第246話 2010/03/06

法隆寺の本尊と菩薩天子

 二月の関西例会で正木さんから発表された、九州年号「端政」(589〜593)の語源と出典に関する発見はわたしに新たな視点と示唆を指し示してくれました。それは法隆寺の最初の本尊についての問題でした。
 今でこそ法隆寺の本尊は釈迦三尊像ですが、この釈迦像は倭国の天子、多利思北孤(上宮法皇)が没した翌年(癸未年:623年)に造られたと、その光背銘に記されています。他方、近年の年輪年代測定の成果により法隆寺五重塔の心柱の伐採年が594年であったことが判明し、五重塔や金堂が七世紀初頭に建立さ
れた可能性が高くなっています(その後、和銅年間に現在地に移築)。そうしますと、法隆寺建立から釈迦像が造られた623年までの期間は別に本尊があった
ことになり、その元の本尊は何だったのだろうか。このような問題意識を漠然と持ち続けていたのですが、正木さんの研究によりこの問題が一気に発展したので
す。
 九州年号「端政」が菩薩の顔の様相を表現した仏教用語であったとする正木さんの発見は、端政年号の時の倭国の天子、多利思北孤が『隋書』にあるように隋
の天子を海西の菩薩天子と呼び、同時に自らを「海東の菩薩天子」と認識していたとする古田先生の指摘とも見事な一致を示します。菩薩の顔の様相である「端
政」という年号に、自らを菩薩天子とする多利思北孤の強い意志が感じられるのです。
 こうした視点に立ったとき、法隆寺建立当初の本尊は菩薩像ではなかったのか。もしそうであれば、法隆寺夢殿に長く秘仏として蔵されていた救世観音菩薩像こそ本尊に最もふさわしく、その可能性が最も高いことに気づいたのです。
  釈迦三尊像が上宮法皇の「尺寸の王身」と光背銘に記されているように、そのモデルは倭国の菩薩天子、多利思北孤です。そして、釈迦像と顔がそっくりの
夢殿の救世観音菩薩も、天平宝字五年(761)の『東院資財帳』に「上宮王等身観世音菩薩像」と記されているように、やはりモデルは多利思北孤と考えられ
るのです。これらのことから、法隆寺建立当初の本尊は、夢殿の救世観音像との考えに到達したのです。(つづく)

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