「 大和朝廷 」一覧

第2229話 2020/09/09

文武天皇「即位の宣命」の考察(11)

 文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」の考察結果が、古田先生による天智天皇(近江朝)による671年(天智十年)の「日本国」創建という〝奇説〟と正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説とに結びつき、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という九州王朝末期の歴史復元が可能となりました。
 しかしながら、671年の「王朝統合」は、九州年号「白鳳」(661~683年)が改元されず継続していることから、天武と大友皇子との「壬申の大乱」により「九州王朝系近江朝」は滅び、元々の九州王朝が継続することになったことがわかります。
 この「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)のことが、元明天皇から元正天皇への「譲位の詔」に記されていることを本シリーズの最後に紹介します。それは霊亀元年(715年)「譲位の詔勅」冒頭の次の記事です。

〝(元明)天皇、位を氷高内親王(元正天皇)に禅(ゆず)りたまふ。詔して曰はく、
 「乾道は天を統べ、文明是(ここ)に暦を馭す。大なる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。
 昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。朕、天下に君として臨み、黎元(おほみたから)を撫育するに、上天の保休を蒙り、祖宗の遺慶に頼(よ)りて、海内晏静にして、区夏安寧なり。(後略)」〟
 『続日本紀』巻第六、元明天皇霊亀元年九月二日条

 この詔の「昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。」という部分にわたしは着目しました。その大意は次のようです。

①「昔者、揖譲の君、旁く求めて歴く試み」
 昔、天子の位を禅譲(揖譲)する者は優れた人材を各地から集め、その才能を試み、
②「干戈の主、体を継ぎて基を承け」
 武力(干戈)により位についた者は、天子の位を継承し、
③「厥の後昆に貽して、克く鼎祚を隆りにしき。」
 それを子孫(後昆)に継承し、天子の地位(鼎祚)を確かなものにした。

 通説では、この文を古代中国における禅譲や放伐による王朝の興亡を故事として述べたものと理解されてきたと思われますが、九州王朝説に立てば、極めて具体的な歴史事実を示したものととらえることができます。
 この詔を聞いた官僚や諸豪族は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替というわずか十数年前の歴史事実に照らしてこの文を受け止めるのではないでしょうか。少なくとも、『古事記』や『日本書紀』に記された近畿天皇家の歴史に禅譲など存在しませんから、元明天皇の「譲位の詔」に自らと無関係な古代中国の禅譲の故事など不要ですし、むしろ禅譲などする気もない近畿天皇家にとって無用の故事です。
 しかし、「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)という新たな仮説に照らして考えると、「揖譲の君」は「九州王朝系近江朝」の天皇位を天智に禅譲した九州王朝の天子のことであり、その「九州王朝系近江朝」を武力討伐した天武は「干戈の主」に対応しています。そしてその子孫である大和朝廷の天皇は「厥の後昆・鼎祚」というにぴったりです。
 この元明の「譲位の詔」ではこうした歴史認識が示された後に、元正への譲位が宣言されます。そして、元正天皇の時代(720年)に編纂された『日本書紀』には、天智に禅譲した九州王朝の天子はもとより、九州王朝の存在そのものが隠されていますし、天智が定めた「不改常典」さえも登場しません。すなわち、自らの権威の淵源を天孫降臨以来の神々と初代神武天皇とすることにより、文武天皇や元明天皇の「即位の宣命」とは似て非なる大義名分を造作し、それを国内に流布するという政略を大和朝廷は採用しました。その結果、『日本書紀』の一元的歴史観は千三百年にわたりわが国の基本歴史認識となりました。しかし、九州王朝の存在や王朝交替を認めないその基本認識(一元史観)では、禅譲による近江朝の樹立と天皇即位の根拠になった「不改常典」について正しく理解することが困難なため、諸説入り乱れるという古代史学界の今日の状況を生み出すこととなったようです。(おわり)


第2228話 2020/09/08

文武天皇「即位の宣命」の考察(10)

