第23話 2005/08/19

高良玉垂命と九躰皇子
 Aさんの御先祖は系図によれば高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)といい、筑後国一ノ宮の高良大社(久留米市)の御祭神です。高良玉垂命には九人の子供がおり、九躰皇子(きゅうたいのおうじ)と呼ばれ、高良大社が鎮座する高良山、その北側の阿志岐に九躰皇子宮があり、そこに御祭神として祀られています。子供達が「皇子」と呼ばれていることからもうかがえるように、高良玉垂命は「皇子」の父親たる「天皇」か「天子」だったのです。九州王朝の天子です。
 歴代の九州王朝の王(倭王)は筑後にいるときは玉垂命と呼ばれていたようで、江戸時代の地誌『太宰管内志』によれば、九州年号の端正元年(589)に玉垂命が没したとありますから、このころまで倭王は玉垂命とも呼ばれていたのではないでしょうか。
 端正元年に没した玉垂命(倭王)の次代には、あの輝ける日出ずる処の天子、多利思北孤が即位したものと推定されます。というのも、端正三年(591)には上宮法皇(法隆寺釈迦三尊像光背銘による)たる多利思北孤の年号「法興」が始まるからです。なお、七世紀初頭には日本初の条坊制を持つ巨大都市太宰府が創建されていますので、多利思北孤は筑後から筑前太宰府へ移ったものと考えられます。
 九州王朝倭国は兄弟による統治を行っていると『隋書』に記されています。九州王朝王家の血統も単純ではないようです。おそらく、兄弟などで枝分かれした複数の血統が併存したものと予想していますが、詳しくはわかりません。今後の研究課題です。(つづく)

関連する報告として古賀氏の
玉垂命と九州王朝の都(古田史学会報二十四号)を参照


第22話 2005/08/18

九州王朝の末裔

 本会機関紙『古田史学会報』は会員以外に国会図書館や友好団体、会の友人の皆様にもお送りしていますが、その友人の一人に福岡県八女市のAさんがおられます。Aさんからは二ヶ月に一度、会報を送る度に丁重なお礼の電話をいただきます。会報の感想もうかがうことができ、大変熱心な読者でもあります。そのAさんですが、なんと九州王朝の御子孫の一人なのです。
 Aさんと古田先生の出会いは、今から約20年ほど前のことです。古田先生が八女市で講演をされ、その後の懇談会席上でAさんが、九州王朝の末裔であることを名乗り出られたそうです。その時はAさんをよく知る地元の人も大変おどろかれたそうです。
 Aさんは古田先生の九州王朝説のことを以前から知っておられたらしく、これが自分達の先祖のことであると気づいたそうですが、著者の古田という人物がどのような人か判らないので、今まで黙っていたとのこと。一族の者とも相談の上、古田先生の講演を直接聞いてみようということになり、その結果、この人なら大丈夫と思い、名乗り出ることを決心したとのことです。大変ドラマティックな出会いです。
 その後、古田先生はAさんの御自宅で家系図を見せていただき、驚愕されたそうです。その系図には七世紀以前の人名に「天皇」や「天子」「○○皇」などがずらりと並んでいました。七世紀末以降は普通の人名になり、古田先生の九州王朝説(701年に滅亡。大和朝廷と列島の代表者を交代)とよく対応していたのです。(つづく)

