第71話 2006/04/16

放棄された巨大石造物と九州王朝

 昨日の関西例会では、意表を突いた新説が竹村順弘さんより発表されました。それは、古代の巨大石造物として有名な播磨の石宝殿などが建造途中で放棄され たのは、九州王朝の滅亡によるものではないかという仮説です。700トンもある巨大石造物ですから、強大な権力者による一大プロジェクトと考えられます が、それなら何故建造途中で放棄されたのかが不明です。こうした問題意識を竹村さんは持たれ、九州王朝の滅亡という国家的変動がその理由ではないかと考え られたのです。これは、言われてしまえばその通りで、従来の一元史観では説明できないテーマではないでしょうか。この問題も『古田史学会報』に書いていた だく予定ですので、お楽しみに。
 冨川ケイ子さんは前月に続いて、中巌円月の『日本書』が禁書になったことによる後世への影響について発表されました。今回は水戸光圀が林羅山らによる『本朝通鑑』編集に圧力を加え、皇国史観一辺倒に記述を変更させたことなどが紹介されました。これも日本思想史上の貴重なテーマで、これからの展開が楽しみで す。
また、新入会の高橋勲さんからは神武の上陸地点についての発表があり、質疑応答が活発になされました。新人の参加により、関西例会はますます白熱してきました。二次会は久しぶりに西井さんの幹事復活で、こちらも盛り上がりました。

  〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
  ○ビデオ鑑賞「東アジア文化と日本」
  ○研究発表
  1)『史記』と『漢書』(豊中市・木村賢司)
  2)筑後将士軍談・他(木津町・竹村順弘)
  3)中国歴代皇帝即位年と年号(奈良市・飯田満麿)
  4)中巌円月『日本書』がもたらしたもの・その2(相模原市・冨川ケイ子)
  5)九州年号のONライン−「大長」年号の史料批判−(京都市・古賀達也)
  6)神武の上陸地点「蓼津」の発見(長岡京市・高橋勲)
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・大和三山多元成立説・他(奈良市・水野孝夫)


第70話 2006/04/08

『古代に真実を求めて』第9集発刊

 今朝の京都は風が強く、満開の桜も一気に散ってしまいそうな気配です。わたしの勤務先の庭には桜の木が1本あり、昨夕は仕事が終わった後、社長以下社員で花見とバーベキューを楽しみました。今日も午後は御所と鴨川の桜を見に行きます。夕方には佐賀県より本会会員の古川清久さんが見えられますので、夕食をご一緒する予定です。
 さて、今年も満開の桜と共に明石書店より本会編集の『古代に真実を求めて』第9集が送られてきました。定価は2600円+税ですが、約400頁のうち、半分が古田先生の講演録と論文で、古田ファンには見逃せない一冊となっています。最新の古田説を知る上でも、また『古田史学会報』に昔掲載された重要論文が採録されており、貴重な史料でもあります。
 掲載された講演録・論文は次の通りです。

1  「釈迦三尊」はなかった 講演録05/01/15 古田武彦
2  古今和歌集 講演録・対談録05/07/30 古田武彦
3  両京制の成立−九州王朝の都域と年号論− 古田武彦
4  高良山の「古系図」−「九州王朝の天子」との関連をめぐって− 古田武彦
5  東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシアから伝わった−封印された早生品種と和田家文書の真実− 佐々木広堂
6 「上・下」「前・後」の地名考−地名に見る多元的古代の証明− 合田洋一
7 「継体紀」の秘密−日本正史を貫徹する一元史観成立の真因− 飯田満麿
8  北部九州の弥生王墓−神武東征の時期を探る− 伊東義彰
9  倭地および邪馬壹国の探求(6)−「更立男王」は直前男王であった− 佐藤広行
10 『古事記』序文の壬申大乱 古賀達也
11  阿漕的仮説−さまよえる倭姫− 水野孝夫


04「釈迦三尊」はなかった

釈迦三尊はなかった in法隆寺

https://www.youtube.com/watch?v=emSqDDAIjAA&t=152s

制作 古田史学の会 編集 横田幸男『古代に真実を求めて』 (明石書店)第9集 講演記録「釈迦三尊」はなかった

古田武彦 二〇〇五年一月十五日(土) 大阪市中の島中央公会堂 講演(一部) 

