第39話 2005/10/25

故・藤本光幸さんのこと

 早くから和田家文書を世に紹介されてきた藤本光幸さん(本会会員・青森県南津軽郡藤崎町)が10月21日に急逝されました。行年75歳とのこと。残念です。
 ほがらかで、笑顔を絶やさない紳士。そんな藤本さんとの出会いにより、わたしの和田家文書研究は本格化しました。わたしは学問的資料として、あるいは偽作説に反論するために和田家文書に取り組んできたのですが、藤本さんの場合はちょっと違っていたような気がします。埋もれた歴史史料として扱うにとどまらず、和田家文書に記された思想性、たとえば「生命尊重の哲学」などに心酔しておられました。和田家文書の思想性こそ現在に必要なものであり、それを世に出さなければならない、それが自分の使命だと、よく言っておられました。
 藤本さんはお酒(特にウイスキー)を大変好まれていました。わたしが和田家文書の調査のために津軽入りすることをお知らせすると、ご自宅で一泊するよう希望されました。調査研究のためには五所川原市か弘前市で宿泊するのが便利なのですが、藤崎町の藤本さんのお屋敷で杯を傾けながら、夜が更けるまで和田家文書の話を続けるのも、秘かな楽しみの一つとなりました。ある年の夏にうかがったときは、ちょうど藤崎町のねぶた祭の日で、藤本邸の玄関先に縁台を並べて、祭の行列を見物したことが、今でも鮮やかに思い起こされます。
 わたしは亡くなられる十日前に藤本さんから手紙をいただきました。それには、『古田史学会報』掲載予定の和田家文書を紹介された原稿が同封されていました。そしてそれが、はからずも御遺稿となってしまいました。原稿の題は「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史についての考察」というもので、4編いただきました。10回連載の予定でしたので、「未完」の御遺稿です。『古田史学会報』71号より掲載開始いたします。合掌


第38話 2005/10/21

浦島太郎の御子孫が講演 

 古田史学の会会員に浦島太郎の御子孫がおられることは、以前このコーナーでもご紹介しましたが(第30話「浦島太郎の系図」)、その御子孫である森茂夫さん(京都府網野町)から、「網野神社の証言1─系図から見えてくる丹後の歴史─」というパワーポイントによるファイルが入ったCD-Rが送られてきました。
 期待しながらファイルを開いてみると、森家の系図や美しい丹後半島の風景など、盛り沢山の内容で、わたし一人で見るにはもったいないものでした。そこで、より多くの方にこのパワーポイントを見ていただこうと、森さんに大阪での講演をお願いしましたところ、快く引き受けていただきました。
 古田史学の会・関西では毎年一月の例会を新年講演会としてきましたが、森さんにはその新年講演会で講演していただくことにしました。演題は「子孫が語る浦島太郎の系図と伝承」です。日時は来年の1月21日(土)の午後1時30分からで、会場は大阪駅前第2ビルにある大阪市立総合生涯学習センターの予定です。くわしくは本ホームページの例会案内に掲載しますので、ご参照下さい。
 なお、当日は森さんの講演に先だって、水野孝夫代表より「浦島太郎は南米に行った」という内容の「あいさつ」が30分ほどあります。こちらも興味深い仮説です。ご期待下さい。皆様のご来場をお願い申し上げます。


第37話 2005/10/17

九州王朝の近江遷都

 わたしは、「古田史学の会・まつもと」から毎年のようにお呼びいただいて、松本市で講演をしています。そのほかにも、札幌や仙台、東京、大阪、松山、福岡などの各地で講演をしてきましたが、どういうわけか比較的お近くの名古屋では講演をしたことがありませんでした。そんなおり、「古田史学の会・東海」の林俊彦さん(本会全国世話人)より講演依頼をいただきました。というわけで、11月6日(日)に名古屋で講演させていただくことになりました。
 テーマは「九州王朝の近江遷都」。このテーマは、既に論文として『古田史学会報』61号(2004年4月)に発表していますが、その史料根拠を15世紀成立の後代史料『海東諸国紀』においていたこともあり、古田先生からは面白い考えだが、考古学的痕跡などで証明できなければ成立困難と、かなり辛口の批評をいただいていました。そうしたこともあって、以後このテーマを取り扱うことに慎重になっていました。
 そして今回、いよいよこの禁断のテーマに再度挑戦することにしました。名古屋の皆さんに聞いていただき、はたして「九州王朝の近江遷都」説は成立するか否か、ご判断いただきたいと願っています。


