第102話 2006/10/10

古田武彦と「百問百答」
 本会の友好団体、古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)より素晴らしい一冊が上梓されました。『古田武彦と「百問百答」』という本です。同会会員
より出された131の質問に対して、古田先生が答えられたもので、最新の古田先生の考え方や新説が満載となっています。

   同会の藤沢徹会長による「はじめに」の文章をお借りすれば、次のような新知見が紹介されています。
  (1)「磐井の乱はなかった」理由
  (2)唐は九州王朝の天子薩夜麻を何故釈放したのか。その政治的意義
  (3)中大兄・中臣鎌足の白村江戦線離脱の戦略的評価
   いずれも古代史上の重要で興味深いテーマです。ちなみに、私の「九州王朝の近江遷都」説に対しても4頁にわたりご批判をいただいています。恩師から直接にご批判をいただけることに感謝したいと思います。
   おおいに触発される多彩なテーマが扱われており、お奨めの一冊です。
 
  お求めは、
  東京古田会(http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/)


第101話 2006/10/03

太王四神記

 今、韓国でドラマ「太王四神記」の制作が行われているそうです。高句麗中興の祖、好太王の伝記で、韓流人気俳優ヨン様ことペ・ヨンジュン氏が主役。わたしは、このドラマの完成と公開をとても楽しみしています。別にヨン様のファンではないのですが(好感の持てる俳優で、わたしは「冬ソナ」のファンです)、 このドラマの中で「倭」がどのように扱われるのかを注目しているのです。

  ご存じのように、好太王は朝鮮半島に攻めてきた「倭」と戦って撃退するという、特筆すべき業績の持ち主です。現代の韓国の国民感情から考えても、攻めてきた日本に勝ったというエピソードがドラマに採用されないとは考えにくいし、歴史事実としても特筆大書されるシーンだと思うのです。
  好太王碑にも記されているこの「倭」が九州王朝であることは、古田説では明白なのですが、国内のシンポジウムなどでは大和朝廷だったり、海賊だったりされ ています。そこで注目したいのが、「太王四神記」ではどの説が採用されるのかです。恐らく無難なところで、大和朝廷説あたりで落ち着くとは思いますが、せめて「北部九州の勢力」といった説が採用されたら、わたしは間違いなくヨン様の大ファンになります。
 更にもう一つ付け加えれば、このドラマを通じて、古代に於いて日本列島の王朝が朝鮮半島へ出兵し、敗北したという歴史事実が日本国内に広く知れ渡ることにも期待したいと思います。もちろん「自虐史観」からそう言うのではありません。歴史の真実を冷静に受け止める日本国民が増えることを願っているからです。
    このドラマを機会に、ヨン様ファンが古代史にも興味をいだいていただければと今から楽しみにしています。

参考
◎画期にたつ好太王碑『市民の古代』第4集 古田武彦
好太王碑訪中団の報告『市民の古代』第7集 事務局 藤田友治
◎中国の好太王碑研究の意義と問題点『市民の古代』第7集 古田武彦
◎好太王碑と九州王朝『市民の古代』第7集 古田武彦
◎好太王碑と高句麗文化について『市民の古代』第8集 古田武彦


第100話 2006/09/30

九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが判発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
  ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で100話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。


第99話 2006/09/23

『古田史学会報』76号のご案内

 ようやく『古田史学会報』76号の編集が終わりました。10月初旬には会員の皆様にお届けできる予定です。今号の1面論文は大下さん(古田史学の会・事務局次長)の好論「敵を祀る」です。『古田史学会報』は古代史がメインですが、「敵を祀る」は古田先生のもう一つの研究領域である日本思想史に関するテーマです。新入会員の角田さんは会報デビュー。これからの活躍が期待されます。