古田武彦「高良山の『古系図』」『古田史学会報』35号参照


第21話 2005/08/13

鶴見山古墳出土の毛髪付着銅鏡片

 鶴見山古墳からは今回の石人以外にも極めて興味深いものが出土していました。岩戸山歴史資料館(2015.11 八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷(さと)」に移転)のホームページによれば、鶴見山古墳から毛髪が付着した銅鏡片が出土しており、筑紫君一族の唯一の遺髪と紹介されています。毛髪が付着した銅鏡が出土するのも大変珍しいことのように思いますが、鶴見山古墳の場合、筑紫君磐井一族の墳墓である可能性が高いため、その価値ははかり知れません。というのも、毛髪のDNA鑑定によりその御子孫を発見できる可能性があるからです。
 古田学派内では九州王朝の末裔調査をこれまでも進めてきましたが、八女市やその近郊にその御子孫であるI家やM家が現在もおられることを確認しています(系図が存在。古田武彦「高良山の『古系図』」『古田史学会報』35号参照)。プライバシー保護や皇国史観による思想的物理的圧力など、いろいろと困難な問題もありますが、DNA鑑定により筑紫君磐井の御子孫と確認できれば、歴史学的にも素晴らしい成果となるでしょう。岩戸山古墳石室の学術発掘とならんで、是非実現させたいテーマの一つです。
 九州王朝は六世紀中葉の磐井とその子供達の時代から、六世紀末から七世紀初頭にかけての輝ける天子(日出ずる処の天子)多利思北孤(タリシホコ)の時代へと移ります。この時代は本格的に倭国王家が仏教を受容(倭国王の仏教信仰、出家)し始めた時代ですが、これと対応するように、八女丘陵から前方後円墳が姿を消していきます。恐らく、倭国王家で火葬と薄葬が流行したものと推測されます。そうした視点からも、鶴見山古墳が八女丘陵最後期の前方後円墳であり、そこから石人や毛髪が出土したことは興味深いことと言えるでしょう。

関連する報告として古賀氏の

玉垂命と九州王朝の都(古田史学会報二十四号)

高良玉垂命と七支刀(古田史学会報二十五号)

高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝(古田史学会報二十六号)があります。


第20話 2005/08/12

続・鶴見山古墳出土の石人の証言

 鶴見山古墳から今回出土した石人は、鼻と両腕の一部が削られていたとのこと。ここにも重要な問題が含まれています。
 今までは磐井の墓の石人などは、「磐井の乱」で大和朝廷軍により破壊されたと理解されてきました。しかし、息子の葛子がその後も健在なのに、父親の墳墓の破壊を修復しなかったと考えるのも変なものです。ましてや、今回の発見により磐井の後継者(葛子か)の墓にも石人があったとなると、ますますおかしなことになります。父親の墓の石人は破壊されたままにしておいて、葛子は自らの墓の石人を造ったとなるからです。一般庶民の墓の話ではありません。筑紫の王者の墓なのです。当然、破壊されていれば修復するのが当たり前です。このように、従来の理解はおかしかったのです。そして、今回の発見は更に矛盾を増大させます。
 磐井の後継者の墓の石人も削られていたという事実は、「磐井の乱」とは無関係な、もっと後の時代に何者かが削ったと考えざるを得ないのですが、通説ではこの点をうまく説明できません。ところが、古田説では簡単に説明ができるのです。
 古田先生の最近の説(「講演録・『磐井の乱』はなかった」『古代に真実を求めて』8集所収)では、岩戸山古墳の石人などを破壊したのは、白村江で勝利した唐の筑紫進駐軍が行ったものとされました。七世紀後半のことです。ですから、破壊は岩戸山古墳にとどまらず、鶴見山古墳を含む九州王朝の王者の墳墓全体に及んだ可能性があります。この時の破壊の痕跡が、今回発掘された石人の傷跡だったと理解すれば、一連の考古学的事実を無理なく説明できます。
 中国では南朝の陵墓が徹底的に北朝により破壊されています。南朝に臣従していた磐井ら倭王の墳墓も、唐の軍隊に破壊されたという古田説は説得力がありますが、わたしはもう一つの可能性にも留意しておきたいと考えています。それは、701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交代に伴う、大和朝廷側による破壊という可能性です。『古事記』『日本書紀』では、磐井は大和朝廷に逆らった反逆者として記されています。こうした主客転倒させたイデオロギーを『日本書紀』により流布させた大和朝廷により、岩戸山古墳や鶴見山古墳の石人は壊された可能性はないでしょうか。(つづく)