第36話 2005/10/16

例会報告・シルクロードの旅

 10月15日、一日中雨が降る中、古田史学の会関西例会が行われました。ビデオ鑑賞の後、木村賢司さんよりシルクロードの旅の報告がありました。9月16日から11日間、田村映二さん(本会会員・交野市)とご一緒に西安からウルムチ・トルファン・敦厚などを巡る豪華な旅の報告でした。中でも西安での楊貴妃が入ったお風呂の話は初耳でしたので興味深く聞きました。
 わたしも中国へは二度ほど行ったことがあるのですが、いずれも仕事でしたので、観光など全くできませんでした。昼間はプレゼンとお得意様回り、夜はフライトで深夜にホテル着という毎日。特に二回目などはフフホトのホテルで目覚めると、ちょうど9月11日で、同時多発テロが発生。それからというもの、中国国内のフライトはホディチェックが厳しくなり閉口しました。
 例会の内容は下記の通りです。参加費は500円です。ぜひ、初めての方もご参加下さい。二次会の懇親会も、毎回盛り上がっています。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・九州の地域学」
○研究発表
1 なにわ男の「旅の恥はかき捨て」(豊中市・木村賢司)
2 筑後国風土記の「山」について(向日市・西村秀己)
3「親王」と「皇子」と「王」の間(4)
 ─竹生王(たかふのおおきみ)─(相模原市・冨川ケイ子)
4 彦島物語II「顕国玉・大国主・大己貴」(大阪市・西井健一郎)
5 白雉改元の史料批判(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・ほうれん草の語源・他


第35話 2005/10/12

太宰府の平井瓦屋
 現存する株式会社で最も創業が古いのは、難波の四天王寺を建立した株式会社金剛組といわれています。創業1400年ですから、すごいですね。世界的にも珍しいのではないでしょうか。
 現存しませんが、太宰府市五条に昭和35年頃まであった平井瓦屋も長い歴史を持っています。大宰府政庁跡遺跡から出土した瓦に「平井」とか「平井瓦屋」と刻印してありますから、ここもかなり古い。おそらく瓦葺きの構造を有した大宰府政庁跡第二期遺構の創建頃から瓦を製造していたと推定できますので、7世紀初頭まで遡ることができるのではないでしょうか(古賀説。通説では8世紀初頭)。
 出土した古代瓦に「平井瓦屋」と記されていることから、古代も瓦屋さんを「瓦屋」と呼んでいたんだと、妙に納得してしまいました。ご参考までに、「太宰府市文化ふれあい館のホームページ」より、平井瓦屋の項を転載しておきますので、ご参照下さい。

【宰府の平井家】
宰府村で瓦の生産をおこなっていた家に、戦後まで瓦を焼いていた五条の「平井」家があげられる。「平井瓦屋」の名は古くは平安時代の大宰府で使われた瓦の文様の中に見られ、平井の名は中世には九州一円に影響力を持っていた「鋳物師」の総領として知られている。しかし、その家業も観世音寺の収蔵庫の瓦製作をおこなった昭和30年代を境におこなわれなくなったらしい。残された文献や考古学の資料からは中世や近世の太宰府での瓦生産についての詳細はよくわかっていない。