  今回、原稿の集まりがいまいちだったので、仕方なく私の原稿で空きを埋めましたが、会員の皆さんのご寄稿をよろしくお願いいたします。

『古田史学会報』76号の内容

敵を祀る−旧真田山陸軍墓地−(豊中市・大下隆司)
白雉改元の史料批判−盗用された改元記事−(京都市・古賀達也)
多元史観の応用で解けた伝説「炭焼き小五郎」の謎(北葛飾郡わしみや町・角田彰男)
七支刀鋳造論(生駒市・伊東義彰)
九州王朝と筑後国府(京都市・古賀達也)「市民タイムス」より転載
木簡に九州年号の痕跡−「元壬子年」木簡の発見−(京都市・古賀達也)
連載小説「彩神」第十二話・シャクナゲの里(1)(町田市・深津栄美)
阿胡根の浦(奈良市・水野孝夫)
私考・彦島物語III外伝 伊都々比古(後編)(大阪市・西井健一郎)
古田史学の会・四国定期会員総会の報告(松山市・竹田覚、古田史学の会・四国会長)
九州王朝の部民制(京都市・古賀達也)
『古代に真実を求めて』特価販売の案内
『なかった−真実の歴史学』創刊号を見て(豊中市・木村賢司)

関西例会のご案内・史跡めぐりハイキング・事務局便り
古田武彦氏新年講演会のご案内
弔辞・東京古田会事務局長高木博さん御逝去(古田史学の会・役員一同)


第98話 2006/09/17

サーバー・ダウン?!

 先週、本会ホームページが突然アクセス不能となり、多くの会員や読者の皆様にご心配やご迷惑をおかけしました。わたしは、てっきりホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・事務局次長)が大がかりなリニューアルでもされているのだろうと思っていましたが、   16日の関西例会時に横田さんから事情を聞いたところ、プロバイダー側との事務的な単純ミスだったとのこと。深刻なトラブルではなくて、一安心でした。
 関西例会の内容は下記の通りですが、正木さんが発表された『日本書紀』の「34年の遡り現象」という新テーマは、『日本書紀』編纂方針にもかかわる重要な問題へと発展する可能性があります。今後の展開が楽しみです。
 今回は、相模原市からの常連冨川ケイ子さんの他、佐賀県武雄市の会員古川さんや、名古屋市の林俊彦さん(古田史学の会・東海代表、全国世話人)など遠方からもご参加いただきました。もちろん、二次会・三次会が盛り上がったことは言うまでもありません。
 「朋あり、遠方より来る。また楽しからずや。」(『論語』)でした。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 太平洋戦争への道
○研究発表
1. ホームランでなく大ファールだった(豊中市・木村賢司)
2. 素人読みの『心』覚え書き−田遠清和氏の「漱石『心』論・前編」への感想−(豊中市・山浦純、代読・木村賢司)
3. 近畿と九州の寺院の由緒(木津町・竹村順弘)
4. 日本書紀に記載された伊勢王記事と関連事項(奈良市・飯田満麿)
5. 日本書紀、白村江以降に見られる「34年の遡り現象」について(川西市・正木裕)
6. 古代の屋島あれこれ(向日市・西村秀己)
7. 古層の「天神」−埴安命−(京都市・古賀達也)
8. 伊須受宮と伊勢神宮(大阪市・西井健一郎)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・安川寿之輔名大名誉教授と古田氏会談・他(奈良市・水野孝夫)


第97話 2006/09/09

九州王朝の部民制

 福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から、またまたビッグニュースが届きました。9月6日西日本新聞朝刊の記事がファックスされてきたのです。それには、大野城市本堂遺跡から「大神部見乃官(おおみわべみのかん)」とはっきりとした楷書体で刻まれた須恵器が出土したことが報道されていました。
 例によって、大和朝廷一元史観での解説で、大和朝廷の部民制の痕跡と解説されていますが、そうではなく当然九州王朝の部民制を記した金石文と見るべきでしょう。もちろん、現時点では実物を見ていませんから断定的な発言は厳禁ですが、九州王朝の制度を研究する上で貴重な文字史料であることは疑えません。
 ただ、新聞の記事を読んでいて、いくつか気になったことがあります。一つは、「7世紀前半から中ごろの須恵器」とされていますが、この時期の北部九州の須恵器編年は、C14などの科学的年代測定によれば百年くらい古くなる可能性がありますので、要注意です。
 二つ目は、「大神」を「おおみわ」と読んでいますが、九州では「神」を「くま」とも読みますから、「おおくま」や「おおがみ」と読む可能性も考慮すべきでしょう。
 また、「見乃官」も高良大社(久留米市)のある水縄(みのう)連山の地名との関係も考えられ、興味深い官名です。いずれにしても、7世紀以前の部民制の痕跡を有する文字史料が近畿ではなく、福岡県大野城市から出土したことは、九州王朝説にとって大変有利な事実といえるでしょう。


