第1773話 2018/10/13

土器と瓦による遺構編年の難しさ(9)

 創建時期の判定に使用された創建瓦より古く編年されている瓦が一枚だけ出土するという事例は観世音寺以外にもあります。本連載の最後にその事例を紹介し、そのことが持つ学問的意義と可能性について説明します。
 それは大阪市天王寺区国分町の摂津国分寺跡から出土した軒丸瓦一点です。この瓦は7世紀前半頃と編年されている「素弁蓮華文軒丸瓦」で、他の時代の瓦に混じってその破片が一点だけ出土しているのです。発掘調査報告書によれば当地からは古代瓦などが出土しており、現地地名も天王寺区国分町であることから、ここに聖武天皇による摂津国分寺があったとする説が有力視されています。
 『四天王寺旧境内遺跡発掘調査報告Ⅰ』(1996.3大阪市文化財協会)に記された摂津国分寺跡出土瓦の図表には「素弁蓮華文軒丸瓦」片(SK90-2出土)と共に8世紀のものと見られる「複弁六葉蓮華文軒丸瓦」や「重圏文軒丸瓦」が掲載されています。そしてこの瓦について「ほかに一点だけこれらの瓦より古い瓦が出土しているので、奈良時代にこの地に国分寺が造られる以前にも寺があった可能性も考えなければならない。」(105ページ)とされています。
 『大阪市北部遺跡群発掘調査報告』(2015.3、大阪文化財研究所)においても、この瓦のことを「一方で、SK90-2次調査では7世紀代とみられる素弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、国分寺以前にこの地に寺のあった可能性も指摘されている。」(160ページ)としています。
 このように聖武天皇の命により8世紀中頃以降に創建された国分寺遺構からより古い瓦が出土すると「国分寺が造られる以前にも寺があった」と解釈されるのが通例です。しかし、摂津には大阪市北区にも国分寺が現存しており、この「二つの国分寺」という現象を多元史観・九州王朝説の視点でとらえると、7世紀前半頃の九州王朝による国分寺(国府寺)と聖武天皇による八世紀中頃の国分寺という多元的「国分寺」というテーマが浮かび上がります。
 この「二つの摂津国分寺」とは、ひとつは大阪市北区国分寺にある護国山国分寺で、「長柄の国分寺」とも称されています。もう一つは先に紹介した天王寺区国分町にある国分寺跡です。一元史観による説明では、北区に現存する国分寺は摂津国府が平安時代(延暦24年、805年)に上町台地北側の渡辺に移転したことに伴って「国分寺」を担当したとされているようです(『摂津国分寺跡発掘調査報告』2012.2、大阪文化財研究所)。
 なお、北区にある「真言宗国分寺派 大本山 国分寺(摂津之国 国分寺)」のホームページによれば、その地は「長柄」と呼ばれていたことから「長柄の国分寺」とも称されています。以下、同解説を転載します。

 【転載】
 寺伝によると、大化元年(六四五年)末に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営するも、崩御の後、斉明天皇により飛鳥板蓋宮へ遷都される。その後、入唐大阿闍梨道昭、勅を奉じて先帝の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。そして、仏教に深く帰依した聖武天皇により天平十三年(七四一年)一国一寺の「国分寺建立の詔」を公布されると、既存の「長柄寺」を摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定める。世俗「長柄の国分寺」と称され、今日まで歴代天皇十四帝の勅願道場として由緒ある法灯を伝燈してきた。古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。
 【転載終わり】

 このように一枚の古い瓦と「二つの国分寺」の存在は、寺院遺構の編年という問題を超えて、多元的「国分寺」研究という新たな学問的展開を予想させるのです。

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