第322話 2011/06/11

6月19日、記念講演会のご案内 済み

来る6月19日(日)に古田史学の会会員総会を開催します。総会に先だって、午後1時(開場)から恒例の記念講演会も開催します。今回の講演は次のお二人です。
石田敬一さん(古田史学の会会員) 演題「倭人伝の戸と家について」
正木 裕さん(古田史学の会会員) 演題「盗まれた九州」
記念講演会は、毎年その一年に優れた研究発表をされた古田学派の研究者を招聘して行われますが、今回は「古田史学の会・東海」の研究者石田さんと「古田史学の会・関西」の論客正木さんにお願いしました。
石田さんは「東海の古代」(古田史学の会・東海の機関紙)で好論を数多く発表されていますが、関西での発表は初めてです。学問の方法や原則を強く意識さ れて自説を展開し、他者への批判でもこうした視点をしっかりと持たれており、わたしも以前から注目してきた研究者のお一人です。今回の発表テーマは倭人伝 における「戸」と「家」についてで、古田説を更に展開・深化させるかもしれないと期待されています。
正木さんは皆さんご存じの通り、九州年号に基づいた『日本書紀』史料批判の展開を中心とする、その圧倒的な研究は質量とも素晴らしい内容と言わざるを得 ません。限られた現存史料という制約の中、危険な論理の領域にも踏み込まれており、これからの展開が益々楽しみな研究者です。今回はこれまで発表された九 州年号研究と『日本書紀』史料批判による九州王朝の実像解明をまとめて発表していただく予定です。
古田史学を愛する多くの皆さんの参加を呼びかけます。なお、会場は大阪市北区中之島にある「大阪府立大学中之島サテライト」(大阪府立中之島図書館別館 2階ホール)です。本会総会では初めて使用する会場ですので、お間違えないように。午前中は関西例会を開催していますので、こちらへも是非。

第321話 2011/06/05

九州の語源

九州新幹線により一つに結ばれた九州ですが、九州新幹線のシンボルカラーは九州7県を象徴した7色のレインボーカラーでした。厳密に言うと、九州新幹線は長崎県・大分県・宮崎県は走っていないので、7色で表現するのはビミョーかもしれません。
ご存じのように、その昔、九州は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隅の9国からなっており、そのため「九州」と呼ばれるようになった とするのが通説でした。しかし、中国では天子の直轄支配地を9に分けて統治する伝統があり、その影響により「九州」と言えば単なる地名ではなく、天子の直 轄支配領域を指す「政治地名用語」となりました。例えば、『旧唐書』にも「九州」という表記が頻出します。その上で、古田先生の九州王朝説によれば、古代 九州島は天子が直轄支配する政治的地域であり、倭国(九州王朝)が中国に倣って命名したものとされました。
その証拠に、意図的に9国に分けられた痕跡として、筑紫・肥・豊の3国のみが前・後に分割され、ちょうど9国となっています。薩摩を薩前・薩後、日向を 日前・日後などとは分割しなかったのです。恐らく倭国の天子にとって、直轄中の直轄領域であった筑紫・肥・豊を前後に分割したのではないでしょうか。
なお、9国への分国の時期が日出ずる処の天子・多利思北孤の時代(6世紀末)であったことを、わたしは『九州王朝の論理』(古田先生・福永晋三さんとの 共著、明石書店刊。2000年)で論証しましたので、ご参照いただければ幸いです。
こうした認識に立つと、九州王朝にとっての直轄支配領域は九州島であり、それ以外の本州や四国は支配領域ではあっても、「直轄地」ではなかったことにな ります。恐らくそれらは地方豪族により統治されており、その豪族達の上に九州王朝の天子が列島の代表者として間接統治したのではないでしょうか。そし て7世紀中頃になると、全国に評制を実施し、律令による中央集権的統治を進めたものと思われます。
701年以後になると、大和朝廷が列島の新たな代表者となりますから、大和朝廷にとって自らの直轄支配領域を「九州」と呼ぶ「大義名分」が発生します。 その史料的痕跡は『日本書紀』にはありま せんが、『続日本紀』には1回だけ見えます。天平3年(731)12月21日の聖武天皇の詔中に「朕、九州に君臨す。」とあり、この時になってようやく大 和朝廷は「九州」という政治的地名を使用したようです。九州王朝を滅ぼして間もない『日本書紀』成立時(720)では、九州王朝による九州島の九州という 地名が「現存」しており、『日本書紀』での使用はためらったのではないでしょうか。
聖武天皇による「九州」という表現ですが、ここには微妙な検討課題があります。それは、聖武天皇にとっての「九州」に、九州島は含まれていたのかという 問題です。すなわち、九州王朝の故地である九州島を聖武天皇は自らの直轄支配領域と認識していたのかというテーマです。
わたしの現時点での考えとしては、天平3年の時点では九州島は大和朝廷の直轄支配領域とはされておらず、聖武天皇の詔勅中の「九州」には九州島は含まれ ていなかったのではないかと考えています。その根拠の一つは、養老律令によれば九州島は大宰府が統括しており、大和朝廷の直轄支配というよりも、大宰府に よる間接統治だったからです。このテーマは九州王朝の滅亡過程とも密接に関 係しており、今後の研究テーマでもあります。引き続き、検討したいと思います。


