第1554話 2017/12/15

飛鳥池の「冨本銭」と難波の「富本銭」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『大津の都と白鳳寺院』(大津市歴史博物館)を読んでいて気づいたのですが、飛鳥宮から出土した無文銀銭について、次のような紹介記事がありました。

 「3の無文銀銭については、飛鳥では飛鳥宮跡出土のこの一点のほか、飛鳥池遺跡、石神遺跡、河原寺跡などからも出土しています。
 『日本書紀』の天武天皇一二年(六八三)四月一五日条に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」(原漢文)という詔があり、ここに記されている使用禁止となった銀銭が無文銀銭であると考えられています。富本銭よりも古い、日本列島最古の金属貨幣といえます。ちなみに、近江は、崇福寺跡から舎利容器とともに出土した一二枚のほか、唐橋遺跡の橋脚遺構からの出土例などがあり、大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所です。」(9頁)

 飛鳥宮跡から出土した無文銀銭の写真とともに、このように紹介されています。崇福寺出土の無文銀銭十二枚は有名ですが、唐橋遺跡の銀銭のことは知りませんでした。この記事では近江が「大和に次いで無文銀銭の出土が多い場所」とされていますが、これは不正確な記事です。わたしの知る限りでは難波の四天王寺近郊から百枚に及ぶ無文銀銭が江戸時代に出土していたことが知られ、その内の一枚が現存しており大阪歴博にはレプリカが展示されています(ほとんどが鋳つぶされたとのこと)。ですから、無文銀銭の最多出土地は大和ではなく摂津難波なのです。この点、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝創建説との関係が注目されます。
 こうした記事に触発されて、以前から気になっていた大阪市細工谷遺跡から出土した冨本銭について、大阪歴博で関連の発掘調査報告書を閲覧しました。それらによると、細工谷出土の冨本銭の文字は「ウカンムリ」の「富」で、飛鳥池出土の冨本銭は「ワカンムリ」の「冨」とのこと。写真でも確認しましたが、細工谷出土のものは「富本銭」で飛鳥池出土は「冨本銭」なのです。また、重量も細工谷出土「富本銭」は飛鳥池のものの半分とのこと。この文字や重量の違いが何を意味するのか検討中です。
 古田先生は冨本銭は九州王朝の貨幣ではなかったかと考えておられましたが、前期難波宮九州王朝副都説や正木裕さんの九州王朝系近江朝説も視野に入れて、無文銀銭や冨本銭の位置づけを再検討しなければならないと考えています。


第1553話 2017/12/13

難波京朱雀大路の新展開

 難波京朱雀大路についてはこれまでも論じてきました。最近では「古賀達也の洛中洛外日記【号外】」2017/10/05「難波京の朱雀大路発見について」で、大阪歴史博物館・杉本厚保典さんの論稿を次の通り紹介しました。

※『大阪の歴史を掘る2015』より転載。
平成26年度 大阪市内の発掘調査
   大阪歴史博物館 杉本厚保典
 (前略)
古代の上町台地
難波宮跡での新発見

 前期難波宮の宮城南門(朱雀門)140m南で行った調査⑦(中央区上町1丁目)では、幅1.5〜2.9m、深さ0.3〜0.7mの南北方向の溝が見つかりました(fig,6〜9)。この溝は前期難波宮中心線から西に16.35mのところで中心線に平行して延びていることから、難波京朱雀大路の西側溝と推定されています。中心線で折り返すと道路幅は32.7mに復元され、奈良盆地の横大路(32〜35m)の規模に相当し、古代の道路の中では最大級です。さらにこの溝の東側には小石が分布していました。難波宮の宮域内では1〜5cmの礫による小石敷が見つかっており、道路面にも小石を敷いていた可能性があります。今回の発見は難波宮のメインストリートを復元するための重要な手がかりです。(後略、転載終わり)

 あれだけ大規模な中国風の宮殿を造営した権力者が、その宮殿南門から南に延びる朱雀大路を造らなかったとする見解には納得できなかったのですが、他方、上町台地にはいくつもの谷筋が入り込んでおり、朱雀大路も大きな谷筋で「寸断」されていたのかもしれないと理解していました。
 ところが、先日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅に見えられて、二人で古代史談義をしていたのですが、正木さんから朱雀大路を通すために谷を埋め立てた整地層が出土していることを教えていただいたのです。それは大阪歴博『大阪の歴史を掘る2017』の村元健一さんの「平成28年度 大阪市内の発掘調査」5頁に報告されていました。同パンフレットはわたしも持っており、読んだはずですが失念していたようです。当該部分を転載します。