第19話 2005/08/11

鶴見山古墳出土の石人の証言

 先日、福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)からお電話があり、八女古墳群の鶴見山古墳からほぼ完全な石人が出土したことを知らせていただきました。さっそくインターネットで各新聞の記事などを見ましたところ、いろいろと面白い問題があることに気づきました。
 それぞれの記事に共通した論調として、鶴見山古墳が磐井の息子の葛子の墓である可能性が高まったこと、「磐井の乱」以後も磐井の後継者の影響力が続いていたこと、などが見受けられました。通説では「磐井の乱」で磐井が滅んだ後は大和朝廷の勢力下に筑紫がおかれたと見られていたのですが、磐井の墓の岩戸山古墳と同様の石人が八女古墳群最後期の前方後円墳である鶴見山古墳からも出土したことにより、こうした考えを見直さざるを得なくなったようです。
 しかし、古田説に立てば事は明快です。磐井は九州王朝の王、すなわち倭王であり、近畿なる継体のほうが倭王磐井に対して起こしたのが「磐井の乱」の真相です。ですから、「継体の反乱」と読んだ方が正確です。しかも、この反乱は磐井当人を倒しはしたものの最後まで勝つ事(筑紫の制圧と実効支配)は出来ずに、事実上の継体側の敗北で終わっています。これらについては、古田武彦著『失われた九州王朝』(朝日文庫、ミネルヴァ書房から復刻の計画があります)をご参照下さい。なお、最新の古田説では「磐井の乱」「継体の反乱」というものは、そもそも無かった、という方向に展開しています。このことについては別の機会に触れたいと思います。
 「継体の反乱」以後も九州王朝は健在(たとえば、その後も九州年号は連綿と続いている)ですから、磐井の後継者の墳墓に石人が存在していても、何ら不思議とするところではなく、むしろ当然といった感じです。こうした点からも、今回の石人発見は古田説に有利な考古学的事実と言えるでしょう。


第18話 2005/08/06

『有明海異変』読後感

 第17話にてお名前を紹介した古川清久さんには『有明海異変』(不知火書房)という素晴らしい著書があります。本年一月、古川さんより贈っていただいたこの本を、一気に読み終えた記憶があります。諫早湾の干拓による環境破壊やダムの問題点などを冷静な筆致と徹底したフィールドワークに基づいて書かれた同書を読んで、わたしはその方法に古田史学と共通するものを感じたのでした。しかも、筆者の暖かい人間性や自然を愛する息吹を感じることのできる本だったのです。

 いわゆる社会運動家の書いた本には、過度な感情論に終始するものや、独りよがりの「正義」感(イデオロギー)で思考停止したものも少なくありませんが、古川さんの著作はそれらとは全く異なったものでした。中でも、ダムに反対しつつも、ある優美なダムの姿(白水ダム・大分県)を写真入りで紹介し讃美する箇所を読んで、古川さんの健全な美意識に深く共感しました。更にダムを壊す公共事業の提言など、現実性を伴った解決策を述べるところも秀逸です。

 わたしはこの本を通じて古川さんの人となりを知り、お付き合いを始めました。とは言っても、電話とメイルのやりとりだけで、お会いしたことはまだありません。古川さんは古田史学に共感して、わたしに著書を贈ってくださったようですが、わたしは古田史学を通じて知己を得たのでした。このように古代史にとどまらず現代史まで勉強できるのは、有り難いことです。
なお、古川さんの論文(歴史関連もあり)はホームページ「有明海・諫早湾干拓リポート1・有明海・諫早湾干拓リポート 2」に掲載されています。


