第82話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の証言

 1996年に芦屋市から出土した「三壬子年」木簡が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのですが(69話72話参照)、今回はこの史料事実がもたらす古代史上の画期性について強調してみたいと思います。

 学問的良心と人間としての平明な論理性を持つ読者の皆さんには、今さらながら言うまでもないことですが、この「元壬子年」木簡が直接的に指し示す肝要の一点は、『日本書紀』の「白雉元年」を庚戌(650年)の年とする記述は誤りで、『二中歴』や『海東諸国紀』等に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(652年)」が歴史的事実であったということです。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのです。「元壬子年」木簡は、まさにこの事を証言しているのです。

 従って、この木簡の「元壬子年」という文字を認めると、今まで論証抜きで偽作扱いされてきた「九州年号」の真実性を認めなければならず、次いでこのような年号を大和朝廷よりも早く公布した王朝の存在を認めなければなりません。さらに、この古代年号群が「九州年号」と呼ばれていた事実から、その公布主体が九州に存在した王朝であることも論理的必然として認めなければならないでしょう。すなわち、古田武彦の九州王朝説は正しかった、通説の大和朝廷一元史観は間違いであった、となるのです。これが、史料事実とそれに基づく人間の平明な論理性の帰結なのですから。

 あなたの周りにおられる大和朝廷一元史観の人に、この平明な論理性を語ってみて下さい。もし、その人が「なるほど、その通りだ」と理解できる人なら、共に真実と学問を語るに足る友人とすることができるでしょう。「それでも、大和朝廷が古代から列島の唯一卓越した代表者のはずだ」「九州年号や九州王朝はなかったはずだ」という人には、静かに首を横に振るしかないでしょう。残念なことに、世の中にはそのような人も少なくないのです。理系と比較して、世界の学問や理性との競争原理がほとんど働かない日本古代史学界など、その最たるものかもしれませんね。


第81話 2006/06/04

祝・創刊『なかった−真実の歴史学−』

 古田先生渾身の一冊が創刊されました。『なかった−真実の歴史学−』(ミネルヴァ書房、2200円+税)です。この新雑誌は年二回発行される予定ですが、新東方史学会設立以来、最初の事業となります。「直接編集古田武彦」と銘打たれたとおり、この新雑誌創刊と編集にかける古田先生の情熱と労力は尋常ではありませんでした。それだけに、今回の創刊を心よりお祝いしたいと思います。そして何よりも、古田ファンや古田学派の全ての人々に読んでいただきたいと願っています。
 内容は下記のとおり、豪華絢爛。子供向けのマンガや連載小説、学界批判、古代通史、オロチ語辞典、中国語訳メッセージと、古田史学のエッセンスが満載です。定期購読のお申し込み(代金は宅配便による着払い方式)は次の通り。

ミネルヴァ書房 編集部(田引・たびき)
 電話075−581−5191
 FAX075−581−8379

【創刊号目次】
序言 古田武彦
連載 古田による古代通史 第一回 古田武彦
学界批判 九州王朝論−−白方勝氏に答える 古田武彦
研究発表 『大化改新詔の信憑性』(井上光貞)の史料批判 古田武彦
連載 敵祭−−松本清張さんへの書簡 第一回 古田武彦
中言 古田武彦
論文・エッセイ
「随筆」について 安藤哲朗
 明日を拓く「古田史学」−−新東方史学会発足に期待 北村明也
『國体の本義』批判の今日的意義 藤沢徹
 条里制の開始時期 水野孝夫
遺稿 「和田家文書」復刻版発行について 藤本光幸
読者から 三つの問い 宮崎宇史
読者へ 若き研究者への回答−−宮崎宇史さんへ 古田武彦
連載 「心」という迷宮−−漱石『心』論 前編 田遠清和
連載 ちくしの女王「ヒミカ」 第一回 酒井紀年
予告編 太陽の娘ヒミカ 古田武彦監修・深津栄美作・おおばせつお画
連載 オロチ語−−簡訳ロシア語=オロチ語辞典 松本郁子訳
末言 古田武彦
中国語訳(序・中・末言)