【転載】
 難波宮の周囲に広がる難波京でも大きな成果がありました。難波京では平成26年度の調査で朱雀大路の西側溝と思われる南北溝が見つかりました。この溝を難波宮の中軸線で折り返すと道路幅は32.7mに復元できます。昨年度の調査でも朱雀大路に関わり大きな成果がありました。調査地は天王寺区石ヶ辻町で、想定朱雀大路の上にあたります。東側の細工谷遺跡では平成18年度の調査で西から東に開く谷(五合谷)が見つかり、この谷が奈良時代でも埋められていないことが明らかになりました。谷の状況から考えて谷は朱雀大路を超えて西までのびており、谷が埋められていなければ、道路の敷設は困難だと考えられます。この調査成果が難波京朱雀大路非存在説の有力な根拠となっていました。今回の調査では想定どおり朱雀大路西側で五合谷の谷頭が確認できたのですが、古代に遡る可能性のある整地層も見つかりました。整地層は7世紀前半の地層を覆っていることから、それ以降のものであることが分かります。残念ながら、整地層そのものの時期を絞りこむことはできませんでしたが、今回の調査により、谷の朱雀大路にかかる部分を限定的に整地していた可能性が出てきました。
【転載終わり】

 以上のように、近年の発掘調査により次々と発見される朱雀大路や条坊の痕跡により、巨大な難波京の姿が明らかになりつつあります。


第1552話 2017/12/12

『古田史学会報』143号のご案内

 『古田史学会報』143号が発行されましたので、ご紹介します。このところ採用稿の掲載待ちが続いていましたので、増頁して遅れを取り戻すことにしました。優れた原稿が多く、中には半年待ちのものもあります。採用稿は必ず掲載しますので、申し訳ありませんがお待ちください。

 今号では阿部さんによる『令集解』の研究が一面を飾りましたが、わたしの記憶によれば、古田学派で『令集解』を研究対象とした論稿は初ではないでしょうか。更なる研究の進展が期待されます。

 合田さんからは前方後円墳から出土の「折り曲げ鉄器」についての紹介と九州王朝説による考察がなされました。考古学分野での多元史観による研究は十分とは言えませんので、こうした研究は貴重です。

 西村さんからは、古田先生が提唱された「中国風一字名称」に対する問題点の指摘がなされました。西村さんが関西例会などで以前から指摘されていた問題であり、わたしも含めて、古田学派の研究者はこの西村論稿を避けては通れないでしょう。

 多摩市の岩本さんは会報初登場です。東京講演会のお手伝いをしていただきました。ありがとうございます。

 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』143号の内容
○「古記」と「番匠」と「難波宮」 札幌市 阿部周一
○『令集解』所引「古記」雑感 京都市 古賀達也
○九州王朝説に朗報! 古期前方後円墳の葬送儀礼「折り曲げ鉄器」は九州北部起源-大和にはない 松山市 合田洋一
○九州王朝(倭国)の四世紀〜六世紀初頭にかけての半島進出 川西市 正木裕
○「中国風一字名称」の再考 高松市 西村秀己
○古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(2の下) 瀬戸市 林伸禧
○講演会報告 深志の三悪筆 -松本市での講演会と懇親会- 古田史学の会・代表 古賀達也
○「壱」から始める古田史学(13)
古田説を踏まえた卑弥呼のエピソードの解釈② 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○受付から見た講演会 多摩市 岩本純一
○硯出土の報告 筑前町で出土していた弥生時代の「硯」 久留米市 犬塚幹夫
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○新春古代史講演会のお知らせ(1月21日、i-siteなんば)
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○岩波『日本書紀』の「覩貨邏国」注釈 事務局長 正木 裕
○2017年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己


第1551話 2017/12/09

古田先生との論争的対話「都城論」(8)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」に次いで、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の論理構造について解説します。
 まず、一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」の論理構造と下記の①〜④までは同じです。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の平城宮や藤原宮という出土例(考古学的事実)がある。
 ②その例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土(考古学的事実)し、「前期難波宮」と命名された。
 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。
 ④「戊申年」(648年)木簡や整地層から7世紀中頃の土器の大量出土(考古学的事実)、水利施設木枠等の年輪年代測定(測定事実)により、孝徳期創建説が通説となった。

