第107話 2006/11/11

弥生の高層建築
 本日の朝刊に、鳥取市の青谷寺地(あおやじち)遺跡から出土していた木柱が約7mであったことがわかり、弥生時代に高層建築が存在していた証拠である旨、報道されていました。その記事によれば、高さ10.5mぐらいの物見やぐらで、地上から床の高さまで6mあったとされています。
  この発見自体は素晴らしいことだと思いますが、わたしの「常識」では弥生時代に10m以上の建物があるのは当然で、ちょっと大騒ぎしすぎるような感じを受けました。と言うのも、本会会員で天文学者の難波収さん(オランダ・ユトレヒト在住)から、次のようなお話を聞いていたからでした。
  海岸に敵船発見などの為に物見やぐらを建てるなら、15m以上の高さがないと役に立たない。なぜなら、海上には陽炎が立ち上るので、その陽炎の上から見ないと船は発見できない。従って、物見やぐらは15m以上の高さが必要。というものでした。その上で、こうも言われました。だから、吉野ヶ里で復原された「物見やぐら」は低すぎる、と。
 わたしには専門的なことは判断できませんが、天文学者の難波さんの言葉だけに、説得力を感じました。同時に、古代人が見張りの役に立たないような低い「物見やぐら」をわざわざ造るようなことはしないとも思いました。なぜ、現代人は日本の古代建築や古代人を侮るのでしょうか。これこそ自虐史観だと思うのですが。


第106話2006/11/06

元興寺と九州王朝

  昨日の日曜日、奈良に行き、東大寺大仏殿や興福寺、そして元興寺を見学してきました。本当は正倉院展を見たかったのですが、「2時間待ち」の大行列を見て、断念しました。一般客による長蛇の列とは別に、「読売旅行」の小旗に先導された団体客が別の場所に並んでいたのには、何やら不公平感を持ちました(正倉院展の後援が読売新聞社らしい)。
 そんなわけで、正倉院展はさっさとあきらめ、まだ行ったことのなかった興福寺の国宝展で念願の阿修羅像を見学した後、奈良町界隈のおしゃれな店を横目に、元興寺へ行きました。
  受付のおじさんが、「年輪年代測定により元興寺が日本最古のお寺であることが証明されました」「法隆寺よりも古い」と熱心に説明してくれたのが印象的でした。ご存じのように、通説では元興寺は蘇我馬子が建立した飛鳥の法興寺を、平城京遷都にともなって現在の地へ移築されたものです。また、元興寺禅室の部材が年輪年代測定により582年伐採とされたことにより、法隆寺五重塔心柱の594年よりも古いことが判明しました。
  元興寺のもともとの名前が法興寺とすれば、九州年号の「法興」(591〜622)との関係が注目されます。部材の伐採年582年が法興年間の9年前という近接した年代であることも、法興寺と法興年号との関係を強めます。特に、日出ずる処の天子を名乗った多利思北孤の年号「法興」は日本列島中に鳴り響いていたものと思われますから、それとは無関係に「法興寺」などという名称を使用できたとは到底考えられません。やはり、法興寺(元興寺)は九州王朝と関係の深い寺院であったと考えるべきでしょう。
  なお、太宰府の観世音寺が九州年号の白鳳年間に建立されていますが、その頃を白鳳時代と呼ぶのならば、同様に法興寺(元興寺)や法隆寺は法興時代の寺院と呼ぶのがふさわしいのではないでしょうか。飛鳥時代ではなく法興時代です。この新提案、いかがでしょうか。


第105話 2006/10/29

九州王朝系図『倭漢惣歴帝譜図』

 古田史学の会・10月度関西例会において、相模原市の冨川ケイ子さんが「九世紀初頭における『禁書』の書名とその内容」というテーマで研究発表されました。
本年から、中近世の「禁書」を研究されてきた冨川さんの研究対象が、いよいよ9世紀の「禁書」へと及んできました。今回取り上げられたのが『日本後紀』大同4年(809)2月条に見える『倭漢惣歴帝譜図』です。天御中主尊を始祖とし、中国や朝鮮の王家との繋がりが記されているという『倭漢惣歴帝譜図』を「禁書」とする詔勅が記されているのですが、冨川さんはこの系譜を九州王朝の系図ではないかと指摘されました。卓見だと思います。
 現存する「松野連系図」なども呉王を始祖として、倭の五王らへと繋がっています。また、漢の高祖の末裔を称する氏族も北部九州には少なからずいます。おそらくこうした系図と同類のものが『倭漢惣歴帝譜図』という名前で9世紀には存在していたものと思われます。
 なお、『倭漢惣歴帝譜図』を九州王朝系のものとする考えは、十数年前に古田先生が口頭で発表されています。冨川さんの発表を聞きながら、その時のことが懐かしく思い出されました。


