第198話 2008/11/29

『古田史学会報』89号の紹介

 『古田史学会報』89号の編集が終わりました。今号には久しぶりに不二井伸平さんから力作が寄せられました。古田先生が提起された短里(1里=76〜 77m)の成立に関して、「動歩」と「静歩」という概念を提起され考察されてます。教師時代の経験なども踏まえた内容で、その是非を論じることは今のわたしにはできませんが、間違いなく優れた論稿です。わたしと正木さんからは大化改新に関する2編を掲載しました。こちらも自信作です。12月初旬の発行予定。お楽しみに。

 『古田史学会報』89号の内容
○大化二年改新詔の考察  京都市 古賀達也
○「藤原宮」と大化の改新についてIII
  ─何故「大化」は五〇年ずらされたのか─ 川西市 正木 裕
○「動歩」と「静歩」  交野市 不二井伸平
○伊倉 7 ─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○第一八回 河野氏関係交流会参加と伊予西条の遺跡を訪ねて
   豊中市 木村賢司
○古田史学の会 新年賀詞交換会を開催します
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内


第197話 2008/11/22

橘新宮の神像に「熟田津村橘」の文字

 11月15日の関西例会で正木さん(本会会員・川西市)より、西条市熟田津説の直接証拠である史料が紹介されました。それは、西条市の橘新宮神社に伝わる奈良時代末期とされる神像の内部に書かれた「熟田津村橘」の文字です。この地域が熟田津村と呼ばれていた時代に書かれた墨書と見なされますので、これは同時代史料として西条市熟田津説を証明する一級史料と言わざるを得ません。これにより、斉明紀の熟田津が西条市であったことは決定的となりました。
 しかし、学問は念には念をいれなければなりませんので、古田史学の会として調査団を派遣し、神像内部の墨書の赤外線撮影などを検討しています。
 11月例会の発表は次の通りですが、木村さんが紹介された、秀吉の朝鮮侵略時の日本軍戦没者が韓国の珍島住民により祀られていることには驚きました。「敵祭」の風習が韓国にもあり、400年たった現在も続けられているのですから。この発表は『古田史学会報』89号に掲載予定です。
〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 第十八回河野氏関係交流会参加と伊予西条の遺跡を訪ねて(豊中市・木村賢司) 2). 九州年号「大化」と書紀「大化」の対比(向日市・西村秀己)
3). 記紀の難波の地を探究する(大阪市・西井健一郎)
4). 九州王朝と上毛野氏(木津川市・竹村順弘)
5). 日本書紀の不調和乱雑(横浜市・長谷信之)
6). 「飛鳥のアスカ」実験(豊中市・大下隆司)
7). 夏目漱石の満州旅行(相模原市・冨川ケイ子)
8). 二人の天子と「仁王経」ーー『隋書』「イ妥国伝」日出ずる処の天子についての新理解(岐阜市・竹内強)
9). 本来の記事はどこへ行ったか・西条市調査報告(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・小野毛人墓誌・他(奈良市・水野孝夫)


第196話 2007/11/16

「大化改新詔」50年移動の理由

 第140話 「天下立評」で 紹介しましたように、評制が難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃に施行されたことは、大和朝廷一元史観でも有力説となっています。これを多元史観の立場から理解するならば、九州王朝がこの頃に評制を施行したと考えられるのです。その史料根拠の一つである、延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の「難波朝廷天下立評給時」という記事から、それは「難波朝廷」の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。
 太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての「天下立評」を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。そして、この点にこそ『日本書紀』において、大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。
 九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。その操作により、九州王朝の評制を当初から無かったことにしたかったのです。『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、自らの権力の権威付けのためにも、こうした歴史改竄は何としても必要な作業だったに違い有りません。
  このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。それは、何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。
 これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。この仮説です。恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも大化2年と記されていたため、この命令書が実際よりも50年遡って発行されたとする必要があり、『日本書紀』にも 「大化2年の詔」として、孝徳紀に記されたのではないでしょうか。
 しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」という仮説です。すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。皆さんはどう思われますか。わたしには、ここまで言い切る勇気は今のところありません。これからの研究課題にしたいと思います。


第195話 2008/11/09

坐摩神社の「くい」神

 先日、所用で大阪市中央区久太郎町に行ったとき、坐摩神社という神社があり何と読むのかわからず、珍しいお社だったこともあり、社務所に寄り、御由緒書をいただきました。それによると、「いかすりじんじゃ」と読み、通称「ざまじんじゃ」と記されていました。

