第240話 2010/01/11

2010年も古代に真実を求めて

 明けましておめでとうございます。2010年も古代に真実を求めて頑張りたいと思います。
 昨日は古田先生をお迎えして「古田史学の会・新年賀詞交換会」を大阪で開催しました。古田史学の会・仙台の青田さんや古田史学の会・東海の竹内さん林さん、古田史学の会・四国の合田さん等、各地から多数の会員にお越し頂き、旧交を温めました。古田先生も変わらずお元気で約3時間にわたり熱弁をふるわれました。これからも先生のご長寿と研究の発展を祈念し、古田史学の会としても総力をあげて支援していきたいと考えています。
 2009年の関西例会で発表された研究において、7世紀の九州王朝史復原や大和朝廷との権力交代の実態について、激しい論争を通じて検討が深められたように思われます。昨年12月の関西例会においても、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人・会計)からの、大和朝廷で左大臣まで上り詰めた橘諸兄が九州王朝王族の子孫だったという発表は衝撃的でした。その論証の詳細は『古田史学会報』96号に掲載されますので、ご参照下さい。
 もしこの西村説が正しければ、九州王朝の有力者が少なからず大和朝廷の高級官僚になっていたことが推察され、王朝交代の実態が禅譲なのか放伐なのかという、古田学派内での永年の論争テーマの解決に寄与できるかもしれません。いずれにしても、2010年の関西例会での研究の深化を予感させる仮説です。
 12月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 京都「泉屋博古館」を見学・他(豊中市・木村賢司)

2). 橘諸兄・考(向日市・西村秀己)

3). 古田武彦・第6回古代史セミナー報告(豊中市・大下隆司)

4). 天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕)
 天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。
 一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。
 そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。
 この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか

5). ホンマかいな?奈良の邪馬台国(木津川市・竹村順弘)

6). おシャカさんはなぜ死んだか(生駒市・五十嵐修)

7). 能楽と九州王朝(川西市・正木裕)
 十四世紀に観阿弥・世阿弥が大成した能楽の中に、九州王朝の芸能が取り込まれている事を謡曲「綾鼓」や「芦刈」より検証した。
 1.「綾鼓」は、世阿弥の書から古伝もとづく作品とされているが、斉明の「忌み殿」であるはずの筑紫朝倉木の丸殿に皇居があり、臣下・女御がいたとするなどの不自然さが見られる。
 一方、木の丸殿の北「麻底良山」には、古田武彦氏が九州王朝の天子筑紫君薩夜麻とされる「明日香皇子」が祀られ、南には古賀氏が九州王朝の天子とされる「天の長者」が造った「天の一朝堀」(『書紀』では斉明が「狂心の渠」を造ったとある)、東には「久喜宮」「杷木神護石」がある等から「綾鼓」は筑紫を舞台とした演芸を、原典を生かして世阿弥が再構成したものと考えられる。
 2.「芦刈」も、古い能をもとにして世阿弥が今の形に作ったと考えられているが、シテ(主人公)が活躍する「日下」は内陸部の「河内」に属し、難波の浦の景色は望めないのに、曲では「摂津」難波が舞台とされ海辺の秀でた情景がテーマとなる等、曲の内容と場所に矛盾がある。
 一方で、博多湾岸には草香(草香江)があり海浜の情景描写に適合し、曲中の聞かせ所・見せ所の「笠の段」に謡われ・舞われる「笠尽くし」も摂津難波では「笠」の意味が不明だが、博多湾近郊には御笠、御笠川、御笠山などの「笠」地名と謂れ・伝承が集中する。同じく「笠の段」中の「田蓑島」も、博多湾岸の草香江付近には「田島」「蓑島」が存在する。 「笠の段」は「博多湾岸」の名所を歌ったものとして極めて自然であり、筑紫を舞台とした原曲を分解しその一部を取り込み、舞台・場所や人物を変え世阿弥が再構成したものと考えられる。
 以上「綾鼓」や「芦刈」の原典は九州王朝の曲・演芸であり、これを中世に観阿弥・世阿弥らが再構成したもので、こうした手法は他の能楽「老松・檜垣・布刈・高砂・難波・竜田・磐船他」にも見られると考えられる。

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・柿本人麻呂を祀る神社・他(奈良市・水野孝夫)

2010.1.16 試みに、正木氏の例会報告を掲載。


第239話 2009/12/21

纏向遺跡は

卑弥呼の宮殿ではない(3)