 ここまでは考古学的事実に基づいており、一元史観であれ多元史観であれ、考古学的事実を認める限り、それほど大きな意見の差はありません。④の後に一元史観では次のような実証が展開されます。
 「⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える『難波長柄豊碕宮』(史料事実)が前期難波宮であるとした。」
 わたしは古田史学・九州王朝説に立っていますから、『日本書紀』の記述を無批判に採用することはできません。そこで①〜④の考古学的事実に対して、九州王朝説を是とする立場から次のように論理展開しました。

 ⑤7世紀中頃に九州王朝(倭国)が施行した評制により全国統治が可能な宮殿・官衙は国内最大規模の前期難波宮だけであることから、前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ない。その際、九州王朝(倭国)は当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」を採用した。
 ⑥九州王朝はその前期難波宮にて、九州年号「白雉」改元の大規模な儀式を行った。そのことが『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記載(盗用)された。

 以上のようにわたしの副都説は、考古学的事実に基づく実証と、九州王朝説を根拠(前提)とする論証との逢着により成立しています。従って、古田先生による九州王朝実在の論証が成立していなければ、わたしの副都説も成立しないという論理構造を有しています。(つづく)


第1550話 2017/12/08

九州王朝の都鳥

 昨日、東京からの帰りの新幹線グリーン車に備えてある雑誌『ひととき』(2017年12月)を読んでいると、「都鳥」という記事が目に留まりました。片柳草生さんによる文と鈴木一彦さんの写真からなるもので、興味深く拝読しました。
 同記事では隅田川を飛ぶユリカモメの写真などが掲載され、ユリカモメのことを都鳥というと紹介されていました。わたしはいつから都鳥をユリカモメのこととするようになったのだろうと不思議に思い調べてみると、古典(伊勢物語・万葉集)などに見える都鳥はユリカモメとするのが有力説であり、ミヤコドリ科のミヤコドリのこととする説は少数とのこと。そして、なぜ都鳥と呼ばれるようになったのかも不明とされているようなのです。
 今から30年ほど昔のことですが、わたしは「市民の古代研究会・九州」(当時)の灰塚照明さんらから、冬になるとシベリア方面から都鳥(ミヤコドリ科)が博多湾岸に飛来するということを教えていただいたことがあり、博多湾岸に九州王朝の都があったから都鳥と呼ばれるようになったのではないかと考えていました。このミヤコドリ科の都鳥はほとんどが博多湾など北部九州にしか飛来しないことから、九州王朝説に立たなければ都鳥という名称の説明がつきません。ですから、都鳥こそ九州王朝説の傍証ともいえる渡り鳥なのです。
 このようにわたしは理解していましたので、いつのまにかユリカモメが都鳥とされてしまい、おまけに東京都がユリカモメを「東京都の鳥」に指定したとのことで、話がややこしくなったようです。そこで提案ですが、ミヤコドリ科の本物の都鳥を福岡市か太宰府市の「市の鳥」に認定してはどうでしょうか。あるいは福岡県の鳥でもよいと思います。古田史学・九州王朝説を地元に広めるためにも、ユリカモメに負けることなく、「都鳥(ミヤコドリ科)=九州王朝の都の鳥」説を提唱したいと思います。

《追記》念のため調べたところ、福岡県の鳥は鴬。そしてなんと福岡市の鳥(海鳥部門)はゆりかもめとのこと。ゆりかもめ、恐るべし。


第1549話 2017/12/06

渤海国書の「日本」

 今朝は久しぶりの東京出張で、新幹線車中で書いています。天候も良く、冠雪した富士山を見たくて窓側のE席を何とか予約できました。

 「洛中洛外日記」1537話の「百済禰軍墓誌の『日本』再考(1)」でも書いたように、「日本」表記に関する先行研究論文を読んでいます。そして、それらにもよく引用されている、『続日本紀』掲載の渤海国王からの国書に見える「日本」について考察を深めています。この渤海国の国書には以前から興味を持っていたのですが、今回、改めて読んでみると面白いことに気づきました。当該国書の一部を引用します。

 「武藝、啓(もう)す。(中略)伏して惟(おもひ)みれば、大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉(えきよう)光を重ねて、本枝百世なり。(後略)」聖武天皇 神亀五年正月条(728年)