第34話 2005/10/07

会員論集『古代に真実を求めて』

 古田史学の会では年に一度、会員論集『古代に真実を求めて』(明石書店)を発行しています。過日、『古代に真実を求めて』第9集の編集会議を水野代表のご自宅で行い、採用論文を審議しました。古田先生の講演録2編と同論文2編の他、会員の論文7編の採用を決定しました。来年3月の発行予定です。本会賛助会員(年会費5000円)には郵送いたしますが、一般書店でもお求めになれます。
 今回の論文審査でも感じたのですが、字数制限を無視した冗長で長い論文を投稿される方がありますが、はっきりいって長い論文は採用の可能性はそれだけ低くなります。長いものは、長くても読ませるだけの文章力と論理的明快さ、そして面白さが要求されます。ですから、採用されたければ、短く、判りやすく、明快な方法論と論証がポイントです。それと、最初に何を論証しようとしているのかを記しておくべきでしょう。最後まで読まなければわからないような「推理小説」のような論文はダメです。
 また、会員以外の方の応募もありますが、非会員の場合、よほど内容的に優れたものでなければ採用は困難です。会員論集ですから、やはり会員の論文が優先されます。これは、本会に限らず、会員であることを応募資格にしているところが多いものです。その為にも、是非本会へご入会下さい。
 論証や論文は苦手という方には、「フォーラム」という分野があり、エッセイなどを採用しています。この場合、論文よりも更に短く、面白いことが採用のポイントとなります。初心者の方は、まずフォーラムに応募されることをおすすめします。
 最後に、『古代に真実を求めて』の応募原稿はそれほど多くはありません。ですから、上記の注意点に留意されれば、採用の可能性はかなり高いと思います。是非、挑戦してみて下さい。応募要項は『古代に真実を求めて』に掲載されていますので、ご参照下さい。


第33話 2005/10/06

日本思想史学会で古田先生が研究発表

 わたしは職業柄、自然科学系の学会(繊維学会・他)によく出席しますが、古田先生の紹介もあり、人文系の日本思想史学会の会員でもあります。そして、恐れを知らないというか、素人の大胆さというか、一昨年は筑波大学で二倍年暦を、昨年は京都大学で九州年号の研究発表をしました。
 筑波大学の時は、人文系の学会での初めての発表でしたので、かなり緊張しました。発表前日の夜はホテルで何度も発表の練習をしましたし、質疑応答のイメージトレーニングも繰り返したものです。二回目の京都大学では自宅から会場が近いし、九州年号研究に関しては自信もありましたので、余裕を持って発表できました。ただ、聴講されていた木村賢司さん(本会会員、豊中市)の感想としては、「今までになく、怖い顔して発表していた」とのことでした。
 今年の日本思想史学会は東京大学駒場キャンパスで開催されますが、そこで古田先生が研究発表されます。関東地域の方は是非聞きに行かれてはどうでしょうか。学会独特の雰囲気を経験されるのも面白いかと思います。なお、わたしは諸般の事情で、今回は欠席します。日時や会場は次の通りです。

〔2005年度日本思想史学会大会〕
日時 10月29日(土)13:00〜17:00
   ○シンポジウム「転生する神話─『日本思想史』は描きうるか」
   10月30日(日)9:30〜17:00
   ○研究発表・パネルセッション
会場 東京大学駒場キャンパス 教養学部13号館

〔古田先生の研究発表〕済み
第2日 10月30日(日)午前9:30〜10:00
テーマ 「大化改新の信憑性について(井上光貞氏)」の史料批判
会場 第一会場 2階1321教室


第32話 2005/10/01

新東方史学会会長に中嶋嶺雄氏

 新東方史学会立ち上げの講演会(9月24日、京都市・アヴァンティホール)にて、新東方史学会の役員・事務局人事が発表されました。会長には元東京外語大学学長で秋田に新設された国際教養大学学長の中嶋嶺雄氏が就任されました。副会長には、荻上紘一氏・佐々木正峰氏・宮島成壽氏の三名、事務局に鴨下武之氏(多元的古代研究会)・高木博氏(東京古田会)が就任されました。会計は高木氏が兼任されます。
 創立にあたり、古田武彦氏から次の「宣言」が発表されましたので、転載します。