 238話では、漢字文明の痕跡の有無という視点から、纏向遺跡が「邪馬台国」では有り得ないことを説明しましたが、こうした考古学的事実との一致・不一
致という視点からすれば、他にも重要なテーマがあります。それは、弥生時代における二大青銅器文明というテーマです。

 弥生時代の日本列島には、北部九州等を中心とする「銅矛・銅戈」等の武器型青銅器文明圏と近畿等を中心とする「銅鐸」文明圏の二大青銅器文明圏が存在し
ていたこと著名です。従って、「邪馬台国」を中心とする弥生時代の倭国がこのいずれかの文明圏に属していたことは当然です。そして「邪馬台国」はそのいず
れかの中枢領域に位置していたことも当然でしょう。
 そこで問題となるのが、倭国はどちらの文明圏に属していたかということですが、その答えははっきりしています。魏志倭人伝中に記された倭国内の国々の所
在地で、殆どの論者で異議のない国がいくつかあります。たとえば対海国(対馬)、一大国(壱岐)、伊都国(糸島半島)、奴国(福岡県北部)などです。そし
てこの所在地が明確な国はいずれも銅矛・銅戈文明圏に属しています。従って、弥生時代の倭国は銅矛・銅戈文明圏の国なのです。
 ところが、纏向遺跡のある奈良県は銅鐸文明圏に属しています。この一点を見ても、纏向遺跡が「邪馬台国」ではなく、倭国の中枢領域でもないことは明々白
々な考古学的事実なのです。更に言うなら、纏向遺跡は銅鐸圏の中枢領域でさえありません。このような地域が「邪馬台国」であるはずがないのです。一体、
「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者達は、本当にこうした考古学的事実が見えているのでしょうか。
 このように「銅鐸」の視点から、「倭人伝に銅鐸が記述されていない」と指摘されたのは古田先生です。『古田史学会報』95号においても「時の止まった歴史学−岩波書店に告ぐ」という論文で、この問題を取り上げられていますので、ご一読下さい。

〔『古田史学会報』95号の掲載論文・記事〕
○時の止まった歴史学—岩波書店に告ぐ— 古田武彦
○九州年号の改元について(前編) 川西市 正木 裕
○四人の倭建  大阪市 西井健一郎
○梔子2 深津栄美
○エクアドル「文化の家博物館」館報 豊中市 大下隆司
○伊倉11 —天子宮は誰を祀るか— 武雄市 古川清久
○関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング


第238話 2009/12/13

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(2)

 237話では里程問題から、纏向遺跡が卑弥呼の宮殿では有り得ないことを指摘しましたが、別の視点からも同様のことが導き出されます。それは「漢字文明」の痕跡の有無という視点です。
 魏志倭人伝には当時の倭国の状況が簡潔ではありますが比較的多く記されています。この古代中国での史書編纂という、自国のみならず周辺諸国の文物をも記録するという一大漢字文明の業績により、わたしたちは弥生時代の日本の様子を知りうることができる言っても過言ではありません。
 その倭人伝には次のような重要な情報が記されており、「邪馬台国」を中心とする倭国は、中国の漢字文明圏に属しており、倭国の文字官僚たちは漢字を使用していたことがわかるのです。

 「古より以来、其の史中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。」
 「詔書して倭の女王に報じて曰く、『親魏倭王卑弥呼に制詔す。(以下略)』」

 このように、倭国の使者が古より「大夫」という中国風「官職名」を自称しており、度々詔書を貰っていることなどが随所に記されています。当然のこととし て、詔書は漢字漢文で書かれており、倭国側もそれが読めたはずです。この他にも「伝送の文書」「金印」など漢字が記されている文物の記載もあります。
 こうした史料事実から、倭国は漢字漢文を使用しており、漢字文明圏に属していたことを疑うことができないのです。それでは弥生時代の大和盆地の遺跡遺物 に漢字文明の痕跡はあるでしょうか。纏向遺跡から出土しているのでしょうか。弥生時代の日本列島を代表するほどの出土事実はあるのでしょうか。答えは簡単です。「ノー」です。
 考古学が科学であり、学問であるのならば、考古学者はこの倭人伝と纏向遺跡の「完璧な不一致」から目を背けてはなりません。学問的良心があるのなら、この「完璧な不一致」から逃げてはなりません。
 他方、目を転ずれば、北部九州の弥生遺跡にこそこの漢字文明の痕跡が集中出土していることは天下の公知事実です。たとえば、「漢委奴国王」という漢字が彫られた志賀島の金印を始め、いわゆる漢鏡と呼ばれる弥生の鏡に記された多数の「銘文」などです。これら漢字文明の痕跡が大量かつ集中出土している筑紫こそが倭国の中心であり、「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)がその地に存在していたことを、倭人伝と考古学事実の「完璧な一致」が証言しているのです。(つ づく)


