前方後円墳一覧

第1000話 2015/07/17

九州王朝説から見た鍍金鏡

 台風11号の接近で開催が危ぶまれていた京都祇園祭の山鉾巡行は決行されることになったようです。本当かどうかはわかりませんが、山鉾巡行は「小雨は決行。大雨なら強行」という方針らしく、今回は台風ですので、どうなるのか興味津々でした。なお、わたしは仕事で大阪出張のため、いずれにしても見ることはできません。

 おかげさまで「洛中洛外日記」も今回で1000話となりました。早いもので開始して10年が経ってしまいました。少しずつでも成長できていれば良いのですが、近年、視力や記憶力が低下しているようで、昔に書いた論文の内容や存在そのものを忘れていることも少なくありません。そんなとき、「古田史学の会」のホームページで検索して思い出せますので、ありがたいことです。
 最近、気になってしかたがないテーマとして、古墳出土の鍍金鏡があります。国内出土鍍金鏡は数枚ほどと言われており、とても珍しく貴重な遺物です。有名なものでは、福岡県糸島市一貴山銚子塚古墳(4世紀)出土の鍍金方画規矩四神鏡と熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳(6〜7世紀)出土の鍍金獣帯鏡があります。この他にも岐阜県揖斐郡大野町城塚古墳出土の鍍金獣帯鏡が知られています(五島美術館所蔵)。
 これら鍍金鏡はいずれも中国製とされているようですが、一貴山銚子塚古墳は年代も比較的古く、糸島地方最大の前方後円墳ですから、九州王朝内でも高位の人物の墓であり、鍍金鏡は有数の宝物の一つと言えそうです。この鏡が国産なのか中国製なのか、鍍金も中国で行われたのか国内で行われたのかというテーマがあります。
 以前、古田先生は卑弥呼がもらった「黄金八両」がこの鏡の鍍金に用いられたのではないかと指摘されましたが、この時代の倭国に鍍金技術(水銀アマルガム法か)が果たしてあったのかという問題もあります。
 才園古墳の鍍金鏡については、その出土地が熊本県南部の「山中」ということも気になります。なぜ肥後国内でもこのような奥地から出土したのかという疑問があるのですが、やはり現地の土地勘がなければ何とも判断できません。中国南部の呉国との関係を指摘する見解もあるようですが、「呉鏡」とすれば九州王朝と「呉」との関係も検討が必要です。
 以上のように鍍金鏡については疑問だらけです。これから勉強したいと思いますが、どなたか詳しい方がおられればご教示いただきたいと願っています。


第928話 2015/04/20

拡大する網野町銚子山古墳

 古田史学の会・会員の森茂夫さん(京丹後市網野町)からお便りが届きました。森さんは当地の日下部氏の末裔で、有名な「浦島太郎」の御子孫でもあり、系図も伝わっています(「洛中洛外日記」27・30話、森茂夫「浦島太郎の二倍年暦」『古田史学会報』53号・2002年12月を御参照下さい)。
 森さんからのお便りによると、当地にある日本海側最大の古墳として有名な銚子山古墳(前方後円墳)の従来の推定規模が誤っており、実際は200mを越す箸墓型古墳であるとのことです。現在の復元推定規模は全長198m、前方部幅80mで佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプとされています。ところが、平成20年に古墳の専門家である奥村清一郎さん(当時、京都府立ふるさとミュージアム丹後の学芸員)が銚子山古墳測量図を精査した結果、全長207m、前方部幅110mの箸墓タイプ、より正確に言うと西殿塚(奈良県天理市)タイプというもので、全長が延び、両翼がせり上がりながらバチ状に開いていく美しい形状であることが判明しました。ちなみに従来説の佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプはどちらかというと手鏡型に近い、前方部の両端があまり開かないタイプとされてきました。
 この精査された古墳測量図は25cm刻みの等高線を持つもので、かなり詳しく古墳の形状がわかります。わたしは古墳については専門外の素人ですが、測量図の後円部から前方部のくびれ部分を注視しますと、古墳の一段目のテラスが前方部へ外側に広がっていることがわかります(インターネットでも見ることができます)。それを延長すると前方部がバチ状に開く箸墓タイプと推定するのが自然です。逆に従来説のように佐紀陵山タイプに復元すると、テラスの幅を急激に狭くしなければならない上、前方部の幅を狭くする分だけ、墳丘の斜面が急勾配となり、後円部と比較して、かなり不自然な形状になります。
 後方部の先の部分が崩落などにより失われていますので、その部分の復元は現存している墳丘や他の同時代の古墳の形状と無理なく整合させる必要があり、この点、奥村さんの新説の方が従来説よりもはるかに有力な見解だと思います。
 この奥村新説は当地の教育委員会でも発表会が持たれ、注目を浴びたようですが、どういうわけかその後今日に至るまで「無視」されているとのこと。森さんは奥村さんを招いて講演会の開催を京丹後市の関係機関に二度にわたり訴えてきたとのことですが、これも実現されていません。ここでも旧説が居座り、新説を学問論争としてさえも受け入れない実体と何らかの裏事情があるのかもしれません。森さんの御奮闘を応援したいと思います。