第320話 2011/05/29

九州新幹線の旅

 先週は仕事で博多から鹿児島県・宮崎県を旅しました。そのおり、3月12日に全線開業した九州新幹線に初めて乗りました。博多のアクロス天神ビルにある 福岡県産業科学技術財団を訪問した後、鹿児島中央駅まで九州新幹線で向かったのですが、夜遅くの移動だったため沿線風景が見られず残念でした。
 九州出張の際は飛行機を使うことが多いのですが、今回は九州新幹線に乗りたくて、JRを利用しました。というのも、九州新幹線全線開業のテレビCMがと ても感動的な内容だったからです。その内容は最長の3分間バージョンでは、鹿児島中央駅から出発した「さくら」の車窓から、開業を歓迎する沿線住民の笑顔や工夫をこらしたパフォーマンスを延々と博多駅まで映し続けるというものです。あまりにも感動的な画像でしたので、わたしの故郷の久留米駅を通過する頃には滂沱の涙を流していました。
 このコマーシャル撮影は事前に沿線住民に知らされていたので、みんな自分の姿がテレビに映るかも知れないとの期待から、2万人近くの九州の人々が参加した そうです。例えば、のどかな田園地帯で子供を肩車して新幹線を追いかける家族や、住宅地の道路や家の窓から横断幕を垂らしたり仮装した人々が手を振る風景など、見ていてとても幸せな気分になるコマーシャルなのです。しかし、開業時期が東日本大震災に重なり、わずか3日でテレビ放映が中止され、幻のコマーシャルとなりました。
 わたしはこのCMの存在を職場の同僚から知らされ、インターネットのJR九州のホームページ等で見たのですが、見るたびに涙が出るのです。その理由は、 わたしが九州出身ということだけではなく、その素朴でのどかな風景が東北の被災地とオーバーラップしているからだと思います。テレビCMでこれほど涙が出たのは初めての経験でした。
 バックに流れている音楽も素敵な曲で、スウェーデンの人気歌手マイア・ヒラサワさんが歌っている「ブーン」という曲です。ちなみに彼女のお父さんは日本人で、彼女自身も仙台で暮らした経験があるとのこと。
 九州王朝の故地が新幹線で結ばれ、多くの九州王朝の民の末裔が参加してできたJR九州のCMを是非見て欲しいと思います。

一例としてYouTubeのものを期間限定で紹介

九州新幹線全線開業 祝!九州縦断ウェーブ CM「総集編」180秒ver.


第319話 2011/05/22

九州王朝鎮魂の寺

 昨日の関西例会では、西村さんから研究発表するようにと常々言われ続けていたこともあり、久しぶりに発表しました。 数日前に発見したテーマで、法隆寺が大和朝廷による九州王朝鎮魂の寺であったとする仮説です。7月2日の古田史学の会・四国の例会でも発表予定です。その 後に論文にしようと思っています。
 小林さんからは大歳神社についての岩永芳明稿が紹介され、その分布が播磨に集中していることなどが指摘されました。以前、わたしが研究した「八十神」の分布と重なっているようなので興味深く聞きました。
 竹村さん発表の「大聖勝軍寺の聖徳太子弑逆伝承」は初めて聞く伝承なので驚きました。今後の調査が期待されます。
 例会の発表は次の通りでした。
 
〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). Basic & New (豊中市・木村賢司)
2). 乙巳の変は動かせる(2) (向日市・西村秀己)
3). 『三国志』の第一読者が理解したこと −古賀達也氏への返答−(姫路市 野田利郎)
4). 倭人伝の国々 −「邪馬一国」の内部に所在する小国について−(姫路市 野田利郎)
5). 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文(補足) (京都市・岡下英男)
6). 九州王朝鎮魂の寺 −「天平八年二月二二日法会」の真実− (京都市・古賀達也)
7). 大歳神社について(岩永芳明稿の紹介) (神戸市・小林嘉朗)
8). 宣化紀の松浦佐用姫(木津川市・竹村順弘)
9). 天智の中元年号(木津川市・竹村順弘)
10).大聖勝軍寺の聖徳太子弑逆伝承(木津川市・竹村順弘)
11).弥努王の爵位(木津川市・竹村順弘)
○2010年度関西例会会計報告(豊中市・大下隆司)
○水野代表報告(代理報告:西村秀己)
   古田氏近況・会務報告・『諸寺縁起集』の金剛山・天狗は猿田彦・他(奈良市・水野孝夫)

第318話 2011/05/15

葵祭

今日は京都三大祭りの一つ、葵祭が執り行われました。祭の行列が拙宅の前の道(河原町通)を通りますので、数年に一度は見物しています。少しその様子をお知らせしましょう。
その年毎に選ばれる斎王代を乗せた牛車(ぎっしゃ)が大勢のお供を伴って、京都御所から下賀茂神社と上賀茂神社へと行列が進むのですが、かなり長い行列 で、先頭が下賀茂神社に到着しても、最後尾はおそらくまだ京都御所の中でしょう。ちなみに、行列の最先頭は京都府警のパトカーと警察騎馬隊です。最後尾に 祭の主役「斎王代」の牛車となるのですが、実は更にその後に軽トラが続きます。これは祭りに参加した馬や牛の糞を回収するための軽トラです。
ところで斎王代の牛車ですがかなり大きなもので、牛一頭ではとても長距離を引き続けることはできそうにありません。ですから、牛車のすぐ後に控えの牛が 続いています。しかしよく見ると、牛車は牛が牽いているというよりも、白装束に烏帽子姿の若い人が後から10人くらいで牛車を押しているのです。おそら く、 こうでもしないと牛が歩かないのだと思います。10年くらい前の葵祭では拙宅前で牛が動かなくなり、大変でした。その時もみんなで牛車を押したり、牛を 引っ張ったりしていました。
祭の主役は斎王代です。もともとは天皇の娘が斎王となっていましたが、その後、娘を手放すことに天皇が悲しまれ、貴族の娘が斎王代として選ばれるように なりました。現在では京都市内の娘さんが選ばれていますが、極稀に市外から選ばれることもありました。わたしが住んでいる上京区梶井町には斎王代を二人も 出している家があり、これは町内の秘かな自慢話の一つになっています。
葵祭の斎王代に選ばれることは、本人にとっても家にとっても大変名誉なことですが、同時に地元のマスコミになどで紹介され、口うるさい京雀からは、「今 年の斎王代はんはべっぴんさんやなあ」とか「御室の桜やなあ」と品定めされます。これも地元ならではの葵祭の楽しみ方の一つではありますが。なお、「御室 の桜」と言われて喜んではいけません。御室の仁和寺の桜は枝が低く、花も低い所に咲くことから、「花(鼻)が低い」と言われているのです。ご用心を。

第317話 2011/05/03

『集韻』

今日は久しぶりに岡崎にある京都府立図書館に自転車で行って来ました。拙宅から10分ぐらいのところですから、大変便利です。ただ残念なことに黄砂が多く て、東山が霞んでしまい、本来なら美しいはずの新緑の景色が見られませんでした。余談ですが、もし今回のような原発事故が中国で発生したら、放射能汚染した黄砂に日本列島が包まれるのかと思い、ちょっとぞっとしました。近隣諸国が福島原発事故を脅威に感じているのも、今日の黄砂を見て、なるほどと思いまし た。
府立図書館に行った目的は二つ。一つは『古代に真実を求めて』14集を寄贈すること。もう一つは、中国語の音韻書『集韻』を調査することでした。現在、 倭人伝の固有名詞(国名・人名)の研究のため、古代中国語音韻の勉強をしていますが、その必要性から『集韻』を調べに行ったのです。幸い、府立図書館には 『集韻』の表音表記(「反切」と呼ばれる)のみを抜粋整理した『集韻切韻譜』(佐々木猛編)がありましたので、短時間で調べることができました。
わが国へは様々な文物が中国から渡来してきましたが、その中でも特筆して感謝すべきものが「漢字」だったのではないかと思っています。日本の文化はこの漢字を受け入れ、独自の発展進化(仮名)も行い、新たな日本文化を築き上げてきました。そうした意味からも、イデオロギーや国家間の利害とは別に真実の学 問交流(多元史観による)を行いたいものです。