第237話 2009/12/06

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(1)

 巻向遺跡で発掘された弥生時代の住居跡が「邪馬台国」の女王卑弥呼の宮殿であるかのような報道がテレビや新聞でなされましたが、これは学問的に見れば全 くナンセンスなことです。古田史学をご存じの方には言うもおろかですが、「邪馬台国」(『三国志』魏志倭人伝には邪馬壹国と表記されており「邪馬台国」と するのは誤り)のことが記されている中国の史書『三国志』には、「邪馬台国」の位置を次のように表記しています。

「郡より女王国に至る、万二千余里」

 すなわち、帯方郡(今のソウル付近)から約12000里離れたところに女王卑弥呼の国はあると述べているのです。したがって、『三国志』で使用されている1里が何メートルかを調べれば、女王国の大まかな位置がわかるように記されているのです。
 従来説では漢代の1里435メートルと同じとされてきましたが、古田先生は1里約77メートルとする短里説を唱えられたのは、ご存じの通りです。
 1里約77メートルの短里説にたてば、12000里は北部九州にピッタリですが、435メートルの長里説にたちますと、九州も巻向遺跡のある大和盆地も はるかに通り越し、太平洋の彼方に「邪馬台国」はあったことになるのです。従って、学問的には短里でも長里でも絶対に大和では有り得ないのです。
 「邪馬台国」畿内説論者はこの魏志倭人伝の位置表記を百も知っていながら、この単純明快な史料事実を国民には伏せたまま、巻向遺跡の住居跡を卑弥呼の宮殿であるかのように、大騒ぎしているのです。その手口は学問的態度とはかけ離れており、「醜悪」と言うほか有りません。(つづく)

参考『吉野ヶ里の秘密』光文社
 1章「邪馬台国」にトドメを刺(さ)す 古田武彦


第236話 2009/11/22

「米良」姓の分布と熊野信仰

 昨日の関西例会は初参加の方が3名あり、遠く長野県からの参加者もおられ、いつものように活発な質疑応答が交わされました。いずれの発表も貴重な研究で触発されるものでした。
 例会の休憩時間に、第234話で触れた日向米良修験道の「米良」姓の分布調査を西村さん(本会全国世話人)に依頼したところ、ご自慢の携帯電話で電話帳 検索をまたたくまの間にしていただけました。その結果は私の予想以上のもので、とても驚きました。
 「米良」さんの県別分布は宮崎県の286件をトップに、何と2位が大都市の東京(31件)大阪(39件)を倍近く抜いて千葉県の64件だったのです。ち なみに有名な那智勝浦の熊野大社のある和歌山県は7件で、その内6件が那智勝浦に集中していました。やはり熊野信仰と米良氏は関係の深いことが推察されま した。これは私の予想していたとおりでしたが、千葉県の64件は全く「想定外」だったのです。しかも、千葉県の米良さんも勝浦に集中しているのです。米良 さんが集中している千葉県勝浦と和歌山県那智勝浦、そして米良さん最多集中の宮崎県は黒潮で結ばれた「熊野信仰圏」ではないでしょうか。
 もしそうだとすると、その方向は宮崎から和歌山そして千葉へ。このように考えざるを得ません。そして、その移動の時代が古代まで溯る可能性大ではないで しょうか。
 しかもその淵源は菊池氏・天氏となりますから、熊野信仰の淵源は九州王朝となります。なお、千葉県勝浦の近傍には「天津」「天津小湊」「天面(あまつら)」という興味深い地名もあります。
 以上、例会の休憩時間を利用した初歩的で簡単な調査と推論ではありますが、とても魅力的かつ雄大なスケールを持つ研究テーマと言えそうです。どなたか本格的に米良氏と熊野信仰を研究されてはいかがでしょうか。
 11月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「蒔かぬ種」「蒔いた種」・他(豊中市・木村賢司)
2). 大湖望での短里実験(交野市・不二井伸平)
3). 万葉集第304番歌の作歌場所(京都市・岡下英男)
4). 新撰姓氏録の人口分布(木津川市・竹村順弘)
5). 命長改元と「大宰府政庁」について(川西市・正木裕)
6). 一切経写経と利歌弥多弗利そして『十七条憲法』(川西市・正木裕)
○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・巻向出土遺跡現地説明会報告・柿本人麻呂を祀る神社・他(奈良市・水野孝夫)