  宣言 ─新東方史学会、設立のために─

 誰も知らぬ夜、歴史の転換が迫っている。
 幾千万年、人類は「進化」に「進化」をつづけてきた。その間、数十億、数百兆の動物や植物を殺し、自己自身すなわちおびただしい人間を殺しつづけて今日に至った。宗教も国家も、それをとどめるにはあまりにも微力であった。
 果たしてそのような生物、人間という名の生物はこの地上に生きつづける値うちがあるのか。エジプトにいたというスフィンクスは、地球の一隅でそれを問いつづけている。
 しかし、ためらう必要はない。必要なものは「知」である。人間とは何者か。そのなしてきたことを知り抜くことである。その中に転換の鍵がある。「知識だけでは。」「もっと他(ほか)のものが。」など、あらゆる雑音に迷わされず、知ること、知り抜くこと、この点が、その一点のみが歴史の転換の起爆剤となろう。「知の凝集」という一点から、全宇宙をとどろかす一大爆発のエネルギーが誕生するのである。
 わたしは、それを歴史の中に見た。人間のなしてきたことのすべて。もっとも広い意味でそれが歴史だ。その探究である。もう一度言う。「人間は何をしてきたか」これを知ることである。それが創造の出発だ。
 そのさい、たった一つの条件がある。「あらゆる既成の}わく¯を}わく¯とせぬこと。」これである。すべての知識に「盲従」せぬことだ。それなしには、知識という名の一大爆発はおこりえない。絶対に誕生しえないのである。
 今、日本はその転換の扉の前にいる。その扉を静かに押すこと、わたしたちがなすべきこと、なさねばならぬことはこの一点にすぎない。
 それが今回の「新東方史学会」の創立である。わたしはようやく七十九歳に達した。

                      ─二〇〇五・八月二十日記了─
    古田武彦 拝


第31話 2005/09/25

『古田史学会報』70号のご案内

 新東方史学会立ち上げの講演会(京都市・アヴァンティホール)も無事終了し、ほっとしています。遠くからご参加いただいた方も多く、御礼申し上げます。また、ご協力いただいた会員の皆様、ミネルヴァ書房の皆様に感謝申し上げます。
 古田先生は当日の朝10時から会場へ来られ、準備や打ち合わせを行われました。さらに、講演終了後も別室で質疑応答を7時まで続けられ、夜の懇親会にも参加されました。お元気とは言え、かなりご無理をしていただいたのではと、心配しています。
 話は変わって、『古田史学会報』70号の編集が本日ようやく完了しました。10月上旬には会員のお手元へ届けることができます。本号の内容は次のとおりで、ご寄稿いただいた皆様に御礼申し上げます。おかげさまで、面白い内容となりました。

『古田史学会報』70号の主な内容
 鶴見山古墳出土の石人の証言(古賀達也・京都市)
 九州古墳文化の独自性─横穴式石室の変遷─(伊東義彰・生駒市)
 日本の神像と月神の雑話(木村賢司・豊中市)
 書評『神武が来た道』(横田幸男・東大阪市)
 神々の亡命地・信州─古代文明の衝突と興亡─(古賀達也・京都市)
 連載小説「彩神」第11話 杉神4(深津栄美・町田市)
 船越(補稿) 対馬阿麻氏*留神社の小船越(古川清久・武雄市)
 教科書の検討(和田高明・岩見沢市)
 書評『親鸞』古田武彦 宗教的なものを感じさせない(林英治・香川)
 「大王のひつぎ」に一言
  ─読売新聞7月25日・8月3日の記事について─(伊東義彰・生駒市)
 関西例会のご案内・古田史学の会入会のご案内・史跡めぐりハイキング・他
 悲痛の弔文─藤田友治氏に捧げる─(古田武彦)

注記 氏*は氏の下に一


第30話 2005/09/22

浦島太郎の系図
 第27話で紹介しました浦島太郎の御子孫の森茂夫さん(会員・京都府網野町)から、『エプタ』(vol.23、2005/09)というきれいな雑誌が送られてきました。それには「日本昔話の世界」が特集されており、その冒頭に浦島太郎の系図がカラーで掲載されていました。
 説明によれば、森総本家に伝えられた系図で、家宝として「他見に及ばず」と未公開だったそうです。同誌への掲載が本邦初公開とのこと。その系図によれば、浦島太郎は日下部の姓を名乗っており、開化天皇の皇子、彦坐命の後胤と記されています。
 ただ、ややこしいことに、「日下部曽却善次」の下注に「亦の名を浦島太郎」とあり、その長男の「嶋児」が、いわゆる竜宮城へ行った有名な「浦島太郎」のこととなっています。ですから、系図によれば浦島太郎の長男の嶋児が竜宮城に行ったことになります。
 おそらく、後世に伝説が脚色されたりしながら、現在の説話へと変化したものと考えられます。したがって、逆にこの系図の信憑性が増すのではないでしょうか。もし、後世にでっちあげるのなら、有名な伝説と異なった系図を作ったりしないと思われるからです。
 『エプタ』にはこの他に桃太郎伝説やかぐや姫伝説などが取り上げられ、美しいカラーグラビアと共に、丁寧な取材記事が好印象を与えています。同誌は化粧品関連企業が発行している雑誌のようですが、企業広告は最小限に抑えられており、内容も充実した良い雑誌でした