 


第316話 2011/05/01

「越智国」論、合田さん熱弁

 4月16日の関西例会では、ゲスト発表者として松山市の合田洋一さん(古田史学の会全国世話人)をお招きして、「越智国の実像」というテーマで発表していただきました。「紫宸殿」地名や熟田津などの存在で、近年注目を集めている越智国についての研究成果をまとめて発表していただいたのですが、詳細な地図や豊富な資料も準備され、当地の土地鑑のない人にも大変わかりやすい報告でした。関西例会ではこれからも関西以外の地域の論客を招いて研究発表していただ くという企画を行いたいと考えています。
 当日の発表内容は次の通りでした。また、大下さんの発議により、東日本大地震被災地の会員に古田先生の新著を送るためのカンパも行われました。ご協力いただき、有り難うございました。
 
〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「あと・さき」(てれこ)(豊中市・木村賢司)
2). 倭人伝の日数記事を読む–邪馬一国と投馬国の解明(姫路市 野田利郎)
3). 「始哭」年号について(川西市・正木裕)
4). 倭王と仏教伝来(木津川市・竹村順弘)
5). 清賀上人の来倭布教とその時代背景(木津川市・竹村順弘)
6). 前期難波宮=九州王朝副都説についての疑問(3)(豊中市・大下隆司)
7). 越智国の実像(松山市・合田洋一)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・会報103号斎藤稿への反論・他(奈良市・水野孝夫)

第315話 2011/05/01

風評

最近、福島原発事故に関してマスコミなどで、「風評」や「風評被害」という言葉が頻繁に聞かれ ますが、わたしは間違った意味で使われているケースが多いように感じています。風評とは真実ではないこと(デマ)や不確かなこと(憶測)を真実であるかの 如く伝えることであり、風評被害とはそうしたデマにより蒙る被害のことと私は理解していますが、間違っているでしょうか。
ですから、風評や風評被害を防ぐためには、真実を発表することと、何が真実かを見極める力をつけることしかありません。そのために「学問」があるので す。ところが、福島県の学校が独自で測定した放射線量を発表すると、「風評被害を招くから余計なことはするな」と圧力がかかったり、児童を放射線被曝から 守るために校庭の汚染し た土を除去すると、本来なら率先して子供達を守らなければならないはずの文部科学大臣から「冷静に対応しろ」と横やりが入る始末です。
この国では、真実を発表したり真実と良心に基づいて行動すると、「風評」「風評被害」という言葉で非難される時代になったようです。これはとても残念なことですし、何よりも福島県の子供達がかわいそうです。
実はこうした風景をわたしたちは以前から見てきました。それは、今から40年前に『「邪馬台国」はなかった』を発表された古田先生が、その後「邪馬台 国」シンポジウムから排除されたり、学界では古田説はなかったこととして扱われたり、わたし自身も目撃しましたが、ある古代史の学会での質問時間のとき、 発言を求めて挙手し続ける古田先生を司会者が公然と無視するなど、古代の真実を訴え続ける古田先生に対してのひどい扱いの数々です。
それでも屈しない古田先生に対して、マスコミも利用した偽作キャンペーンを行うなど、恐らく大和朝廷一元史観の学者たちにとって、古田先生の存在や発言は「風評」や「風評被害」のごとく扱われ、恐れられているのではないかと思います。
真実や真実を語る者を「風評」「風評被害」として葬り去ること、それは一時的には「有効」な手段に見えるかもしれませんが、決して成功するものではあ りません。学問研究を通じて真実を解明し訴えていく、これこそ「古田史学の会」や古田学派の使命であり、そのことに生涯をかける人間はこれからも絶えるこ となく生まれ続けるからです。 