第235話 2009/11/15

難波天王寺、聖徳が造る

 現存最古の九州年号群史料である『二中歴』年代歴ですが、その九州年号の下に記された細注の記事、特に仏教関連記事が九州王朝下のものであるとする論文「九州王朝仏教史の研究−経典受容記事の史料批判」(『古代に真実を求めて』第三集、2000年)を発表したことがあります。
 その細注の中で、倭京二年(619年)「難波天王寺聖徳造」という記事の難波について、「年代歴に見える『難波天王寺』を、九州の難波とする可能性も捨て難い。この点、今後の課題として保留しておきたい。」(139頁)と態度を保留していたのですが、この問題について解決を見ました。
 結論から言えば、この難波は摂津の難波と考えざるを得ません。なぜなら、同じ『二中歴』年代歴の「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」とあり、「筑紫観世音寺」ではなく、単に「観世音寺」とだけしかないことは、この記事が筑紫で成立したからで、筑紫の読者に対してその場所を殊更に記す必要が無かったと考えられます。それに対し、天王寺には「難波天王寺」と、その場所が難波であると記す必要があったということは、この天王寺は筑紫ではないことを示します。もし筑紫にあったのであれば、筑紫で成立した細注に単に「天王寺」と記せば、読者にはわかるはずですから。したがって、「難波」とわざわざ表記したのは、筑紫ではなく、遠く摂津の難波にある天王寺であることを説明する必要があったと考えるべきなのです。
 こうした史料事実の示す論理性から、この難波天王寺は摂津難波の天王寺と理解するよう、細注筆者は読者に要求していることが明かとなったのです。そうすると、この難波天王寺は九州王朝の聖徳と呼ばれる人物が建立したことになりますが、この倭京二年(619年)が九州王朝天子・多利思北孤の晩年に当たることから、聖徳とは皇太子の利歌弥多弗利であった可能性が大きいように思います。そして、この聖徳・利歌弥多弗利の活躍記事が、『日本書紀』の「聖徳太子」記事として盗用されたのではないでしょうか。
 更にもう一つ、重要な問題があります。それは摂津難波に九州王朝が天王寺を建立したのであれば、当時、摂津難波は九州王朝の直轄支配領域であったことになります。だからこそ、九州年号の白雉元年(652年)に九州王朝は副都として前期難波宮を建設することができたと思われるのです。
 それでは、九州王朝はいつ頃摂津難波を支配領域としたのでしょうか。このテーマについては別に論じたいと思います。

参考
九州王朝への一切経伝来 ーー『二中歴』一切経伝来記事の考察(古田史学会報12号)へ
善光寺如来と聖徳太子の往復書簡ー九州年号の秘密ー (古田史学会報58号)へ


第234話 2009/11/08

九州王朝天子「天」一族の行方

 わたしの二十数年に及ぶ九州王朝研究において、重要テーマの一つに、九州王朝王族の末裔に関する問題があります。古田先生と松延氏(八女市)の出会いが
きっかけとなって、高良玉垂命の末裔の稲員家・松延家が倭王の末裔だったことが、同家の系図などにより明かとなったことは著名ですが、『隋書』にある「日
出ずる処の天子」多利思北孤が名のっていた「天(あめ)」一族について、面白そうな情報に出会いました。
 それは、丸山晋司さんからいただいた本、『山岳宗教史研究叢書16 修験道の伝承文化』五来重編に収録されている、日向米良修験道を紹介した次の文です。

 「さてその米良氏は、現在すでに各地に分家してしまったが、その出自については、菊池氏の後裔という説がある。これは近世、近代に書かれた系図、系譜、由緒書に基づいており、また天(あめ)氏を名乗った形跡も見られる。」同書603ページ
 「また、東臼杵郡東郷町附近に定着した米良氏は、天氏を名乗っており、天文十八年には羽坂神社に梵鐘を奉納している。」同書604ページ「米良修験と熊野信仰」より

 このように宮崎県などの熊野信仰の担い手だった米良修験道の米良氏が、菊池氏の後裔であり、天(あめ)氏を名乗っていたということが紹介されているので
す。出典調査などはこれからですが、肥後の菊池氏に由来する米良氏が天氏を名乗っていたということは、『隋書』イ妥国伝の天子・阿毎多利思北孤(あめのた
りしほこ)との関係をうかがわせるのではないでしょうか。
 「菊池氏の探究」は新たなテーマですが、全国の天氏の分布図などもあれば、何か面白い事実が浮かび上がるかもしれませんね。


