第282話 2010/09/19

孝徳紀「東国国司詔」の新展開

 関西例会では大化改新詔の研究が進められていますが、その中心的研究者の正木さんが今回も新たな仮説を発表されました。それは、孝徳紀の東国国司詔の中に文武天皇の即位の宣命が挿入されているというものです。ちょっと恐い仮説ですがなかなか説得力のある論証が試みられました。会報での発表が期待されます。 
 竹村さんからは今回も多数の発表がなされましたが、中でも日本書紀訓註の一覧データは示唆的でした。日本書紀には難解な字などに訓註(読み)が施されて いますが、万葉仮名が整理統一される以前の古い史料に基づいたと思われる神代紀や神武紀に特に訓註が多く施されています。ところが、皇極紀・孝徳紀・斉明紀・天武紀にも他の天皇紀に比べて訓註が頻出しているのです。他方、天智紀は訓註がゼロです。
 この現象は日本書紀編纂時の原史料の性格の違いによるものと思われますが、この現象が竹村さんの一覧データにより明白となりました。このような史料のデータ化は文献史学の地道な基礎研究に属すると思いますが、こうしたデータが例会に報告されることは研究者として大変ありがたいことです。
 9月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 武烈を誰が殺(や)った(豊中市・木村賢司)

2). 菩薩は全て女性(豊中市・木村賢司)

3). 「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)
「評」の淵源は、前漢代の「廷尉評(平)」にあり、後漢の光武帝は詔獄(警察・裁判)を所掌させ、魏・晋以後もその職は強化された。一方、「都督」の淵 源も光武帝代の督軍御史(督軍制)にあり、魏の曹丕は地方諸州の軍政を所掌する都督を初めて常設し、数万〜十数万の軍の指揮を執らせた。 この様に、金印を授かった後漢から、倭国が臣従した魏・晋朝にかけ都督と評は並存しており、そうした状況の下、倭国が都督—評督制を創設したことは想像に 難くない。

4). 西村干支計算表を使って、日本書紀の干支の比較検討(木津川市・竹村順弘)
1)朔日干支の記事分布とその概要 2)干支記事の偏在有無の検証 3)例外記事の考察 4)結語

5). 日本書紀訓註の謎(木津川市・竹村順弘)

6). こなべ古墳の被葬者(木津川市・竹村順弘)

7). 新羅本紀「阿麻来服」記事と「倭皇天智天皇」(大阪市・西井健一郎)

8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。

9). 三国史記と日本書紀の二倍年暦(木津川市・竹村順弘)

10). 日本第四紀地図とナラ山(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・牽牛子塚古墳見学会・他(奈良市水野孝夫)


第281話 2010/09/19

筑後の物部氏

第207話「九州王朝の物部」で、 九州王朝のある時期の王族は物部氏ではなかったかとする仮説を関西例会で発表したと述べましたが、その根拠の一つに高良玉垂命の系図(稲員家系図・松延家 系図・等)に玉垂命が物部であると記されていることにありました。あるいは高良大社文書の『高良記』にも玉垂命が物部であることは「秘すべし」とあり、も し外部に知れたなら「全山滅亡」とまで記されていることでした。
わたしは高良玉垂命は倭の五王時代の筑後遷宮した九州王朝の王たちではないかとする説を発表していましたから、そうすると倭の五王は物部氏になってしまうと考えざるを得ないことになったのです。もちろん、まだ断言できるほどの確信はありません。
そうしたことから、もう一つ気に掛かっていたのが、『和名抄』に記録されている筑後国生葉郡物部郷の存在でした。『太宰管内志』ではその物部郷は「今は 廃れてなし」とされており、所在地は謎に包まれていました。そこで、第222話「蘇我氏の出身地」で触れましたように、西村秀己さんの携帯による電話帳検 索により福岡県の物部さんの分布を調べてもらったところ、何とうきは市浮羽町に集中していたのでした。
わたしは福岡県内であれば筑豊地方に物部さんが多いと漠然と推定していたのですが、検索結果は浮羽町だったので、大変驚きました。そうすると物部郷も浮 羽町かその近隣にあったと考えて良いように思われます。ちなみに、わたしの本籍地は旧「浮羽郡浮羽町大字浮羽」でした。
そうすると、この物部郷の物部さんと高良大社玉垂命の物部との関係が気になりますが、今のところよくわかりません。また、浮羽郡在地の大氏族である「い くはの臣」と物部氏との関係も検討が必要です。10月9日(土)に久留米地名研究会主催で講演を予定していますので、この点を当地の皆さんにうかがってみ たいと考えています。