参照:
『法隆寺 — 日本仏教美術の黎明』  奈良国立博物館
『若草伽藍跡西方の調査』 斑鳩町教育委員会
『法隆寺論争』(家永三郎・古田武彦) 新泉社
『聖徳太子論争』(家永三郎・古田武彦) 新泉社
『古代は輝いていたIIIー法隆寺の中の九州王朝ー 』(朝日文庫)

二〇〇四年十二月 二日 産経新聞 毎日新聞 読売新聞 朝日新聞

若草伽藍跡と宮山古墳・千早・赤坂村 ─古田先生同行記─ 伊東義彰


第69話 2006/03/30

芦屋市出土「三壬子年」木簡

 3月の関西例会で、わたしは「木簡のONライン−九州年号の不在−」というテーマを発表しました。その中で、1996年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡について紹介しました。『木簡研究』第19号(1997)によれば、表裏に次のような文字が記されています。

「子卯丑□何(以下欠)

「 三壬子年□(以下欠) 下部は欠損していますが、この壬子年は652年白雉三年に当たり、紀年を記した木簡としては二番目に古いそうです。さらに『木簡研究』には次のように記されています。

「年号で三のつく壬子年は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(772)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」

 もしこの「三壬子年」の「三」の字が白雉三年のこととすれば、これは大変なことになります。何故なら、昔は年号の初めは大化で、その後に白雉が続くと習ったのですが、現在では『日本書紀』の大化や白雉・朱鳥の年号は使われなかった、あるいは『日本書紀』編者の創作で実際はなかったとする説が有力だからです。こうした有力説に対して、この木簡は白雉年号があったという証拠になるのです。

 更に大変なことに、九州年号説の立場からすると『二中歴』などに記された九州年号の白雉は『日本書紀』の白雉とは2年ずれていて、壬子の年(652)は元年となっています。従って、この木簡が正しければ、『二中歴』などの白雉年号は正確ではないということになり、九州年号の原形を見直さなければならないからです。

 「三壬子年」木簡がこうした重要な問題をはらんでいることに気づいたわたしは、ある疑問をいだきました。この「三」という字は本当に「三」なのだろうか。「三」ではなく「元」ではないのだろうかという疑問です。そこで『木簡研究』掲載の写真やインターネットで下記ホームページの写真を見てみました。そうすると、何と「三」の字の第三画が薄くてはっきりと見えないばかりか、その右端が上に跳ねてあるではありませんか。というわけで、この字は「三」ではなく「元」と見た方が良いと思われるのです。皆さんも下記ホームページの写真を是非御覧下さい。 このように、わたしの判断が正しければ、「元壬子年」となり、九州年号の「白雉元年」と干支がぴったりと一致するのです。すなわち九州年号実在説を裏づける直接証拠となる画期的な木簡となるのですが、結論は実物をこの目で見てからにしたいと思います。

「三壬子年」木簡

『木簡研究』第19号(1997)による

参考 三条九ノ坪遺跡木簡(1点)(平成13年度指定)

三条九ノ坪遺跡木簡(1点) – 兵庫県立考古博物館

http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000w01.html

(リンクがなくなれば「三条九ノ坪遺跡木簡」で検索してください。)


第68話 2006/03/25

『古田史学会報』73号のご案内

 『古田史学会報』73号の編集がようやく終わりました。本号の内容は下記のとおりです。川西市の正木さんは会報初登場。有力新人です。古川さんは「船越」(68、70号)に続いて3作目。今回も力作です。わたしにも会報に論文を書けという声が強まっていますが、ちょっと体力的に限界で、なかなか会報の原稿まで手が回らず、このところ「洛中洛外日記」の転載でお茶を濁しています。次号からは新作論文を発表しようかと思っています。

