第2383話 2021/02/17

「蝦夷国」を考究する(3)

―新野直吉さんの蝦夷論―

 この度の「蝦夷国」研究に於いて、従来説についても調査しましたが、古田先生が40年以上も前から指摘されていたように(注①)、従来説は大和朝廷一元史観に基づいていることがわかりました。その具体例を紹介します。
 新野直吉さんは多賀城碑文の「蝦夷國界」について次のような理解を示されています。

 (前略)たしかに八世紀後半(天平宝字六・七六一)の〝多賀城碑〟にはこの蝦夷国を意識したというべき「蝦夷国界」の語がある。(中略)東北の現地自体に「蝦夷国」の認識があったことを示す。
 しかし、この表記を、日本律令制度のもとで「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる。行政組織があったことを意味しないのみならず、仮に「蝦夷」の地域があったとしても、この表記は、東北全部が蝦夷の住む領域があったわけではないことを、現地行政機関も明確に認識していた事実を示している。
 実像はといえば「多賀城から一二〇里ほど北に当たるところに蝦夷の領域との境界がある」ということで、そうなれば、現在の宮城と岩手の県境の辺が境に当たる。(中略)
 とはいっても境界の北に独立国があったということではない。令の条文に「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)などと記入される存在に相当する蝦夷の地方圏であると理解すべきである。そして、「蝦夷」は和銅三年紀に「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦別に在り」とあるごとく、隼人とならぶ位置づけであり、食料獲得手段や言語文化などに差異はあったとしても、法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である。
 (新野直吉「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」注②)

 新野直吉さんは日本古代史や東北地方史の専門家ですから、ここで示された認識は通説と考えてもよいと思われますが、それは典型的な大和朝廷一元史観に貫かれています。たとえば次のような問題点が見て取れます。

(1)多賀城碑の「蝦夷国」表記は、八世紀後半の多賀城現地には〝「蝦夷国」の認識があったことを示す〟としながら、〝しかし、この表記を、日本律令制度のもとで「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる〟と、同時代金石文に示された認識を〝虚像〟と否定する。

(2)その史料根拠として、『養老律令』の条文「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)と『続日本紀』和銅三年条の「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦別に在り」をあげる。

(3)そして結論として、「法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である」とされた。

 以上のように、新野さんの学問の方法は同時代金石文(多賀城碑)よりも、蝦夷を征討した大和朝廷側による史料(『養老律令』と後代史料『続日本紀』)の記事を〝歴史事実〟として優先するというものです。
 現代の古代史学界でも〝後代史料よりも同時代金石文・木簡を優先する〟という認識が一般化しているにもかかわらず、東北古代史学の重鎮に対して失礼ではありますが、新野さんの方法論は理解に苦しむとしか言いようがありません。
 しかし、〝蝦夷国はなかった〟〝日本の中の北方の一部族〟とする新野さんの「蝦夷国」認識が大和朝廷一元史観に基づいているという点においては、〝九州王朝はなかった〟〝大和朝廷支配下の北部九州の一豪族にすぎない〟とする日本古代史学界の歴史認識とまったく同じです。このことを古田先生は次のように喝破されています。

 『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。(中略)以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写の対照が鮮やかである。
 (古田武彦『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版417頁)

 すなわち、日本列島内の多元的国家の共存状況と、「蝦夷」を「北方の一部族」とする『続日本紀』の一元的描写の対照が鮮やかなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。
②新野直吉「古代における『東北』象 ―その虚像と実像―」『日本思想史学』第30号、日本思想史学会編、1998年。

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