 元明天皇の「即位の宣命」にあるように、近畿天皇家の天皇即位の根拠や王朝交替の正統性が、天智天皇が定めた「不改常典」法にあるとすれば、そのことと深く関わる論文二編があります。
 一つは古田先生の著書『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとされています。これは古田史学の中でも〝孤立〟した説で、古田学派内でもほとんど注目されてこなかった論文です。言わば古田説(九州王朝説)の中に居場所がない〝奇説〟でした。
 もう一つの論文は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「『近江朝年号』の実在について」(『古田史学会報』133号、2016年4月)です。これは、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫王」を皇后に迎えたというものです。すなわち、「九州王朝系近江朝」という概念を提起されたのです(注①)。
 この正木さんの「九州王朝系近江朝」説により、古田先生の671年(天智十年)に近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったという〝奇説〟が、従来の九州王朝説の中で、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という結節点と臨界点としての位置づけが可能となり、九州王朝末期における新たな歴史像の提起が可能となったように思われます。ただし、671年の「王朝統合」は天武と大友皇子との「壬申の大乱」により水泡に帰します。近世史でいえば、幕末の「公武合体」が失敗したようにです。しかし、このとき天智により定められた「不改常典」法が701年の王朝交替とその後の天皇即位の正統性の根拠とされました。その痕跡が本シリーズで紹介してきたように、文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」に遺されたのです(注②)。(つづく)

(注)
①次の関連論文がある。
 正木 裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』明石書店、2017年)に収録。
 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 正木新説の展開と考察」(『古田史学会報』134号、2016年6月)。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集。明石書店、2017年)に転載。
②王朝交替期における大和朝廷による九州王朝の権威の継承や、それを現す「倭根子天皇」という表記について、次の拙稿で論じているので、参照されたい。
 古賀達也「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」(『古田史学会報』157号、2020年4月)


第2227話 2020/09/06

文武天皇「即位の宣命」の考察(9)

 息子でもある文武天皇の後を継いで即位した元明天皇の「即位の宣命」には、皇位継承の背景や理由、そして権威の正統性や淵源についてとても興味深い内容が記されています。それは次の二つの部分です。

(A)「藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)、丁酉(持統十一年〔697年〕)八月に、此の食国(をすくに)天下の業(わざ)を、日並所知(ひなみしの)皇太子(草壁皇子)の嫡子、今御宇しつる天皇(文武天皇)に授づけ賜ひて、並び坐(いま)して此の天下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき。」

(B)「是は関(かけま)くも威(かしこ)き近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)の、天地と共に長く月日と共に遠く不改常典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事」

 (A)では、文武天皇が藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)の譲位によって天皇位に就いた事実を述べ、(B)は、この即位が近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)が立てた「不改常典」法に基づいていると説明したものです。すなわち、持統・文武と続いた皇位を元明が受け継ぐにあたり、その前提となる権威や正統性の根拠が、天智天皇による「不改常典」法であると主張しているわけです。
 ちなみに、「不改常典」という言葉はこの元明天皇の「即位の宣命」が初見で、『続日本紀』の他の宣命中にも散見されるのですが、この「不改常典」が何であるのかについて研究や論争が学界で続いてきましたが、未だ統一した見解や通説はありません。
 文武天皇の「即位の宣命」では、持統天皇がキーパーソンとして権威の淵源である「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまで」の正統性を引き継いでおり、それを文武に禅譲したという筋書きになっていました。当時(697年)は王朝交替(701年)の直前とはいえ九州王朝の時代ですから、この宣命による説明では、聞いていた諸豪族は「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまで」の九州王朝の歴代の天子(天皇)のことと受け取らざるを得ません。なぜなら、『古事記』『日本書紀』成立以前の宣命ですし、しかもこのとき九州王朝の天子(薩野馬か)は健在ですから、これでは王朝交替の正統性の説明にはなっていません。
 しかし、701年(大宝元年)に近畿天皇家は王朝交替に成功していますから、何らかの説得力のある説明や背景があったはずです。そして、その背景が「不改常典」法であったことが元明天皇の「即位の宣命」で明らかになったのです。すなわち、新天皇や新王朝の権威の淵源や正統性は、初代の神武でもなく、「壬申の乱」勝者の天武でもなく、天智が定めた「不改常典」法であると宣言し、その内容を全国の諸豪族や官僚たちは知っており、それに基づく皇位継承と王朝交替を承認したということになるのです。それでは「不改常典」法の内容とは何だったのでしょうか。(つづく)


第2224話 2020/09/04

文武天皇「即位の宣命」の考察(8)