『古田史学会報』73号の主な内容
 「万世一系」の史料批判(古田武彦)
 呪符の証言(名古屋市・林俊彦)ー参照東海の古代69号、70号
 遺稿・「和田家文書」に依る『天皇紀』『国紀』及び日本の古代史についての考察3(藤崎町・藤本光幸)
 私考・彦島物語IV 国譲り(後編)(大阪市・西井健一郎)
 神武吉野侵攻は「天孫降臨神話」の盗用だった(川西市・正木 裕)
 馬門(武雄市・古川清久)で、詳説掲載
 『北斗抄』(京都市・古賀達也)
 〔読者からのお便り〕佐賀県の「中央」碑(さいたま市・西村俊一さん)
 関西例会のご案内・会員総会のご案内・史跡めぐりハイキング・他


第67話 2006/03/20

鎌倉時代の学問弾圧

 一昨日は古田史学の会・関西例会が開催されました。今回も多くの興味深い発表がなされましたが、中でも冨川ケイ子さんの『中巌円月「日本書」がもたらしたもの』は鎌倉時代の学問弾圧についての考察で、わたしも初めて聞く内容で面白いものでした。鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧侶中巌円月(ちゅうがんえんげつ、1300〜1375)が著した『日本書』という書物が朝廷により禁書となった事件が、江戸時代の学問(歴史学)までに影響を与えたという報告です。詳細は『古田史学会報』にご寄稿いただく予定ですので、ご期待下さい。

 冨川さん以外にも、竹村さんのパソコンを駆使した古代戸籍の分析結果や、竹内さんの仲天皇や袁智天皇という聞き慣れない名前の天皇に関する考察もなかなかの発表でした。それと、足の怪我で休んでおられた西井さんが3ヶ月ぶり参加されたのも、うれしい出来事でした。関西例会は、学問的にも話題的にもますます楽しくなっています。私も気分がのって、三次会まで付き合い、翌日は二日酔いでした。

〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・北と南の地域学」、他
○研究発表
1) 古代史のナノテク(豊中市・木村賢司)
2) 『寧楽遺文』と戸籍(木津町・竹村順弘)
3) 「大安寺伽藍縁起並流記資財帳」の中の仲天皇と袁智天皇とは?(岐阜市・竹内強)
4) 倭国王伊都都比古−彦島物語III外伝1−(大阪市・西井健一郎)
5) 九州王朝の系譜(奈良市・飯田満麿)
6) 木簡のONライン−九州年号の不在−(京都市・古賀達也)
7) 中巌円月「日本書」がもたらしたもの(相模原市・冨川ケイ子)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・飛鳥探訪・他(奈良市・水野孝夫)


第66話 2006/03/11

多元史観の木簡研究

 金石文や文献など、古田史学は多方面にわたり、多元史観による新たな歴史学を展開してきました。しかし未だほとんど手つかずの領域があります。その一つが木簡研究です。
 すでに古田先生により、伊場木簡の「若倭」の多元史観的読解などが提起されていますが(『倭人伝を徹底して読む』)、本格的で総合的な研究は古田学派内部でもまだ行われていません。そうした中で、「古田史学の会・東海」の林俊彦さんによる論稿「呪符の証言」(「東海の古代」69号、『古田史学会報』73号転載予定)などは、多元史観による新たな木簡研究であり、注目されるところです。
 木簡は記紀などのように近畿天皇家により政治的に改竄編集された史料ではなく、文字通りの同時代史料であるため、史料批判などが行いやすく、史料として扱いやすいのですが、他方、断片的文字史料であり、主に「荷札」として使用されたケースが多いため、歴史事実全般を解明する上では多くの限界もかかえています。
 そのような木簡研究を、わたしは今年のメイン研究テーマとしました。そして、その成果報告の第一段として、「木簡のONライン−九州年号の不在−」を3月18日の関西例会にて発表します。多くの皆さんに聞いていただき、批評していただきたいと願っています