第280話 2010/09/12

ドラッカーと古田武彦

 最近、仕事上の必要性からピーター・F・ドラッカーの著作やその解説書を集中して読んでいます。ご存じの通り、ドラッカーは「経営学の父」「20世紀を代表する知の巨人」と称されている人物ですが、その難解な表現や概念に悪戦苦闘しながら読み進めています。
 難解ではあるのですが、その論理性や学問の方法が古田先生から教えられたフィロロギーの手法と相通じるものがあり、読んでいて大変波長があうのです。特
にドラッカーは歴史学者でもあり、その深い洞察力には驚かされ、勉強になります。もっと早くから読んでおけばよかったと少なからず後悔していますが、今か
らでも遅すぎることはないと毎日のように貪り読んでいます。
 そんな中、一昨日は『知の巨人ドラッカー自伝』(日経ビジネス人文庫)を読み終えました。それでドラッカーと古田先生との面白い共通点があることを知り
ました。たとえば、古田先生の初期三部作『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(朝日新聞社刊。ミネルバ書房から古田武彦コレ
クションとして最近復刻されました)は有名ですが、ドラッカーにも初期三部作というものがあるそうです。『経済人の終わり』『産業人の未来』『会社という
概念』の3冊です。
 中でも、ドラッカーの処女作『経済人の終わり』は、台頭するファシズムや全体主義を批判し、ナチスドイツとソ連が手を組むと予想していたため、左翼や共
産主義者の妨害にあい出版の引受先がなかなか見つからなかったとのこと(1939年の出版の半年後、独ソ不可侵条約が締結され、ドラッカーの予言は的中し
ました)。  
 古田先生の親鸞研究の名著『親鸞思想』も真宗教団の圧力により、当初出版予定していた京都の某書肆からは出版予告までしておきながら出版されなかったと
いう歴史があり、この点もドラッカーとの共通点の一つでしょう(『親鸞思想』は後に冨山房から出版され、明石書店から復刻されました)。
 ドラッカーの信望者を「ドラッカリアン」とよぶそうですが、それに習えば私は「フルタリアン」ですが、もうすぐ「ドラッカリアン」にもなりそうな予感を持ちながら、酷暑の京都でドラッカーを読んでいます。


第279話 2010/09/11

難波京条坊の初確認

 9月1日から2日にかけての webや新聞紙上で、難波京に条坊跡が確認されたとのニュースが掲載されました。大阪文化財研究所の高橋工難波宮調査事務所長から発表されたもので、天王寺区上町遺跡で奈良時代の難波京の条坊に架かっていた橋の橋脚が発見され、条坊の痕跡と見られるという内容です。この発見により、難波京に条坊が存在していたことはほぼ確実と思われます。
 実は今回の新発見をわたしたちはマスコミ発表前に知っていました。8月の関西例会での特別講演として、高橋工氏が「古代の難波 — 発掘調査の最前線」というテーマで発表された中で、最大の眼目が今回の条坊痕跡の発見だったからです。高橋氏も、まだマスコミには発表していない最新のテーマと言われていまし た。
 マスコミへの発表前ということもあり、高橋氏にご迷惑をおかけしないよう配慮して「洛中洛外日記」でも今日まで触れずにきました。本当に画期的な発見だと思います。
 橋脚から出土した土器が8世紀前半のものとのことですので、この橋は聖武天皇による後期難波宮の時代の築造とされていますが、条坊も後期難波宮になって初めて造営されたのか、それとも前期難波宮(九州王朝の副都)時代に既に造営されていたのかという、重要な課題があり、今後も調査研究を深めていきたいと思っています。