第885話 2015/02/28

巨大古墳vs神籠石山城・水城

 関西の考古学者と積極的に意見交換を続けられている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)によると、「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者の根本的な理由は、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿にあることから、古墳時代における列島内の中心権力者が畿内にいた証拠であり、弥生時代もそうであったはずということのようです。そのため、巨大前方後円墳の始原を畿内の古墳時代前期の纒向型前方後円墳であるとみなし、その編年を弥生時代(卑弥呼の時代、3世紀前半)に編年操作しようとしていると思われます。
 何度も指摘してきましたが、「邪馬台国」畿内説なるものは、『三国志』倭人伝に記された倭国中心国名を改竄し(邪馬壹国→邪馬台国)、その方角も改竄し(南→東)、その距離(12000余里)も無視し、倭国の文物(鉄・絹・銅鏡)も無視・軽視するなどの研究不正のオンパレードで、およそ学説(学問的仮説)と呼べる代物ではありません。
 普通の人間の理性からすれば、これほど倭人伝の内容と大和盆地の地勢・遺物が異なっていれば、倭人伝の邪馬壹国とは別の王権が畿内や関西にあったと考えるのが学問的論理的とわたしは思うのですが、彼らはそうした思考が「苦手」なようです。その「苦手」な理由については別に考察したいと思います。
 とは言え、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿(大和ではなく河内が中心)にあり、北部九州よりも「優勢」という指摘は古墳時代の考古学事実に基づいており、その点は検討に値する指摘です。古田先生はこの問題についていくつかの反論をされていますが、当時の倭国は朝鮮半島で軍事的衝突を繰り返しており、巨大古墳を作る余裕はなく、逆にあればおかしいとされています。従って、巨大古墳を造った勢力は朝鮮半島で戦っていた倭国の中心勢力ではないとされました。
 巨大古墳を古代における土木事業という視点からすれば、同様に北部九州にある神籠石山城(複数)や水城(複数)の大規模土木事業の存在に注目しなければなりません。たとえば太宰府を防衛している大水城(全長1.2km、高さ13m、基底部幅80m。博多湾側の堀は幅60m)は土量は384000立法メートル、10tonダンプで64000台分に相当するとされています。動員された作業員は延べ110万人は下らないと見られています。この太宰府の北西の大水城の他に小水城や、久留米市には有明海側からの侵入を防ぐために上津荒木(こうだらき)の水城も造られています。
 神籠石山城群も太宰府や筑後「国府」を防衛するように要衝の地に点々と築城されています(雷山・高良山・阿志岐山・杷木・女山・帯隈山・おつぼ山・鹿毛馬・御所ケ谷・唐原など)。直方体の大石を石切場から山頂や中腹に運搬し、山を取り囲むように巡らせ、その列石上には土塁を盛り、前には木柵を設け、列石の内側には倉庫や水源、そして水門まで造営されています。これだけでもいかに巨大な土木事業であるかをご想像いただけると思います。大量の大石を石切場から山頂に運搬するだけでも、専用道路が必要ですから現代でもかなり大変な巨大土木事業といえるでしよう。おそらく水城や神籠石山城の造営は近畿の巨大前方後円墳以上の規模ではなかったでしょうか。
 この他に太宰府の北側には大野城、南側には基肄城が造営されていますから、北部九州には列島内最大規模の古代土木事業の痕跡があるのです。お墓と防衛施設とでは、どちらが「都」に相応しいか言うまでもないでしょう。近畿の巨大古墳群を自説の根拠にしたいのであれば、北部九州の巨大防衛施設にも言及すべきです。両者を比較した上で、列島内の中心権力者の都の所在を学問的論理的に提起すべきです。それが学問というものです。


