第191話 2008/10/05

『古田史学会報』88号の紹介

  『古田史学会報』88号の編集が終わりました。今号も古田先生から原稿をいただけました。会報でも紹介していますが、十月十八〜十九日、愛知教育大学 (愛知県刈谷市)で開催される日本思想史学会二〇〇八年大会において、古田先生が発表されます。発表は大会二日目十九日(日)の午後の部で、テーマは「日本思想史学批判─『万世一系』論と現代メディア─」です。大会参加費は二〇〇〇円。是非、ご参加下さい。

『古田史学会報』88号の内容

 ○生涯最後の実験 古田武彦
 ○新刊紹介 奪われた国歌「君が代」 古田武彦著 情報センター出版局刊  一四〇〇円+税
 ○「藤原宮」と大化の改新についてII —皇極紀における「造宮」記事— 川西市 正木 裕
 ○「バルディビアへの旅」その後 豊中市 大下隆司
 ○古田史学「林間雑論会」実施報告 豊中市 木村賢司
 ○菅江真澄にも見えていた「東日流の風景」 奈良市 太田齊二郎
 ○『日本書紀』の西村命題 京都市 古賀達也
 ○大山祇神社の由緒・神格の始源について —九州年号を糸口にして— 松山市 八束武夫
 ○連載小説「彩神」第十二話 シャクナゲの里(7) 深津栄美
 ○例会発表のコツ 京都市 古賀達也
 ○日本思想史学会 十月十八〜十九日 古田武彦氏が発表
 ○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
 ○古田史学の会 関西例会のご案内
 ○事務局便り


第190話 2008/09/28

「古賀」と「古閑」

 9月の関西例会では正木さんより熟田津が愛媛県西条市にあったという説が、史料根拠を提示して発表されました。かなり説得力のある説で、論文発表が待たれます。もしこの説が正しかったら、行方不明となっている伊予の温湯碑は西条市のどこかにあることになり、今後の展開も楽しみです。
 わたしは、8月に永井さんが紹介された「こが」地名のうち、「古賀」が福岡県・佐賀県に濃密分布し、「古閑」は菊池川流域を中心として熊本県に分布しているというデータにヒントを得て、賀と閑がいずれも万葉仮名「か」に使用されていることから、九州王朝内部でも万葉仮名は多元的に成立していたのではないかとする作業仮説を報告しました。こちらも今後の研究の深化が求められています。
〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). プラトンの弁明・西村命題の向こう側(豊中市・木村賢司)
2). 熟田津論点整理(川西市・正木裕)
3). 「上宮聖徳法王帝説」再考(岐阜市・竹内強)
4). 万葉仮名成立の論理(京都市・古賀達也)
5). 九州王朝の近江遷都はあったか2(木津川市・竹村順弘)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・西行法師の伊勢参宮の歌・他(奈良市・水野孝夫)


第189話 2008/09/14

「大化二年」改新詔の真実

 『日本書紀』の大化改新については、古田学派内でも早くから研究がなされてきました。特に、九州年号に大化があることから、『日本書紀』の大化改新は九州年号の大化年間(695〜703年、『二中歴』では695〜700年)における九州王朝による大化改新が年次を50年ずらして『日本書紀』に盗用されたものとする視点からの論説が多かったのですが、その可能性は高いと思われるものの、論証としては十分ではありませんでした。