御祭神は次の五柱で、
  生井神・いくゐのかみ
  福井神・さくゐのかみ
  綱長井神・つながゐのかみ
  波比岐神・はひきのかみ
  阿須波神・あすはのかみ

 最初の三神はいわゆる「くい」神のようです。綱長井神はおそらく「つのくい神」が本来の名称で、後に「つながい」に変化したものと思われます。というのも記紀神話で「いきくい」と「つのくい」がセットで現れる場合があり、西井健一郎さん(古田史学の会会員・大阪市)の説によれば、これは壱岐・対馬に由来する「くい」神であり、かなり古層に位置する神となります。
    坐摩神社は『延喜式』にも見える古社であり、摂津国西成郡の大社とされ、豊臣秀吉の大阪城築城にともない現在の場所に移転されたとのことです。
    この「くい」神の淵源は少なくとも弥生時代まで遡りますので、この地に弥生時代から存在していた神とすれば、滅ぼされた銅鐸王国の神々だった可能性があります。すなわち、「くい」神は銅鐸圏の神だったのではないかと想像しています。
    天孫降臨以来の倭国に滅ぼされた銅鐸圏(狗奴国)にも自らが信仰する神々や祖先神話があったはずです。その伝承は既に失われているのですが、坐摩神社のような「くい」神を御祭神として祀る神社を探ることで、その実態が解明できるかもしれません。


第194話 2008/11/03

熟田津、西条市説の再登場

 最近、素敵なプレゼントが二つ郵送されてきました。一つは、合田洋一さん(松山市、本会全国世話人)からの著書『新説 伊予の古代史』(創風社出版、 2008年11月1日刊。2500円+税)です。これまで合田さんが発表された著作や論稿に加え、最近発見された「熟田津、西条市説」などが収録された力作です。今後、伊予の古代史を論じるとき、同書の存在を抜きにしては語れないでしょう。

 もう一つは、正木裕さん(川西市、本会会員)からの、「熟田津、西条市説」に関する先行論文や根拠となった古文書類の報告です。この報告を一読して、「熟 田津、西条市説」は確かな説であることが理解できました。同説の再発見は古田史学の会における2008年の貴重な収穫と思われました。正木さんや合田さんによる現地調査も精力的に行われており、論文発表が待たれるとともに、現地西条市でも注目していただきたいものです。
 もちろん、合田さんと正木さんの考えには違いもあります。合田さんは熟田津の史料根拠である斉明紀と万葉集8番歌の熟田津は別の場所とされています。すなわち斉明紀の熟田津は西条市で、8番歌の熟田津は別の場所とされています。対して、正木さんはどちらも西条市とされています。今後の研究による解明が必要ですが、斉明紀の熟田津は西条市であることは両者一致していますし、この点わたしも賛成です。
 なお、「熟田津、西条市説」により、以前から気に掛かっていた問題も解決できそうな気がしています。それは、西条市の西方にある新居浜市・四国中央市の 南に連なる法皇山脈の名称の由来についてです。いろんな説があるようですが、この法皇は西条市の熟田津を訪れた上宮法皇、すなわち九州王朝の天子多利思北孤に由来するのではないかという問題です。このように、「熟田津、西条市説」にはしばらく目が離せません。


第193話 2008/11/02

モンマルトルの画家、奥中清三さん

 10月18日の関西例会の日、わたしは尾道に行って来ました。本会会員で、パリ市モンマルトルの画家、奥中清三さんによる「パリ在36年展」が尾道市の画廊で開催され、招待状を頂いていたからです。もちろん、4年ぶりに奥中さんとお会いするのも楽しみでした。

 奥中さんは古田先生の永年のファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフとした数多くの作品を描かれています。今回の展示にも多くの作品中に「壹」の字が 描かれていました。「裸国の娘」というテーマの作品には魏志倭人伝の一節が描き込まれているほど、古田説や古田先生のことをご存じです。古田先生の著作 『「姥捨て伝説」はなかった』(新風書房)には奥中さんの絵が掲載されており、ご存じのかたも少なくないと思います。
 奥中さんはとても温厚な紳士で、かつ絵への情熱とその作品は素晴らしく感動的です。そんに奥中さんとの久しぶりの再会でしたが、「壹」に続く新たなモチーフを捜しておられることなどをうかがうことができ、さわやかなひとときを過ごしました。その為、当日の関西例会にはギリギリの午後4時頃に滑り込み、「太宰府条坊」というテーマで太宰府条坊跡から発見された牛車の轍や人の足跡について報告しました。
   10月例会の内容は次の通りですが、西村さんや正木さんの大化改新に関する発表はすごいものだったらしく、会報への寄稿を依頼しています。お楽しみに。
 
  〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 理解と同意・他(豊中市・木村賢司)
  2). 九州海岸部の遺跡めぐり(木津川市・竹村順弘)
  3). なぜ大化は50年ずらされたのか(川西市・正木裕)
  4). 中皇命は薩野馬説(川西市・正木裕)
  5). 会報88号太田論稿の一部訂正(奈良市・太田斉二郎)
  6). 日本書紀・乙巳の変〜大化改新(向日市・西村秀己)
  7). 古代に真実を求める「よすが」について(たつの市・永井正範)
  8). 塩屋連コノシロの「右手をして国の宝器・・」なにを意味するか(川西市・正木裕)
  9). 有馬皇子謀反記事の難波宮・難波副都(川西市・正木裕)
  10).太宰府条坊(京都市・古賀達也)
 
  ○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・小野毛人墓誌・他(奈良市・水野孝夫)


第192話 2008/10/11

評から郡への移行

 第189話で、大化二年改新詔が「建郡」の詔勅で、大和朝廷は「廃評建郡」を五年の歳月をかけて周到に準備したという結論に至ったのですが、そうした視点で『続日本紀』を読み直すと、それに対応する記事がありました。

 まず『日本書紀』大化二年改新詔の大郡・中郡・小郡の建郡基準記事、郡司選任基準記事は、九州年号の大化二年(696)のこととなりますが、この詔を受けて、『続日本紀』では次の郡制準備記事が見えます。

○文武二年三月(698) 九州年号 大化四年
 詔したまはく、「筑前国宗形・出雲国意宇の二郡の司は、並に二等已上の親(しん)を連任することを聴(ゆる)す」とのたまふ。
諸国の郡司を任(ま)けたまふ。因て詔したまはく、「諸国司等は、郡司を詮擬せむに、偏党有らむことなかれ。郡司を任に居たらむに、必ず法の如くにすべし。今より以後は違越せざれ」とのたまふ。

 従来、この記事は700年以前のことなので、「郡」は「評」と読み替えられてきましたが、私の説では「郡」のままでよいことになります。すなわち、九州年号大化二年詔(696)の建郡基準・郡司任命基準記事を受けて、九州年号大化四年(698)に諸国司に命じて郡司を任命させたのです。ただし、何らかの事情により、筑前国宗形・出雲国意宇の二郡については、親戚を任命しても良いと特別に許可したのです。恐らくは九州王朝から大和朝廷の政権交代にからむ論功行賞だったのではないでしょうか。天武の妻に宗形の君徳善の娘がいたことにも関係ありそうです。

○文武四年六月(700) 九州年号 大化六年
  薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督弖自美、また、肝衝難波、肥人等に従ひて、兵を持ちて覓国使刑部真木らを剽劫(おびやか)す。是に竺志惣領に勅して、犯に准(なず)らへて決罰せしめたまふ。

 大和朝廷による建郡も順調ではなかったことがこの記事からうかがえます。九州王朝の官職名「評督」「助督」を名のる薩摩の豪族の抵抗があり、大和朝廷が派遣した覓国使(くにまぎのつかい)が武力による妨害を受けているのです。恐らくは、九州王朝内の徹底抗戦派が薩摩に立てこもり抵抗運動を起こしたものと思われます。
  また、ここに見える薩末比売こそ、現地伝承の大宮姫(天智天皇の妃とされる)のことで、九州王朝の天子薩夜麻の后であるという説をわたしは昔発表したことがあります(「最後の九州王朝─鹿児島県「大宮姫伝説」の分析─」『市民の古代』10集、1988、新泉社)。
 こうして大和朝廷は九州王朝残存勢力の抵抗を排除しながら、全国に郡制を制定していったのです。そして、701年に大宝律令の公布とともに、全国一斉に評から郡へと変更したのです。出土した木簡はそのことを如実に示しています。(つづく)


第191話 2008/10/05

『古田史学会報』88号の紹介

  『古田史学会報』88号の編集が終わりました。今号も古田先生から原稿をいただけました。会報でも紹介していますが、十月十八〜十九日、愛知教育大学 (愛知県刈谷市)で開催される日本思想史学会二〇〇八年大会において、古田先生が発表されます。発表は大会二日目十九日(日)の午後の部で、テーマは「日本思想史学批判─『万世一系』論と現代メディア─」です。大会参加費は二〇〇〇円。是非、ご参加下さい。