第104話 2006/10/23

ホームページに中国語版開設へ

 おかげさまで、本会ホームページも順調にアクセス件数を伸ばし、少なからぬ影響を及ぼしているようです。古田史学を世界に向けて更に強力に発信するために、現在の英語版に加えて、中国語版を開設する方向で検討を進めています。ホームページ担当の横田さん(本会事務局次長)によれば技術的に可能とのことなので、本格的な準備に入りたいと考えています。
 中国語版の計画を古田先生にお話ししたところ、大変喜ばれていました。現在、中国語訳されている古田先生の論文以外にも、九州王朝説をわかりやすく説明した中国語論文も作成したいと思います。
 一昨日、古田史学の会・関西例会が行われました。内容は下記の通りですが、発表希望者が多く、西井さんの発表は次回回しとなったほどです。今回も注目すべき発表がいくつかありました。たとえば、正木さんは前回に続いて、『日本書紀』の34年ずらした盗用の痕跡などを、ますます精緻に論証されました。会報にも掲載予定です。
  多くの皆さんの例会へのご参加をお待ちしています。お気軽にご参加下さい。古田史学の最前線の研究が聞けます。これで参加費500円は超お得です。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 太平洋戦争(2)開戦
○研究発表
1. 私と学問のすすめ〔現在進行中〕(豊中市・木村賢司)
2. 古田・安川対談について(豊中市・大下隆司)
3. コバタケ珍道中・岐阜編(木津町・竹村順弘)
4. 竺志考2(岐阜市・竹内強)
5. 讃留霊王の悪魚退治伝説(向日市・西村秀己)
6. 九世紀初頭における「禁書」の書名とその内容(相模原市・冨川ケイ子)
7. 『古田武彦と「百問百答」』を読んで(京都市・古賀達也)
8. 九州古墳文化の展開(生駒市・伊東義彰)
9. 持統・斉明紀における蝦夷記事の再考、他(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・扇の起源・他(奈良市・水野孝夫)


第103話 2006/10/15

万葉仮名と九州王朝

 このほど、難波宮跡から万葉仮名が書かれた木簡が出土しました。7世紀中頃の木簡とのことで、当時における日本列島での文字文化や和歌文化を研究する上で、まさに一級史料といえるでしょう。
 この新聞報道を読んでみますと、この木簡の出土により万葉仮名の成立が従来説の7世紀末より30年ほど遡ったと、その意義を強調されていますが、古田史学によれば万葉仮名はもっと古くから九州王朝で成立していたと考えられます。
 古田先生の講演録「筑紫朝廷と近畿大王」(『市民の古代』15集、1993年)で、万葉仮名と九州王朝の関係について触れられていますが、『万葉集』巻七に「古集」というものが記されており、『万葉集』よりも古い歌集が存在していたことを指摘されています。そしてその「古集中に出ず」として紹介された歌が筑紫で成立したものであることを論証されました。すなわち、「古集」とは筑紫万葉であるとされたのです。
 したがって、このことからも九州王朝内で万葉仮名による歌集が『万葉集』に先行して作られていたことがわかります。と同時に、万葉仮名は古くから九州王朝内で成立していたということになるというわけです。
 志賀島の金印など、古くから漢字文明に接していた九州王朝ですから、その漢字を倭語の表音表記として転用することが、いつからかなされたものでしょう。それがいつのことかは、まだ正確にはわかりませんが、少なくとも通説の7世紀末、あるいは今回の木簡の7世紀中頃といった、そんな「新しい」時代のことではないと思います。
 万葉仮名成立についても、古田史学、多元的歴史観による解明が待たれているのです。


第102話 2006/10/10

古田武彦と「百問百答」
 本会の友好団体、古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)より素晴らしい一冊が上梓されました。『古田武彦と「百問百答」』という本です。同会会員
より出された131の質問に対して、古田先生が答えられたもので、最新の古田先生の考え方や新説が満載となっています。

   同会の藤沢徹会長による「はじめに」の文章をお借りすれば、次のような新知見が紹介されています。
  (1)「磐井の乱はなかった」理由
  (2)唐は九州王朝の天子薩夜麻を何故釈放したのか。その政治的意義
  (3)中大兄・中臣鎌足の白村江戦線離脱の戦略的評価
   いずれも古代史上の重要で興味深いテーマです。ちなみに、私の「九州王朝の近江遷都」説に対しても4頁にわたりご批判をいただいています。恩師から直接にご批判をいただけることに感謝したいと思います。
   おおいに触発される多彩なテーマが扱われており、お奨めの一冊です。
 