第80話 2006/06/03

八十神と八十さん

 洛中洛外日記も第80話を迎えることができました。それにちなんで、昨年来研究発表してきた八十神(やそがみ)についてご紹介したいと思います(論文未発表)。
 「古層の神名」(第42話、他)で触れてきましたように、「そ」の神様を捜していたのですが、『古事記』の大国主神話(因幡の白兎説話など)の中に登場する八十神が「そ」の神様ではないかと気づきました。『古事記』では大国主のたくさんのお兄さんたちとして扱われていますが、本来は「そ」の神様である八十神と「ち」の神様であるオオナムチとの出雲・因幡の争奪戦争だったのです。ちなみに、この説話では大国主とはよばれずにオオナムチの名前で八十神と争っています。すなわち金属器以前の時代に起こった「そ」の神様の文明圏と「ち」の神様の文明圏の衝突の伝承が、古事記に大国主神話として盗用されていたのでした。
 それでは八十神の本拠地はどこでしょうか。これもひょんなことから判明しました。わたしの勤務先でのこと。営業部の報告を読んでいたところ、相手先の担当者名に八十(やそ)さんという方のお名前が記されていたのです。西条八十のように名前に八十があるのは知っていましたが、苗字にも八十があったのです。そこで、太田斉二郎さん(本会副代表)にお願いして、電話帳ソフトで八十さんの分布を調べて貰いました。そうしたらなんと、姫路市に集中分布していました。出雲や因幡にはほとんどありません。
 念のため『播磨風土記』を調べたところ、印南郡益気(やけ)の里の斗形(ますがた)山の記事に「石の橋あり。伝えていへらく、上古の時、此の橋天に至り、八十人衆、上り下り往来ひき。故、八十橋といふ。」とここに八十がありました。現在もこの八十橋の伝承地があります。益気(やけ)の里の「や」も八十の「や」と関係ありそうですね。また、揖保川下流には八十大橋もあります。従って、播磨の地には八十が古代から地名などで存在していることから、苗字の八十さんが姫路市に集中分布しているのも偶然の一致とは考えられません。播磨が八十神の本拠地だったのです。
 こうした視点から、先の『古事記』の神話を見直したとき、播磨の八十神と外来勢力であるオオナムチとの出雲・因幡争奪戦という構図が明確に浮かび上がってくるのではないでしょうか。そうするとオオナムチの本拠地はどこでしょうか。それはこれからの研究課題です。


05皇(すめろぎ)は神にし座せば

古田武彦Video casting講演

皇(すめろぎ)は 神にし座せば 天雲の

  雷の上に 廬せるかも

(大王は神にし座せば雨雲の雷の上に廬せるかも『万葉集』235・241番)

制作 古田史学の会
編集 横田幸男
古田武彦講演 二〇〇二年 一月 十九日 大阪市北市民教養ルーム
『神と人麻呂の運命』 二、州柔(つぬ)の歌 部分

参照 『古代史の十字路 万葉批判』 古田武彦 東洋書林
『壬申大乱』古田武彦 東洋書林 岩波文庫

 『憲法義解』 伊藤博文著 宮沢俊義校註

毎日新聞 朝刊13版 2005年11月22日


第79話 2006/05/2

『古田史学会報』74号のご案内

 『古田史学会報』74号の編集が終わりました。本号の内容は下記のとおり。今回も古田先生から原稿をいただきました。古田先生から口頭発表されて以来、古田学派内で賛否両論が出されていた「磐井の乱」造作説の論証骨子がまとめられており、短編ですが必見論文です。
 北海道の今井さん、京都大学大学院の松本郁子さんからは力作が寄せられました。特に松本さんは古田武彦の後継者と言われるだけあって、ロシアのサンクト・ペテルブルグでの現地調査、ロシア側学者との交流やピョートル大帝像前のエピソードなど、感動的な報告となっています。将来が嘱望される若者です。
 6月初めには会員の皆様のお手元にお届けできると思います。ご期待下さい。

『古田史学会報』74号の主な内容

『なかった』の創刊にさいして
  −「磐井の乱」造作説の徹底−(古田武彦)