第96話 2006/09/01

祝・傘寿、古田武彦先生
 
この8月8日、古田先生は傘寿、80歳を迎えられました。心よりお祝い申し上げたいと思います。誕生日当日、古田先生は屋島調査旅行の最中。木村賢司さん
の心配りでバースデイケーキが用意されたとのこと。ローソクを吹き消す古田先生の写真を拝見しましたが、めっきりと白髪が増えられていることに、あらため
て気づきました。
 思い起こせば、わたしが古田先生に初めてお会いしたのは、茨木市で行われた市民の古代研究会主催の講演会でした。その時、ちょうど先生は還暦を迎えら
れ、皆でお祝いしました。あれから20年が過ぎていたのでしたが、そのおり先生の傍におられた関西の方々の多くは鬼籍に入られ、あるいは離反され、気がつ
いてみると、残っているのはわたしだけとなりました。しかし、木村さんのような新たな人々が、また先生の周りを幾重にも取り囲んでおられます。

    今、わたしは次の漢詩の一節を思い起こしました。
 
   年々歳々、花相似たり。
   歳々年々、人同じからず。
 
   なお、『古代に真実を求めて』10集は「古田先生傘寿記念特集号」にしたいと考えています。具体的な企画立案はこれからですが、皆様のご協力をお願いいたします。
    古田先生のご長寿を祈念いたします。


第95話 2006/08/22

白雉改元と前期難波宮

 昨年から今年にかけて、私は『日本書紀』白雉改元記事の史料批判から、あるいは前期難波宮の規模や様式などから、この難波宮を九州王朝の副都とする仮説を展開してきました。19日の関西例会でも最新の発見について報告しましたが、そのおり竹村順弘さんから、兵庫県南部に白雉年間創建の寺院が多いことを教えていただきました。この事実も難波宮建設と関連が深いと思われますが、「元壬子年」木簡の出土地も芦屋市だったことを考えると、なかなか興味深い現象です。
 今回の例会もバラエティーに富んだ内容で、毎回充実した例会となっています。例会後の二次会も参加者が多く賑やかですが、最近では三次会も参加者が多く場所探しが大変でした。また、二次会から参加される「熱心」な方もおられ、驚かされます。例会の内容は次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「海の道」
○研究発表
1. 孔明「出師の表」と岳飛・『なかった─真実の歴史学』創刊号を見て・守備範囲外(豊中市・木村賢司)
2. 「速吸門」についての若干の整理(川西市・正木裕)
3. サヌカイトと屋島訪問ー古田武彦先生同行記ー(豊中市・大下隆司)
4. 続・白雉改元の史料批判(京都市・古賀達也)
5. 熊本県浄水寺の平安時代石碑2(相模原市・冨川ケイ子)
6. さ迷える五十鈴の宮(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・阿胡根能浦は鹿児島県阿久根市か・他(奈良市・水野孝夫)


第94話 2006/08/16

水鏡天満宮と櫛田神社

 お盆休みは、同窓会(久留米高専・化学科11期)に出席するために帰省しました。途中、福岡で友人と会うために博多駅で下車し、炎天下の博多の町を天神 まで歩きました。その時、水鏡天満宮の前を通りました。鳥居に掲げられた「天満宮」の額の文字は、いわゆるA級戦犯とされ、刑死した広田弘毅(総理大臣・ 外相)が11歳の時に書いたものです。

