第66話 2006/03/11

多元史観の木簡研究

 金石文や文献など、古田史学は多方面にわたり、多元史観による新たな歴史学を展開してきました。しかし未だほとんど手つかずの領域があります。その一つが木簡研究です。
 すでに古田先生により、伊場木簡の「若倭」の多元史観的読解などが提起されていますが(『倭人伝を徹底して読む』)、本格的で総合的な研究は古田学派内部でもまだ行われていません。そうした中で、「古田史学の会・東海」の林俊彦さんによる論稿「呪符の証言」(「東海の古代」69号、『古田史学会報』73号転載予定)などは、多元史観による新たな木簡研究であり、注目されるところです。
 木簡は記紀などのように近畿天皇家により政治的に改竄編集された史料ではなく、文字通りの同時代史料であるため、史料批判などが行いやすく、史料として扱いやすいのですが、他方、断片的文字史料であり、主に「荷札」として使用されたケースが多いため、歴史事実全般を解明する上では多くの限界もかかえています。
 そのような木簡研究を、わたしは今年のメイン研究テーマとしました。そして、その成果報告の第一段として、「木簡のONライン−九州年号の不在−」を3月18日の関西例会にて発表します。多くの皆さんに聞いていただき、批評していただきたいと願っています


第65話2006/03/04

「古田史学の会・東海」

 このホームページでご紹介していますように、「古田史学の会・東海」のホームページが新たに開設されました。是非、のぞいてみて下さい。古田史学の会の本部機能(事務局は京都の拙宅)は「関西の会」が受け持っていますが、会員が集中している地域には独自に地域の会があり、例会活動などが行われています。そのうちの一つが「東海の会」として「古田史学の会・東海」を名乗っています。代表者は林俊彦さん(本会・全国世話人)です。昨年は、わたしも名古屋市での「古田史学の会・東海」の例会で講演させていただきました。本年も機会があれば、また行きたいと思っています。
 東海の他にも、「古田史学の会・北海道」「古田史学の会・仙台」「古田史学の会・四国」そして「古田史学の会・関西」で例会活動などが行われています。関東地区は友好団体の多元的古代研究会と東京古田会がありますので、古田史学の会としては組織的な活動を行っていません。長野県松本市にはやはり友好団体の「古田史学の会・まつもと」がありますが、こちらは当会とは別の独立した会です。
 本会の地域の会の連絡先は下記の通りです。ご近所の方で例会などに参加してみたいという人は一度ご連絡下さい。

2016年6月 改訂

地域の会の連絡先は、責任者が代わっていますの削除。

2019年 3月

「古田史学の会・東海」(http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/index.htm)のホームページが替わりました。


第64話2006/02/25

『耳納』
 先日、『耳納』254号が送られてきました。『耳納』と書いて「みのう」と読みます。福岡県筑後地方の教育関係者や郷土史家で構成される「福岡県うきは・三井・久留米教育耳納会」が発行する雑誌で、教育や郷土の歴史に関する原稿が掲載されています。雑誌名の『耳納』は筑後地方をはしる水縄連山の「みのう」の別字表記です。耳に納めるという、なんとも含蓄のある表記ではないでしょうか。
 この『耳納』は戦後まもなく筑後地方の教師により発行されたもので、全国的に見ても同類の雑誌では最長の歴史を有しています。この『耳納』をあるときは一人で支えてこられたのが吉井町の教師で郷土史家の石井康夫先生です。石井先生は戦後教育史を体現されてきた人物と言っても過言ではないでしょう。温厚な先生ですが、教育や平和運動、郷土に深い愛情と情熱を注いで来られました。わたしが尊敬する人物のお一人です。
 わたしも数年前より同会に入会させていただき、百姓一揆や古代史に関する論文を『耳納』に掲載していただいています。江戸時代の久留米藩百姓一揆の指導者の墓を調査されていた石井先生に父の紹介でお会いしたのが、お付き合いのきっかけでした。ちなみに、わたしの七代前の先祖(西溝尻村庄屋・古賀勘右衛門)が、浮羽郡の一揆の指導者でさらし首になったのですが、その墓を父や地元の人々が守っていたのでした。
 『耳納』254号には通説に基づく古代史の紹介なども掲載されていますが、他の雑誌とはちょっと違うのが、その中にきちんと九州王朝説も紹介されていることです。同会の事務局は下記の通りです。興味のある方は、問い合わせて見て下さい。

