第1052話 2015/09/12

考古学と文献史学の「四天王寺」創建年

 「洛中洛外日記」1047話『「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差』において、考古学編年と文献史学との関係性について次のように述べました。

 「考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものか」
 「大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていた」

 優れた考古学編年と多元史観が見事に一致し、歴史の真実に肉薄できた事例として、大阪難波の四天王寺創建年について紹介し、考古学と文献史学の関係性について説明したいと思います。
 四天王寺(大阪市天王寺区)の創建(開始)は『日本書紀』により、推古元年(593)と説明されていますが、他方、大阪歴博の展示説明では620年頃とされています。この『日本書紀』との齟齬について大阪歴博の学芸員の方にたずねたところ、考古学は出土物に基づいて編年するものであり、史料に引きずられてはいけないというご返答でした。まことに考古学者らしい筋の通った見解だと思いました。その根拠は出土した軒丸瓦の編年によられたようで、同笵の瓦が創建法隆寺や前期難波宮整地層からも出土しており、その傷跡の差から四天王寺のものは法隆寺よりも時代が下るとされました。
 ところが九州年号史料として有名な『二中歴』年代歴には「倭京二年(619)」に「難波天王寺」の創建が記されており、大阪歴博の考古学編年と見事に一致しているのです。ちなみに、歴博の学芸員の方はこの『二中歴』の記事をご存じなく、純粋に考古学出土物による編年研究から620年頃とされたのです。わたしは、この考古学的編年と『二中歴』の記録との一致に驚愕したのものです。そして、大阪歴博の7世紀における考古学編年の精度の高さに脱帽しました。
 このように文献史学における史料事実が考古学出土事実と一致することで、仮説はより真実に近い有力説となります。しかし事態は「天王寺(四天王寺)」の創建年の問題にとどまりません。すなわち、『二中歴』年代歴の「九州年号」やその「細注」記事もまた真実と見なされるという論理的関係性を有するのです。文献史学が考古学などの関連諸学の研究成果との整合性が重視される所以です。
 古田学派研究者においても、この関連諸学との整合性が必要とされるのですが、残念ながらこうした学問的配慮がなされていない論稿も少なくありません。自分自身への戒めも含めて、このことを述べておきたいと思います。

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