 文武天皇「即位の宣命」には、『続日本紀』に収録された他の天皇の即位の宣命と異なる点があります。その一つは、この宣命が出されたのが即位(文武元年〔697年〕八月一日)の16日後(同、八月十七日)という点です。他のほとんどの天皇は即位したその日に「即位の宣命」を出しています。持統天皇の譲位による即位ですから、それほど長文でもない「即位の宣命」を作成する期間は充分あったはずなのに、このタイムラグは不審です。
 わたしの想像では、それまでの近畿天皇家内部のトップ交代であれば「内部通達」だけでよかったのでしょうが、四年後(701年)の王朝交替を前提としたトップ交替ですから、近畿天皇家以外の諸豪族への説明も必要と判断し、その結果、16日後の宣命になったのではないでしょうか。
 ところが、遅れて出された「即位の宣命」からは、王朝交替の正統性や引き継いだ権威の淵源についての直接的な表現での説明はありません。そこで『続日本紀』中の各天皇の「即位の宣命」を改めて精査したところ、慶雲四年(707年)七月十七日に出された元明天皇の「即位の宣命」にそのことが示されていました。宣命冒頭の当該部分を転載します。(つづく)

【元明天皇「即位の宣命」】
(『続日本紀』巻第四、元明天皇)

 慶雲四年秋七月壬子(十七日)、天皇大極殿に即位す。詔して曰はく、(以下、即位の宣命)

 現神(あきつみかみ)と八洲御宇倭根子天皇が詔旨(おほみこと)らまと勅(の)りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る。

 関(かけま)くも威(かしこ)き藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)、丁酉(持統十一年〔697年〕)八月に、此の食国(をすくに)天下の業(わざ)を、日並所知(ひなみしの)皇太子(草壁皇子)の嫡子、今御宇しつる天皇(文武天皇)に授づけ賜ひて、並び坐(いま)して此の天下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき。是は関くも威き近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)の、天地と共に長く月日と共に遠く不改常典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐(かしこ)み仕(つか)へ奉りつらくと詔(の)りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。(以下、略)


第2223話 2020/09/03

文武天皇「即位の宣命」の考察(7)

 文武天皇「即位の宣命」第二節では次の二つのことを主張しています。一つは、持統天皇(倭根子天皇命)の権威の淵源が、高天原の神話時代に始まる天神(天に坐す神)により任命された「天つ神の御子」であり、「遠天皇祖の御世」から「中今に至るまで」の歴代天皇の後継者であることによるとする次の記事です。

 「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命」

 そして二つ目が、その持統天皇(倭根子天皇命)から禅譲を受けたことを文武天皇即位の根拠とする次の記事です。

 「現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(をすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔(の)りたまふ天皇が大命を、諸聞(きこ)し食(め)さへと詔る。」

 いずれもキーパーソンは持統天皇であることが重要です。この持統天皇の権威の淵源が、高天原から天神の御子へと続いた歴代天皇の後継にあるとの主張を、現代のわたしたちは『古事記』『日本書紀』に記された天孫降臨以降の近畿天皇家の系譜と後継のことと考えてしまいます。しかし、文武天皇「即位の宣命」が出されたのは『古事記』『日本書紀』成立以前であり、末期とは言え九州王朝の時代ですから、720年に編纂される『日本書紀』の歴史観など国内の諸豪族にとって恐らく知るよしもありません。ですから、「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまで」の「天皇」と宣命で述べられたとき、それは九州王朝の歴代「天皇」のことと理解されてしまうのではないでしょうか。少なくとも、歴代九州王朝の天子(「天皇」)のことが脳裏をよぎったであろうことをわたしは疑えません。
 従って、この宣命の内容では、九州王朝とその史書に書かれていたであろう「系譜と歴史」のことを知っている同時代の人々に対しては説得力を欠くように思われます。そして、持統天皇の権威の淵源に説得力がなければ、その持統天皇の禅譲による文武の天皇即位も説得力を持つことはできません。しかし、この宣命の四年後(701年)に九州王朝から大和朝廷への王朝交替が大きな抵抗もなく行われています。そうであれば、持統や文武はどのような根拠や説明によって諸豪族を説得したのでしょうか。(つづく)


第2222話 2020/09/02

文武天皇「即位の宣命」の考察(6)

 文武天皇「即位の宣命」は四つの記事から構成されており、第一節は当宣命の「前文」ともいうべき次の記事です。

 「現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命らまと詔(の)りたまふ大命を、集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等、天下の公民、諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)さへと詔(の)る。」

 この「前文」の後に第二節が続きます。

 「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(をすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞し食さへと詔る。」

