「原(ばる)」地名
タレントのそのまんま東さんが宮崎県知事に当選されましたが、その報道によりご本名が東国原(ひがしこくばる)という大変珍しい名前であることを知りました。特に「原」を「ばる」や「はる」と読むのは九州の地名などに多く見られますから、由緒の深い苗字と思われます。
ちなみに、福岡県には原田(はるだ)、佐賀県には中原(なかばる)・目達原(めたばる)という地名があります。私の故郷の久留米市にも太郎原と書いてダイロウバルという字地名があります。現地の正確な発音としては「デーロバル」だったような記憶があります。
この「はる」地名ですが、海外にもあります。アフガニスタンのカンダハルやインドのタージマハル(宮殿名)などです。語源的に共通しているのでしょうか。更にはクアラルンプールのプールや、ハンブルグ・ルクセンブルグのブルグも「はる」地名と語源的な関係を推察させますが、いかがでしょうか。
ところで、日本国内で「原」をはる・ばると読む地名の北限はどこでしょうか。どなたか、教えていただけないでしょうか。
第116話 2007/01/24
『古田史学会報』78号のご案内
『古田史学会報』78号の編集が終わり、印刷へまわしました。2月初めには会員の皆さまへお届けできます。今号も秀逸な論稿が多数寄せられました。冨川稿、水野稿、正木稿は特にお奨めです。いずれも、重要な新発見とテーマが含まれているからです。わたしの大長年号に関する論稿もひとまず完了といったところです。お楽しみに。
武烈天皇紀における「倭君」 相模原市 冨川ケイ子
万葉集二十二番歌 奈良市 水野孝夫
カメ犬は噛め犬 小金井市 斎藤里喜代
朝倉史跡研修記 古田史学の会・四国 副会長(今治市) 阿部誠一
朱鳥元年僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題) 川西市 正木 裕
夫婦岩の起源は邪馬台国にあった 北葛飾郡わしみや町 角田彰男
続・最後の九州年号─消された隼人征討記事─ 京都市 古賀達也
九州王朝の「官」制 京都市 古賀達也
年頭のご挨拶 ますますの前進を 古田史学の会 代表 水野孝夫
古田史学の会 関西例会のご案内
史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
事務局便り
第115話 2007/01/14
1月20日(土)、古田武彦講演会を開催済み
昨日、三条河原町のBALビルにある喫茶店で、年始の御挨拶を兼ねて、古田先生と4時間近く対談しました。和田家文書寛政原本や最近の発見などについてお話をうかがうことができました。中でも、親鸞の越後流罪に関する新発見は大変興味深いものでした。
この時うかがった新発見については、古田史学の会主催の新春講演会(1月20日・大阪市)で発表されるとのことでした。多くの皆さんのご参加をお願い申し上げます。
古田先生も今年で81歳になられますが、お元気そうで何よりでした。聞けば、1月7日に吹雪の中、登山されたそうです。また、わたしにも、健康に留意し早く本を出すようにご忠告をいただきました。執筆時間を捻出することが今年の課題になりそうです。
第114話 2007/01/13
古層の「天神」−埴安命−
昨日、初めて仕事で大和高田市へ行きました。駅の近くに「天神社」があり、ちょっと驚きました。というのも、天神社は筑前に濃密に分布する神社で、祭神は多くの場合「埴安命(はにやすのみこと)」で、何故、筑前に多いのか以前から気になっていたからでした。奈良県にもいくつか天神社があるようですが、祭神は埴安命ではないようです。したがって、筑前の天神社とはちょっと経緯や性格が異なるようです。
筑前の天神社は地禄天神(じろくてんじん)という名称や田神社と書く例もあり、元々は田んぼなどの土の神様のようです。埴安命も土の神様です。それが、後に天神社という表記に代わり、菅原道真を祭る天満宮に変化した例もありました(杷木町松末本村の松末天満宮)。
また、石見神楽の「五神」では埴安大王が中央の土の神様として活躍しています。次の
通りです。(http://www.geocities.jp/kagura_photo/kagura-enmoku-photo.htmlによる Yahoo!ジオシティーズは終了しました)
春青大王 木で東方甲乙と七十二日の所領