第278話 2010/08/22

あおによし

 昨日はいつもの大阪駅前第2ビルではなく、大阪城や難波宮跡近くの大阪歴史博物館で関西例会が行われました。また、関西例会では初めての試みとして外部講師をお招きして特別講演もありました。
 その特別講演として、難波宮や難波京発掘責任者である高橋工氏(大阪市博物館大阪文化財研究所難波宮調査事務所長)から、「古代の難波 発掘調査の最前線」というテーマで御発表いただき、当日初めて外部発表されたという最新の発掘成果などを次々とうかがうことができました。
 更には、参加者からの質問にも丁寧にお答えいただき、本当に勉強になりました。私の前期難波宮九州王朝副都説を補強できるような内容もあり、このことは別の機会にご紹介します。
 会員の発表では、竹村さんが先月に続き、一気に5テーマを発表されました。パソコンを使用し日本書紀の膨大な干支記事データベース作成と解析を行われるなど、目をみはるものがありました。
 中でも意表を突かれたのが、有名な枕詞「あおによし」の問題提起でした。一般には奈良の都の青や赤の鮮やかな瓦の色から「青丹よし」と表現され、後に「なら」にかかる枕詞へ発展したと説明されているようですが、記紀や万葉集に奈良の都ができる以前(710年)の歌に「あおによし」という枕詞が使用され ている例を指摘されたのです。
 これらの史料事実から、「あおによし」という枕詞は奈良の都とは無関係にそれ以前に成立したと考えざるを得ません。わたしは、九州王朝下で「なら」と呼ばれたものに掛かる枕詞として「あおによし」は古くから成立していたのではないかと想像しています。それでは、その「なら」とは何かという問題が新たなテーマとして浮かび上がってきます。これからの楽しみなテーマではないでしょうか。それにしても、「常識」を覆す素晴らしい問題提起だと思いました。
 8月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 1300年余の洗脳・他(豊中市・木村賢司)
2). 古代歌謡「あおによし」の懐疑(木津川市・竹村順弘)
3). 日本書紀の朔日干支記事の分布(木津川市・竹村順弘)
4). 日本書紀の盗用記事挿入の遣り口(木津川市・竹村順弘)
5). ナラの音韻(木津川市・竹村順弘)
6). はるくさ木簡の用字(木津川市・竹村順弘)
7). 日本書紀年齢(向日市・西村秀己)
8). 古代大阪の難波津について(豊中市・大下隆司)
9). 『聖徳太子伝暦』の遷都予言記事(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『古事類苑』の古代逸年号データベース・他(奈良市水野孝夫)

○特別講演   古代の難波 発掘調査の最前線
 講師 高橋 工 氏(大阪市博物館大阪文化財研究所 難波宮調査事務所長)


第277話 2010/08/15

太宰府の鬼門

 お盆明けには仕事で関東・新潟 へ出張するので、今日、そのお土産を買いに近所のお漬物屋さん出町野呂本店に妻と二人で行ってきました。その帰り道に「幸神社」と刻まれた石柱に気づき、何と読むのか妻に訊ねたところ、「さいのかみ神社」と呼ばれており、お猿さんの人形があるとのこと。すぐ近くなので寄ってみました。
 小さいがなかなかしっかりとした作りの神社で、北東の角に猿の彫り物が掲げられていました。幸神社はちょうど御所の鬼門(北東)に当たるため、鬼門封じの猿が社殿の北東に掲げられていたのです。
 京都御所の紫宸殿の塀の北東(猿ケ辻)に猿の彫り物が掲げられていることは有名ですが、ここにもあったのです。ちなみに御祭神は猿田彦大神で、天武天皇の白鳳(九州年号)年間に創建されたと案内板に記されていました。更に、ここは「出雲路」という地区で、歌舞伎の「出雲の阿国」もこの付近に住んでいて、幸神社の巫女をしていたことがあるとも記されていました。わたしは「出雲の阿国」はその名前から出雲(島根県)出身と勝手に思い込んでいたので、ちょっと意外でした。
 そしてその帰り道で、ある疑問が脳裏を横切りました。それは、北東を宮殿や都の鬼門とする風習は平安京から始まったのだろうか。もしかすると九州王朝の太宰府でも同様の鬼門守護の風習が先行して存在したのではなかったのか、という疑問です。
 自宅に戻ると早速調べてみました。すると思わぬ大発見に遭遇したのです。京都の鬼門守護の山は比叡山ですが、太宰府も同様に宝満山が鬼門に当たり、その麓と山頂には竃門(かまど)神社が鎮座しています。そして社伝によれば白鳳四年(664)に天智天皇が大宰府政庁守護のために鬼門に位置するこの地に竃門神社を創建したとされているのです。
 一元史観の通説では大宰府政庁(2期遺構)は8世紀初頭の造営とされているのですが、わたしは『二中歴』に記されている観世音寺の創建時期(白鳳年間)と両者の瓦の編年(観世音寺は老司1式、大宰府政庁2期は老司2式)を根拠に白鳳年間頃であると主張してきました。 今回知った竃門神社の現地伝承は通説ではなく、私の説と一致していたのです(第273話「九州王朝の紫宸殿」等参照下さい)。
 白鳳四年(664)に太宰府(九州王朝の都)の鬼門守護として竃門神社が創建されたのであれば、王宮造営もそれと同時期と考えざるを得ないからです。この社伝の出典は調査中ですが、『筑前国続風土記附録』には天智天皇が筑紫下向の時に太宰府に皇居を造り、あわせて鬼門に位置する竃門山(宝満山、御笠山とも言う)の地で八百万神を鎮祭したと記されていますから、白鳳年間に竃門山は鬼門とされていたことになり、社伝と一致しています。
 このように近畿天皇家一元史観による太宰府編年は考古学的にも文献的にも現地伝承からも完全に否定されていることが、一層明かとなったのでした。今後の課題としては、竃門神社でも京都と同じようにお猿さんが王都守護しているのか確認したいと考えています。現地の人でご存じの方がおられれば、御教示いただ けないでしょうか。