福岡県うきは・三井・久留米教育耳納会 事務局
〒839−1226
久留米市田主丸町八幡457
永松勲様方
電話090−9473−3477


第63話2006/02/17

『北斗抄』

 昨年10月に物故された藤本光幸さん(第39話参照)の妹、竹田侑子さんより待望の一冊が送られてきました。和田家資料3『北斗抄』(藤本光幸編・北方新社。2000円+税)です。これには『北斗抄』全29巻のうち、1〜10巻が採録されています。詳細は巻末の竹田さんによる「あとがき」を読んで下さい。
 和田家文書は江戸時代から明治・大正・昭和へと書写、書き継がれた文書であり、中でもこの『北斗抄』には明治期の文書も編集されており、十分かつ慎重な史料批判が必要な文書です。わたしも津軽で実見しましたが、歴代の書写者の息吹が随所に感じられました。
 また、本書には貴重な一論文が末尾に採用され、光彩を放っています。竹内強さん(本会会員・岐阜市)による「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」です。執念の現地調査により、『北斗抄』に使用されている美濃和紙が明治時代のものであったことを証明された記録です。この調査報告は昨年の古田史学の会会員総会(大阪市)の際に口頭発表されたものですが、今回論文として寄稿されたことにより、多くの方に読んでいただけることになりました。竹田侑子さんのご尽力の賜です。
 今回の発行に続いて、11巻以降の『北斗抄』も刊行されるとのこと。故藤本光幸さんと竹田侑子さん兄妹の刊行への取り組みに敬意を表すとともに、微力ではありますが、これからも応援していきたいと思います。

参照

真実の東北王朝』古田武彦(駸々堂 絶版)

日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー 西村俊一氏


第62話2006/02/12

海を渡った舞女たち            
       
       
         
 昨日は、家の近所にある京都府立文化芸術会館で行われた「第27回Kyoto演劇フェスティバル」へ行き、劇団T・E・Iによる「終わりこそ始めなれ〜
母なる思いを求めて〜」という劇を見てきました。沖縄、広島、満州(大陸の花嫁)の語り部による詩や俳句・短歌の朗読を中心とした、暗く重いテーマを題材
とした劇でした。
 劇団T・E・Iは同志社中学校演劇部OBやOGが急遽集まってできたユニットで、出演者は全員10代20代前半の若い女性。その彼女等が語り部の老人に
扮して60年前の戦争を語るという設定で、「生ましめんかな」(栗原貞子作)や「わたしが一番きれいだったとき」(茨木のり子作)などの詩を中心に舞台が
展開します。
 語り部が重々しくそれぞれの戦争体験を語り、「わたしが一番きれいだったとき、町にはジャズが流れていた」という一節の後、照明や出演者の衣装は一転
し、若い乙女に戻った語り部たちが「イン・ザ・ムード」の軽快なテンポにのって嬌声と共に華やかなジャズダンスを繰り広げ、ラストとなりました。
  これも「戦争体験」を新しい世代が語り継ぐ一つの試みなのだと思いながら、若さ溢れるダンスをまぶしく見ていました。同時に、歴史や戦争に翻弄された多くの女性たちに思いを馳せたとき、15年前に研究していた『旧唐書』の次の一節を思い起こしました。

 「渤海使、日本国の舞女十一人を献ず。」(『旧唐書』本紀・大暦十二〈777〉年)

 渤海国の使者が日本国の舞女11人を唐の皇帝へ献上したという記事ですが、この11人の舞女たちは、いつどのような事情で渤海国へ渡ったのでしょうか、
そして唐での運命はどうなったのでしょうか。史書は何も語っていません。歴史を学ぶ者の一人として、舞女たちの運命に心を痛めずにはいられません。
   久しぶりの観劇に、現代史と古代史がオーバーラップした瞬間でした。どうか、世界が平和へ向かいますように。世界の人々やこの娘達が幸福な人生でありますように。