 そこで大化改新研究に於いてわたしが着目したのが、大化二年(646年)の改新詔でした。そこには、改新詔を出した都を特定できる記述があるからです。 まず第一に、畿内の四至として東は名墾(なばり)、南は紀伊、西は赤石、北は近江とありますから、都はそれらの内側中心部分にあることとなります。第二に、京に坊長・坊令を置けと命じていますから、その都は条坊制都市であることが前提となっています。第三に「初めて京師を修め」とありますから、大和朝廷にとって初めての本格的都城であることがわかります。これら3条件を満たす都は、ただ一つ。藤原京(日本書紀では「新益京」と表記)しかありません。
 ご存じのように、孝徳朝の都は難波長柄豊碕宮とされていますが、難波京には条坊遺構が発見されていません。従って大和朝廷にとって初めての条坊都市は藤原京なのです。そして、持統が藤原宮に遷都したのが694年12月ですが、この大化二年の改新詔が九州年号の大化二年であれば696年のこととなり、遷都の翌々年であり、坊長・坊令を定める時期としてはぴったりですし、先の四至の中心地域にあることからも、大化二年改新詔の内容と見事に一致するのです。
 以上の論点から、『日本書紀』孝徳紀に記された大化二年改新詔(646年)は、実は九州年号の大化二年(696年)に藤原宮で出されたものであることが わかったのです。『日本書紀』編纂者は九州年号の大化を50年遡らせて盗用しただけではなく、その実態は大化二年改新詔を50年遡らせていたのです。
 そうすると、この改新詔に含まれている「建郡」の命令も、696年に藤原宮で出された詔勅となり、従来は、700年以前であるから、この「郡」を「評」 と読み替えていましたが、その必要性は全くありません。すなわち、696年に郡制施行命令を出し、その5年後にして、ようやく全国一斉に評から郡へと変更されたのです。この5年間はまさに郡制への移行準備期間だったのです。
 従来わたしは700年から701年にかけて全国一斉に評制から郡制に置き換わることに疑問を感じていました。九州王朝から大和朝廷へと列島の代表者が交代するにしても、木簡などに見られる見事な「全国同時変更」の裏に何があったのだろうかと不思議に思っていたのです。また、『続日本紀』に何故「廃評建郡」の詔勅がないのだろうかとも。しかし、今回の発見により、その謎がかなりわかってきました。すなわち、大化二年改新詔こそが「建郡」の詔勅そのものだったのです。その上で、大和朝廷は「廃評建郡」に五年の歳月をかけて周到に準備したのです。(つづく)

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第188話 2008/08/31

「大化改新」論争と西村命題

 第187話において、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)を紹介し、大化改新虚構説にとって前期難波宮の存在が致命傷となっていることを述べましたが、管見では1969年に発行された『シンポジウム日本歴史3 大化改新』(井上光貞司会、学生出 版)でも、井上光貞氏、門脇禎二氏、関晃氏、直木孝次郎氏という斯界の泰斗が、前期難波宮の存在を大化改新真偽論に関わる主要テーマの一つとして、繰り返し論争している様子が収録されています。

 また、1986年発行の『考古学ライブラリー46 難波京』(中尾芳治著、ニュー・サイエンス社)でも、「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)と、前期難波宮の存在が大化改新論争のキーポイントであることが強調されています。
 前期難波宮が『日本書紀』の記述通り652年に造営されたことは考古学上、ほぼ問題ない事実であると思われるのですが、こうした考古学上の見解以外にも、大化改新虚構論や、山尾さんの天武期に前期難波宮が造営され、改新詔もその時期に出されたとする説には大きな欠点があります。それは西村命題(第184話参照)をクリアできないという点です。
 もし、山尾説のように天武が近畿では前例のない大規模な前期難波宮を造営し、改新を断行したのなら、天武の子供や孫達が編纂させた『日本書紀』にその通り記せばいいではないですか。何故、天武の業績を『日本書紀』編纂者たちが隠す必要があるのでしょうか。孝徳期にずらす必要があるのでしょうか。このように、山尾説は「それならば、何故『日本書紀』は今のような内容になったのか」という西村命題に答えられないのです。(つづく)


第187話 2008/08/30

大化改新と前期難波宮

 最近、大化改新の研究に没頭しているのですが、通説を調べていて面白いことに気づきました。

  岩波の『日本書紀』解説にも書かれているのですが、大雑把に言えば、大化二年の改新詔を中心とする一連の詔は、歴史事実であったとする説と、「国司」など の大宝律令以後の律令用語が使用されていることから、『日本書紀』編纂時に創作された虚構とする説、その中間説で大宝律令や浄御原令の時の事績を孝徳期に遡らせたものとする説があります。そして、孝徳期にはこのような改新は無かったとするのが学界の大勢のようなのです。
   ところが、孝徳期に大化改新詔のような律令的政治体制は無かったとする学界の大勢には、大きな弱点、目の上のたんこぶがあったのです。それは前期難波宮の存在です。
 大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、どう見ても律令体制を前提とした宮殿様式です。それは、後の藤原宮や平城京と比較しても歴然たる事実です。この事実が今も大和朝廷一元史観の歴史家たちを悩ませているのです。
   たとえば、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)にも如実に現れています。そこには、次のような記述があります。