夏赤大王 火で西方丙丁と七十二日の所領
秋白大王 金で南方庚辛と七十二日の所領
冬黒大王 水で北方壬癸と七十二日の所領
埴安大王 土で中央戌己と七十二日の所領
ここで思い起こされるのが、第57話で紹介した『佐賀の「中央」碑』との関係です。この「中央神」が何者かが判らなかったのですが、石見神楽の伝承からすれば、埴安命のことかもしれません。そうすると、天孫降臨で滅ぼされた側の神様が埴安命ということになり、埴安命を祭神とする「天神社」が筑前に濃密に分布している理由が説明できます。
このテーマ、引き続き検討したいと思います。
第113話 2007/01/06
『なかった 真実の歴史学』第2号発刊
昨年末、古田先生直接編集『なかった 真実の歴史学』第2号がミネルヴァ書房より発行されました(定価2200円+税)。第2号も盛り沢山の内容で読み応えがあります。古田先生による論稿や講演録も下記の9編が掲載されています。
○序言
○三つの学会批判
九州王朝の門柱(太宰府)
九州年号の木簡(芦屋市)
「国引き神話」の新理論(ウラジオストク)
○太田覚眠と「トマスによる福音書」 第1回
○古田による古代通史 第2回
○敵祭−−松本清張さんへの書簡 第2回
○中言
○高校生への回答−−中島原野君へ
○先輩への御回答−−浅野雄二さんへ
○末言
また下記の本会会員の論文なども掲載されています。
○渡嶋と粛慎について−−渡嶋は北海道ではない
合田洋一(本会全国世話人)
○神武が来た道 第1回
伊東義彰(本会会計監査)
○太陽の娘ヒミカ(漫画)
古田武彦監修・深津栄美(会員)作・おおばせつお画
第112話 2007/01/02
2007年の抱負
会員の皆さま、ホームページ読者の皆さま。新年明けましておめでとうございます。
昨年は九州年号実在の直接証拠ともいえる「元壬子年」木簡の発見や、大長年号に関する新説を発表でき、記念すべき一年となりました。関西例会でも、正木 さんの「34年遡り現象」による『日本書紀』の新史料批判、そして冨川さんの武烈紀の「倭君」の発見など、『日本書紀』研究において注目すべき進展を見ま した。水野さんらの淡海の研究も目が離せない状況です。
古田学派として、本格的な論客が輩出でき、2007年も楽しみな一年となりそうです。ただ、個人的には勤務先での人事異動のため、新たな仕事に追われ て、今までのようには研究ができない状況です。この日記もなかなか以前のようには筆が進みません。ご期待していただいている読者の皆さまには、申しわけ有 りませんが、しばらくは研究や執筆速度が落ちます。
わたしも今年で52歳になりますので、健康に留意しながら、仕事と歴史研究を両立できればと願っています。2007年も皆さまのご指導とご協力をお願い申し上げます。
第111話 2006/12/24
最後の九州年号
『古田史学会報』77号で発表した拙論「最後の九州年号」が、少なからぬ反響をよんでいるようです。九州年号の原形を最も保っているとされる『二中歴』に見えない「大長」を、704年から712年まで続いた最後の九州年号であるとする説ですが、もしこの説が正しければ、九州年号の大長は、大和朝廷の年号「慶雲」「和銅」と並行して存在していたこととなり、九州年号と大和朝廷との権力交代についても、そのあり方の再考が必要となります。
ところが、大長が大和朝廷の年号と並行していたという説には先行説がありました。鶴峯戊申の『襲国偽僭考』です。そこには「文武天皇大寶二年。かれが大長五年。」と記されており、私の説とは大長元年の位置が違いますが、大和朝廷の大寶年号と併存していたと鶴峯が認識していたことがうかがえます。なお、鶴峯は大長が何年まで続いていたかは記していません。
従来の九州年号研究では、『襲国偽僭考』の大長は698年から700年までの3年間と認識されていましたが、今回読み直してみて、そうではなかったことが判明しました。九州年号は700年までで、701年からは大和朝廷の大寶に代わると、全ての九州年号研究者が思い込んでいたのではないでしょうか。
最後の九州年号ー「大長」年号の史料批判ー(会報77号) へ
「大長」年号が登場する最後の九州王朝 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析 へ
第110話 2006/12/22
『万葉集巻一』九州王朝作歌説?!
