第2484話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟九州説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には、「邪馬台国」研究史における「邪馬台国」〝非〟九州説の発生根拠や論理ついても紹介されています。学問研究においては、自説と異なる意見やその背景となる根拠と論理構造を理解することは大切ですので(注②)、関川さんの著書はとても役立ちます。読者の皆さんにも一読をお奨めします。
 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注③)によれば、江戸時代の松下見林以降の「邪馬台国」畿内説の背景として、〝古代より日本の代表権力者は近畿天皇家だけ〟とする皇国史観にあったことは明らかですが、さすがに現代では、そこまで露骨な理由は通用しませんので、どのような根拠に基づくのかを知りたいと思っていました。関川さんの著書には次のように説明されています。

〝邪馬台国「七万余戸」と弥生遺跡
 邪馬台国の所在地を北部九州の域内とすると、九州説の難点とされる主な理由に、『魏志』に伝える邪馬台国の戸数、「七万余戸」の記述がある。邪馬台国九州説においては、遺跡に対する異論が多い。その大きな理由は、邪馬台国時代の北部九州においては、戸数「二万余戸」の奴国、あるいは伊都国をはるかに越える遺跡は認め難い、ということである。
 それは大正期以来、北部九州の遺跡踏査を重ねた中山平次郎(1871~1956)が、九州説の有力候補地である筑後山門には際だった遺跡がみられないとし、邪馬台国九州説を否定した大きな理由である。
 当時、九州考古学の現状に最も通じた中山が、この踏査の結果を以て邪馬台国山門説を支持するのであれば、考古学上から中山の見解を否定することは、かなり困難な状況であったであろう。
 小林行雄も、「三世紀のことはわからないが、一、二世紀でも、また四、五世紀でも、九州地方に奴国より戸数の多い国がありえたとすることは、考古学的には不可能である。これは邪馬台国九州説にとって、致命的ともいえる難点となろう。」と述べている(小林行雄『女王国の出現』)。(中略)
 邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに越えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟179~181頁

 この説明を読んで、わたしは「なるほど」と思いました。博多湾岸の遺跡を奴国とする以上、それ以上の規模の弥生時代の遺跡などおそらく日本列島にはないと思われます。すなわち、文献史学において、博多湾岸を奴国と比定したことが根本的な誤りであり、その結果、その文献史学の誤った通説に基づいて、考古学者が出土事実を解釈したことが、「邪馬台国」〝非〟九州説の成立根拠と経緯だったわけです。
 古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で述べられたように、『三国志』の時代に「奴」の字が「な」と発音されていた形跡はありません。倭人伝では、「な」の音に「難」「那」の字が当てられており、奴の字音は「ぬ」「の」「ど」が妥当とされました。したがって、後世に博多湾が「那(な)の津」と呼ばれていたことと結びつけて、博多湾岸を奴国に比定したことは、学問的な論証を経ていません。これは明らかに文献史学側の誤りでした。その結果、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を「二万余戸」の奴国としてしまい、「七万余戸」の邪馬壹国に比定できる規模の遺跡が〝所在不明〟になってしまったのでした。
 また考古学側も、国内最大規模の博多湾岸遺跡群を倭人伝中の国に比定するのであれば、最大戸数(七万余戸)の邪馬壹国がもっともふさわしいとする、考古学的出土事実に基づいた判断ができなかったことにも問題があります。
 なぜ、考古学側がこのような判断を現在でも採用しているのかについて、6月19日(土)に奈良新聞本社ビルで開催される関川さんの講演会(注④)の時にお聞きしてみようと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功
②〝学問は批判を歓迎し、相手をリスペクトした真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えています。これは恩師、古田先生から学んだ学問の精神です。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
④「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人

フォローする