第65話2006/03/04

「古田史学の会・東海」

 このホームページでご紹介していますように、「古田史学の会・東海」のホームページが新たに開設されました。是非、のぞいてみて下さい。古田史学の会の本部機能(事務局は京都の拙宅)は「関西の会」が受け持っていますが、会員が集中している地域には独自に地域の会があり、例会活動などが行われています。そのうちの一つが「東海の会」として「古田史学の会・東海」を名乗っています。代表者は林俊彦さん(本会・全国世話人)です。昨年は、わたしも名古屋市での「古田史学の会・東海」の例会で講演させていただきました。本年も機会があれば、また行きたいと思っています。
 東海の他にも、「古田史学の会・北海道」「古田史学の会・仙台」「古田史学の会・四国」そして「古田史学の会・関西」で例会活動などが行われています。関東地区は友好団体の多元的古代研究会と東京古田会がありますので、古田史学の会としては組織的な活動を行っていません。長野県松本市にはやはり友好団体の「古田史学の会・まつもと」がありますが、こちらは当会とは別の独立した会です。
 本会の地域の会の連絡先は下記の通りです。ご近所の方で例会などに参加してみたいという人は一度ご連絡下さい。

2016年6月 改訂

地域の会の連絡先は、責任者が代わっていますの削除。

2019年 3月

「古田史学の会・東海」(http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/index.htm)のホームページが替わりました。


第64話2006/02/25

『耳納』
 先日、『耳納』254号が送られてきました。『耳納』と書いて「みのう」と読みます。福岡県筑後地方の教育関係者や郷土史家で構成される「福岡県うきは・三井・久留米教育耳納会」が発行する雑誌で、教育や郷土の歴史に関する原稿が掲載されています。雑誌名の『耳納』は筑後地方をはしる水縄連山の「みのう」の別字表記です。耳に納めるという、なんとも含蓄のある表記ではないでしょうか。
 この『耳納』は戦後まもなく筑後地方の教師により発行されたもので、全国的に見ても同類の雑誌では最長の歴史を有しています。この『耳納』をあるときは一人で支えてこられたのが吉井町の教師で郷土史家の石井康夫先生です。石井先生は戦後教育史を体現されてきた人物と言っても過言ではないでしょう。温厚な先生ですが、教育や平和運動、郷土に深い愛情と情熱を注いで来られました。わたしが尊敬する人物のお一人です。
 わたしも数年前より同会に入会させていただき、百姓一揆や古代史に関する論文を『耳納』に掲載していただいています。江戸時代の久留米藩百姓一揆の指導者の墓を調査されていた石井先生に父の紹介でお会いしたのが、お付き合いのきっかけでした。ちなみに、わたしの七代前の先祖(西溝尻村庄屋・古賀勘右衛門)が、浮羽郡の一揆の指導者でさらし首になったのですが、その墓を父や地元の人々が守っていたのでした。
 『耳納』254号には通説に基づく古代史の紹介なども掲載されていますが、他の雑誌とはちょっと違うのが、その中にきちんと九州王朝説も紹介されていることです。同会の事務局は下記の通りです。興味のある方は、問い合わせて見て下さい。

福岡県うきは・三井・久留米教育耳納会 事務局
〒839−1226
久留米市田主丸町八幡457
永松勲様方
電話090−9473−3477


第63話2006/02/17

『北斗抄』

 昨年10月に物故された藤本光幸さん(第39話参照)の妹、竹田侑子さんより待望の一冊が送られてきました。和田家資料3『北斗抄』(藤本光幸編・北方新社。2000円+税)です。これには『北斗抄』全29巻のうち、1〜10巻が採録されています。詳細は巻末の竹田さんによる「あとがき」を読んで下さい。
 和田家文書は江戸時代から明治・大正・昭和へと書写、書き継がれた文書であり、中でもこの『北斗抄』には明治期の文書も編集されており、十分かつ慎重な史料批判が必要な文書です。わたしも津軽で実見しましたが、歴代の書写者の息吹が随所に感じられました。
 また、本書には貴重な一論文が末尾に採用され、光彩を放っています。竹内強さん(本会会員・岐阜市)による「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」です。執念の現地調査により、『北斗抄』に使用されている美濃和紙が明治時代のものであったことを証明された記録です。この調査報告は昨年の古田史学の会会員総会(大阪市)の際に口頭発表されたものですが、今回論文として寄稿されたことにより、多くの方に読んでいただけることになりました。竹田侑子さんのご尽力の賜です。
 今回の発行に続いて、11巻以降の『北斗抄』も刊行されるとのこと。故藤本光幸さんと竹田侑子さん兄妹の刊行への取り組みに敬意を表すとともに、微力ではありますが、これからも応援していきたいと思います。