 渤海国王(このときは渤海郡王)の武藝から聖武天皇に出された国書ですが、「啓す」という、共に唐の冊封を受けている対等な国の間で使用される字を用いていることから、渤海国は日本国とは対等であるとの立場に立った国書とされています。

 この国書記事がある神亀五年(728年)は『日本書紀』成立(720年)以後ですが、『日本書紀』に記された「天皇」という称号ではなく、「大王」と表記していることから、この時点では渤海国は『日本書紀』を入手していなかったと思われます。あるいは、唐の天子(高宗)が「天皇」を称していたことがあるため、それと同じ称号使用を避けたのかもしれません。

 国書では、日本国の成立について大王の天朝が命を受けて、日本を開基したとあり、この「天朝」という表記も意味深です。天朝が日本を開基する前は、その天朝の国名は何だったと理解しているのでしょうか。また、誰からの命を受けたというのでしょうか。一つの試案(作業仮説)として、唐の命を受けた天朝が日本を開基したという理解はいかがでしょうか。唐の冊封を受けている国が日本という国を開基したのですから、唐の命以外に誰からの命を受けたとできるのでしょうか。

 次に注目されるのが「奕葉光を重ねて、本枝百世なり」という日本国の歴史に関する表現です。倭国(九州王朝)と戦った高句麗の後継でもある渤海国は、701年に日本国が倭国(九州王朝)に替わって日本列島の代表者になったことを知っていたと思われますから、その天朝が日本を開基してから「百世」を経ていないことも理解しているはずです。そのため「本枝百世」という表現にしたのではないでしょうか。すなわち、倭国(本)と日本国(枝)を併せて「百世」と認識していたのではないでしょうか。

 倭国と日本国の関係を「本枝」という表現に例えたのは、多元史観・九州王朝説からすれば見事な歴史認識表記と思われるのです。そうだとすれば、倭国から日本国への王朝交代は所謂「放伐」てはなく、遠戚関係にあった権力者間による交代と、渤海国は認識していたと言えるようです。

 以上のように、728年に日本国にもたらされた渤海国からの国書は多元史観・九州王朝説に整合すると思われるのです。引き続き、国書文面の精査と、日本を開基した大王とは誰か、その時期はいつかについて研究したいと思います。

 ここまで書いたところで、新横浜駅に着きました。東京まであと少しです。


第1548話 2017/12/03

前期難波宮と近江大津宮の比較

 「古田史学の会」の福岡市や大阪市での講演会の運営にご協力していただいた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、『大津の都と白鳳寺院』という本をお借りして精読しています。同書は大津市歴史博物館で開催された「大津京遷都一三五〇年記念 企画展 大津の都と白鳳寺院」の図録で、久冨さんが同企画展を見学され、購入されたものです。
 同書を繰り返し読んでいますが、わたしが最も知りたかった最新の近江大津宮遺跡の規模についての記述があり、以前から気になっていた前期難波宮との規模の比較を行っています。近江大津宮(錦織遺跡)は周辺の宅地化が進んでおり、発掘調査が不十分です。特に朝堂院に相当する部分は北辺の一部のみが明らかとなっており、全容は不明です。そこで、比較的発掘が進んでいる内裏正殿と同南門の規模を前期難波宮と比較しました。次のようです。

〔内裏正殿(前期難波宮は前殿)の規模〕
前期難波宮 東西37m 南北19m
近江大津宮 東西21m 南北10m

〔内裏南門の規模〕
前期難波宮 東西33m 南北12m
近江大津宮 東西21m 南北 6m

 このように652年に創建された前期難波宮に比べて、『日本書紀』では667年に天智が遷都したとされる近江大津宮は一回り小規模なのです。大規模な前期難波宮があるのに、なぜ近江大津宮に遷都したのかが一元史観でも説明しにくく、白村江戦を控えて、より安全な近江に遷都したとする考えもあります。しかしながら、一元史観では内陸部の飛鳥宮から同じく内陸部の近江大津宮に遷都したことになり、それほど安全性が高くなるとは思われません。
 他方、前期難波宮を九州王朝の副都と考えたとき、海岸部の摂津難波よりは近江大津の方がはるかに安全です。ですから、前期難波宮と近江大津宮が共に九州王朝の宮殿であれば、摂津難波からより安全な近江大津への遷都は穏当なものとなりそうです。その場合、近江大津宮の方が小規模となった理由の説明が必要ですが、十数年で二つの王宮・王都の造営ということになりますから、近江大津宮造営が白村江戦を控えての緊急避難が目的と考えれば、小規模とならざるを得なかったのかもしれません。引き続き、この問題について検討したいと思います。