  お求めは、
  東京古田会(http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/)


第101話 2006/10/03

太王四神記

 今、韓国でドラマ「太王四神記」の制作が行われているそうです。高句麗中興の祖、好太王の伝記で、韓流人気俳優ヨン様ことペ・ヨンジュン氏が主役。わたしは、このドラマの完成と公開をとても楽しみしています。別にヨン様のファンではないのですが(好感の持てる俳優で、わたしは「冬ソナ」のファンです)、 このドラマの中で「倭」がどのように扱われるのかを注目しているのです。

  ご存じのように、好太王は朝鮮半島に攻めてきた「倭」と戦って撃退するという、特筆すべき業績の持ち主です。現代の韓国の国民感情から考えても、攻めてきた日本に勝ったというエピソードがドラマに採用されないとは考えにくいし、歴史事実としても特筆大書されるシーンだと思うのです。
  好太王碑にも記されているこの「倭」が九州王朝であることは、古田説では明白なのですが、国内のシンポジウムなどでは大和朝廷だったり、海賊だったりされ ています。そこで注目したいのが、「太王四神記」ではどの説が採用されるのかです。恐らく無難なところで、大和朝廷説あたりで落ち着くとは思いますが、せめて「北部九州の勢力」といった説が採用されたら、わたしは間違いなくヨン様の大ファンになります。
 更にもう一つ付け加えれば、このドラマを通じて、古代に於いて日本列島の王朝が朝鮮半島へ出兵し、敗北したという歴史事実が日本国内に広く知れ渡ることにも期待したいと思います。もちろん「自虐史観」からそう言うのではありません。歴史の真実を冷静に受け止める日本国民が増えることを願っているからです。
    このドラマを機会に、ヨン様ファンが古代史にも興味をいだいていただければと今から楽しみにしています。

参考
◎画期にたつ好太王碑『市民の古代』第4集 古田武彦
好太王碑訪中団の報告『市民の古代』第7集 事務局 藤田友治
◎中国の好太王碑研究の意義と問題点『市民の古代』第7集 古田武彦
◎好太王碑と九州王朝『市民の古代』第7集 古田武彦
◎好太王碑と高句麗文化について『市民の古代』第8集 古田武彦


第100話 2006/09/30

九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが判発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
  ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で100話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。


第99話 2006/09/23

『古田史学会報』76号のご案内

 ようやく『古田史学会報』76号の編集が終わりました。10月初旬には会員の皆様にお届けできる予定です。今号の1面論文は大下さん(古田史学の会・事務局次長)の好論「敵を祀る」です。『古田史学会報』は古代史がメインですが、「敵を祀る」は古田先生のもう一つの研究領域である日本思想史に関するテーマです。新入会員の角田さんは会報デビュー。これからの活躍が期待されます。

  今回、原稿の集まりがいまいちだったので、仕方なく私の原稿で空きを埋めましたが、会員の皆さんのご寄稿をよろしくお願いいたします。

『古田史学会報』76号の内容

敵を祀る−旧真田山陸軍墓地−(豊中市・大下隆司)
白雉改元の史料批判−盗用された改元記事−(京都市・古賀達也)
多元史観の応用で解けた伝説「炭焼き小五郎」の謎(北葛飾郡わしみや町・角田彰男)
七支刀鋳造論(生駒市・伊東義彰)
九州王朝と筑後国府(京都市・古賀達也)「市民タイムス」より転載
木簡に九州年号の痕跡−「元壬子年」木簡の発見−(京都市・古賀達也)
連載小説「彩神」第十二話・シャクナゲの里(1)(町田市・深津栄美)
阿胡根の浦(奈良市・水野孝夫)
私考・彦島物語III外伝 伊都々比古(後編)(大阪市・西井健一郎)
古田史学の会・四国定期会員総会の報告(松山市・竹田覚、古田史学の会・四国会長)
九州王朝の部民制(京都市・古賀達也)
『古代に真実を求めて』特価販売の案内
『なかった−真実の歴史学』創刊号を見て(豊中市・木村賢司)

関西例会のご案内・史跡めぐりハイキング・事務局便り
古田武彦氏新年講演会のご案内
弔辞・東京古田会事務局長高木博さん御逝去(古田史学の会・役員一同)


第98話 2006/09/17

サーバー・ダウン?!