大野城から刻木文字が出土(京都市・古賀達也)

「トマスによる福音書」と「大乗仏典」
  古田先生の批判に答えて(千歳市・今井俊圀)

太田覚眠と「カ女史」の足跡を訪ねて(京都大学大学院・松本郁子)

放棄石造物と九州王朝(木津町・竹村順弘)

木簡に九州年号の痕跡
  −「三壬子年」木簡の史料批判−(京都市・古賀達也)

〔読者からのお便り〕会員の皆様へ(福岡市・上城誠さん)
6/18記念講演会・会員総会のご案内
関西例会のご案内・会員総会のご案内・史跡めぐりハイキング・他


第78話 2006/05/21

大野城刻木文字は「孚右都」・飯田満麿説

 昨日の関西例会も盛り上がりました。発表が目白押しで、最後に発表したわたしは要点のみ早口で報告するという状況でした。懇親会も参加人数が多く、会場探しが大変でした。ちなみに、わたしは大阪で2軒、京都で1軒とハシゴしてしまいました。
 研究発表でも興味深い内容が多く、大下さん(本会書籍部)は奈良文化財研究所木簡データベースから、「元」と「三」の字を検索列挙され、芦屋市三条九ノ坪出土「壬子木簡」と比較するという実証的な調査研究を発表されました。もちろん結論は「元」の字であるということでした(69話、72話参照)。
 中でも最も注目した発表は、飯田満麿さん(本会会計)の大野城出土木柱の刻木文字に関するものでした(73話、74話参照)。飯田さんはさすがに古代建築の専門家らしく、平城京跡南大門復原時のエピソードや奈良文化財研究所とのやりとりなど、蘊蓄と経験談を述べられた後、「孚」の字義に着目されました。そして『書経』にある「上天孚佑下民」の用例を示され、刻木文字は「孚右都」ではないかとされました。「右」は「佑」の略字と考えられますし、刻木の「石(右)」と読まれた字は右側に偏って刻されており、左側のスペースは「人偏」が本来書かれるはずだったのではないかと推測されたのです。
 そしてもし、「孚右都」であれば、その語意は「都をはぐくみ助ける」となり、大野城正門の木柱に刻まれるにふさわして内容となります。すなわち、唐や新羅との軍事的緊張関係が高まったとき、倭国(九州王朝)の都である太宰府を防衛する大野城正門の柱にその願いを込めたとものと考えられるのです。
 この飯田仮説、かなり面白いと思うのですが、いかがでしょぅか。なお、関西例会の内容は下記の通りでした。

〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「密教と曼陀羅の世界」
○研究発表
1.古田史学の果報者(豊中市・木村賢司)
2.多紀理媛と胸形の奥津宮(大阪市・西井健一郎)
3.三条九ノ坪出土「壬子木簡」(豊中市・大下隆司)
4.最後の九州年号─消された隼人征討記事─(京都市・古賀達也)
5.姿を現した東堤*国王達・その一(長岡京市・高橋勲)、 堤*[テイ]は、魚編に堤、土編無し。
6.大野城太宰府口城門出土木材の研究(奈良市・飯田満麿)
7.中巌円月『日本書』がもたらしたもの・その3(相模原市・冨川ケイ子)
8.九州王朝の陪都論−前期難波宮の研究−(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・泰澄と法蓮・他(奈良市・水野孝夫)


第77話 2006/05/1

6月18日、記念講演会を開催

 古田史学の会では、来る6月18日(日)、大阪にて記念講演会と第12回定期会員総会を開催します。講演会には一般の方の参加も大歓迎です。講師は佐賀県武雄市の古川さんとわたしです。
 今回の記念講演では、古川さんより、昨年古代船による運搬実験で注目を集めた「大王の石棺」阿蘇ピンク石の産地宇土半島馬門の現地調査報告や、不知火海「淡海」説の検証などタイムリーなテーマが報告されます。
 わたしからは九州年号研究の成果である「三壬子年」木簡の発見と検証について、『二中歴』に見えない「大長年号」の位置付けについての新説を発表します。いずれも、パワーポイントや映写装置を使用して、迫力ある大画面での解説を予定していますので、ご期待下さい。
 皆様のご参加をお願いいたします。