第1547話 2017/12/02

11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《11月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2017/11/06 九州年号「白鳳」と天朝
2017/11/09 『多元』142号のご紹介
2017/11/16 筑前町で出土していた弥生時代の「硯」
2017/11/19 『古代に真実を求めて』21集の編集会議
2017/11/25 『九州倭国通信』No.188のご紹介


第1546話 2017/12/01

古田先生との論争的対話「都城論」(7)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立の基本的な論理構造が、考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応という、いわば「シュリーマンの法則」に合致した強固なものであることにわたしが気づいたのは約20年ほど前のことでした。以来、九州王朝説に立つわたしはこの問題に悩まされてきました。それは次のような点でした。

 ①前期難波宮の巨大な規模(国内最大)は、7世紀中頃から後半の律令時代にふさわしい全国支配のための王宮と見なさざるを得ない。
 ②7世紀中頃に評制が全国に施行された。その主体は九州王朝(倭国)とするのが古田説だが、その評制支配された側の近畿天皇家の孝徳天皇の宮殿(前期難波宮)の方が、九州王朝の王宮と考えられていた大宰府政庁Ⅱ期宮殿遺構よりも10倍近く巨大というのは、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ③前期難波宮の特徴はその規模だけではなく、当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」である。この最新の様式が九州王朝の中枢領域ではなく、近畿(摂津難波)に最初に取り入れられたことも、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ④「天子」を自称した7世紀初頭の多利思北孤の時代から白村江戦以前の7世紀中頃までは九州王朝(倭国)が最も興隆した時代と思われる(唐と一戦を交えられる国力を有していた)。しかし、その宮殿は配下の近畿天皇家(前期難波宮)の方がはるかに巨大であることは、九州王朝説では合理的な説明ができない。

 こうしたことが九州王朝説にとって深刻な問題であることに気づいたわたしは何年も悩み続けました。
 一元史観との論争(他流試合)を経験された方であれば理解していただけると思いますが、わたしがある著名な理系の研究者に古田説・九州王朝説を説明したところ、邪馬壹国が博多湾岸にあったことには賛意を示してくれたのですが、6〜7世紀時点では大和朝廷が列島の代表者と考える方が考古学的諸事実や『日本書紀』の記事と整合しているとの実証的反論を受け、約2時間論争しましたが、ついにその研究者を説得できませんでした。
 彼は理系の研究者らしく、「あなた(古賀)も理系の人間なら、解釈ではなく、近畿よりも九州に権力中心があったとするエビデンスを示せ」と、わたしに迫ったのです。すなわち、中国史書の倭国伝などを史料根拠としての論理的帰結(論証)による九州王朝説を、彼は「一つの解釈にすぎない」として認めず、具体的なエビデンス(考古学的証拠)に基づく「実証」を求めたのでした。この論法は「戦後実証史学」に見られる古田説・九州王朝説批判の典型的なものでもあります。なお付言しますと、彼は真摯な研究者であり、一元史観にこだわるという頑固な姿勢ではなく、九州王朝説にも深い関心を持たれていました。
 今回の問題についても、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿と理解する限り、それは“7世紀中頃には既に九州王朝はなかった”という新たな一元史観(修正一元史観)を支持するエビデンス(証拠)として「戦後実証史学」にからめ取られてしまうのです。(つづく)


第1545話 2017/11/26

古田先生との論争的対話「都城論」(6)