第61話2006/02/04

「万世一系」の史料批判

 「学問はナショナリズムに屈服してはならない。」「日本国家のナショナリズムの欲望によって『歴史の真実』を曲げること、これは学問の賊である。」「学問は政治やイデオロギーの従僕であってはならない。『歴史の真実』を明らかにすることと、現代国家間の政治的利害を混同させてはならない。そのような『混同の扇動者』あれば、これに対してわたしたちは、ハッキリと『否(ノウ)』の言葉を告げねばならぬ。それがソクラテスたちの切り開いた、人間の学問の道なのであるから。」

 以上は古田先生の言葉です(『「君が代」、うずまく源流』新泉社・1991年)。昨今問題となっている皇室典範の改正について、「諮問会議」やら御用文化人、御用学者の跋扈ぶりは目に余るものがあると言ったら、はたして言い過ぎでしょうか。不遜を承知で言わしていただければ、こうした問題は世界の人々の面前で、広く学問的に歴史的に論議を尽くして合意形成をはかるべきテーマであるように思います。一内閣の意向や功名心でリードするべき問題とは思われません。
 そのような中で、皇位継承の根元的な問題の一つである「万世一系」について、古田先生が講演されることは、まことに時宜にかなったものです。古田史学の会では、来る2月18日(土)、大阪市の中央電気倶楽部において古田先生の講演会を開催します。演題は『「万世一系」の史料批判─九州年号の確定と古賀新理論(出雲)の展望─」。天皇家は本当に「男系」なのか等、歴史学的な考察と現代史的意義が語られると思います。多くの皆様のご来場をお願いいたします。ナショナリズムや政治・イデオロギーに屈服しない学問、古田史学の真骨頂が聞けます。


第60話2006/01/28

鶴見山古墳出土毛髪、DNA分析へ

 今日は朝から一日、ベートーヴェンの第九(フルトヴェングラー指揮・バイロイト祝祭管弦楽団、1951年)を繰り返し聴いていました。合唱の部分では、フロイデ・シェーネル・ゲッテルフンケンと鼻歌混じりで『古田史学会報』72号の校正と編集の仕上げを行い、ようやく完成させました。後は印刷所へ郵送するだけです。それにしても、ベートーヴェンの第九を聴くと、元気が出てくるから不思議です。
 話は変わりまして、今月の21日、福岡市の上城誠さん(本会・全国世話人)から同日付けの西日本新聞がファックスされてきました。見出しには「磐井一族の毛髪初出土」「市教委DNA分析へ」の文字が。
 「洛中洛外日記」第21話で紹介した、八女市鶴見山古墳出土の銅鏡片に付着していた毛髪のDNA分析が行政により行われることになったようです。別にわたしの提言が受け入れられたというけではないでしょうが、磐井一族の毛髪が注目され、科学的に分析されることは大変よいことです。歓迎したいと思います。
 記事によれば、「DNAが分析できれば、被葬者の性別が特定されるほか、出自が在地系か渡来系か、病気の有無などから死因の解明にもつながる」とありますが、どうせやるのなら、地元の協力も得て、御子孫がいないかどうかも調べて欲しいものです。わたしたちの調査では九州王朝の御子孫の家系が一部明らかになっていますから、是非、ご協力の下、調査してもらいたいものです。
 フランスでは氷河に閉じこめられたかなり大昔のミイラ化した遺体のDNA鑑定を行い、その御子孫を発見したという話を聞いた記憶があります。日本でも同様の分析調査は可能だと思います。御子孫のプライバシー尊重を前提としながらも、取り組んでもらいたいと思いますが、いかがでしょうか。


第59話2006/01/24

『古田史学会報』72号のご案内

 『古田史学会報』72号の編集がほぼ完了しました。2月初旬には会員のお手元へ届けることができます。本号の内容は下記のとおりです。大量の漢字の羅列が続く藤本稿のワープロ入力は、太田斉二郎副代表に担当していただきました。聞けば、校正には奥様も手伝われたとか。有り難うございました。