 日時 6月18日(日)
    午後1時30分〜4時30分
       ※会員総会は4時から。
 会場 大阪市立総合生涯学習センター
   大阪駅前第2ビル5階第二研修室
 講師・演題
1. 古川清久氏(本会会員・武雄市在住)
 馬門─阿蘇ピンク石と「石走る淡海」で詳説が掲載されています。

2. 古賀達也(本会事務局長)
 「三壬子年」木簡と大長年号の史料批判

 参加費 700円


第76話 2006/05/05

『伊予史談』341号
       
       
         
            

    古田学派内でも自著をものにする人が増えてきました。これは大変悦ばしいことですが、その反面、内容は玉石混淆で、学問の方法が古田先生とは似て非なる
もの、あるいは似ても似つかぬものも散見されます。そんな中にあって、『聖徳太子の虚像』という好著をものにされたのが、四国松山の合田洋一さん(本会全
国世話人)です。その合田さんが愛媛県の郷土誌『伊予史談』341号(平成18年4月号、伊予史談会発行)に、「歴史学の本道と伊予の温湯碑−白方勝氏の
批判論文に寄せて−」という論文を発表されました。

 同論文は、『伊予史談』339号に掲載された白方勝氏(元・愛媛大学教授)の論文「伊予の湯の岡の碑文と聖徳太子」に対する反論ですが、「九州王朝説は
仮説の段階にある」「仮説を定説のように扱っている」と批判された白方氏に対し、「『定説』とされる大和王朝も学問上は一つの仮説ではないでしょうか」
と、合田さんが初心者にもわかりやすく具体的に反論されたものです。
たとえば、『隋書』や『旧唐書』に記された倭国が九州としか考えられないこと、その倭国は志賀島の金印をもらった委奴国の後継王朝であること、『旧唐書』
には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)とが別国として表記されていることなどが、初めて読む人にも判るように紹介されています。もちろん九州年号やそ
の金石文の存在なども述べられており、単なる反論に終わらず、「古田史学入門書」の役割も果たしており、秀逸です。
 このように、一元史観と古田史学との論争は、定説側が隠していた、あるいはあえて触れてこなかった史料事実・考古学的事実が白昼のもとにさらけ出され、
それを見たイデオロギーにとらわれない読者が古田説支持者へと変わっていくという構図になっているのです。現にこの合田論文を読んだ人の本会への入会が始
まっています。
  わたしは、このような時にいつも童話「裸の王様」を思い出します。古田史学(真実の古代史)を知った人々が王様(大和朝廷一元史観)に対して、「王様は裸(学問的論証を経ていない、史料事実を無視している)だ」と叫ぶ姿とオーバーラップしてしまうのです。
   今日は子供の日。「王様は裸だ」と叫ぶ、子供の日です。

            


第75話 2006/05/02

太宰府条坊の南端発見
 先月の21日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から新聞の切り抜きがファックスされてきました。「大宰府南端の道路発見」「筑紫野市で奈良時代の条坊」という見出しとともに、太宰府条坊の南端が出土し、「太宰府」市街地の南北が1.7kmと確定したことが報じられていました。
 この発見により、太宰府条坊が南北に22条、東西に24坊あったことが確定したようですが、このこと自体は以前から推測されてきたことなので、とりたてて驚くべきことではありません。しかし、この新聞記事にある「条坊」の説明欄に次のように記されていることに注目しました。
 「大宰府の条坊は7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとみられ、(以下略)」
 太宰府条坊が7世紀中ごろから後半にかけて建設されたとする説は、誰の説かは知りませんが、もしそうであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京よりも早く太宰府建設が始まったことを認めたことになります。近年の説では藤原京の初期条坊工事は天武の時代、684年頃からとする見方が有力となっています(木下正史『藤原京』中公新書、p.61)。従って、太宰府条坊建設が7世紀中頃からとなれば、大和朝廷一元史観に立てば、天皇家は自らの都よりも、遠く離れた太宰府の条坊都市を先に建設し始めたということになります。こんな珍説が世界で通用するでしょうか。
 わたしは年輪年代測定により「太宰府」の考古学編年が100年ほど早くなるという事実などから、九州王朝の都太宰府は通説の8世紀初頭ではなく7世紀初頭に完成したと論じたことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号)。今回の新聞記事は、ようやく「50年」ほど古田史学に追いついてきた学界の現状(ゆらぎ・とまどい)を象徴しているのかもしれません。


