第1840話 2019/02/18

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(4)

『大宰府の研究』には、木村龍生さんの「鞠智城の築城とその背景」の他にも注目すべき鞠智城関連の論文があります。亀田修一さん(岡山理科大・教授)の「繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城」です。古代の代表的な山城の考古学的研究の概況を紹介された論文ですが、その中にわたしが以前から注目していた鞠智城の年代別の出土土器量グラフが掲載されていました。
 拙稿「鞠智城と神籠石山城の考察」(『古田武彦は死なず』所収〔『古代に真実を求めて』19集〕2016年、明石書店)でも触れましたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが、鞠智城から出土する土器の年代別出土量は7世紀末から8世紀初頭に最大値を示した後、その後の約半世紀はゼロになるのです。この異常変化の背景や理由を一元史観ではうまく説明できておらず、次のような説明に終わっています。

 「(前略)鞠智城が七世紀後半に築城され、八世紀中葉前後に一時空白、九世紀後半に一時使用されたようではあるが、十世紀にはほとんど使用されなくなった様子を示しているようである。」(292頁)

 この七世紀末頃の鞠智城の最盛期とその直後の八世紀中葉の出土土器ゼロへの激減こそ、701年に起こった九州王朝の滅亡や大和朝廷による筑紫支配や肥後進出の痕跡ではないでしょうか。九州王朝による防衛施設として鞠智城をとらえたとき、その変遷(701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交替)の反映として考古学的出土事実を理路整然と説明できると思われるのです。(つづく)

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