ちょっと遅くなりましたが、16日に行われた関西例会の報告をします。今回も多彩な研究報告がなされましたが、水野代表による『万葉集巻一』九州王朝作歌説はちょっと強引な感じもしましたが、なかなか面白い説だと思いました。何せ、『万葉集』の巻一全部が九州王朝で作られたというものですから、本当だったら面白いけれど、そんな全部の歌を論証可能なのか、というのが率直な感想でした。しかし、このような大胆な説が発表できるのも、例会の良いところではないでしょうか。
新年一月の関西例会は、午後は古田先生の講演会がありますので、午前中だけとなります。会場がいつもと異なりますので、お間違いないように。
〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 8/30古田・安川対談、12/7寛政原本を見る
○研究発表
1).「自悪其名不雅」考、泥憲和氏の「『九章算術』の短里を読んで」(向日市・西村秀己)
2). 倭国律令のこと、平安時代に至っても弾圧されていた肥後国、二人の美濃王(姫路市・泥憲和)
3). 伊勢王・その一 総論(川西市・正木裕)
4). 九州王朝諸系図の検討と分析(奈良市・飯田満麿)
5). 武烈天皇紀における「倭君」・その二(相模原市・冨川ケイ子)
6). 運歩色葉集と九州年号(木津町・竹村順弘)
7). 装飾古墳の文様(生駒市・伊東義彰)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・「寛政原本発見!東日流外三郡誌」・『万葉集巻一』九州王朝作歌説・他(奈良市・水野孝夫)
第109話 2006/12/03
『古田史学会報』77号のご案内
『古田史学会報』77号を、今月中頃までには会員の皆さまにお届けできます。仕事などで会報編集の時間がとれず、遅れてしまいました。また、体調不良が続
いていることもあり、なかなか原稿が書けませんでした。今春に関西例会で発表した九州年号の「大長」についての論稿をなんとか書き上げ、本号に掲載できま
した。短文ですが、九州年号研究に一石を投じることができれば幸いです。
初期の九州年号研究では、「大長」が最後の九州年号とされてきましたが、『二中歴』を重視する研究動向の強まりから、『二中歴』に見えない「大長」についての研究が滞っていたようです。今回は、その「大長」に再注目しました。
この他にも正木さんや泥さんの興味深い論稿が掲載されています。お楽しみに。
『古田史学会報』77号の内容
日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年の遡上り現象」について(川西市・正木裕)
古田・安川対談について『東日流外三郡誌』と「福沢諭吉」(豊中市・大下隆司)
九州古墳文化の展開(抄)(生駒市・伊東義彰)
装飾古墳に描かれた文様(蕨手文について)(生駒市・伊東義彰)
『九章算術』の短里(姫路市・泥憲和)
多紀理毘売と田心姫(前編)(大阪市・西井健一郎)
連載小説「彩神」第十二話・シャクナゲの里(2)(町田市・深津栄美)
書評『遣唐使・井真成の墓誌』藤田友治・編著(奈良市・水野孝夫)
最後の九州年号─「大長」年号の史料批判─(京都市・古賀達也)
(旅行案内)古田武彦と辿る、古代日本人(現・インディオ)の真実に。−11日間の旅−バルディビアと南米を行く
『古代に真実を求めて』特価販売の案内
関西例会のご案内・史跡めぐりハイキング・事務局便り
古田武彦氏新年講演会のご案内
第108話 2006/11/25
武烈紀の百済人
18日の関西例会では、相模原市から参加されている冨川ケイ子さんより意表を突いた仮説が発表されました。武烈紀七年条にある、百済王から派遣された斯我君が女性で、武烈との間に生まれた子供が法師君であるという仮説です。確かにそのように解すると、「遂に子有りて法師君という」という一節が自然に理解できます。しかもこの法師君は「倭君の先(おや)」とあるのも重要な問題へと発展しそうです。今後の発展が楽しみな仮説だと思いませんか。
関西例会は素人や在野の研究者による研究会ですが、多元史観により日本古代史の最先端を走っている。わたしはそのように感じています。江戸時代、最先端の歴史学が幕府のお膝元ではなく、本居宣長とその弟子達によってなされていたことと同じように思われるのです。
〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 太平洋戦争(10)沖縄そして敗戦
○研究発表
1. 日本総国分尼寺「法華寺」(豊中市・木村賢司)
2. 寺社縁起における九州年号記事の暦年分布の解析(木津町・竹村順弘)
3. 第24回橿原考古学研究所公開講演会(豊中市・大下隆司)
4. 『東日流外三郡誌』寛政原本について(東大阪市・横田幸男)
5. 『讃留霊王神神霊記』を考察する、他(大阪市・西井健一郎)
6. 武烈天皇紀における「倭君」(相模原市・冨川ケイ子)
7. 蕨手文・双脚輪状文の分布(生駒市・伊東義彰)
8. 持統元年の新羅への遣使について、他(川西市・正木裕)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・『万葉集』十市皇女・他(奈良市・水野孝夫)
第107話 2006/11/11
弥生の高層建築
本日の朝刊に、鳥取市の青谷寺地(あおやじち)遺跡から出土していた木柱が約7mであったことがわかり、弥生時代に高層建築が存在していた証拠である旨、報道されていました。その記事によれば、高さ10.5mぐらいの物見やぐらで、地上から床の高さまで6mあったとされています。
この発見自体は素晴らしいことだと思いますが、わたしの「常識」では弥生時代に10m以上の建物があるのは当然で、ちょっと大騒ぎしすぎるような感じを受けました。と言うのも、本会会員で天文学者の難波収さん(オランダ・ユトレヒト在住)から、次のようなお話を聞いていたからでした。
海岸に敵船発見などの為に物見やぐらを建てるなら、15m以上の高さがないと役に立たない。なぜなら、海上には陽炎が立ち上るので、その陽炎の上から見ないと船は発見できない。従って、物見やぐらは15m以上の高さが必要。というものでした。その上で、こうも言われました。だから、吉野ヶ里で復原された「物見やぐら」は低すぎる、と。
わたしには専門的なことは判断できませんが、天文学者の難波さんの言葉だけに、説得力を感じました。同時に、古代人が見張りの役に立たないような低い「物見やぐら」をわざわざ造るようなことはしないとも思いました。なぜ、現代人は日本の古代建築や古代人を侮るのでしょうか。これこそ自虐史観だと思うのですが。
第106話2006/11/06
元興寺と九州王朝
昨日の日曜日、奈良に行き、東大寺大仏殿や興福寺、そして元興寺を見学してきました。本当は正倉院展を見たかったのですが、「2時間待ち」の大行列を見て、断念しました。一般客による長蛇の列とは別に、「読売旅行」の小旗に先導された団体客が別の場所に並んでいたのには、何やら不公平感を持ちました(正倉院展の後援が読売新聞社らしい)。
そんなわけで、正倉院展はさっさとあきらめ、まだ行ったことのなかった興福寺の国宝展で念願の阿修羅像を見学した後、奈良町界隈のおしゃれな店を横目に、元興寺へ行きました。
受付のおじさんが、「年輪年代測定により元興寺が日本最古のお寺であることが証明されました」「法隆寺よりも古い」と熱心に説明してくれたのが印象的でした。ご存じのように、通説では元興寺は蘇我馬子が建立した飛鳥の法興寺を、平城京遷都にともなって現在の地へ移築されたものです。また、元興寺禅室の部材が年輪年代測定により582年伐採とされたことにより、法隆寺五重塔心柱の594年よりも古いことが判明しました。
元興寺のもともとの名前が法興寺とすれば、九州年号の「法興」(591〜622)との関係が注目されます。部材の伐採年582年が法興年間の9年前という近接した年代であることも、法興寺と法興年号との関係を強めます。特に、日出ずる処の天子を名乗った多利思北孤の年号「法興」は日本列島中に鳴り響いていたものと思われますから、それとは無関係に「法興寺」などという名称を使用できたとは到底考えられません。やはり、法興寺(元興寺)は九州王朝と関係の深い寺院であったと考えるべきでしょう。
なお、太宰府の観世音寺が九州年号の白鳳年間に建立されていますが、その頃を白鳳時代と呼ぶのならば、同様に法興寺(元興寺)や法隆寺は法興時代の寺院と呼ぶのがふさわしいのではないでしょうか。飛鳥時代ではなく法興時代です。この新提案、いかがでしょうか。