第314話 2011/04/24

『古田史学会報』

103号の紹介

『古田史学会報』103号が発行されました。被災地の会員にも無事届きますよう、本会総務の大下さんがご尽力されています。
今号には新年賀詞交換会での古田先生の講演要約が掲載されています。大下さんがテープ起こしの労をとられました。最新の古田先生の研究の様子がうかがえる内容となっています。
古谷さんは会報初寄稿です。古代中国都市が短里で記されていた痕跡を紹介されています。氏の文献渉猟の成果です。正木さんは九州王朝の飛鳥宮に関する考 察で、九州王朝史復原の一つの方法論としても注目されます。小金井市の斎藤さんからは、近年「流行」している、『日本書紀』大化改新や乙巳の変を50年移 動させ、九州年号大化期の事件とする見解に対して、一石を投じる論文が寄せられました。今後の展開が期待されます。
こうした好論を掲載した『古田史学会報』が、被災地の古田ファンに少しでも喜んでいただけるものになれば幸いです。
『古田史学会報』103号の内容
○新年賀詞交換会「古田武彦講演」(要約) (文責 大下隆司)
○「筑紫なる飛鳥宮」を探る  川西市 正木 裕
○「逸周書」による都市洛邑の規模  枚方市 古谷弘美
○魏志倭人伝の読みに関する「古賀反論」について  富田林市 内倉武久
○入鹿殺しの乙巳の変は動かせない  小金井市 斎藤里喜代
○前期難波宮の考古学(2)–ここに九州王朝の副都ありき  京都市 古賀達也
○大地震のお見舞い  代表 水野孝夫
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○2011年度会費納入のお願い

第313話 2011/04/17

雪より白き神の山

先日、仕事で石川県小松市を初めて訪れました。小松市と言えば、恥ずかしながら航空自衛隊の小松基地ぐらいしか知らなかったのですが、今回訪れて、当地が旧所名跡に溢れた歴史的にも由緒深い地であることを知ることができました。
たとえば、弁慶・義経主従が通った「勧進帳」で有名な安宅の関や、芭蕉も訪れて句を詠んだ多太神社などがあります。多太神社には斉藤実盛の兜が奉納され て いますが、実盛は高齢であることを敵にさとられないよう、白髪を墨で染めて戦陣に散った平家の武者です。この故事はわが国初の白髪染めとしても著名で、ヘ アカラーの研究者から講演などでよく紹介されます。芭蕉も多太神社の兜を拝観して、「むざんやな 兜の下の きりぎりす」という句を残しています。
古代史的に見れば、多太神社の創建年が武烈5年(503)とされていることが注目されます。継体天皇(即位以前)による創建と伝えられており、北陸地方における継体の影響力を考える上でも貴重な伝承と思われます。
小松市でわたしが最も感動したのは、純白の雪を冠していた白山の優美な姿でした。手前の山々が雪解けにより山肌が露出していたのに比べ、白山はその名の 通り真っ白だったのです。青空に映えたその美しさが今も忘れられません。麓の白山比?神社には姫神が祀られていると聞いていますが、御祭神の調査研究のた めにもいつか訪れてみたい神社の一つです。
そこで、わたしも芭蕉に倣って一句詠みました。「姫神は 雪より白き 神の山」。北陸地方は古代史上 の重要さに比べれば、古田史学・多元史観による研究が充分に進んでいるとは言えないようです。是非、現地の研究者が多元史観による古代の真実の解明に取り 組んでいただければ幸いです。

 


第312話 2011/04/03

『古代に真実を求めて』

14集発刊

古田史学の会の論集『古代に真実を求めて』第14集が明石書店より発刊されました。古田史学の会の2010年度賛助会員には一冊発送いた します。一般書店でもお取り寄せ、お求めできます。定価2400円+税です(255頁)。14集には古田先生の講演録2編の他、禅譲・放伐論争シンポジウ ムと会員による7論文が収録されています。
14集の特徴は、古田先生の講演録2編を収録したことにより、著作執筆のため講演を減らされている古田先生の最新の研究成果 に触れることができることと、 関西例会で最もホットなテーマの一つである、九州王朝から大和朝廷への権力交代が禅譲だったのか放伐だったのかというシンポジウムの内容を収録したことで す。これにより、関西例会での研究内容やその雰囲気が読者に伝わることと思います。
研究論文では、愛媛県西条市の今井久さんが発見された「紫宸殿」地名に関する報告2編(今井稿、合田稿)が、多元史観に相応しいものといえるでしょう。正木さんからは近年の圧倒的な研究成果の一端が報告され、貴重です。
是非、お買い求め下さい。同時に、15集に向けてご寄稿もお願いいたします。