第233話 2009/10/31

南朝の「黄葉」と北朝の「紅葉」

 わたしは京都の化学会社に勤めているのですが、社員教育の一環として月に一度、京都大学教授の内田賢徳(うちだまさのり)先生による日本語や万葉集のセミナーを受講しています。その10月のセミナーで内田先生から興味深い史料事実を教えていただきました。
 それは、8世紀に成立した万葉集では、「もみじ」の表記に「黄葉」が使用されているが、9世紀の漢詩集などでは「紅葉」が使用されており、これは中国南朝(六朝時代、4〜6世紀)に使用されていた「黄葉」と、7世紀の唐で使用されていた「紅葉」の影響を、それぞれが受けたという史料事実です。すなわち、 万葉集は南朝の影響を色濃く受け、9世紀以降は北朝の影響を日本文学は受けているのだそうです。
 この史料事実は九州王朝説により、万葉集は九州王朝時代に成立した和歌を数多く含み、九州王朝が長く中国南朝に臣従し、その文化的影響を受けていた痕跡と考えると、うまく説明できそうです。対して、8世紀以後の大和朝廷の時代になると遣唐使により北朝の影響を受けだしたものと思われます。
 中国南朝が滅亡した後も、九州王朝(倭国)文学は南朝の影響と伝統を継承したのでしょう。このように、文学史の視点からも九州王朝説は有力であり、より深い理解へと導きうる仮説と言わざるを得ません。


第232話 2009/10/26

太宰府の蔵司(くらのつかさ)

  第229話「太宰府の内裏」で紹介しました『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著に記されている、大宰府の蔵司(くらのつかさ)の北側にある「内裏」地名について御教示を乞うたと ころ、早速、福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から当地の字地名を記した地図がファックスで届きました。こうした素早い対応は本当に有り難い限りですし、全国組織の強みでもあります。その地図によれば、大宰府政庁跡の字地名は「大裏」とされ、問題の蔵司の北側は、残念ながら字地名が記されていませんでした。
 上城さんからは更に福岡県教委と九州歴史資料館による蔵司調査のニュース記事(2009/10/22)も送られてきましたので、インターネットで関連記事を検索したところ、蔵司の建物跡が奈良時代平安時代において九州最大規模の建物であり、奈良の正倉院よりも大きいという内容でした。いずれの記事もこのことを「特筆大書」していたのですが、正直に申して「なんで今頃大騒ぎするのだろう」とわたしは思いました。
 既に鏡山猛氏が『大宰府都城の研究』において、正倉院よりも古く大規模な建築物が存在していたとする調査結果を発表されており、古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社刊、昭和54年)で、そのことを紹介され、大和朝廷の正倉院よりも古く大規模な倉庫群が太宰府にあったことは九州王朝存在の証拠であるとされていたからです。
 いずれにしても、蔵司遺跡が注目され発掘調査されることは大歓迎です。ここでも九州王朝の痕跡が一段と明かとなることでしょう。わたしも蔵司には引き続き注目していきたいと思います。


第231話 2009/10/25

九州年号改元の史料批判と仮説

 10月17日の関西例会では、正木さんより九州年号改元の理由として、天子崩御の他、遷都・遷宮・天変地異(地震)等を『日本書紀』などから推測され、九州王朝史復原案の提起をされました。論証として成立しているものや作業仮説段階のものなど、様々なケースが報告されましたが、貴重な研究内容と方法でした。会報への投稿を要請しましたので、お楽しみに。
 岡下さんは例会発表2回目でしたが、七支刀銘文の読みについて、古田説の他、代表的な説を列挙され、中でも岡田英弘氏の説(倭王旨の旨を指の略字として、 「指示」などの「指」の意味とする)が妥当とされました。もちろんこの発表に対しては厳しい批判・反論が寄せられましたが、わたしとしては七支刀銘文に関する様々な説を知ることができ、たいへん勉強になった発表でした。
 例会発表で批判反論が出されるということは、研究者として認められた「証拠」でもあります。厳しい批判や意見が出されるのは関西例会の伝統です。批判反論にめげず、例会常連発表者が増えることを期待しています。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「大湖望」雑論会・記(豊中市・木村賢司)
2). 彦島史観と神代七代神「常立神」(大阪市・西井健一郎)
3). 九州王朝の東北進出(木津川市・竹村順弘)
4). 七支刀銘文の読み方(京都市・岡下英男)
5). 古代の鉄は「西高東低」(豊中市・大下隆司)
6). 九州王朝の遷都と九州王朝の改元について(川西市・正木裕)
7). 航空写真(昭和23年米軍撮影)に見る「狂心の渠」(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・吉野井光山五臺寺の白鳳年号・他(奈良市・水野孝夫)