 この第二節は当宣命の最も重要な部分で、天皇の権威の歴史的淵源、即位の根拠と正統性について述べたものです。701年の王朝交替の直前(697年)に即位した文武にとって、王朝交替と即位の正統性こそ、国内の諸豪族へ説明しなければならない最重要事項だったはずです。このように、九州王朝説に立って文武天皇「即位の宣命」を精査するとき、通説とは異なる歴史風景が見えてきます。(つづく)


第2220話 2020/09/01

文武天皇「即位の宣命」の考察(5)

 「天皇」と「朝庭」以外にも、文武天皇「即位の宣命」中には興味深い言葉が使用されています。例えば次の記事に見える「国法」もその一つです。

 「是を以ちて、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国々の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。」

 「法」という言葉は『続日本紀』の他の宣命中にも見え、律令や仏法などの意味で使用されています。文武天皇「即位の宣命」の場合はその文脈から、朝廷(朝庭)の中央官僚(百官人)や諸国の国宰が遵守すべき「食国を治め」る「法」のことと理解せざるを得ません。しかしながら、このとき『大宝律令』はまだできていませんから、この「国法」を近畿天皇家の律令と見なすことはできません。一元史観の通説では、「近江令」や「浄御原令」とすることが可能ですが、九州王朝説の立場からは、文武天皇が「即位の宣命」で九州王朝律令を「国法」として、中央官僚や諸国の国宰に〝過ち犯す事なく務めよ〟と命じたとするのも不自然に思われます。それではこの「国法」とは何を指しているのでしょうか。わたしの見るところ、一つだけ「国法」に値するものがあります。それは『日本書紀』孝徳紀大化二年(646年)正月条の「改新之詔」です。
 九州王朝研究によれば、『日本書紀』大化二年(646年)の改新詔には九州年号の大化二年(696年)から五〇年遡らせて転用されたものがあると考えられています(注①)。そうであれば、九州年号の大化二年の翌年(697年)に文武天皇「即位の宣命」が発せられたこととなり、そこで述べられた「国法」とは、その前年(696年、持統十年)に出された九州年号「大化二年の改新詔」とすることができるのです。
 『日本書紀』大化二年条には詔がいくつか記されていますが、同年正月に発せられた「改新之詔」には、四条からなる行政指針(政治改革の大綱)が含まれており、近畿天皇家が王朝交替後の新国家体制を目指した、「国法」と呼ぶにふさわしい内容となっています。その概要は次の通りです。

〔第一条〕私地・私民の廃止。
〔第二条〕地方制度・軍事制度・駅制の制定。
〔第三条〕戸籍・計帳と班田法、租税の制定。
〔第四条〕調・官馬・兵器・仕丁・采女の制定。

 この第二条には「郡(大郡・中郡・小郡)」の制定記事が含まれており、これこそが九州年号「大化二年」(696年)の「廃評建郡」の詔勅であるとする説をわたしは発表したことがあります(注②)。
 以上の様に、文武天皇「即位の宣命」中に見える「国法」は、『日本書紀』大化二年正月条に五〇年遡らせて転用された、九州王朝から大和朝廷への王朝交替を準備した「改新之詔」ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」一九六話(2007/11/16)〝「大化改新詔」五〇年移動の理由〟
 正木 裕「『藤原宮』と大化改新についてⅠ 移された藤原宮記事」『古田史学会報』87号(2008年8月)
 正木 裕「『藤原宮』と大化改新についてⅢ なぜ『大化』は五〇年ずらされたのか」『古田史学会報』89号(2008年12月)
 正木 裕「九州王朝から近畿天皇家へ 『公地公民』と『昔在の天皇』」『古田史学会報』99号(2010年8月)
②古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号(2008年12月)
 古賀達也「洛中洛外日記」一八九話(2008/09/14)〝「大化二年」改新詔の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」一九二話(2008/10/11)〝評から郡への移行〟


第2219話 2020/08/31

文武天皇「即位の宣命」の考察(4)

 文武天皇「即位の宣命」中の「天皇」号と共に注目されるのが「朝庭」という名称です。次のように使用されています。

 「是を以ちて、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国国の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。」