第276話 2010/08/14

『古田史学会報』99号の紹介

 『古田史学会報』99号が発行されました。中でも正木さんの「公地公民」と「昔在の天皇」は6月に開催された「禅譲・放伐」シンポジウムでの発表をまとめらたもので、『日本書紀』大化改新詔の「皇太子奏請」が九州年号の大化期(696年)に九州王朝から出されたもので、九州王朝から近畿天皇家への権力交代に関するものとする秀逸な論文です。  
 今後、九州王朝から近畿天皇家への権力交代や大化改新詔の研究に於いて、避けて通れない重要論文となるでしょう。近年矢継ぎ早に発表される正木さんの研究成果は流石と言うほかありません。
 次号は記念すべき100号です。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。
 『古田史学会報』99号の内容
○九州王朝から近畿天皇家へ 「公地公民」と「昔在の天皇」 川西市 正木 裕
○−記紀、私の楽しみ方− 隠されていた和珥氏伝承  大阪市 西井健一郎
○「天の原」はあった(その二) —古歌謡に見る九州王朝— 東京都世田谷区 西脇幸雄
○星の子−古田武彦著「古代は輝いていた」より− 深津栄美
○伊倉13 −天子宮は誰を祀るか− 武雄市 古川清久
○古田史学の会 第16回会員総会の報告
○古田史学の会 2009年度会計報告 2010年度予算
○割付担当の穴埋めヨタ話(4) 少童考 向日市 西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内


第275話 2010/08/08

『先代旧事本紀』の謎

 第200話(2008/12/14)「高良玉垂命と物部氏」において、九州王朝系史料の『高良記』に玉垂命が物部であると記されていることに触れ、第207話(2009/02/28)「九州王朝の物部」で は、ある時期の九州王朝の王は物部ではなかったかという考えを述べました。このように、わたしにとって物部氏を多元史観・九州王朝説においてどのように位置づけるかというテーマが重要課題としてあるのですが、その際、物部氏系の代表的史料である『先代旧事本紀』の研究は避けて通れないものになっています。
 学界では同書中の「国造本紀」は他に見えない記事を含んでおり、研究対象とされていますが、全体としては偽書として扱われているようで、近年は優れた研究がなされていないように思います。この『先代旧事本紀』を多元史観の視点で史料批判を進めたいと、何度も読んでいるのですが、いくつかの謎があるので す。
 例えば、物部氏の系譜記事が「天孫本紀」として扱われており、記紀とは取扱いが異なっています。物部氏が天孫族であるとするのが同書編纂の眼目とさえ思われるのです。更には、「帝皇本紀」の継体天皇の項に「磐井の乱」が記されていないのです。すなわち物部氏の一人である物部麁鹿火の活躍が全く記されてい ません。物部氏の業績を特筆する同書に於いて、何とも不思議な現象ではないでしょうか。ちなみに物部麁鹿火は同書の「天孫本紀」に見え、安閑天皇の頃に大連となったとされています。
  『先代旧事本紀』にはこの他にも謎に満ちた記載があります。どなたか一緒に研究されませんか。きっと九州王朝と物部氏の関係が解き明かされるのではないかという予感をもっています。