 博多祇園山笠で有名な櫛田神社の境内も通り抜けたのですが、社殿などが工事中で、その説明板には「1250年記念改修」というようなことが記されていま した。それを見て、そうすると同社鎮座は756年になるけれど、私は7世紀末頃だったと記憶していたので、京都に戻ってから調べてみました。
 『筑前国続風土記』には天平宝字元年(756)に勧請されたとありますから、ちょうど1250年前です。しかし、『筑前国続風土記拾遺』には中巌円月の書が引用されており、それには「持統天皇朱雀中之建也」とあります。朱雀は九州年号で、684〜685年のことですから、私はこちらの説を記憶していたので した。
  どうも櫛田神社の歴史も九州王朝と関係が深そうです。機会があれば調査研究したいものです。中巌円月の名前は冨川ケイ子さんの研究で知ったのですが(第67話「鎌倉時代の学問弾圧」を参照)、朱雀という九州年号とともに、ここに中巌円月の名前が出てきたことにちょっと驚きました。


第92話 2006/07/29

筑後の九州年号

 九州王朝の筑後遷宮説や筑後副都説を裏づける史料状況として、九州年号の残存量が上げられます。以前に「筑後地方の九州年号」という論文(『古田史学会報』44号)で紹介したのですが、私が調べてわかっただけでも筑後地方には下記の九州年号史料が存在しています。
 初期の「善記」から末期の「朱鳥」まで多くの九州年号が諸史料に残存しているのですが、青森県から鹿児島県まで分布している九州年号史料の全国的状況と比較しても、かなり濃密な分布です。こうした史料状況からも九州王朝筑後遷宮説は有力な仮説と思われます。現地史料を丹念に調査すれば、さらに多くの九州年号が見つかるはずです。地元研究者の活躍に期待したいところです。
 なお、端正元年(589)から白鳳まで80年ほど史料の「空白」がありますが、これは7世紀初頭の大宰府建都により、九州王朝の中心勢力が筑前に移動したことと対応しているのではないでしょうか。

九州年号    西暦      出典・備考
善記 元年    522    大善寺玉垂宮縁起
明安戊辰年    548    久留米藩社方開基、三井郡大保村「御勢大霊大明神再興」 ※二中歴では「明要」。
貴楽 二年    553    久留米藩社方開基、三井郡東鰺坂両村「若宮大菩薩建立」
知僧 二年    566    久留米藩社方開基、山本郡蜷川村「荒五郎大明神龍神出現」 ※二中歴では「和僧」。
金光 元年    570     柳川鷹尾八幡太神祝詞、久留米市教育委員会蔵。
端正 元年    589    大善寺玉垂宮縁起軸銘文・太宰管内志 ※二中歴では「端政」。
白鳳 九年    669    筑後志巻之二、御勢大霊石神社 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」の可能性も有り。
白鳳 九年    669    永勝寺縁起、久留米市史。久留米市山本町  ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」の可能性も有り。
白鳳 元年    672    全国神社名鑑、八女市「熊野速玉神社縁起」 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳十三年    673    高良玉垂宮縁起
白鳳十三年    673    高良山高隆寺縁起
白鳳十三年    673    高良記  ※他にも白鳳年号が散見される。
白鳳 二年    673    二十二社註式、高良玉垂神社縁起。 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    高良山隆慶上人伝 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    家勤記得集 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    久留米藩社方開基、竹野郡樋口村「清水寺観世音建立」 ※後代の改変型「白鳳」。
白鳳中    661〜683    大善寺古縁起二軸 外箱蓋銘
白鳳年中     661〜683     筑後志巻之三、御井寺
白鳳年中     661〜683    久留米藩社方開基、山本郡柳坂村「薬師堂建立」
白鳳年中     661〜683    高良山雑記
朱雀二年     685    宝満宮年譜、井本家記録。三池郡開村新開。
朱雀年中     684〜685    高良山雑記
朱鳥元年丁亥    686    高良山隆慶上人伝 ※干支に1年のずれがある。二中歴では朱鳥元年は丙戌。