第818話 2014/11/08

初参加、八王子セミナー(実況同時記録)

 今日は八王子大学セミナーハウスでの「第11回古代史セミナー・古田武彦先生 を囲んで」に初参加しました。久しぶりにお会いする懐かしい方々と旧交を暖めることができました。古田先生のご子息の古田光河さん(ふるたこうが)や主催されている荻上紘一さん(大妻女子大学・学長)ともご挨拶することができました。ちなみに、光河さんは一目見て、先生のご子息とわかりました。参加者も 100名を超え、盛況です。
 古田先生の講演は「日本古代史新考自由自在・その七」と銘打たれ、資料に記された講演テーマは次の通りです。

(一)松本深志講演(十月四日)の展開
  「深志から始まった九州王朝」
(二)日本考古学界の「通説」について
  福永伸哉講演(2014.4.12)
  『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会刊(2005.8.10)(大冊)
(三)トマス・ペインの『コモンセンス』(1776)と“A serious thought ”(1775)辛辣な思想
(四)秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)
(五)宗教と国家の死滅 — 表裏一体の「天国と地獄」「神と悪魔」論
(六)真実と人間の誕生

 講演に先立ち、荻上さんのご挨拶があり、当セミナーが11回を迎えられたことは歴史的なことであり、最近、古田先生の学問が受け入れられつつあり、先生には少しでも長くご研究を続けてほしいと述べられました。司会進行も荻上さんが担当です。
 講演は朝日新聞社OBの茂山さんからのお手紙を古田先生が紹介され、戦後まもなく親鸞研究に入った理由「自分が生きていくうえで、いかに生きるべきか」の説明から始められました。
 次いで、古代史研究(『三国志』倭人伝)に入るきっかけとなった松本清張さんの『陸行水行』や『中央公論』連載の「古代史疑」との出会いを紹介されました。
 次に、大阪大学の福永伸哉さんの「三角縁神獣鏡」魏鏡説(倭国向け特鋳説。だから中国から出土しなくてもよい、とする珍説。これだとA国から出土しなくても何でもA国製とできる「万能の論理」。もちろん学問の「禁じ手」です。古田学派の皆さんは真似しないようにしてください。:古賀注)を紹介され、学問として成り立たないことを批判されました。三角縁神獣鏡は日本製であり、3世紀の日本列島を知る上で貴重な鏡てあるとされました。
 次に、『コモンセンス』の「厳粛な思い」に記された英国による残虐な植民地支配(東インド)を批判した部分を示され、トマス・ペインの思想性を評価されました。更に勝者(連合軍)が敗者(日本)を有罪にした「東京裁判」や靖国神社問題にも触れられました。あわせて、秋田孝季の素晴らしい思想性を評価さ れ、和田家文書が真作であることを強調されました。また、和田家文書の秋田孝季による天地創造についての文とその思想について紹介されました。
 最後に、京都府向日市寺戸の五塚原古墳(全長約90m、前方後円墳)の第5次発掘調査現地説明会資料を示し、古墳の下に弥生時代の何かがあり、それを壊してこの古墳が造られているとのことでした。おそらく、弥生時代の銅鐸による祭祀跡があったのではないかとされました。

 ここで先生がお疲れとのことで、一旦、休憩となりましたので、その間に懐かしい方々にご挨拶まわりしました(まるで古田学派の同窓会のようでした)。

 再開後、最初のテーマは考古学的事実(ピラミッド建設・壊された銅鐸など)の「解釈」(学問の方法)についてでした。天皇陵古墳などの下に何があったか。そこには銅鐸文化の祭祀跡・遺跡があるのではないかと、天皇陵古墳をその下まで発掘する必要性をうったえられました。そ の際、周濠の水も入れ替えて魚が住めるようにきれいにすべきとも述べられました。
 次いで、テーマは神籠石山城へと移り、神籠石山城に囲まれた地こそ、都にふさわしい場所であり、この神籠石山城の分布は九州王朝説でなければ説明できないと指摘されました。
 更にテーマはギリシア神話に及び、太陽神アポロはアテネから北西のオリンポス山に行ったのではなく、オリンポス山の真東に位置するトロイから出発したのではないかとされ、その「トロイ神話」をアテネが取り込み、ギリシア神話として書き換えたのではないかとする仮説を発表されました。これは九州王朝神話を 『日本書紀』が盗用したことと同じ現象です。なお、来年4月にはギリシア旅行が企画されており、古田先生も参加されます(別途紹介予定。平成27年4月1 日~8日、旅行費用約33万円)。
 博多と信州の地を結んでいる歌として、『古今和歌集』巻十七の次の歌を紹介されました。