 わたしの前期難波宮九州王朝副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるのかにありますが、その対極にある一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」がどのような論理構造に基づいて成立しているのかについて解説したいと思います。
 一元史観の都城論において、基本的な論理構造は考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応です。特に8世紀初頭と7世紀後半における律令時代にふさわしい全国支配のための王宮として、平城宮と藤原宮という巨大朝堂院を有する宮殿が出土し、その年代なども『続日本紀』『日本書紀』の記述とほぼ矛盾なく整合しています。
 藤原宮(京)の創建により、701年以降の近畿天皇家は朝堂院と朝庭を有する宮殿において律令による全国統治を行ったことに由来する「大和朝廷」という呼称が妥当な列島の代表王朝となりました。藤原宮に比べて、各地の国府の規模は律令体制下の各国を統治するのに必要な小規模な宮殿(大宰府政庁Ⅱ・Ⅲ期の宮殿もこの規模)で出土しています。各国府遺構と比較してもはるかに巨大な平城宮や藤原宮が全国支配に対応した規模であることは明らかです。
 このような考古学的事実による実証と、『日本書紀』『続日本紀』の史料事実による実証が整合していることが一元史観成立の基本的な根拠の一つになっているのです。この論理構造の延長線上に、前期難波宮の一元史観による理解と位置づけがなされています。
 わかりやすく箇条書きで一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立に至った論理構造を説明します。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の出土遺構として平城宮や藤原宮という先例がある。
 ②その先例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土し、「前期難波宮」と命名された。
 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。
 ④「戊申年」木簡や7世紀中頃の土器などの考古学的出土事実により、孝徳期創建説が通説となった。
 ⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」が前期難波宮であるとした。
 ⑥その結果、『日本書紀』孝徳紀にある「大化改新詔」を実施した宮殿は前期難波宮(難波長柄豊碕宮)とする理解が可能となり、文献史学で論争されていた「大化改新」の是非について、「大化改新」は歴史事実とする説が有力となった。

 以上のように、『日本書紀』孝徳紀の「論じることができないような宮殿」創建記事(白雉三年条)と、法円坂から出土した前期難波宮は、古田先生のいう「シュリーマンの法則」、すなわち伝承(史料)と考古学的出土事実が一致すれば、その伝承は真実である可能性が高いという好例となります。こうした強固な論理構造により、一元史観による通説(前期難波宮=難波長柄豊碕宮)は成立しているのです。考古学事実に基づく実証と『日本書紀』の史料事実に基づく実証の相互補完により成立している「戦後実証史学」は決して侮ることはできません。(つづく)


第1544話 2017/11/25

『苫田郡誌』に見える「高良神社」

 「洛中洛外日記」1542話で紹介した『まいられぇ岡山』(山陽新聞社)に掲載されている高野神社(津山市、安閑天皇2年〔534〕)について調査してみました。
 津山市地方の昭和初期の記録に『苫田郡誌』(苫田郡教育委員会編集、昭和2年発行)があり、国会図書館デジタルライブラリーで同書を流し読みしたところ、高野神社の説明として次のように記されていました。

 「高野神社 所在 二宮村字高野
 彦波限建鵜草葺不合尊を祀り、大己貴命・鏡作尊を相殿となす。社傳によれば安閑天皇二年の鎮座と称せられ、(以下略)」(1004頁)

 社傳に「安閑天皇二年の鎮座」とあるとのことですから、神社には史料が残っていそうです。
 その『苫田郡誌』の神社の項目を読んでいますと、この地方にも「高良神社」「高良神」がありました。

 「田神社 所在 田邑村大字下田邑
 應神天皇・神功皇后を祀り、高良命を相殿となす。(以下略)」(1105頁)
 「高良神社 所在 高野村大字押入
 武内宿禰命を祀る。由緒不明」(1116頁)

 この他に、「高良神社」ではありませんが、欽明期創建と伝える神社が散見され、興味深い地域のように思われました。当地の研究者による多元史観での再検討が期待されます。


第1543話 2017/11/24

四国の高良神社

 今日、出張から戻ると別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)から『古田史学会報』への投稿原稿が届いていました。「四国の高良神社 見えてきた大宝元年の神社再編」という論稿で、四国各県の「高良神社」の一覧が添えられていました。それには四国四県併せて20社以上の高良神社が列記されており、四国にこれほどの高良神社があることに驚きました。
 今までの研究では、本家本元の福岡県以外では長野県に高良神社が濃密分布していることが知られていました。その後、久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)の調査により、淡路島にも複数の高良神社の存在が確認されたのですが、なぜ淡路島に分布するのかがわかりませんでした。今回の別役さんの報告により、四国と淡路島に高良神社の分布が確認されたわけで、福岡県(筑後)から四国を経由して淡路島へと高良信仰が伝わったという可能性が浮上してきました。
 別役さんの論稿は、四国の高良神社研究の初歩的ではありますが先駆をなすものですので、『古田史学会報』への採用を決めました。これからの更なる研究の進展が期待されます。