第2583話 2021/09/29

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(3)

 「金光上人」史料を開米智鎧氏が紹介

 昭和24年に編纂された『飯詰村史』(注①)にて、和田家史料「役小角」関連遺物(銅銘板、舎利壺等)の調査報告「藩政前史梗概」を発表した開米智鎧氏(注②)は、次に和田家文書中の「金光上人」関連史料の研究を昭和39年(1964)に出版されます。『金光上人』(全288頁。注③)です。同書「序説」には、刊行までの経緯を次のように記されています。

 「野僧昔日芝中在学中、故平沢謙純先生の指示を体し、日夜に係念すること五十年、一も得る所ありませんでしたが昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然曙光を仰ぎ得ました。
 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに到りました。
 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題し、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終わりました。
 (中略)
 特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。
 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合わせた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の儘を掲載しました。要は新資料の提供にあります。
 且つまた、上人の大遠忌を眼前に迎へ、篇者老衰甚しく、余命亦望むべからず。幸にして、資料提供者和田喜八郎氏と、摂取院檀頭の篤信者藤本幸一氏との懇志に依って、茲に出版の栄に浴しました事は、大慶の至りであります。
 起筆以来十五年、粒々辛苦の悲願は、偏に上人高德の、一片をも伝ふるを得ば僥倖之に過ぐるものありません。
 是非は諸彦の高批を仰ぎ、完成は後賢の力を俟つものであります。
     上人七百四十七年の忌辰の日
         於 大泉精舎
               七十七老 忍 阿 謹識」

 ここに記されている昭和24年当時、資料提供者の和田喜八郎氏はまだ22歳の若者です。開米氏が述べるように「其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見」のような難解高度な宗教書を22歳の喜八郎氏に書けるはずがありません。同書に掲載された和田家史料を読めば、そのことは質量共に一目瞭然です。ちなみに、同書巻末に収録されている、金光上人関連の和田家史料一覧には、231編の「金光上人編纂資料」名が列挙されています。その内の数十編はわたしも実見しています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②五所川原市飯詰、大泉寺(浄土真宗)の住職。
③開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

金光上人 開米智鎧編

金光上人 開米智鎧編

金光上人由来一部 開米智鎧編

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