『古田史学会報』88号の内容

 ○生涯最後の実験 古田武彦
 ○新刊紹介 奪われた国歌「君が代」 古田武彦著 情報センター出版局刊  一四〇〇円+税
 ○「藤原宮」と大化の改新についてII —皇極紀における「造宮」記事— 川西市 正木 裕
 ○「バルディビアへの旅」その後 豊中市 大下隆司
 ○古田史学「林間雑論会」実施報告 豊中市 木村賢司
 ○菅江真澄にも見えていた「東日流の風景」 奈良市 太田齊二郎
 ○『日本書紀』の西村命題 京都市 古賀達也
 ○大山祇神社の由緒・神格の始源について —九州年号を糸口にして— 松山市 八束武夫
 ○連載小説「彩神」第十二話 シャクナゲの里(7) 深津栄美
 ○例会発表のコツ 京都市 古賀達也
 ○日本思想史学会 十月十八〜十九日 古田武彦氏が発表
 ○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
 ○古田史学の会 関西例会のご案内
 ○事務局便り


第190話 2008/09/28

「古賀」と「古閑」

 9月の関西例会では正木さんより熟田津が愛媛県西条市にあったという説が、史料根拠を提示して発表されました。かなり説得力のある説で、論文発表が待たれます。もしこの説が正しかったら、行方不明となっている伊予の温湯碑は西条市のどこかにあることになり、今後の展開も楽しみです。
 わたしは、8月に永井さんが紹介された「こが」地名のうち、「古賀」が福岡県・佐賀県に濃密分布し、「古閑」は菊池川流域を中心として熊本県に分布しているというデータにヒントを得て、賀と閑がいずれも万葉仮名「か」に使用されていることから、九州王朝内部でも万葉仮名は多元的に成立していたのではないかとする作業仮説を報告しました。こちらも今後の研究の深化が求められています。
〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). プラトンの弁明・西村命題の向こう側(豊中市・木村賢司)
2). 熟田津論点整理(川西市・正木裕)
3). 「上宮聖徳法王帝説」再考(岐阜市・竹内強)
4). 万葉仮名成立の論理(京都市・古賀達也)
5). 九州王朝の近江遷都はあったか2(木津川市・竹村順弘)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・西行法師の伊勢参宮の歌・他(奈良市・水野孝夫)


第189話 2008/09/14

「大化二年」改新詔の真実

 『日本書紀』の大化改新については、古田学派内でも早くから研究がなされてきました。特に、九州年号に大化があることから、『日本書紀』の大化改新は九州年号の大化年間(695〜703年、『二中歴』では695〜700年)における九州王朝による大化改新が年次を50年ずらして『日本書紀』に盗用されたものとする視点からの論説が多かったのですが、その可能性は高いと思われるものの、論証としては十分ではありませんでした。

 そこで大化改新研究に於いてわたしが着目したのが、大化二年(646年)の改新詔でした。そこには、改新詔を出した都を特定できる記述があるからです。 まず第一に、畿内の四至として東は名墾(なばり)、南は紀伊、西は赤石、北は近江とありますから、都はそれらの内側中心部分にあることとなります。第二に、京に坊長・坊令を置けと命じていますから、その都は条坊制都市であることが前提となっています。第三に「初めて京師を修め」とありますから、大和朝廷にとって初めての本格的都城であることがわかります。これら3条件を満たす都は、ただ一つ。藤原京(日本書紀では「新益京」と表記)しかありません。
 ご存じのように、孝徳朝の都は難波長柄豊碕宮とされていますが、難波京には条坊遺構が発見されていません。従って大和朝廷にとって初めての条坊都市は藤原京なのです。そして、持統が藤原宮に遷都したのが694年12月ですが、この大化二年の改新詔が九州年号の大化二年であれば696年のこととなり、遷都の翌々年であり、坊長・坊令を定める時期としてはぴったりですし、先の四至の中心地域にあることからも、大化二年改新詔の内容と見事に一致するのです。
 以上の論点から、『日本書紀』孝徳紀に記された大化二年改新詔(646年)は、実は九州年号の大化二年(696年)に藤原宮で出されたものであることが わかったのです。『日本書紀』編纂者は九州年号の大化を50年遡らせて盗用しただけではなく、その実態は大化二年改新詔を50年遡らせていたのです。
 そうすると、この改新詔に含まれている「建郡」の命令も、696年に藤原宮で出された詔勅となり、従来は、700年以前であるから、この「郡」を「評」 と読み替えていましたが、その必要性は全くありません。すなわち、696年に郡制施行命令を出し、その5年後にして、ようやく全国一斉に評から郡へと変更されたのです。この5年間はまさに郡制への移行準備期間だったのです。
 従来わたしは700年から701年にかけて全国一斉に評制から郡制に置き換わることに疑問を感じていました。九州王朝から大和朝廷へと列島の代表者が交代するにしても、木簡などに見られる見事な「全国同時変更」の裏に何があったのだろうかと不思議に思っていたのです。また、『続日本紀』に何故「廃評建郡」の詔勅がないのだろうかとも。しかし、今回の発見により、その謎がかなりわかってきました。すなわち、大化二年改新詔こそが「建郡」の詔勅そのものだったのです。その上で、大和朝廷は「廃評建郡」に五年の歳月をかけて周到に準備したのです。(つづく)