第29話 2005/09/18

松野連系図と九州王朝系譜

 9月17日、古田史学の会関西例会が行われました。いつもの進行役の木村賢司さんが中国旅行のためお休みで、替わって西村秀己さん(本会全国世話人)が進行役を務めました。今回も発表件数と質疑応答が多く、なんとかギリギリに終了することができました。
 今回、興味深かった発表の一つが、飯田満麿さん(本会会計)の「九州王朝の系譜」でした。九州王朝、倭王の系譜復原の試みとして、高良玉垂命系図と松野連系図、それに『二中歴』の九州年号を重ね合わせた試案を提示されました。ベーシックな研究ですが、こうした基礎的で地道な研究も大切です。
 九州王朝系系図の中でも、以前から注目されていたものが「松野連系図」です。倭の五王の名前なども見え、他方、近畿天皇家の天皇は含まれないという系図ですが、そのまま全面的に信用できたものか、疑問点も少なくありません。いずれ、しっかりとした史料批判を行って、当系図の研究を進めたいと願っています。なお、例会当日、松野連系図のコピーを幸いにも竹村順弘さん(会員・京都府木津町)からいただくことができました。この場をおかりして御礼申し上げます。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・古墳時代2」
○研究発表
(1)「彦島物語」私考(大阪市・西井健一郎)
(2)九州王朝の系譜(奈良市・飯田満麿)
(3)『高良記』所引「大菩薩御記文」の紹介
 ─『先代旧事本紀』との比較─(京都市・古賀達也)
(4)闇の中に消された「竺志」(岐阜市・竹内強)
(5)「親王」と「皇子」と「王」の間3
 ─「王の舞」は九州王朝から来たか─(相模原市・冨川ケイ子)
(6)14C年代測定値の読み方(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 9/24講演会の準備・古田氏近況・会務報告・阿漕的仮説追加・他(奈良市・水野孝夫)


第28話 2005/09/16

卑弥呼(ひみか)の子孫は?

 古代の有名人と言えば、邪馬壹国(「邪馬台国」とするのは誤り。三国志原文は「邪馬壹国」やまいちこく)の女王卑弥呼(ひみか)でしょう。その卑弥呼の御子孫は続いているのでしょうか。結論から言うと、魏志倭人伝には卑弥呼は独身だったと記されていることから、直系の子孫はいないと思われます。しかし、後を継いだ同族の娘、壹與(「台與」とするのも誤り。原文は「壹與」)の子孫はいる可能性があります。
というのも、筑後国風土記逸文に次のような記事があるからです。

 「昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いた)く多なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に、筑紫君・肥君等占へて、今の筑紫君等が祖甕依姫(みかよりひめ)を祝と為して祭る。爾より以降、路行く人、神に害はれず。是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。」

 この甕依姫(みかよりひめ)が卑弥呼のことである可能性が極めて高いことを古田先生は論証されましたが、そうすると甕依姫が「今の筑紫君等が祖」と呼ばれているように、風土記成立時点の「今」、おそらく6〜7世紀、あるいは8世紀時点の筑紫の君の祖先が卑弥呼であったことになります。すなわち、筑紫の君磐井や薩夜麻らが卑弥呼や壹與の一族の出であることになります(直接には壹與の子孫)。九州王朝の王であった筑紫の君の御子孫が現存されていることは、以前に述べましたが、この御子孫達が壹與直系の可能性を有しているのではないでしょうか。もちろん、九州王朝王家の血統も複雑のようですから、断定は控えますが、興味有る「可能性」だと思います。