第274話 2010/08/01

柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実

 『古田史学会報』77号(2006/12)に発表した「最後の九州年号−「大長」年号の史料批判−」において、九州年号の最後は「大長」で、703年から711年まで続いたことを論証しました。その史料根拠として、十六世紀に成立した辞書『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項を紹介しました。次の記事です。   
 「柿本人丸 −−者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。」(以下略)   柿本人麻呂が大長四年丁未に石見国高津で亡くなったという記事ですが、この大長七年丁未は707年に相当します。この時既に大和朝廷は自らの年号を制定し ており、慶雲四年にあたります。ということは、『運歩色葉集』が依拠した人麻呂没年原史料には九州年号の大長が記されており、その成立は8世紀初頭の同時 代史料に基づくと考えられます。   
 なぜなら、後代になって九州年号を記した年代暦などに基づいて「大長」年号を付加編纂した可能性は小さいからです。既に大和朝廷の年号「慶雲」があるの ですから、701年以後であれば慶雲を使用するでしょう。更に、現存する年代暦は大長がない『二中歴』が最古ですし、それ以外の年代暦には大長が700年 以前に「移動」されたものしかないので、後代に於いて707年丁未の没年に九州年号の大長が使用される可能性は考えにくいのです。   
 このように考えると、8世紀初頭の最末期の九州年号「大長」を使用していた人物により柿本人麻呂の没年記事が書かれたことにならざるを得ません。すなわ ち、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年が記録されたことになるのです。したがって柿本人麻呂自身も九州王朝系の人物だったと論理は展開するのです が、これは既に古田先生が指摘されてきたことと一致します。   
 この没年記事の持つ論理性からも、柿本人麻呂は九州王朝の宮廷歌人だったことになります。恐らく、晩年は大和朝廷の歌人としても活躍したと思われますが、九州王朝の元宮廷歌人という輝ける経歴が、『続日本紀』などに柿本人麻呂の名前が登場しなかった理由だったのではないでしょうか。   
 しかし、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年は九州年号「大長七年丁未」と記されたのです。この二年後に大長年号は終了し、九州年号と恐らくは九州王朝も終焉を迎えます。もし人麻呂が生きていれば、九州王朝の滅亡をどのように歌ったでしょうか。興味は尽きません。


第273話 2010/07/31

九州王朝の紫宸殿

 今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」された西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名について、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)が考察を進められています。今日も何度がお電話をいただき、九州王朝の紫宸殿についてわたしの見解を申し上げました。
 そこでの主なテーマは、九州王朝はいつから自らの天子の宮殿を紫宸殿と称するようになったか、ということでした。下限ははっきりしています。大宰府政庁跡に現存する字地名「紫宸殿」の時代です。大宰府政庁第2期遺構が九州王朝の紫宸殿に相当しますから、その時期は太宰府条坊成立よりも後の7世紀後半です。もう少し厳密に言うならば、老司1式瓦が出土した観世音寺創建よりもやや後れる頃、恐らくは白鳳年間(661−683)以後と推定しています(大宰府政庁2期は老司2式瓦が主)。『二中歴』によれば観世音寺の建立は白鳳期とされているからです。
 ですから、7世紀第4四半期頃には九州王朝は大宰府政庁遺構を紫宸殿と称していたと推定できます。それではそれ以前はどうだったのでしょうか。わたしが九州王朝の副都としている前期難波宮にも紫宸殿と呼ばれる宮殿があったのではないかと考えています。
 九州年号の白雉改元(652年)の儀式の様子が『日本書紀』では2年溯った650年に記されていますが、前期難波宮で行われたと考えられる白雉改元の儀式において、その宮殿の門が「紫門」と記されています。中国では天子の位を「紫宸」とし、その宮殿を紫宸殿とすることが『旧唐書』などに見えますから、「紫」は天子を表す色であり、「紫門」は天子の宮殿の門のことであり、とすればその奥にある天子の宮殿は紫宸殿と称された可能性が高いように思われます。
 更に言えば、前期難波宮は「難波京」の北端にあり「北闕」様式と呼ばれる宮殿様式です。大宰府政庁も条坊都市の北端にあり、同様に「北闕」様式の宮殿です。したがって、両者の宮殿は共に紫宸殿と呼ばれていたのではないでしょうか。都の中心に宮域を持つ『周礼』様式の藤原宮とは明らかに政治思想性が異なった様式なのです。
 このように、九州王朝の紫宸殿は副都である前期難波宮が初めてではないかと考えていますが、いかがでしょうか。