『古代に真実を求めて』第14集目次
○巻頭言   水野孝夫
○特別掲載  
   『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判     古田武彦講演録
    神籠石の史料批判−古代山城論     古田武彦講演録
    禅譲・放伐論争シンポジウム         司会 不二井伸平
                          パネリスト 西村秀己
                                  正木 裕
                                水野孝夫
                                古賀達也
○研究論文
    北部九州地方の水稲稲作と遠賀川式土器 佐々木広堂
    ーー水稲稲作はロシア沿岸州から伝わった
   越智国に紫宸(震)殿が存在した           今井 久
  越智国にあった「紫宸殿」地名の考察      合田洋一
  橘諸兄考 ーー九州王朝臣下たちの行方 西村秀己
  不破道を塞げ 四                       秀島哲雄
   ーー高良山神籠石の美濃師三千人、基肄城への不破道を塞ぐ
   移された「大化の改新」                   正木 裕
  「笠沙」は志摩郡「今宿」である              野田利郎
   ーー天孫降臨説話の解明

 

2011.4.25

『古代に真実を求めて』第十四集・正誤表


第311話 2011/04/01

正木さんからのメール「始哭」仮説

  前話で謎の九州年号「始哭」を取り上げたところ、早速、正木裕さん(古田史学の会会員)からメールが届きました。「始哭」を葬送の儀式とする仮説です。なかなか面白い解釈であり、さすがは正木さん、と思いました。
このように古田学派の研究者の間で瞬時に活発な刺激的な意見交換ができることは、良き学風であり、インターネット時代にふさわしいものです。もちろん、 関西例会では批判や反論など激しい応酬が交わされることも少なくありませんが、これもまた古田学派ならではの学問的態度、学風です。それでも二次会では一 杯飲みながら和やかに歓談するというのも、関西例会の楽しみです。
正木さんのご了承を得て、そのメールを紹介します。

古賀様、各位
最新のブログにある「始哭」ですが、中国では漢代から儒教の影響下「哭礼」の儀式が広がりました。
「中国の葬礼で、墓前や葬式で大声をあげてな くこと。哭礼。諸侯が亡くなった場合は異姓ならば城外でその国に向かって、同姓ならば宗廟で、同宗ならば祖廟で、同族ならば父の廟で哭礼を行う。魯の場 合、同姓の姫姓諸侯ならば文王の廟、同宗の?・凡・蒋・茅・胙・祭の場合は周公の廟で行う。」(『春秋戦国辞典』)
また、泣き終わるのは「卒哭」といい、今も100日の儀式として日本でも続いています。(仏教上の儀式)
「卒哭忌(そっこうor[く]き)は百ヶ日のことで、哭(な)き卒(お)さめの忌という意味である。」
「始哭」は端政元年(589)と並行している年号ですが(「始大」は字形から「始哭」の変形と考えるべきか)、この年高良玉垂命が三瀦で亡くなったことは古賀さんの指摘するとおり(太宰管内志)です。
「卒哭」があるなら「始哭」もあってしかるべきかと・・すなわち端政元年(589)に高良玉垂命の崩御を痛んで、後を継いだ多利思北孤がその葬儀と「哭 礼」をとりおこなった(「哭」を「始」めた)、これが多利思北孤関連の事跡として「法興」とセットで伝承したとは考えられないでしょうか。短期間で終わっ ているのも哭礼は100日で終わり(卒哭)、せいぜい1〜2年間の事跡と考えれば不思議はないのでは。
このあたりの年に百済から法師が大挙来朝しているのも高良玉垂命の祈願や法要のためとすれば自然に解釈できます。
以上「始哭」は高良玉垂命崩御に伴い多利思北孤が哭礼を始めた事にちなむもので、年号というより「始哭の年」という意味なのではないかという仮説を提起させていただきます。どうでしょうか。
   正木拝