 「をそくいづる 月にもある哉 あしひきの山のあなたも 惜しむべら也」(877)筑紫太宰府の歌
 「わが心なぐさめかねつ さらしなや をばすて山に てる月を見て」(878)信州の歌

 『隋書』「イ妥国伝」の「有阿蘇山其石無故火起接天」の「火」は阿蘇山による自然の火ではなく(天然の火は「災」と表記 される)、人間が起こす「火」であり、神籠石での祭祀の場の火ではないかとされました。従って、「日出ずる処の天子」とは阿蘇山下の天子、九州王朝の天子 であると主張されました。
 「宗教と国家の死滅」のテーマでは、「天国と地獄」「神と悪魔」は相対概念であるとされ、宗教と国家には誕生と終わりがあるとする秋田孝季の思想を紹介されました。

 ここで質疑応答となり、先の『隋書』の文の後段に、その火を「俗以為異」(俗、もって異となす)と表現されているので、 人間による火ではなく、噴火の火ではないかとする質問が出されました。古田先生は噴火の火ではないと返答されました。この時点で、かなりお疲れのご様子で、心配です。
 邪馬壹国の邪馬はいわゆる「山」のことではなく、「国名」ではないかとの質問に対して、博多湾から筑後にいたる領域名と返答されました(このことは『「邪馬台国」はなかった』で、卑弥呼の居た中心領域の国名は「邪馬」国と既に説明されています:古賀注)

 ここで再度休憩となり、参加者が宿泊施設に入りました。わたしは荷物も少ないので、そのまま会場に残り、この執筆中の「洛中洛外日記」のチェック・校正を行いました。

 質疑応答が再開され、信州の八面大王の安曇野の住みかの名称が「神籠石の岩屋」とされていますが、九州と関係するのかという質問が出されました。古田先生は、九州と長野県に関連する名称と思われると返答。
 この後、以前に出されていた質問(複数)に対して回答されましたが、その中で『隋書』「イ妥国伝」に見える「秦王国」について、信濃のことではないかとする新たなアイデアを紹介されました。『日本書紀』天武紀にある「信濃遷都計画」記事について、九州王朝によるものではないかとされ、「秦王」も「シナノ」の音に近いことなどから、「秦王国」を信濃とする視点を得られたとのことでした。
 前期難波宮九州王朝副都説の是非についての質問に対し、今後検討しなければならない問題と回答されていたのが印象的でした。
 神籠石山城がいつ頃から建設が始まったのかという質問には、倭の五王の時代や多利思北孤の時代には有明海側からの防衛も必要になったと説明されました。
 平将門が神のお告げにより「新王」と称したとされていますが、これも九州王朝に淵源・関係するのではないかという質問に対し、面白いご意見なので深めてほしいと返答されました。
 その後は質問よりも「決意表明」や「意見発表」が続き、いろいろと考えさせられました。というところで、夕食の時間になりました。
 食後に古田先生の控え室にうかがい、『古代に真実を求めて』18集掲載用の古田先生へのインタビュー(古田・家永論争の思い出)の打ち合わせを行いました。光河さんや『古代に真実を求めて』編集責任者の服部静尚さんも同席されました。

 午後7時からは「夜の部」の始まりです。入り口で缶酎ハイが参加者に配られ、いよいよセミナーも佳境に入るのかと思い、 気を引き締めました。各人のデスクの上にはお菓子も用意されており、初参加のわたしには驚くことばかりです。さすがに先生のお話をお酒を飲みながら聞くのは、わたしにはできませんでしたので、缶酎ハイはそのまま持ち帰ることにしました。

