ある意味で当然のことと思いました。この正木さんの指摘は大変するどいものといわざるを得ません。おそらく、九州王朝内で改元の検討が始まったとき、各地でそれにふさわしい献上品が選択され、九州王朝に競って献上されたのではないでしょうか。新元号の根拠とされた品を献上した国に対しては、昇進や褒美、あるいは課役の免除が行われるからです。『日本書紀』の白雉改元記事を見ても、このことは明らかです。

 この正木さんが指摘された「改元手順の論理性」のおかけで、わたしはある疑問の解決案を思いつきました。それは芦屋市出土の「元壬子年」木簡について抱いていた疑問です。同木簡が九州年号の白雉元壬子年(652)を意味することは疑えないのですが、その記載内容や「書式」に疑問をわたしはずっと抱いていたのです。その疑問の一つは、「元壬子年(以下欠)」と書かれた面と、その裏面の「子卯丑□何(以下欠)」という文字列の書き出しがずれていることです。具体的には「元壬子年」の文字が、裏面の文字列より一字分下にずれて書かれているのです。そのため、「元壬子年」という文字列の上にはかなりの空白があり、「白雉」という年号を記すスペースは十分あるにもかかわらず、何故か空白となっていることに、わたしは疑問を感じていました。

 この疑問に対して、今回の正木指摘に基づいて考えると、この「元壬子年」木簡が記された時点では、新年号は未定だったのではないかという可能性と新理解が浮かんだのです。改元の予告と、新元号が決定されるまでの期間にこの木簡が作られた場合、未定の新年号部分を意図的に空白にしたと考えたのです。そのように考えた場合、この木簡の史料状況がうまく説明できるのですが、いかがでしょうか。

 さらにももう一つの疑問ですが、この木簡の上部は半円形に加工されており、いわゆる荷札木簡とは形状が異なっています(下部は欠損)。おそらくこの木簡は手に持っての使用を想定されたもので、改元に関わる儀礼・儀式に用いられたのではないでしょうか。意味不明の「子卯丑□何」という記載もこうした視点からの検討が必要と思われます。

 阿部さんの史料発掘や正木さんの改元手順の指摘のおかげで、新たな理解に至ることができ、さらなる展開が期待できそうです。


第418話 2012/05/27

土器「相対編年」と「絶対年代」

 難波宮土器編年の勉強を続けていますが、その主要課題の一つに、土器様式の前後関係に基づく「相対編年」が、どのように 「絶対年代」とリンクされているのかということがあります。今回、前期難波宮の発掘調査報告を閲覧し、七世紀の畿内における土器「相対編年」と「絶対年代」との関連について、考古学者が何を根拠にどのように判断しているのかが分かってきましたので、少し紹介したいと思います。
「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)によれば、難波宮遺跡の編年は難波1期(5世紀)から難波5期(8世紀前葉~9世紀初)までに分類されており、「難波3中」が前期難波宮の時代で7世紀中葉とされています。

 こうした土器「相対編年」の中で「絶対年代」を確定できた年代は「定点」と称されています。たとえば「難波2新」段階は6世紀後葉~7世紀初頭と編年さ れていますが、その根拠となった「定点」は、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年(年輪年代測定により616年とされている)から求められてます (狭山池調査事務所1998)。

 前期難波宮の時代の「難波3中」段階は、この土器と同様式の土器が出土している兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡SD01(兵庫県教育委員会1997)の「元壬子年」(652、通説では「三壬子年」と釈文されています)木簡の年代が「定点」として採用されています。

この他にも7世紀における「定点」資料・遺構があるのですが、年輪年代測定のような自然科学的分析で絶対年代を特定し、一緒に出土した土器の「相対年代」とリンクするという方法は論理的・科学的で説得力があります。わたしもこうした「定点」と土器「相対編年」の最新考古学の成果を知ることができ、九州 など他の地域への展開が必要と思われました。


第417話 2012/05/26

前期難波宮の「年輪年代」

 太宰府編年の小論を書き終わったので、今は難波宮考古学編年の勉強を続けています。先日も大阪市立歴史博物館に行き、二階の「なにわ塾」で発掘調査報告書を閲覧したり、同館学芸員の積山洋さんから難波宮編年についていろいろと教えていただきました。