第74話 2006/04/30

浮石とコウヤマキ

 前回で紹介した、大野城跡から出土した木柱に「孚石都」と彫られていたというニュースですが、この「孚石」が柱の産地名だとしたら、どこかに「浮石」(うきいし)という地名が残っているのではないかと思い、インターネットで探してみました。そうしたら、ありました。場所は下関市の豊田町という所で、かなり山間部のようです。ここなら、柱になりそうな木材もありそうですし、太宰府へ運搬するにしても、そんなに遠隔地というわけでもありません。「孚石」の有力候補ではないでしょうか。他に北部九州近郊に「浮石」という地名はなさそうですので、今のところ唯一の候補地と言ってもいいでしょう。もし他にもあれば、教えて下さい。
 地名の一致以外に、もう一つ候補地として欠かせない条件があります。それはこの柱の材質であるコウヤマキ(高野槙。高野山に多く自生していることからこの名前がつけられたらしい)の産地であることです。コウヤマキは日本にしか自生しておらず、東北地方から九州まで分布しているのですが、九州には熊本県や宮崎県に多く、福岡県や佐賀県には群生していないようなのです。問題の下関市の浮石にコウヤマキが群生していれば、候補地としては更に有力になります。わたしも調べていますが、下関市の浮石にコウヤマキが産出するかどうか、まだ判っていません。これもご存じの方がおられれば、是非教えて下さい。
 ちなみに、コウヤマキは水に強く、古代から古墳の木棺などに使用されてきたそうです。確か百済の武寧王のお墓の棺もコウヤマキだと聞いた記憶があります。そんな丈夫な木だったからこそ、現代まで刻木が遺存したのでしょうね。なお、この刻木問題について、建築の専門家である飯田満麿さん(本会会計。平城京跡の南大門建設なども手がけられた古代建築の専門家)が5月の関西例会で発表されるそうです。楽しみです。


第73話 2006/04/23

大野城から刻木文字が出土

 このところ太宰府から興味深い考古学的ニュースが続いています。その筆頭は、4月15日に新聞報道(日経、他)された、大野城跡から出土した木柱に「孚石部」と彫られていたというニュースでしょう。
 日経新聞によれば木材に彫られた文字としては国内最古級のもので、年輪年代測定により648年以降に伐採されたものとされています。更に重要な指摘としては、「部」は「都」とする専門家の意見も紹介されていることです。たしかに新聞やインターネットに掲載された写真を見る限り、「部」よりは「都」という字に見えます。
 そうすると、この「都」は九州王朝の都である太宰府を指し示すものと考えられます。出土した場所も大野城の正門、太宰府口門であることも示唆的です。このように今回の発見は九州王朝説にとって大変有利な内容を含んでいます。
 文字の「孚石」(うきいし)については木材の産地との見方が強いようですが、九州王朝の都の名称というアイデアを私は抱いています。ただこの場合、現地に「ウキイシ」というような地名が遺存していてほしいところですが、今のところ見つけていません。やはり、産地名と考えるのが良いのかも知れません。
 この柱の伐採年代が年輪年代測定によれば648年以降とされている点も要注意です。『日本書紀』の記述から、通説では大野城の完成を665年、すなわち白村江以後とされているからです。普通、木材は有効利用するためにそんなに外部を削ることはしないと思われるので、665年の伐採とすれば、この柱は17年分の年輪部分を削ったことになり、ちょっと不自然なように思います。やはり、古田説のように大野城や水城は白村江戦以前に太宰府防衛の為に築造されたと考えるべきです。そして、そう考えると、通説のように太宰府の成立を八世紀初頭としたのでは、大野城や水城は何を防衛したのか全く意味不明となってしまいます。太宰府もそれ以前(7世紀初頭)に作られたとするべきです。この点、拙論「よみがえる倭京(太宰府)」(『古田史学会報』50号)を参照下さい。
 それにしても、すごい刻木文字が発見されたものですね。6月25日まで太宰府市の九州歴史資料館で公開されるそうです。


