第2382話 2021/02/16

「蝦夷国」を考究する(2)

―『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国―

 古田先生は九州王朝説の提起と共に、近畿の王権(近畿天皇家)と更に東に位置した蝦夷国も日本列島に存在した国家であるとの「日本列島内の多元的国家の共存状況」を論証されました(注①)。そしてその史料根拠として『日本書紀』斉明紀の「蝦夷国」記事をあげられました。関係部分を抜粋します。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
(A)秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
(B)伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」
(C)難波吉士男人書に曰はく、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に触(つ)きて覆(くつがへ)る。副使、親(みずか)ら天子に覲(まみ)えて、蝦夷を示し奉る。是に、蝦夷、白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十を、天子に献る」と。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版414頁)

 これら『日本書紀』斉明紀に記された「蝦夷国」という表記は、「蝦夷」が国家を形成していたことを現しており、中国の天子も「蝦夷国」という東夷の「国」からの朝貢(白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十)と認識していたことを示しています。
 蝦夷国の使者二名を随行させた倭国の使者も、唐の天子の質問「此等の蝦夷国は、何の方に有りや」に対して、「国は東北に有り」と答えており、蝦夷を「国」と認識していたことがわかります。更に、蝦夷国が倭国に「歳毎に、本国の朝に入貢」しているとも述べているのです。この朝貢(外交)記事は、倭国と蝦夷国が国家と国家の関係にあったことを如実に証言しているのではないでしょうか。
 これらの斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版415頁)

 この記事は斉明五年条の記事と対応しており、蝦夷国と倭国(九州王朝)が別々の国として明確に記されています。これらの史料を明示して、古田先生は次のように結論づけられました。

 『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。(中略)
 以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写の対照が鮮やかである。
 (『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版417頁)

 以上のように、古田史学初期三部作の一つ『失われた九州王朝』の時代(1973年)から、『真実の東北王朝』(注②)で多賀城碑を論じられた時代(1991年)まで、古田先生は一貫して多元的古代像の一つとして「蝦夷国」を捉えておられたわけです。その学問的意義を、わたしは今回の多賀城碑研究により、深く認識することができました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。
②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。

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