 「朝庭」とは中央官僚が執務する「朝堂」の中央にある「庭」に由来する政治用語で、王権のことを意味する「朝廷」「王朝」などの語源です。ですから、文武は「朝庭」に君臨する「天皇」として、中央官僚(百官)に対して天皇への忠誠を呼びかけ、政務に当たることを「即位の宣命」で命じているのです。そして文武元年(697年)ですから、宣命を発した宮殿は藤原宮であり、その日本列島内最大規模の朝堂は文字通り「朝庭」と称するにふさわしい舞台です。ここでも宣命中の「朝庭」という政治用語と藤原宮という考古学的出土遺構とが対応しているのです。
 他方、大阪府南河内郡太子町出土「釆女氏榮域碑」(注①)碑文には、「己丑年」(689年、持統三年)の時点で「飛鳥浄原大朝庭」とあり、近畿天皇家側の采女氏が飛鳥浄原を「大朝庭」と認識していたことがわかります。近畿天皇家の藤原宮遷都は持統八年(694年)ですから、「釆女氏榮域碑」造立時(689年、持統三年)には藤原宮は未完成です。なお、飛鳥浄御原宮は大宰府政庁(Ⅱ期)よりも大規模です(注②)。(つづく)

(注)
①「釆女氏榮域碑」拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
 己丑年(六八九)十二月二十五日。

②遺構の面積は次の通り。
 藤原宮(大垣内)  面積 約84万m2(東西927m×南北906.8m)
 飛鳥浄御原(内郭) 面積 約 3万m2(東西158m-152m×南北197m)
 同(エビノコ郭)  面積 約 0.5万m2(東西92m-94m×南北55.2m)
 大宰府政庁Ⅱ期  面積 約 2.6万m2(東西119.2m×南北215.2m)


第2218話 2020/08/30

文武天皇「即位の宣命」の考察(3)

 文武天皇「即位の宣命」の中には、多元史観・九州王朝説の視点から注目すべき用語が用いられています。中でも九州王朝の末期に、文武が「天皇」号を称していることは、晩年の古田新説、すなわち近畿天皇家の「天皇」号使用は王朝交替した大宝元年(701年)からとする理解を否定します。

《文武天皇「即位の宣命」中の「天皇」》
①現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命
②高天原に事始めて、遠天皇祖の御世
③天皇が御子のあれ坐(ま)さむ
④現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命
⑤神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命
⑥天皇が朝庭
⑦詔りたまふ天皇が大命

 このように「天皇」号が七カ所に使用されており、その内の④「倭根子天皇命」は前代の持統のことであり、このとき近畿天皇家では文武も持統も「天皇」を称していることがわかります。また、冒頭には「集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等」とあり、天皇の子供たちは「皇子」と呼ばれていたこともうかがえます。
 この宣命中の「天皇」「皇子等」の記述と対応する様に、飛鳥池遺跡から「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」木簡が出土しており、その出土層位からこれらは七世紀後半の天武期の木簡とされています。従って、当宣命と出土木簡が対応しており、文武天皇「即位の宣命」の同時代性(697年の詔)を疑うことは困難です。(つづく)


第2217話 2020/08/29

文武天皇「即位の宣命」の考察(2)

 文武天皇「即位の宣命」が掲載されている『続日本紀』は基本的には漢文体で書かれていますが、その中の「宣命」と呼ばれる詔勅は万葉仮名を伴う特殊な和文「宣命体」で書かれています。『続日本紀』にはこの宣命が62詔あり(数え方による異説あり)、その最初が今回のテーマとした文武天皇「即位の宣命」です。
 この文武天皇「即位の宣命」は、次の二つの特徴を有しています。

①王朝交替前の文武元年(697年)という「九州王朝(倭国)の時代」に出されている。古田説では、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替は701年(大宝元年)とされる。
②『続日本紀』全四十巻の成立は延暦十六年(797年)だが、当「宣命」記事は文武元年(697年)に出された同時代史料と見られる。

 この二つの特徴により、「九州王朝(倭国)の時代」に近畿天皇家の文武らがどのような認識に基づき、どのような主張をしていたのかということを当宣命から知ることができます。この点、『古事記』や『日本書紀』のように、王朝交替後に編纂され、編纂当時の自らの大義名分により古い昔(九州王朝時代)のことを真偽取り混ぜて造作されたという史料性格とは異なります。もちろん、『続日本紀』編纂時に当「宣命」にも編集の手が加わっているという可能性を完全には否定できませんから、文献史学の常道として、史料批判や関連他分野との整合性のチェックは大切です。(つづく)