第72話 2006/04/21

実見、「三壬子年」木簡

 第69話で紹介しました「三壬子年」木簡を、本日見てきました。古田先生等5名で、神戸市にある兵庫県の埋蔵文化財調査事務所へ行き、同木簡を1時間半にわたりしっかりと見てきました。もちろん、最大の観察点は「三」と読まれた字です。結論から言いますと、この字はやはり「元」と読まざるを得ない、ということでした。
 ちょっと見た感じでは「三」とも読めそうなのですが、詳細に観察した結果、次の理由から「元」であると判断しました。

1.第三画の右端が「三」とすれば極端に上に跳ねています。木目に沿った墨の滲みかとも思われましたが、そうではなく明確に上に跳ね上げられていました。そして下には滲みがありません。これが「元」である最大の根拠と言えます。

2.第三画の真ん中付近が切れていました。赤外線写真も撮影して確認しましたが、肉眼同様やはり切れていました(大下隆司さん撮影)。従って、「三」よりも「元」に近い。

3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっています。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずなのに、実際は逆で、右側の方が濃くなっています。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡と思われます。

4.木目により表面に凹凸があるのですが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていました。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象です。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当することになります。

5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められました。これは「元」の第四画の初め部分と思われます。

 以上の理由から、従来「三」と読まれていた字は「元」であると判断せざるを得ませんでした。今回実見してわかったのですが、同木簡は漂白処理が施されており、写真よりも色が白く、そのため墨の痕跡が肉眼でもよく判別できました。もちろん、光学顕微鏡も持ち込みましたが、上記の点は肉眼でもはっきりと判読できました。これは大変恵まれた史料状況と言えるでしょう。その他の字も確認しましたが、「三」以外はほぼ『木簡研究』に載せられた釈文でも良いように思われました。断定はできませんが(表面の「何」とされた字は「向」とも見えました)。
 今後、引き続き顕微鏡写真撮影などで更に綿密な調査を行う予定ですが、現時点では「元壬子年」と見なすべきであり、九州年号の白雉元年壬子(652)を示す貴重な木簡であると思われます。そういう意味で、本日は九州年号研究に画期的な前進を見た記念すべき一日であると言っても過言ではありません。

 最後に、木簡調査を快諾していただいた兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所の皆様に心より感謝申し上げます。

<赤外線写真 木簡9番を切り出し表示> 撮影 大下隆司、切り出し 横田幸男
現状 JPG444KB 大きさ121mmX375mm
撮影日 2006年 4月21日
場所  兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所

・インターネットに簡易赤外線写真の撮り方がのっていたのでそれを参考にしました。 内容は下記です;
1). 使用カメラ:オリンパス・カメディアC2020Z
2). フィルター:富士フィルターIR76
(フィルターはシートなので、昔使っていたニコンのUVフィルターに貼り付けて使用)
3). シャッタースピード:6秒、絞り値:F-2.8
4). 距離:実測45cm 、カメラの距離計:手動で約35cmに設定。

・インターネットによると赤外線写真に適したデジカメは少なく、Olympus C-2000/C-2020とNikon 950が最適とのことで、偶然小生のもっていたのがOlympus C-2020でたいへんラッキーでした。
・前夜自宅で蛍光灯で試しで撮ったのですがそれほど鮮明でなかったのでうまくゆくかどうか心配だったのですが、埋蔵文化財調査事務所で準備してくれたライトが赤外線写真に効果的だったのか結構きれいにとれていました。

画像はクレジットを入れています。改変しないでください。

「元壬子年」木簡

「元壬子年」木簡赤外線写真