第17話 2005/08/05

「淡海は琵琶湖ではなかった」

 古田史学の会内部でしばしば研究テーマとなっているものに、「淡海」はどこかという問題があります。口火を切られたのが木村賢司さん(会員・豊中市)で、『万葉集』に見える「淡海の海」を全て抜き出され、その歌の内容から通説の琵琶湖ではありえないとされました(「夕波千鳥」、『古田史学会報』38号)。そして、淡海の海を博多湾近辺の海ではないかとされました。
 古田先生は現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされ、後に阿波(徳島県)近海と考察されるに至っています。
 西村秀己さん(本会全国世話人・向日市)は『倭姫命世記』に見える「淡海浦」の地勢記事から熊本県八代市の球磨川河口付近とする説を関西例会で口頭発表されました。
 いずれの説も一理あるものの決め手に欠けていました。そんな中で発表されたのが、水野孝夫さん(本会代表・奈良市)の「阿漕的仮説 — さまよえる倭姫」(『古田史学会報』69号)でした。その結論は西村説を裏づけるものですが、『倭姫命世記』に記された淡海浦の記事、すなわち西に七つの島があり、南には海水に淡水が混じって淡くなるという海域が八代市球磨川河口(球磨川の伏流水が水島付近で湧き出している)に存在することを見つけられたのでした。しかも、対岸の天草には放浪するお姫様の伝承を持つ姫戸などの地域があったのです。すなわち、倭姫伝承も九州王朝の伝承からの盗用だったのでした。
 これらの発見には、当地や有明海などに詳しい古川清久さん(会員・武雄市)の協力があったそうですが、こうした共同作業などは古田史学の会の持つ特長です。プロの学者でもできないような新発見が古田学派内では次々と行われています。あなたも古田史学の会に入って、一緒に研究しませんか。

「阿漕的仮説−さまよえる倭姫−」(『古田史学会報』69号)参考資料

ひぼろぎ逍遥阿漕(あこぎ)を参照

鯨魚(いさな)の問題や、歌そのものについては下記通り。

古田氏の「淡海」の過去の見解である『和名抄』の邑美については下記をご覧下さい。
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

この歌に対する古田氏の最新の理解(阿波の国、四国徳島近辺)については、
『古代に真実を求めて』 (第八集 明石書店)講演記録「原初的宗教の資料批判」の質問一をご覧ください。


第16話 2005/07/31

新東方史学会の立ち上げ

 この度、古田先生は新たな事業を推進するために「新東方史学会」を立ち上げられることになりました。その新規事業とは次の三点です。

(1)雑誌『古田学』(仮称、年2回)の創刊。ミネルヴァ書房から発刊されることになっています。古田先生が編集責任者。
(2)小規模な学会「国際人間観察学会」を設立し、学術誌(全て英文論文、年1回)を発行。全世界へインターネットでも発進します。同学会事務局の設置。
(3)インターネットの取り組みとして、古田先生から全国へのメッセージを発信。

以上の事業を推進する統括組織として新東方史学会が立ち上げられます。9月17日(東京)、24日(京都)には立ち上げのための講演会を開催します。なお、新東方史学会の役員人事などは両講演会にて発表されます。多くの皆様のご来場をお願い申し上げます。
 古田先生の、おそらくは生涯の学問的事業の総決算として今回の立ち上げを企画されたものと思われますが、古田先生を応援する団体(東京古田会、多元的古代研究会、古田史学の会)も全面的に協力していきます。詳細は順次お知らせいたします。