 先週、本会ホームページが突然アクセス不能となり、多くの会員や読者の皆様にご心配やご迷惑をおかけしました。わたしは、てっきりホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・事務局次長)が大がかりなリニューアルでもされているのだろうと思っていましたが、   16日の関西例会時に横田さんから事情を聞いたところ、プロバイダー側との事務的な単純ミスだったとのこと。深刻なトラブルではなくて、一安心でした。
 関西例会の内容は下記の通りですが、正木さんが発表された『日本書紀』の「34年の遡り現象」という新テーマは、『日本書紀』編纂方針にもかかわる重要な問題へと発展する可能性があります。今後の展開が楽しみです。
 今回は、相模原市からの常連冨川ケイ子さんの他、佐賀県武雄市の会員古川さんや、名古屋市の林俊彦さん(古田史学の会・東海代表、全国世話人)など遠方からもご参加いただきました。もちろん、二次会・三次会が盛り上がったことは言うまでもありません。
 「朋あり、遠方より来る。また楽しからずや。」(『論語』)でした。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 太平洋戦争への道
○研究発表
1. ホームランでなく大ファールだった(豊中市・木村賢司)
2. 素人読みの『心』覚え書き−田遠清和氏の「漱石『心』論・前編」への感想−(豊中市・山浦純、代読・木村賢司)
3. 近畿と九州の寺院の由緒(木津町・竹村順弘)
4. 日本書紀に記載された伊勢王記事と関連事項(奈良市・飯田満麿)
5. 日本書紀、白村江以降に見られる「34年の遡り現象」について(川西市・正木裕)
6. 古代の屋島あれこれ(向日市・西村秀己)
7. 古層の「天神」−埴安命−(京都市・古賀達也)
8. 伊須受宮と伊勢神宮(大阪市・西井健一郎)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・安川寿之輔名大名誉教授と古田氏会談・他(奈良市・水野孝夫)


第97話 2006/09/09

九州王朝の部民制

 福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から、またまたビッグニュースが届きました。9月6日西日本新聞朝刊の記事がファックスされてきたのです。それには、大野城市本堂遺跡から「大神部見乃官(おおみわべみのかん)」とはっきりとした楷書体で刻まれた須恵器が出土したことが報道されていました。
 例によって、大和朝廷一元史観での解説で、大和朝廷の部民制の痕跡と解説されていますが、そうではなく当然九州王朝の部民制を記した金石文と見るべきでしょう。もちろん、現時点では実物を見ていませんから断定的な発言は厳禁ですが、九州王朝の制度を研究する上で貴重な文字史料であることは疑えません。
 ただ、新聞の記事を読んでいて、いくつか気になったことがあります。一つは、「7世紀前半から中ごろの須恵器」とされていますが、この時期の北部九州の須恵器編年は、C14などの科学的年代測定によれば百年くらい古くなる可能性がありますので、要注意です。
 二つ目は、「大神」を「おおみわ」と読んでいますが、九州では「神」を「くま」とも読みますから、「おおくま」や「おおがみ」と読む可能性も考慮すべきでしょう。
 また、「見乃官」も高良大社(久留米市)のある水縄(みのう)連山の地名との関係も考えられ、興味深い官名です。いずれにしても、7世紀以前の部民制の痕跡を有する文字史料が近畿ではなく、福岡県大野城市から出土したことは、九州王朝説にとって大変有利な事実といえるでしょう。


第96話 2006/09/01

祝・傘寿、古田武彦先生
 
この8月8日、古田先生は傘寿、80歳を迎えられました。心よりお祝い申し上げたいと思います。誕生日当日、古田先生は屋島調査旅行の最中。木村賢司さん
の心配りでバースデイケーキが用意されたとのこと。ローソクを吹き消す古田先生の写真を拝見しましたが、めっきりと白髪が増えられていることに、あらため
て気づきました。
 思い起こせば、わたしが古田先生に初めてお会いしたのは、茨木市で行われた市民の古代研究会主催の講演会でした。その時、ちょうど先生は還暦を迎えら
れ、皆でお祝いしました。あれから20年が過ぎていたのでしたが、そのおり先生の傍におられた関西の方々の多くは鬼籍に入られ、あるいは離反され、気がつ
いてみると、残っているのはわたしだけとなりました。しかし、木村さんのような新たな人々が、また先生の周りを幾重にも取り囲んでおられます。

    今、わたしは次の漢詩の一節を思い起こしました。
 
   年々歳々、花相似たり。
   歳々年々、人同じからず。
 
   なお、『古代に真実を求めて』10集は「古田先生傘寿記念特集号」にしたいと考えています。具体的な企画立案はこれからですが、皆様のご協力をお願いいたします。
    古田先生のご長寿を祈念いたします。