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第188話 2008/08/31

「大化改新」論争と西村命題

 第187話において、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)を紹介し、大化改新虚構説にとって前期難波宮の存在が致命傷となっていることを述べましたが、管見では1969年に発行された『シンポジウム日本歴史3 大化改新』(井上光貞司会、学生出 版)でも、井上光貞氏、門脇禎二氏、関晃氏、直木孝次郎氏という斯界の泰斗が、前期難波宮の存在を大化改新真偽論に関わる主要テーマの一つとして、繰り返し論争している様子が収録されています。

 また、1986年発行の『考古学ライブラリー46 難波京』(中尾芳治著、ニュー・サイエンス社)でも、「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)と、前期難波宮の存在が大化改新論争のキーポイントであることが強調されています。
 前期難波宮が『日本書紀』の記述通り652年に造営されたことは考古学上、ほぼ問題ない事実であると思われるのですが、こうした考古学上の見解以外にも、大化改新虚構論や、山尾さんの天武期に前期難波宮が造営され、改新詔もその時期に出されたとする説には大きな欠点があります。それは西村命題(第184話参照)をクリアできないという点です。
 もし、山尾説のように天武が近畿では前例のない大規模な前期難波宮を造営し、改新を断行したのなら、天武の子供や孫達が編纂させた『日本書紀』にその通り記せばいいではないですか。何故、天武の業績を『日本書紀』編纂者たちが隠す必要があるのでしょうか。孝徳期にずらす必要があるのでしょうか。このように、山尾説は「それならば、何故『日本書紀』は今のような内容になったのか」という西村命題に答えられないのです。(つづく)


第187話 2008/08/30

大化改新と前期難波宮

 最近、大化改新の研究に没頭しているのですが、通説を調べていて面白いことに気づきました。

  岩波の『日本書紀』解説にも書かれているのですが、大雑把に言えば、大化二年の改新詔を中心とする一連の詔は、歴史事実であったとする説と、「国司」など の大宝律令以後の律令用語が使用されていることから、『日本書紀』編纂時に創作された虚構とする説、その中間説で大宝律令や浄御原令の時の事績を孝徳期に遡らせたものとする説があります。そして、孝徳期にはこのような改新は無かったとするのが学界の大勢のようなのです。
   ところが、孝徳期に大化改新詔のような律令的政治体制は無かったとする学界の大勢には、大きな弱点、目の上のたんこぶがあったのです。それは前期難波宮の存在です。
 大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、どう見ても律令体制を前提とした宮殿様式です。それは、後の藤原宮や平城京と比較しても歴然たる事実です。この事実が今も大和朝廷一元史観の歴史家たちを悩ませているのです。
   たとえば、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)にも如実に現れています。そこには、次のような記述があります。

 右のような「大化改新」への懐疑説に対して、『日本書紀』の構成に依拠する立場から、決定的反証として提起されているのが、前期難波宮址の遺構である。 もしもこの遺構が間違いなく六五〇〜六五二年に造営された豊碕宮であるのならば、「現御神天皇」統治体制への転換を成し遂げた「大化改新」は、全く以て疑 う余地もない。その表象が現実に遺存しているのだ。(同誌11頁)

 このように、大化改新虚構説に立つ山尾氏は苦渋を示された後、前期難波宮の造営を20年ほど遅らせ、改新詔も前期難波宮も天武期のものとする、かなり強引な考古学土器編年の新「理解」へと奔られているのです。
 ようするに、学界の大勢を占める大化改新虚構説は前期難波宮の存在の前に、論理上屈服せざるを得ないのですが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に立て ば、この問題は氷解します。すなわち、650年頃、前期難波宮に於いて九州王朝が評制を中心とする律令的政治体制を確立したと考えれば、前期難波宮の見事 な朝堂院様式の遺構は、従来の考古学編年通り無理なく説明できるのです。(つづく)