 右のような「大化改新」への懐疑説に対して、『日本書紀』の構成に依拠する立場から、決定的反証として提起されているのが、前期難波宮址の遺構である。 もしもこの遺構が間違いなく六五〇〜六五二年に造営された豊碕宮であるのならば、「現御神天皇」統治体制への転換を成し遂げた「大化改新」は、全く以て疑 う余地もない。その表象が現実に遺存しているのだ。(同誌11頁)

 このように、大化改新虚構説に立つ山尾氏は苦渋を示された後、前期難波宮の造営を20年ほど遅らせ、改新詔も前期難波宮も天武期のものとする、かなり強引な考古学土器編年の新「理解」へと奔られているのです。
 ようするに、学界の大勢を占める大化改新虚構説は前期難波宮の存在の前に、論理上屈服せざるを得ないのですが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に立て ば、この問題は氷解します。すなわち、650年頃、前期難波宮に於いて九州王朝が評制を中心とする律令的政治体制を確立したと考えれば、前期難波宮の見事 な朝堂院様式の遺構は、従来の考古学編年通り無理なく説明できるのです。(つづく)


第186話 2008/08/23

八角堂と八角墳

 8月16日の関西例会はお盆の休みにもかかわらず、過去最高の参加人数でした。もちろん、内容も多岐に渡り充実しています。初参加の方もありました。多くの会員の皆さんの参加をお待ちしています。

 今回の発表で興味深かったのは竹村さんの「八角堂」と「八角墳」の紹介と関係を論じたものでした。ある説によれば、孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武の陵墓が八角墳であるとのこと。前期難波宮の八角堂が出現してから、近畿天皇家の陵墓に「八角形」が採り入れられたとすれば、それは偶然ではなく、何らかの理由があったに違いありません。その理由は、まだわかりませんが、とても楽しみな現象であり研究テーマではないでしょうか。
   おそらくこの研究は多利思北孤以後の九州王朝天子の陵墓研究へもつながる予感がしています。なお、発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 古田史学「林間雑論会」実施報告・他(豊中市・木村賢司)
  2). 動歩と靜歩(交野市・不二井伸平)
  3). 伊予の湯の岡碑文と九州王朝論─白方勝氏の歴史観について─(岐阜市・竹内強)
  4). 九州王朝の近江遷都はあったか?(木津川市・竹村順弘)
  5). 太宰府遺構の概略(生駒市・伊東義彰)
  6).「筑後川」と「古川」と「古賀」(たつの市・永井正範)
  7). 難波遷都の実態について・飛鳥浄(清)御原宮は小郡の宮か・他(川西市・正木裕)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・淡海は八代海である・他(奈良市・水野孝夫)


第185話 2008/08/14

『奪われた国歌「君が代」』

 待望の新刊、古田武彦著『奪われた国歌「君が代」』が出ました。情報センター出版局刊、1400円+税です。
 カバーの帯に『「君が代」は、本当に天皇を讃えた歌なのか?数奇な運命を辿った「国歌」成立の過程が、隠された「邪馬壱国」「九州王朝」をあぶり出す。独創的異説が絶対的な説得力をもって「定説」を凌駕する。』とあるように、古田史学九州王朝説の真髄が凝縮された一冊となっています。初心者はもとより、研究者にとっても古田史学の再理解を深める上でわかりやすい好著といえるでしょう。
   北京オリンピックの表彰式で「君が代」を聞くとき、この本を読んだ人と、そうでない人との決定的な「落差」を感じさせる、暑い夏、熱い一冊です。