 「夜の部」では、倭人伝や親鸞研究についての最新情報の紹介から始められました。そして、秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)をテーマに講演され、和田家文書の寛政原本の調査発見について、現在は絶好のチャンスであると話されました。和田喜八郎さんの祖 父・長作さんが隠した寛政原本がどこかにあるはずで、それら寛政原本の本来の持ち主は総理大臣の安倍さんであると言えないこともないと指摘されました。和田家文書は秋田孝季が書いた「安倍文書」というべきものというのが、その理由です。つまり、三春藩の秋田家(安倍・安藤一族の子孫)が孝季に命じて安倍・ 安藤の歴史を綴らせた文書が「和田家文書」として現在まで伝わっているわけです。
 次のテーマは「紫宸殿」地名。「紫宸殿」「大極殿」などという地名は誰かが勝手につけられるものではないとされ、太宰府や愛媛県にある「紫宸殿」地名も歴史事実(九州王朝の実在)の痕跡とされました。
 「宗教と国家の死滅」をテーマとして、宗教にも国家にも始まりがあり、終わりがあるというのが秋田孝季の思想であり、これは正しいと思うと述べられまし た。そして、原水爆は人間が作ったものであり、国家がこれを使用できると考えられているが、これは間違っていると指摘されました。人間が作った宗教や国家に、原水爆や原発で人間を殺す権限が与えられているとは思えないとされました。もはや人類は戦争をできる時代ではないと主張され、宗教や国家が原水爆や原 発を自由に作ってもよいという思想はもはや時代遅れと述べられました。
 更に先生の思考は深く深く進まれ、地獄に落ちる方法を考えているうちに、天国と地獄、神と悪魔とかの概念は本来同じもの、表裏一体ではないかと考えるようになったとのこと。

 以上で先生の講義は終わり、質疑応答が再開されました。安藤昌益と和田家文書の思想は共通しているように思うが関係はないのかという質問が出され、両者が知り合いであったという直接的な証拠は見ていないが、関係はあると考えられると返答されました。
 炭素同位体年代測定に関する新知見はないかという質問には、稲作の年代測定で博多湾岸や松浦半島が古く、次いで高知県足摺近辺が古く、その後に大和が古いとなっていることが紹介されました。なぜ足摺近辺が古いのか不明とされているが、古田説では足摺が倭人伝に見える侏儒国とされ、このことと無関係ではないと説明されました。

 午後8時30分になり、ようやくセミナーは終了となりました。古田先生がお疲れになられたのではと心配しましたが、無事お開きです。連日の出張で、わたしも疲れましたが、ご高齢の古田先生のお姿には改めて深く感銘しました。
 その後、門限の10時までラウンジで多元的古代研究会の皆さん、古田史学の会・四国や関西の皆さんと古代史論議を続け、とても楽しく貴重な時間を過ごすことができました。文字通り「古代史自由自在」の一日でした。これから、お風呂に入り就寝します。


第765話 2014/08/14

都塚古墳と蘇我氏

 新聞やテレビニュースで、明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であったことが最近の発掘調査で明らかになったことが報道されています。近くにある石舞台古墳が蘇我馬子の墓とされていることから、都塚古墳は馬子の父の蘇我稻目の墓ではないかとする見解も出されており興味深く感じています。
 都塚古墳の階段状の墳形は国内では珍しく、同様の形状を持つ古墳としては、岡山県真庭市の大谷1号墳(五段の方墳)が知られていましたが、都塚古墳は7~8段あったのではないかと見られているようです。もし、石舞台古墳や都塚古墳が蘇我氏の墓であったとすれば、現在は失われている石舞台古墳の墳形も階段状であったのかもしれません。基底部は吹石の痕跡から方形であったことが判明しています。封土が失われた理由は不明ですが、人為的なものを感じさせます。自然の風雨だけであれほど完全に封土が失われるとは考えにくいからです。
 前方後円墳が主流であった時代、飛鳥の地に異形ともいえる階段式方墳が天皇家をもしのぐような有力者だった蘇我氏の墓とすれば、蘇我氏は近畿天皇家とは 異質の豪族であったと考えられます。古田学派内でも蘇我氏に関して様々な見解・仮説が提起されてきました。たとえば「古田史学の会」草創期の会員(元副代表)であった山崎仁礼男さんはその著書『蘇我王国論』(1997年、三一書房)で、『日本書紀』は「蘇我王国」の歴史が換骨奪胎されたものとする作業仮説を発表されました。あるいは蘇我氏は九州王朝から飛鳥に派遣された近畿天皇家への「お目付役」とするアイデアも古田学派内から出されています。
 蘇我氏と九州王朝との関係から、「古田史学の会」でも様々な調査検討が試みられてきました。たとえば「電話帳」検索で全国の「蘇我」さんの分布を調べて みたところ、全国16件中、4件が大分県でした(西村秀己さんの調査による)。また、今回の都塚古墳の報道を聞いて、わたしは何故「都塚」という名称が付けられたのかも気になっています。古田学派内での多元史観による「蘇我氏」「階段状方墳」の研究が期待されます。