 その積山さんから勧められて読んだのが、「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)でした。難波宮の北西に位置する旧大阪市中央体育館跡地の発掘調査報告なのですが、そこから出土した前期難波宮時代の水利施設遺構について大変重要な報告が記載されていましたのでご紹介したいと思います。

 その遺構は谷から湧き出る水を通す石造の施設で、そこには大型の水溜め木枠が設置されており、その木枠の伐採年が年輪年代測定により634年であると記 されていました。そしてその石造遺構の下層と石を固定する客土に大量に含まれていた土器が、前期難波宮整地層に含まれている土器と同様式で、共に七世紀中葉と編年されています。従って、この水利施設は前期難波宮の造営時から使用され、宮内に井戸がなかった前期難波宮のためのものであることが判明しました。

 この年輪年代測定による伐採年(634)が明らかな木枠と、同じく難波宮北方から出土した「戊申年(648)」木簡は、長く論争が続いた前期難波宮の年代について、相対編年による土器様式と絶対年代を関連付ける貴重な資料となったようです。

 同報告には、「今回得られた年輪年代のデータや、『戊申年』銘木簡などの暦年代のいくつかの定点を併せて検討すれば、前期難波宮の造営期は7世紀中葉に 明確に位置づけることができるであろう。」(85頁)、「前期難波宮がいつつくられたのか、長年の論争に対しSG301(石造水利施設のこと:古賀)の No.1の年輪年代は、遺跡、遺構を解釈する上で貴重な年代情報となるであろう。」(208頁)と記されています。

 今回、わたしは大阪市立歴史博物館を訪れて、前期難波宮の編年を確定した水利施設遺構や木枠の年輪年代の存在について知ることができ、大変よい勉強になりました。


第347話 2011/11/12

九州年号の史料批判(2)

 文献史学での文字史料の優劣の判断基準で最も重要なものに、史料の同時代性という尺度があります。通常それは一次史料とか二次史料・三次史料といった表現で表されるのですが、九州年号で言えば、6世紀や7世紀の九州年号が実用されていた時代、すなわち同時代に記された史料は一次史料と呼ばれ、 最も信頼性の高い文字史料とされます。
 たとえば、その時代の木簡や金石文などに記された九州年号が一次史料となり、具体的には芦屋市から出土した「元壬子年」木簡(652年、白雉元年)や法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(621年)、「朱鳥三年戊子」鬼室集斯墓碑(688年)、「大化五子年」土器(699年)などがそれに当たりま す。こうした一次史料は九州年号存在の直接証拠でもあり、歴史研究において最も重視されるべきものです。
 ただし一次史料においても、史料そのものの信頼性についての検証が必要となるケース(真偽論争など)もあり、その場合は史料の自然科学的調査(年代測定など)や、他の同時代史料との整合性の検討が必要となります。
 一次史料に次いで重要なものが二次史料であり、一次史料に基づいて記された史料がそれに該当します。例えば、一次史料を書写した写本とか、同時代金石文の拓本や実見記録などです。具体例としては、「白鳳壬申年」骨蔵器(672年、『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)などがそれに当たります。江戸時 代に博多湾岸から出土した「白鳳壬申年」骨蔵器のことが、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記附録』に記録されているのですが、実物は既に失われています。 しかし、黒田藩公認の地誌に記されている九州年号金石文の記録ですから、かなり信憑性の高い二次史料です。
 さらに、二次史料を引用したり、記録したものが三次史料となるのですが、歴史史料として利用できるのは、せいぜいこの三次史料まででしょう。例外的には 四次史料などでも他に同類のものがない場合とか。その信憑性が当該史料以外の証拠などで保証される場合は歴史史料として使用できるケースもあります。
 従って、歴史研究において根拠とする史料はなるべく一次史料か同時代史料に近い二次史料などに溯って調査採用することが要求されるのです。
ところで、『日本書紀』にも大化・白雉・朱鳥の九州年号が盗用されていますが、これは何次史料にあたると思いますか。720年に『日本書紀』は成立していますから、九州年号実用時代とはかなり近い時代です。しかし、厳密には同時代ではなく、九州王朝滅亡後に九州年号を盗用(九州王朝史書からの引用)した史書ですから、恐らく二次史料に相当するでしょう。そういう意味では、『日本書紀』は九州王朝や九州年号を研究する上でも、同時代史料に近い貴重な二次史料 という性格も有しているのです。(つづく)