第184話 2008/08/10

『日本書紀』の西村命題

 九州王朝研究において、大和朝廷との王朝交代の実態がどのようなものであったか、例えば禅譲か放伐かなど、重要なテーマとなっています。近年、諸説が出されていますが、その時に避けて通れない説明があります。それは、「何故、日本書紀が今のような内容になったか」という説明です。
 ご存じのように、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠しており、神武の時代から列島の代表者であり、卑弥呼や壹與の事績も神功紀に取り込むなど、古くから 中国と交流していた倭国は自分達であったかのような体裁をとっています。その反面、九州年号を「使用」していたり、自らの出自が九州の天孫族であることも堂々と記しています。
   このように、『日本書紀』はかなり複雑な編纂意図を持った史書であることがわかるのです。従って、近年の論者による禅譲説、放伐説、あるいは大和遷都説にせよ、それならば「何故、日本書紀が今のような内容になったか」という問いをうまく説明できていないのです。
 わたしがこの問いを最初に聞いたのは、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)からでした。次から次へと出てくる珍説・奇説に対して、西村さんはこの問いを発し続けられたのです。大変するどい問いだと感心しました。そこでこの問いを「西村命題」と私は命名しました。
   古田学派内外で出される諸説のうち、この西村命題をクリアしたものは、まだありません。わたし自身も、大化改新研究と前期難波宮九州王朝副都説により、ようやく西村命題に挑戦できそうなレベルに近づけたかなあ、という感じです。恐るべし、西村命題、です


第183話 2008/08/02

『古田史学会報』87号の紹介

 ようやく『古田史学会報』87号の編集が終わりました。今号は古田先生から原稿をいただけました。松山市の八束さんは会報デビューです。

 最近、投稿が増えていますので、ページ数の制限から、短い原稿の方が早く掲載されます。冗長な論文は避けた方が懸命です。自然科学でもネーチャー誌などに掲載されたノーベル賞論文は切れ味鋭くシャープで短いものが少なくありません。例えば、ワトソン等のDNA二重螺旋の論文はたったの2ページですが、それでノーベル賞をもらっています。見習っていただければと思います。どうしても長くならざるを得ないものは、『古代に真実を求めて』に投稿して下さい。意外と採用されますよ。

 『古田史学会報』87号の内容
  ○「遠近法」の論理—再び冨川さんに答える— 古田武彦
  ○祭りの後—「古田史学」長野講座— 京都市 松本郁子
  ○『越智系図』における越智の信憑性—『二中歴』との関連から— 松山市 八束武夫
  ○「藤原宮」と大化の改新について I—移された藤原宮記事— 川西市 正木 裕
  ○伊倉6—天子宮は誰を祀るか— 武雄市 古川清久
  ○連載小説「彩神」第十二話 シャクナゲの里(6) 深津栄美
  ○古田史学の会 二〇〇八年六月十五日 会員総会の御報告
  ○古田史学の会 関西例会のご案内
  ○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
  ○『なかった 真実の歴史学』第五号 ミネルヴァ書房
   直接編集 古田武彦 総力特集●大化改新批判 定価二二〇〇円+税


第182話 2008/07/26

暑いぞ!京都

 連日40℃近くの猛暑が続いています。京都の町全体が亜熱帯のようです。とくに自転車通勤(片道約30分)のわたしには、この暑さはこたえます。

  7月12日には東京で講演をしましたが、前期難波宮九州王朝副都説を中心に大化改新論など、かなり理屈ぽい話が続きましたので、聴いていただいた皆さまには判りにくかったのではないかと心配しています。
 19日には関西例会がありました。発表テーマは次の通りでした。わたしは夏ばてで発表はお休みにして、聞く側にまわりました。西村さんの「九州王朝の滅亡は禅譲か放伐か」という問題は古田学派内では古くて新しいテーマです。本格的な研究が期待されます。
 
  〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 東かがわ市「歴史民俗資料館」友の会(豊中市・木村賢司)
  2). 禅譲と放伐・・・そして藤原京遷都(向日市・西村秀己)
  3). 皇極元年九月の造宮記事(川西市・正木裕)
  4). 彦島に“長柄丘岬(神武紀)”を探る(大阪市・西井健一郎)
  5). 久留米大学古田講演会の報告(たつの市・永井正範)
  6). 難波宮遺跡の概略(生駒市・伊東義彰)
  7). 「魏志倭人伝」再読・女王国再発見(神戸市・田次伸也)
  ○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・「難」姓の調査・他(奈良市・水野孝夫)


第181話 2008/07/06

「大寶建元」の論理

『日本書紀』の三年号、大化・白雉・朱鳥が九州年号からの「盗用」、あるいは「実用」であったことは既に述べてきたところですが、実はそのことを端的に示している有名な史料があります。『日本書紀』の続編である『続日本紀』です。