『古田史学会報』72号の主な内容
 「天香山」から銅が採れるか(相模原市・冨川ケイ子)
 遺稿・「和田家文書」に依る『天皇紀』『国紀』及び日本の古代史についての考察2(藤崎町・藤本光幸)
 「ダ・ヴィンチ・コード」を読んで(豊中市・木村賢司)
 連載小説「彩神」第十一話  杉神(5)(深津栄美・町田市)
 私考・彦島物語 筑紫日向の探索(前編)(大阪市・西井健一郎)
 隅田八幡伝来「人物画像鏡銘文」に就いて(奈良市・飯田満麿)
 石走る淡海(京都市・古賀達也)
 佐賀の「中央」碑(京都市・古賀達也)
 年頭の挨拶・会活動への積極的参加を(水野孝夫代表)
  関西例会のご案内 
 ・古田武彦氏新春特別講演会のご案内
 ・史跡めぐりハイキング・他


第58話2006/01/22

浦島太郎は「日下部氏」

 昨日は古田史学の会・関西例会と午後からは新年講演会が開催されました。例会では大下さんから韓国における前方後円墳の発見状況や日本と同形式の石室などの研究状況が報告されました。
 新年講演会は既にお知らせしてきましたように、浦島太郎の御子孫の森茂夫さん(本会会員、京丹後市網野町)に講演していただきました。美しいカラーのプロジェクターを駆使し、臨場感溢れる講演となりました。レジュメも森家系図コピーなど貴重な史料が含まれており、大変充実したものでした。
 お話によれば、森家は元々は日下部氏を名乗っていたとのこと。従って「浦島太郎」も日下部さんだったことになります。また、網野町の有名な前方後円墳である銚子塚古墳の被葬者についても論及され、「丹波の遠津臣」ではないかとの仮説も発表されました。
 現地に根ざした、しっかりとした研究発表で、地元の強みを感じました。なお、森さんは小学校の先生とのこと。どおりでレジュメの作り方や発表がお上手なはず。また、研究が進展されればお聞きしたいと思いました。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・九州の地域学」
○研究発表
 『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで(補足)(豊中市・木村賢司)
 韓国最近の古墳情報紹介(豊中市・大下隆司)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・霊山寺菩提遷那論・他(奈良市・水野孝夫)


第57話2006/01/1

佐賀の「中央」碑

  「日本中央」碑という有名な石碑が青森県東北町にありますが、佐賀県にも「中央」碑があることを林俊彦さん(本会全国世話人、古田史学の会・東海の代表)より教えていただきました。この佐賀県の「中央」碑についてご紹介したいと思います。
  佐賀平野の地神信仰に「チュウオウサン」(中央神)があります。この中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)やうしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っています。文字を刻んだものは「中央」「中央尊」「中央社」とあるそうです。これが今回紹介する佐賀の「中央」碑です。これらは大地の神を祀ったもので、旧佐賀市内や神埼郡に多く分布しているそうです。
 この中央神は肥前盲僧の持経「地神陀羅尼王子経」などに、荒神が中央を占めて四季の土用をつかさどると説くことに由来するとされていますが、もしかすると、この佐賀の「中央」碑は青森県の「日本中央」碑と同じ淵源を持つのではないでしょうか。それは次のような理由からです。
 青森の「日本中央」碑は「日の本将軍」とも自称していた安倍・安東と関係するものと思われますが、古代では蝦夷(えみし)国だった地域ですし、東北や関東に分布する荒覇吐(アラハバキ)信仰とも繋がりそうです。一方、佐賀(北部九州)には『日本書紀』神武紀に見える次の歌謡があり、蝦夷との関係が指摘されています(古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、1992年)。

「愛瀰詩(えみし)を 一人 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たむかひ)もせず」

 古田氏によれば、これは天孫降臨時の天国軍側の歌(祝戦勝歌)であったとされ、侵略された側の人々は「愛瀰詩」と呼ばれていたことがわかります(おそらく自称)。津軽の和田家文書によれば、この侵略された人々(安日彦・長髄彦)が津軽へ逃げ、アラハバキ族になったとされています。従って、神武歌謡の「愛瀰詩」と東北の蝦夷国とは深い関係を有していたこととなります。そして、その両地域に「中央」碑が現在も存続していることは偶然とは考えにくいのではないでしょうか。「中央」信仰が両者に続いていたと考えるべきではないでしょうか。
 先に紹介しましたように、佐賀の「中央」神が「荒神」とされていたり、庭先の北西や北東に祀られていることも、東北の蝦夷国や荒覇吐信仰との関係をうかがわせるに充分です。また、佐賀県三養基郡に江見という地名がありますが、これもエミシと関係がありそうな気がしています。
佐賀の「中央」碑は「あまりそまつにしても、あまりていねいにお祭りしてもいけない」とされているそうで、侵略された側の神を祀る上での民衆の知恵を感じさせます。