第230話 2009/10/11

『古田史学会報』94号の紹介

 『古田史学会報』94号が発行されました。今回より会報の編集割付作業を西村秀己さん(古田史学の会全国世話人)に担当していただけることになり、大変助かっています。本当に有り難いことです。なお、投稿は引き続き古賀までお願いします。
 最近、長文の投稿が続いていますので、ページ数の関係で後回しになるケースが出ています。基本的にはよほどの問題(事実誤認・品位に問題がある場合・同
様の先行説がある場合・他)がなければ、会員からの投稿は掲載する方針ですので、掲載が遅れることについてはご了解下さい。逆にいえば、空いたページを埋
められる短文原稿は早く採用される可能性が大きいことになりますし、編集部としても短い原稿は、割付作業上から大歓迎です。
 94号でも、正木さんは「『日本書紀』の34年遡上」という視点で新説を快調なペースで発表されています。松山の合田さんは伊予の伝承・史料に基づいて新たな発見を展開されています。独自の視点や方法論を持っている論客の強みが発揮されているようです。

  『古田史学会報』94号の内容
○韓国・扶余出土木簡の衝撃
  —やはり『書紀』は三四年遡上していた— 川西市 正木 裕
○観世音寺出土の川原寺式軒丸瓦 生駒市 伊東義彰
○「娜大津の長津宮考」 
  —斉明紀・天智紀の長津宮は宇摩国津根・長津の村山神社だった— 松山市 合田洋一
○防人について 千歳市 今井俊圀
○天武九年の「病したまふ天皇」
  —善光寺文書の『命長の君』の正体— 川西市 正木 裕
参考 「君が代」の「君」は誰か」−倭国王子「利歌弥多弗利」考 古賀達也(古田史学会報 1999年10月11日 No.34)へ

○淡路島考(その2)
  —国生み神話の「淡路洲」は九州にあった— 姫路市 野田利郎
○弔辞 力石 巌さんの御逝去を悼む  古田史学の会 古賀達也
○割付担当の穴埋めヨタ話(1) 平仮名と片仮名 西村


第229話 2009/10/10

太宰府の内裏

 先日、木村賢司さん(古田史学の会会員)の釣り小屋「大湖望」に行ってきました。古田史学の会林間雑論会などが開催されている、関西の会員の間では有名な所です。大湖望からは琵琶湖を一望でき、木村さんご自慢の別荘です。
  その日は、木村さんに預かってもらっていた丸山晋司さんからいただいた書籍を受け取りに行ったのですが、その書籍の中に『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著(昭和46年、青雲書房刊)の一冊があり、そこに次のような興味深い記述がありました。

 「蔵司の丘陵の北、大宰府庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」同書33頁

 この記述通りとすれば、大宰府政庁跡の北西で、蔵司(くらのつかさ)の北側に内裏とよばれる地があったとのことですが、従来は大宰府政庁の北部に字地名 「大裏」があり、ここが九州王朝の天子の居住地「内裏」だと想定していたのです。しかし、そことは別の場所にも「内裏」地名があるということに、わたしにはピンとくるものがありました。
 というのも、大宰府政庁第2期遺構を7世紀段階における九州王朝の天子の宮殿とするわたしの説に対して、伊東義彰さん(古田史学の会会計監査)より、天子の居住区としての内裏にしては狭すぎるという鋭い反論が、関西例会で出されていたからです。確かに、前期難波宮や藤原宮などと比較しても、大宰府政庁跡は規模が小さく、政治の場所と居住区の両方が併存していたとするには、伊東さんの指摘通り、ちょっと苦しいかなという思いがあったのでした。
 そうしたこともあって、政治の場所は大宰府政庁跡で、居住区は通古賀(とおのこが)地区ではなかったかなどとも考えていたのですが、そのようなときに 『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』の記述を読んだのです。現段階では一つのアイデアに過ぎませんが、この蔵司丘陵の北部に位置する「内裏」地名こそが、九州王朝天子の「内裏」がそこにあった痕跡ではないでしょうか。考古学調査報告や現在でも同地が「内裏」と呼ばれているのかを調べなければと考えています。ご当地の方の御教示を賜れば幸いです。