第95話 2006/08/22

白雉改元と前期難波宮

 昨年から今年にかけて、私は『日本書紀』白雉改元記事の史料批判から、あるいは前期難波宮の規模や様式などから、この難波宮を九州王朝の副都とする仮説を展開してきました。19日の関西例会でも最新の発見について報告しましたが、そのおり竹村順弘さんから、兵庫県南部に白雉年間創建の寺院が多いことを教えていただきました。この事実も難波宮建設と関連が深いと思われますが、「元壬子年」木簡の出土地も芦屋市だったことを考えると、なかなか興味深い現象です。
 今回の例会もバラエティーに富んだ内容で、毎回充実した例会となっています。例会後の二次会も参加者が多く賑やかですが、最近では三次会も参加者が多く場所探しが大変でした。また、二次会から参加される「熱心」な方もおられ、驚かされます。例会の内容は次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「海の道」
○研究発表
1. 孔明「出師の表」と岳飛・『なかった─真実の歴史学』創刊号を見て・守備範囲外(豊中市・木村賢司)
2. 「速吸門」についての若干の整理(川西市・正木裕)
3. サヌカイトと屋島訪問ー古田武彦先生同行記ー(豊中市・大下隆司)
4. 続・白雉改元の史料批判(京都市・古賀達也)
5. 熊本県浄水寺の平安時代石碑2(相模原市・冨川ケイ子)
6. さ迷える五十鈴の宮(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・阿胡根能浦は鹿児島県阿久根市か・他(奈良市・水野孝夫)


第83話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の論理

 前話に続いて、「元壬子年」木簡がテーマです。今回はこの木簡の持つ論理性について更に深く考えてみたいと思います。「元壬子年」木簡の記述が直接的に指し示すことは、この時間帯(七世紀中頃)の年号の元年干支が「壬子」であるという事実です。『日本書紀』によれば、この時期の「壬子」の年は、孝徳天皇の時代、「白雉三年」(652年)が相当します。従って、木簡解読時に担当者が「元」の字を「三」と読み誤ったのには、それなりの理由があったわけです。

 一方、『二中歴』などに掲載されている九州年号では、この時期の「壬子」の年が「白雉元年」とされているのです。『日本書紀』と同じ「白雉」という年号が二年ずれて九州年号史料には多数収録されているのですが、この史料状況は九州年号真作説に有利な論理性を有していました。すなわち、もし九州年号が後代の偽作なら、「白雉」という年号名を『日本書紀』から盗用しておきながら、年次は二年ずらしたという、何とも奇妙な偽作方法となるからです。偽作するのに、全く必要のない手法です。従って、逆にこうした史料状況は偽作ではない証拠となるのです。この点を、偽作説論者は全く説明できていません。

 従って九州年号の白雉が偽作でなく、真実であるとなると、事態は逆転し、『日本書紀』の白雉が九州年号からの年次をずらしての盗用となること、当然でしょう。そして、この論理性が正しかったことを、「元壬子年」木簡が無比の物的証拠として証言しているのです。ここに、今回の発見の画期性があります。

 そこで次に問題となるのが、なぜ『日本書紀』編者は九州年号から白雉をわざわざ二年ずらして盗用したのかということです。それには一応の推測が可能です。すなわち、「大化の改新(詔勅)」の5年間を孝徳紀にはめ込みたかった。この可能性です。次の九州年号群を見て下さい。

常色 元(丁未)〜五  647−651
白雉 元(壬子)〜九  652−660
白鳳 元(辛酉)〜二三 661−683
朱雀 元(甲申)〜二  684−685
朱鳥 元(丙戌)〜九  686−694
大化 元(乙未)〜六  695−700

 これは『二中歴』から九州年号の後期部分を抜粋し、西暦等を付記したものです。このように年号は時間軸を表す「記号」として連続していなければ意味がありません。この点からも『日本書紀』の「大化・白雉・朱鳥」の三年号の現れ方は異常だったのです。

 この九州年号に「大化」があることに着目して下さい。『日本書紀』にも「大化」(645〜649)がありますが、既に述べてきましたように、「九州年号」が正しく、『日本書紀』が誤っていた、あるいは盗用していたという事実から見ると、ここでも九州年号の「大化」が『日本書紀』に50年ずらして盗用されていると考えるほかありません。