古田武彦氏から、新東方史学会創立の「宣言」が発表されました

第32話 2005/10/01 新東方史学会会長に中嶋嶺雄氏 へ


第15話 2005/07/31

『古今和歌集』の読み人知らず

 昨日の古田先生の講演会は大盛況でした。会場の京都市商工会議所ホールには250名の聴衆が訪れ、上岡龍太郎さんや公明党の角替豊府会議員らも見えておられました。もちろん本会会員も各地から多数参加され、懐かしいお顔もありました。
 1部はわたしと古田先生の対談形式で「古田史学入門編」ということでしたが、古田先生のお話が熱気を帯びて、時間オーバー。わたしは時計を見ながら冷や汗ものでしたが、初めて古田史学に接した方にも好評で、終了後、感動の声が寄せられました。
 2部の講演では「君が代」に関する新たな発見として、『古今和歌集』の「読み人知らず」問題に触れられました。『古今和歌集』1111首の内、なんと425首が読み人知らずとのこと(高田かつ子さんの調査)。読み人が書いてある歌では、そのほとんどが平安時代の人物で、これらが「古今」の「今」に相当する歌であることから、それ以外の読み人知らずの425集は「古」と考えざるを得ません。従って425首の多くは九州王朝時代の歌であり、その中に「君が代」も入っています。だから「君が代」は大和朝廷の天皇に捧げられた歌ではなく、九州王朝の天子に捧げられた歌である、との論証でした。
 『古今和歌集』にこれほど多くの「読み人知らず」があるとは思いませんでしたし、「古今」の「古」と「今」が九州王朝と大和朝廷に対応しているという説には、深く考えさせられました。
 終了後、主催者(ミネルヴァ書房・ふくろう会)の皆さんと食事会がありましたが、そこでも靖国神社問題など古田先生の興味深い話が続きました。9月24日のアバンティホール(京都市南区・JR京都駅の南)での講演会では、この話が更に展開されるとのこと。楽しみです。


第14話 2005/07/24

『古田史学会報』の紹介

 わたしたち古田史学の会では年に6回偶数月に『古田史学会報』を会員の皆様に発行しています。内容は古田先生や会員の論文、催し物の案内などが中心です。本ホームページでも順次公開していますが、古田学派の最新研究動向を知る上では『古田史学会報』を読んでいただくのが一番だと思います。
 年会費三千円(一般会員)で講読できます。会費五千円の賛助会員になっていただきますと、会報とは別に会員論集『古代に真実を求めて』(年1回、明石書店刊)も進呈しています。
 本日、ようやく『古田史学会報』69号の編集が終了しました。8月初頭に発行しますが、項目だけ一足早くお教えしましょう。今号も好論文がそろいました。

〔『古田史学会報』69号の論文・記事〕
阿漕的仮説−さまよえる倭姫−(奈良市・水野孝夫)
九州古墳文化の独自性−横穴式石室の始まり−(生駒市・伊東義彰)
『古事記』序文の壬申大乱(京都市・古賀達也)
宮城県からも出ていた遮光器土偶(仙台市・勝本信雄)
イエスの美術(今治市・阿部誠一)
高田かつ子さんとのえにし(奈良市・飯田満麿)
古田史学の会・第11回定期会員総会の報告
「新東方史学会」新発足の報告(古田武彦)
関西例会案内・史跡めぐりハイキング案内
9/24「新東方史学会」立ち上げ古田武彦講演会(京都市)のご案内
書籍特価販売のお知らせ(古田史学の会・書籍部)
「古賀事務局長の洛中洛外日記」を連載開始
事務局便り(古賀達也)


第13話 2005/07/20

関西例会の風景

 7月16日、古田史学の会・関西例会がありました。30名ほどの参加でいつもの会場が手狭に感じられました。関西例会は参加費500円を払っていただければ会員でなくても聴講できます。毎月第三土曜の午前10時から午後4時半まで、途中12時から1時間の昼休みを挟んで行われますが、古田学派の最新の研究状況や古田先生の近況なども聞けて、大変有意義な集いとなっています。
 最初の1時間はビデオ鑑賞で、最近は「森浩一が語る日本の古代」を見ています。各人の研究発表では質疑応答などもあり、時に白熱した論議に発展することも。これもまた、例会活動の良いところです。わたしは研究内容を論文にする前に、かならず例会で口頭発表することにしていますが、質疑応答や批判などを通じて、自分では気づかなかった問題点などが指摘されることもあり、例会の場を重宝しています。
 例会終了後の二次会も楽しみの一つで、参加者の半数以上が二次会へと流れ込みます。もちろん、懇親の他に例会の延長で質疑応答なども行われます。二次会は西井さんがしきっておられるので、安心して飲んで食べられます。ただし割り勘(お酒を飲まない人はやや割安となります)。飲み足りない人は更に三次会へと突入しますが、わたしは最近は遠慮しています。
 7月例会の内容は次の通りでした。あなたも関西例会に参加してみませんか。なお、古田史学の会では札幌・仙台・名古屋・松山でも例会が開かれています。