参照

真実の東北王朝』古田武彦(駸々堂 絶版)

日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー 西村俊一氏


第62話2006/02/12

海を渡った舞女たち            
       
       
         
 昨日は、家の近所にある京都府立文化芸術会館で行われた「第27回Kyoto演劇フェスティバル」へ行き、劇団T・E・Iによる「終わりこそ始めなれ〜
母なる思いを求めて〜」という劇を見てきました。沖縄、広島、満州(大陸の花嫁)の語り部による詩や俳句・短歌の朗読を中心とした、暗く重いテーマを題材
とした劇でした。
 劇団T・E・Iは同志社中学校演劇部OBやOGが急遽集まってできたユニットで、出演者は全員10代20代前半の若い女性。その彼女等が語り部の老人に
扮して60年前の戦争を語るという設定で、「生ましめんかな」(栗原貞子作)や「わたしが一番きれいだったとき」(茨木のり子作)などの詩を中心に舞台が
展開します。
 語り部が重々しくそれぞれの戦争体験を語り、「わたしが一番きれいだったとき、町にはジャズが流れていた」という一節の後、照明や出演者の衣装は一転
し、若い乙女に戻った語り部たちが「イン・ザ・ムード」の軽快なテンポにのって嬌声と共に華やかなジャズダンスを繰り広げ、ラストとなりました。
  これも「戦争体験」を新しい世代が語り継ぐ一つの試みなのだと思いながら、若さ溢れるダンスをまぶしく見ていました。同時に、歴史や戦争に翻弄された多くの女性たちに思いを馳せたとき、15年前に研究していた『旧唐書』の次の一節を思い起こしました。

 「渤海使、日本国の舞女十一人を献ず。」(『旧唐書』本紀・大暦十二〈777〉年)

 渤海国の使者が日本国の舞女11人を唐の皇帝へ献上したという記事ですが、この11人の舞女たちは、いつどのような事情で渤海国へ渡ったのでしょうか、
そして唐での運命はどうなったのでしょうか。史書は何も語っていません。歴史を学ぶ者の一人として、舞女たちの運命に心を痛めずにはいられません。
   久しぶりの観劇に、現代史と古代史がオーバーラップした瞬間でした。どうか、世界が平和へ向かいますように。世界の人々やこの娘達が幸福な人生でありますように。


第61話2006/02/04

「万世一系」の史料批判

 「学問はナショナリズムに屈服してはならない。」「日本国家のナショナリズムの欲望によって『歴史の真実』を曲げること、これは学問の賊である。」「学問は政治やイデオロギーの従僕であってはならない。『歴史の真実』を明らかにすることと、現代国家間の政治的利害を混同させてはならない。そのような『混同の扇動者』あれば、これに対してわたしたちは、ハッキリと『否(ノウ)』の言葉を告げねばならぬ。それがソクラテスたちの切り開いた、人間の学問の道なのであるから。」

 以上は古田先生の言葉です(『「君が代」、うずまく源流』新泉社・1991年)。昨今問題となっている皇室典範の改正について、「諮問会議」やら御用文化人、御用学者の跋扈ぶりは目に余るものがあると言ったら、はたして言い過ぎでしょうか。不遜を承知で言わしていただければ、こうした問題は世界の人々の面前で、広く学問的に歴史的に論議を尽くして合意形成をはかるべきテーマであるように思います。一内閣の意向や功名心でリードするべき問題とは思われません。
 そのような中で、皇位継承の根元的な問題の一つである「万世一系」について、古田先生が講演されることは、まことに時宜にかなったものです。古田史学の会では、来る2月18日(土)、大阪市の中央電気倶楽部において古田先生の講演会を開催します。演題は『「万世一系」の史料批判─九州年号の確定と古賀新理論(出雲)の展望─」。天皇家は本当に「男系」なのか等、歴史学的な考察と現代史的意義が語られると思います。多くの皆様のご来場をお願いいたします。ナショナリズムや政治・イデオロギーに屈服しない学問、古田史学の真骨頂が聞けます。