 そして、わざわざ50年もずらして盗用した理由は、「大化」という年号だけを盗用したかったなどとは考えられず、『日本書紀』の大化年間に散りばめられている、いわゆる「大化の改新(詔勅)」を年号の「大化」と一緒に盗用したとしか考えられないのではないでしょうか。少なくともその可能性が最も大きいと思います。このことから、結論は次のようです。

 七世紀末に九州王朝が発した「大化の詔勅」を大和朝廷は自らが発したものとして歴史を造作した。

 これです。そうでなければ、九州年号の大化を50年も遡らせて、自らの史書『日本書紀』に盗用する必要など全くないのですから。従来から、古代史学会で論争となってきた「大化の改新」の史実性についても、こうした「九州王朝の詔勅からの盗用」という新たな視点により、有効な解決がなされると思われます。


第82話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の証言

 1996年に芦屋市から出土した「三壬子年」木簡が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのですが(69話72話参照)、今回はこの史料事実がもたらす古代史上の画期性について強調してみたいと思います。

 学問的良心と人間としての平明な論理性を持つ読者の皆さんには、今さらながら言うまでもないことですが、この「元壬子年」木簡が直接的に指し示す肝要の一点は、『日本書紀』の「白雉元年」を庚戌(650年)の年とする記述は誤りで、『二中歴』や『海東諸国紀』等に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(652年)」が歴史的事実であったということです。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのです。「元壬子年」木簡は、まさにこの事を証言しているのです。

 従って、この木簡の「元壬子年」という文字を認めると、今まで論証抜きで偽作扱いされてきた「九州年号」の真実性を認めなければならず、次いでこのような年号を大和朝廷よりも早く公布した王朝の存在を認めなければなりません。さらに、この古代年号群が「九州年号」と呼ばれていた事実から、その公布主体が九州に存在した王朝であることも論理的必然として認めなければならないでしょう。すなわち、古田武彦の九州王朝説は正しかった、通説の大和朝廷一元史観は間違いであった、となるのです。これが、史料事実とそれに基づく人間の平明な論理性の帰結なのですから。

 あなたの周りにおられる大和朝廷一元史観の人に、この平明な論理性を語ってみて下さい。もし、その人が「なるほど、その通りだ」と理解できる人なら、共に真実と学問を語るに足る友人とすることができるでしょう。「それでも、大和朝廷が古代から列島の唯一卓越した代表者のはずだ」「九州年号や九州王朝はなかったはずだ」という人には、静かに首を横に振るしかないでしょう。残念なことに、世の中にはそのような人も少なくないのです。理系と比較して、世界の学問や理性との競争原理がほとんど働かない日本古代史学界など、その最たるものかもしれませんね。


第72話 2006/04/21

実見、「三壬子年」木簡

 第69話で紹介しました「三壬子年」木簡を、本日見てきました。古田先生等5名で、神戸市にある兵庫県の埋蔵文化財調査事務所へ行き、同木簡を1時間半にわたりしっかりと見てきました。もちろん、最大の観察点は「三」と読まれた字です。結論から言いますと、この字はやはり「元」と読まざるを得ない、ということでした。
 ちょっと見た感じでは「三」とも読めそうなのですが、詳細に観察した結果、次の理由から「元」であると判断しました。

1.第三画の右端が「三」とすれば極端に上に跳ねています。木目に沿った墨の滲みかとも思われましたが、そうではなく明確に上に跳ね上げられていました。そして下には滲みがありません。これが「元」である最大の根拠と言えます。

2.第三画の真ん中付近が切れていました。赤外線写真も撮影して確認しましたが、肉眼同様やはり切れていました(大下隆司さん撮影)。従って、「三」よりも「元」に近い。

3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっています。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずなのに、実際は逆で、右側の方が濃くなっています。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡と思われます。

4.木目により表面に凹凸があるのですが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていました。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象です。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当することになります。

5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められました。これは「元」の第四画の初め部分と思われます。

 以上の理由から、従来「三」と読まれていた字は「元」であると判断せざるを得ませんでした。今回実見してわかったのですが、同木簡は漂白処理が施されており、写真よりも色が白く、そのため墨の痕跡が肉眼でもよく判別できました。もちろん、光学顕微鏡も持ち込みましたが、上記の点は肉眼でもはっきりと判読できました。これは大変恵まれた史料状況と言えるでしょう。その他の字も確認しましたが、「三」以外はほぼ『木簡研究』に載せられた釈文でも良いように思われました。断定はできませんが(表面の「何」とされた字は「向」とも見えました)。
 今後、引き続き顕微鏡写真撮影などで更に綿密な調査を行う予定ですが、現時点では「元壬子年」と見なすべきであり、九州年号の白雉元年壬子(652)を示す貴重な木簡であると思われます。そういう意味で、本日は九州年号研究に画期的な前進を見た記念すべき一日であると言っても過言ではありません。