〔ビデオ鑑賞〕
 森浩一が語る日本の古代・弥生時代西の文化
〔研究発表〕
(1)少数意見の尊重こそ民主主義を向上させる(木村賢司・豊中市)
(2)洛中洛外日記の解説(古賀達也・京都市)
(3)神々の亡命地・信州(古賀達也・京都市)
(4)中国南朝の対朝鮮外交(飯田満麿・奈良市)
(5)九州古墳文化の独自性・石人石馬(伊東義彰・生駒市)
(6)「親王」と「皇子」と「王」の間(冨川ケイ子・相模原市)
(7)月神と壱岐(西井健一郎・大阪市)
(8)「井」姓分布と神八井耳命(古賀達也・京都市)
〔代表からの報告〕
 会務報告・古田氏近況・彦山流記と信貴山縁起絵巻・他(水野孝夫・奈良市)


第12話 2005/07/17

信州のお祭り・御柱

 古代日本列島において文明の衝突・興亡の痕跡が随所に見られます。著名な例では、弥生時代の銅矛文明圏と銅鐸文明圏の衝突、そして銅鐸文明の消滅という考古学的事実があります。この二大青銅器文明圏の衝突と興亡という列島内大事件が神話として残っています。一つは、『古事記』にある大国主の国譲り神話です。
 天国(あまくに)の神々が出雲の主神である大国主に国を譲れと武力介入した神話です。出雲には荒神谷遺跡などから銅鐸を含む大量の青銅器が出土していますが、この神話は銅矛文明圏(天国、壱岐対馬)による銅鐸文明圏の出雲への侵略が「国譲り」という表現で語られているのです。この侵略に最後まで抵抗した神が建御名方神(たけみなかた)です。彼は戦いに敗れ信州の諏訪湖まで逃げます。そして、その地から出ないことを条件に許されます。
 天国の軍隊は、銅鐸文明圏の中枢領域である近畿にも突入を繰り返します。近畿から破壊された銅鐸が出土していますが、これもこの侵略の痕跡でしょう。天国の軍隊は神聖なる祭器である銅鐸を破壊し、銅鐸文明の神々(人々)は東へ東へと逃亡したのです。その様子を「伊勢国風土記」では次のように記されています。天日別命(あまのひわけのみこと)が率いる天国の軍隊が伊勢の国を侵略し、伊勢の王である伊勢津彦は東へと逃げ、彼もまた信濃の国へ住んだと。
建御名方神や伊勢津彦はなぜ信州に逃げたのでしょうか。そして、なぜ天国の軍隊は信州に逃げた彼らを捕らえなかったのでしょうか。ここに、信州が持つ不思議な歴史の謎があります。
 他方、これと共通する風習が中世ドイツにもありました。追われた犯罪者が四本の柱で囲まれた場所に逃げ込めば、役人も手出しができなかったと言われています(阿部謹也『中世の星の下で』ちくま文庫)。四本の柱の中は神聖な地、歴史学でアジールと呼ばれる空間なのでした。これは諏訪大社の御柱とそっくりです。 古代信州は軍隊と言えども侵すことのできない神聖な地、アジールだったのです。だから、追われた銅鐸文明の神々は信州へと逃げた、そう考えざるを得ません。そして、この考えが正しければ、諏訪大社の御柱祭は弥生時代以前にまで遡ることができます。古代日本での文明の衝突を考えるとき、信州のもつこの神聖性はキーポイントとなるのではないでょうか。