第56話2006/01/09

岩走る淡海・補考

 『万葉集』に見える枕詞「岩走る」について、第52話で仮説を発表しました。それは、熊本県球磨川河口の「淡海」を舞台に、宇土半島産の阿蘇ピンク石を船で海上輸送した風景を「岩走る淡海」と表現したことに始まるのではないか、というものでした。この仮説発表以来、賛否両論が寄せられましたので、一部をご紹介したいと思います。
 まずは武雄市の古川清久さん(本会会員)からで、基本的に賛成された上で、阿蘇ピンク石が産出する馬門地区は宇土半島の北側にあり、球磨川河口とは反対側であることが問題点とご指摘いただきました。さすがは現地に詳しい古川さん。なるほどと思いました。私の仮説の弱点を見事に指摘していただき、感謝申し上げます。今後の検討課題にしたいと思います。
 次は大和田さんという方からのご意見。 3230番歌の「石走る甘南備山」等に着目され、「岩走る」とは石垣や列石の表現ではないかとされ、「石走る甘南備山」とは神籠石を意味するとされました。確かに雷山神籠石や高良山神籠石など山の急斜面に延々と並ぶ列石を、「岩走る」と表現してもおかしくありません。他方、「岩走る淡海」についは、「淡海」を博多湾岸付近の海とされ、倭国の玄関口を護る石垣があったのではないかと推測されています。これも、なかなか面白い説だと思いました。
 こうした指摘や別の違った仮説の提起は、学問にとって大切なことで、有り難く受け止めたいと思います。わたしも更にじっくりと考えたいと思います。歴史の真実は逃げたり無くなったりしませんから、時間をかけて検討します。また、進展があれば御報告させていただきます。


第55話2006/01/04

「ドラゴン桜」
 明けまして、おめでとうございます。
 本年も「洛中洛外日記」をよろしくお願い申し上げます。
 昨年の大晦日は、佐賀県の吉野ヶ里温泉へ母と二人で行き、のんびりと湯につかりました。実家のある久留米市から西鉄バスで吉野ヶ里温泉まで行ったのです
が、温泉の最寄りのバス停は「東目達原」と言い、「筑紫米多の国造」(『先代旧事本紀』)など古代史上でも有名な場所です。その一つ久留米寄りのバス停は
「防所」(ぼうじょ)という名称で、これも古代の防人の駐屯地に由来する名称とされています。この他にも興味深い名称のバス停があり、なかなか楽しい「バ
ス旅行」でした。

 温泉以外にはあまり外出もせず、家でゴロゴロとテレビを見ていました。なかでも「ドラゴン桜」や「女王の教室」などのドラマの再放送があったので、全編
しっかりと見込んでしまいました。とくに「ドラゴン桜」は偏差値34の落ちこぼれ高校の生徒を東大に合格させるというドラマで、東大入試のための特別教育
や受験戦術など、けっこう面白く見ました。そこで思い出したのが、古田先生の松本深志高校時代のエピソードです。
 古田先生が松本深志高校の新米教師だった時、岡田甫校長の特命により東大への合格率を上げるための対策を検討することになりました。古田先生は東大受験
の過去問を徹底的に調査され、外国語に注目されました。当時、東大入試には外国語として英語とフランス語の選択制となっていました。両問題を比較したとこ
ろ、英語はやたら難しいがフランス語は基礎的な問題で簡単であることを発見されたのです。そのことを岡田校長に報告し、深志高校にフランス語課を設立し、
東大入試にはフランス語で受験する方針をとることにしました。そして、その成果が出て、同校の東大進学率は向上したとのこと。
 この他にも、とても東大には合格できないような生徒を苦心して合格させたことなど、いろんなエピソードをお聞きしました。別の機会に紹介したいと思いま
す。もっとも、教え子の方のお話では、通常は古田先生は自由奔放な授業をされたとのこと。どちらも、古田先生らしいなと思いました。