 最後に、木簡調査を快諾していただいた兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所の皆様に心より感謝申し上げます。

<赤外線写真 木簡9番を切り出し表示> 撮影 大下隆司、切り出し 横田幸男
現状 JPG444KB 大きさ121mmX375mm
撮影日 2006年 4月21日
場所  兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所

・インターネットに簡易赤外線写真の撮り方がのっていたのでそれを参考にしました。 内容は下記です;
1). 使用カメラ:オリンパス・カメディアC2020Z
2). フィルター:富士フィルターIR76
(フィルターはシートなので、昔使っていたニコンのUVフィルターに貼り付けて使用)
3). シャッタースピード:6秒、絞り値:F-2.8
4). 距離:実測45cm 、カメラの距離計:手動で約35cmに設定。

・インターネットによると赤外線写真に適したデジカメは少なく、Olympus C-2000/C-2020とNikon 950が最適とのことで、偶然小生のもっていたのがOlympus C-2020でたいへんラッキーでした。
・前夜自宅で蛍光灯で試しで撮ったのですがそれほど鮮明でなかったのでうまくゆくかどうか心配だったのですが、埋蔵文化財調査事務所で準備してくれたライトが赤外線写真に効果的だったのか結構きれいにとれていました。

画像はクレジットを入れています。改変しないでください。

「元壬子年」木簡

「元壬子年」木簡赤外線写真


第69話 2006/03/30

芦屋市出土「三壬子年」木簡

 3月の関西例会で、わたしは「木簡のONライン−九州年号の不在−」というテーマを発表しました。その中で、1996年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡について紹介しました。『木簡研究』第19号(1997)によれば、表裏に次のような文字が記されています。

「子卯丑□何(以下欠)

「 三壬子年□(以下欠) 下部は欠損していますが、この壬子年は652年白雉三年に当たり、紀年を記した木簡としては二番目に古いそうです。さらに『木簡研究』には次のように記されています。

「年号で三のつく壬子年は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(772)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」

 もしこの「三壬子年」の「三」の字が白雉三年のこととすれば、これは大変なことになります。何故なら、昔は年号の初めは大化で、その後に白雉が続くと習ったのですが、現在では『日本書紀』の大化や白雉・朱鳥の年号は使われなかった、あるいは『日本書紀』編者の創作で実際はなかったとする説が有力だからです。こうした有力説に対して、この木簡は白雉年号があったという証拠になるのです。

 更に大変なことに、九州年号説の立場からすると『二中歴』などに記された九州年号の白雉は『日本書紀』の白雉とは2年ずれていて、壬子の年(652)は元年となっています。従って、この木簡が正しければ、『二中歴』などの白雉年号は正確ではないということになり、九州年号の原形を見直さなければならないからです。

 「三壬子年」木簡がこうした重要な問題をはらんでいることに気づいたわたしは、ある疑問をいだきました。この「三」という字は本当に「三」なのだろうか。「三」ではなく「元」ではないのだろうかという疑問です。そこで『木簡研究』掲載の写真やインターネットで下記ホームページの写真を見てみました。そうすると、何と「三」の字の第三画が薄くてはっきりと見えないばかりか、その右端が上に跳ねてあるではありませんか。というわけで、この字は「三」ではなく「元」と見た方が良いと思われるのです。皆さんも下記ホームページの写真を是非御覧下さい。 このように、わたしの判断が正しければ、「元壬子年」となり、九州年号の「白雉元年」と干支がぴったりと一致するのです。すなわち九州年号実在説を裏づける直接証拠となる画期的な木簡となるのですが、結論は実物をこの目で見てからにしたいと思います。

「三壬子年」木簡

『木簡研究』第19号(1997)による

参考 三条九ノ坪遺跡木簡(1点)(平成13年度指定)

三条九ノ坪遺跡木簡(1点) – 兵庫県立考古博物館

http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000w01.html

(リンクがなくなれば「三条九ノ坪遺跡木簡」で検索してください。)