第21話 2005/08/13

鶴見山古墳出土の毛髪付着銅鏡片

 鶴見山古墳からは今回の石人以外にも極めて興味深いものが出土していました。岩戸山歴史資料館(2015.11 八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷(さと)」に移転)のホームページによれば、鶴見山古墳から毛髪が付着した銅鏡片が出土しており、筑紫君一族の唯一の遺髪と紹介されています。毛髪が付着した銅鏡が出土するのも大変珍しいことのように思いますが、鶴見山古墳の場合、筑紫君磐井一族の墳墓である可能性が高いため、その価値ははかり知れません。というのも、毛髪のDNA鑑定によりその御子孫を発見できる可能性があるからです。
 古田学派内では九州王朝の末裔調査をこれまでも進めてきましたが、八女市やその近郊にその御子孫であるI家やM家が現在もおられることを確認しています(系図が存在。古田武彦「高良山の『古系図』」『古田史学会報』35号参照)。プライバシー保護や皇国史観による思想的物理的圧力など、いろいろと困難な問題もありますが、DNA鑑定により筑紫君磐井の御子孫と確認できれば、歴史学的にも素晴らしい成果となるでしょう。岩戸山古墳石室の学術発掘とならんで、是非実現させたいテーマの一つです。
 九州王朝は六世紀中葉の磐井とその子供達の時代から、六世紀末から七世紀初頭にかけての輝ける天子(日出ずる処の天子)多利思北孤(タリシホコ)の時代へと移ります。この時代は本格的に倭国王家が仏教を受容(倭国王の仏教信仰、出家)し始めた時代ですが、これと対応するように、八女丘陵から前方後円墳が姿を消していきます。恐らく、倭国王家で火葬と薄葬が流行したものと推測されます。そうした視点からも、鶴見山古墳が八女丘陵最後期の前方後円墳であり、そこから石人や毛髪が出土したことは興味深いことと言えるでしょう。

関連する報告として古賀氏の

玉垂命と九州王朝の都(古田史学会報二十四号)

高良玉垂命と七支刀(古田史学会報二十五号)

高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝(古田史学会報二十六号)があります。


第19話 2005/08/11

鶴見山古墳出土の石人の証言

 先日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)からお電話があり、八女古墳群の鶴見山古墳からほぼ完全な石人が出土したことを知らせていただきました。さっそくインターネットで各新聞の記事などを見ましたところ、いろいろと面白い問題があることに気づきました。
 それぞれの記事に共通した論調として、鶴見山古墳が磐井の息子の葛子の墓である可能性が高まったこと、「磐井の乱」以後も磐井の後継者の影響力が続いていたこと、などが見受けられました。通説では「磐井の乱」で磐井が滅んだ後は大和朝廷の勢力下に筑紫がおかれたと見られていたのですが、磐井の墓の岩戸山古墳と同様の石人が八女古墳群最後期の前方後円墳である鶴見山古墳からも出土したことにより、こうした考えを見直さざるを得なくなったようです。
 しかし、古田説に立てば事は明快です。磐井は九州王朝の王、すなわち倭王であり、近畿なる継体のほうが倭王磐井に対して起こしたのが「磐井の乱」の真相です。ですから、「継体の反乱」と読んだ方が正確です。しかも、この反乱は磐井当人を倒しはしたものの最後まで勝つ事(筑紫の制圧と実効支配)は出来ずに、事実上の継体側の敗北で終わっています。これらについては、古田武彦著『失われた九州王朝』(朝日文庫、ミネルヴァ書房から復刻の計画があります)をご参照下さい。なお、最新の古田説では「磐井の乱」「継体の反乱」というものは、そもそも無かった、という方向に展開しています。このことについては別の機会に触れたいと思います。
 「継体の反乱」以後も九州王朝は健在(たとえば、その後も九州年号は連綿と続いている)ですから、磐井の後継者の墳墓に石人が存在していても、何ら不思議とするところではなく、むしろ当然といった感じです。こうした点からも、今回の石人発見は古田説に有利な考古学的事実と言えるでしょう。