 大和朝廷にとって最初の年号である大寶の建元記事が『続日本紀』大寶元年(701)三月条に次のように記されています。

「対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大寶元年と為す」

 初めての年号に施行にしては大変素っ気ない記事ですが、ここでははっきりと「建元」とあります。一つの王朝が年号を最初に創ることを「建元」といい、それ以後は「改元」です。これが年号制定と継続の表記ルールなのです。ですから、『続日本紀』編纂者たちは大和朝廷にとって初めての年号、大寶を「建元」と表記したのです。大寶以後は、現在の平成に至るまで「改元」であることも当然です。

そうすると、『日本書紀』の三年号は大和朝廷の年号ではないということになります。その証拠に、『日本書紀』においても、最初の大化も「建元」ではなく「改元」(斉明天皇即位前紀)と表記されています。もちろん、白雉も朱鳥も「改元」と表記されています。このように、『日本書紀』において大和朝廷の史官たちは「建元」という表記を使用しなかったのです。何故なら、『日本書紀』が成立した720年時点では、既に大寶が701年に「建元」されていたのですから、当然と言えば当然のことでしょう。

 このように、『続日本紀』に見える「大寶建元」の史料事実と論理性は、『日本書紀』の三年号が別の王朝の年号であることを前提としており、すなわち九州王朝と九州年号の実在を証明しているのです。この史料事実と論理性に対して、やはり大和朝廷一元史観や九州王朝説反対派の人々は全く反論できていません。

 せいぜい、『日本書紀』の三年号は存在しなかった、使用されていなかった、くらいの弁舌でお茶を濁しているのが実状です。ここにおいては、芦屋市出土の(白雉)「元壬子年」木簡の存在は完全に無視されています。紀年銘木簡としては二番目に古いこの木簡の存在を、いやしくも古代史研究者であれば知らないはずがありません。古田説だけではなく、木簡の出土事実まで無視せざるを得ないのですから、彼らも相当に困っているのです。

 なお、付け加えれば、『日本書紀』の三年号に困ったのは現代の一元史観の学者だけではなく、『続日本紀』編纂者たちも同様だったと思われます。何故なら、大和朝廷にとって初めて年号を建元したのですから、この画期的な業績を祝賀する記念行事や、年号建元の詔勅があったに違いありませんが、それらが『続日本紀』では見事にカットされているのです。大化・白雉・朱鳥を、いかにも自らの年号かのように「盗用」した『日本書紀』の手前、大寶を初めての年号であるとする詔勅や記念行事を『続日本紀』に掲載することを憚ったのでしょう。しかし、先在した九州王朝の痕跡を消し去るという「完全犯罪」は、古田武彦氏の九州王朝説により露呈し、『日本書紀』や『続日本紀』にもその痕跡を完全に消し去ることはできなかったのです。これが、「大寶建元」の論理と結末です。

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第180話 2008/06/28

会して議せず

 拙宅が御所の近所のため、この一週間は8カ国外相会合の警備で、警察だらけでした。しかも、他府県の警察だらけで、西日本一帯から駆り出されたようです。
一番目に付いたのは大阪府警でしたが、岡山県警、福岡県警、島根県警のお巡りさんも御所の各門を警備されていました。まるで、幕末の御所警備に各藩の藩士が動員されたような感じでした。
 両陛下が見えられる時でも、これだけの警備はされません。ブッシュ大統領以来のものものしい警備体制でした。もっとも、おかげで路上駐車は減り、町内の治安は抜群でした。
 ところで、今回の「外相会合」ですが、当初、わたしは「外相会議」かと思っていました。 しかし、テレビでも新聞でも「外相会合」とされており、変な表現だなと違和感を持っていたのですが、もしかすると「会合」の方が正確な表現かもしれません。すなわち、「会して議せず」のため、「会合」と命名されたのではないでしょうか。誰が最初に考えたのかは知りませんが、なかなかの「妙訳」だと思います。どうせ、大国のエゴや利害がからんで、まともには「議」せないのでしょうから。あるいは「議して決せず」かもしれません。

 話は変わりますが、7月12日(土)に東京(文京区民センター)で講演します(多元的古代研究会主催)。テーマは「九州年号研究の最先端 ー前期難波宮、九州王朝副都説の展開ー」です。九州年号研究のこの10年間の成果と、それに基づく7世紀の九州王朝史復原を試みます。前期難波宮から大化改新にせまり、九州王朝と近畿天皇家の王朝交代を中心テーマに発表します。ご期待下さい。