第91話 2006/07/21

『古田史学会報』75号のご案内

 『古田史学会報』75号の編集が終わり、印刷に送りました。8月初旬には会員の皆様にお届けできる予定です。今号よりA4サイズの封筒に入れて、宅配便でお届けします。これは、この度の総会で事務局次長になられた大下さんのアイデアです。これで折り作業の手間が合理化でき、会員の皆様にも余計な折り目のない会報をお届けできます。
 75号の内容は次の通りで、バラエティーに富んだ会報となりました。楽しんでいただけることと思います。

『古田史学会報』75号の内容
  大野城大宰府口出土木材に就いて(奈良市・飯田満麿)
 泰澄と法蓮(奈良市・水野孝夫)
 巣山古墳(第五次調査)出土木製品(生駒市・伊東義彰)
 遺稿・「和田家文書」に依る『天皇紀』『国紀』及び日本の古代史についての考察4(藤崎町・藤本光幸)
 私考・彦島物語III 外伝 伊都々比古(前編)(大阪市・西井健一郎)
 多賀城碑の西(柏原市・菅野拓)
  「元壬子年」木簡の論理(京都市・古賀達也)
 第12回定期会員総会の報告
 連載小説「彩神」第十一話  杉神(6)(町田市・深津栄美)
 「粛慎の矢」菅江真澄もそれを知っていた?(奈良市・太田斉二郎)
 関西例会のご案内・史跡めぐりハイキング・事務局便り・他


第90話 2006/07/16

『筑後国正税帳』の証言

 筑後国府には考古学的に謎が多いことを述べてきましたが、文献上にも不思議な記事があります。既に古田先生が指摘されているテーマですが、天平10年(738)の正倉院文書『筑後国正税帳』に筑後国より都あるいは律令制下の大宰府に献上された品目が記されています。その中に他国の正税帳とは全く異なる品目が列挙されているのです。
 たとえば、銅釜工、轆轤工3人、鷹養人30人、鷹狩り用と思われる犬15匹です。そして何よりも驚きなのが、白玉113枚、紺玉71枚、縹玉933枚、緑玉72枚、赤勾玉7枚、丸玉4枚、竹玉2枚、勾縹玉1枚という大量の玉類です。これら全ての玉類が筑後地方から産出するとは考えられませんから、他国から筑後国に集められたと思われます。
 こうした史料事実は通説では説明不可能です。九州王朝説やわたしの筑後遷宮説でなければ説明できないと思います。すなわち、天子や王侯の遊びであった鷹狩りが行われていた証拠である「鷹養人30人」や「鷹狩り用の犬」の献上は、この地に九州王朝の都があった証拠なのです。大量の玉類も同様です。もしかすると、九州王朝の「正倉院」が筑後国にあったのではないでしょうか。そうすると、大量の玉類はそこに収蔵されていた可能性が濃厚です。
 第三期筑後国府跡に曲水の宴遺構が隣接していたことも、このことと関連して考察するべきでしょう。
古田史学会報36号「両京制」の成立 古田武彦 参照)

 話は変わりますが、昨日15日に古田史学の会・関西例会が行われました。残念ながら勤務の都合で私は欠席しましたが、テーマのみお知らせしておきます。
  〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕

 ○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「天台の道」

 ○研究発表
  1. 伊予の大族、越智・河野系譜にみる、国政とのかかわり伝承(豊中市・木村賢司)
  2. コバタケ珍道中・信州編(木津町・竹村順弘)
  3. 彦島物語・別伝(大阪市・西井健一郎)
  4. 九州年号古賀試案の検証(奈良市・飯田満麿)
  5. 大野城創建と城門柱の刻書(岐阜市・竹内強)
  6. 熊本県浄水寺の平安時代石碑群(相模原市・冨川ケイ子)
  7. 敵を祀る・旧真田山陸軍墓地(豊中市・大下隆司)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・教科書から消える聖徳太子・他(奈良市・水野孝夫)