第272話 2010/07/25

「竹斯國以東」の理解

 7月17日の関西例会では、偶然にも「磐井の乱」に関する発表が2件(野田さん、正木さん)、「隅田八幡人物画像鏡」に関する発表も2件(永井さん、水野さん)がありました。関西の研究者達の興味のありどころがうかがえる貴重な発表でした。

 その中でも「ハッとした」発表がありました。それは野田さんの発表で、継体紀に見える領土分割案の「筑紫以西」「長門以東」という「A以西」「B以東」 という表記の場合、その以西や以東の範囲にAやBは含まれるのかという指摘でした。
 従来は含まれると理解していましたし、継体紀のこの部分は文脈からも含まれると理解する他ありません。他方、『隋書』イ妥国伝にある「竹斯國より以東、 皆イ妥に附庸す」の場合も、この以東に竹斯國が含まれると読まざるを得ないのですが、古田説ではイ妥王の都は竹斯國にあるとされていますから、都がある竹斯国がイ妥国に附庸されていることになります。   
 そうすると、「附庸」の意味が問題となります。仮に「支配」という意味で有れば、竹斯国より西にある都斯麻國(対馬)や一支國(壱岐)はイ妥國の範囲外となってしまいます。野田さんが指摘されたこれらの問題をどのように考えるべきか思案中です

 7月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 禅譲・放伐シンポジウムを聞いて・他(豊中市・木村賢司)

2). 年表づくりで気づいたこと(交野市・不二井伸平)

3). 瓶原と恭仁京(木津川市・竹村順弘)

4). 古代歌謡の年代分布(木津川市・竹村順弘)

5). 恭仁京と聖武天皇(木津川市・竹村順弘)

6). 古田武彦久留米大学公開講座と山口訪問(豊中市・大下隆司)

7). 「隅田八幡人物画像鏡」銘文の解釈とその意味(たつの市・永井正範)

8). 「磐井の乱」と「『隋書』のイ妥国」の考察(姫路市・野田利郎)

9). 磐井乱の虚構(川西市・正木裕)
 『書紀』継体二十一年「磐井の乱」記事中の磐井の非行への非難に具体性は無く、逆に磐井に遮ぎられたとされる近江毛野臣には、『書紀』に様々な非行が記され、磐井への非難根拠の殆どが あてはまる。また、磐井が六万の軍の将毛野臣を「使者」と云うのは不自然。毛野臣の、彼を半島から召還する「皇華の使=調吉士」に対する言に相応しい。以 上『書紀』に記す、磐井討伐の根拠となる非行は、毛野臣の非行をすり替えたものと考える。
 更に、磐井討伐に派遣された物部麁鹿火が、大伴金村の祖先を讃えるのは不自然。『古事記』が「金村と麁鹿火の二人が派遣された」とするのが正しく、『書紀』は金村の言を麁鹿火の言に変えたと考えられる。これは本来対新羅戦で二人が半島に派遣された記事を、麁鹿火の磐井討伐譚にすり替える為の作為の一環で はないか。
 なお「近江毛野臣」は近江有縁の継体ゆかりの人物か、との考えを示した。

○水野代表報告  
 古田氏近況・会務報告・隅田八幡宮蔵画像鏡の検討・他(奈良市水野孝夫)


第271話 2010/07/11

「紫宸殿」「内裏」

地名研究の課題と可能性

  第270話で、「『紫宸殿』地名の歴史的由来や伝承も無いので、どのように捉えるか判断できずにいました」と述べました。と言うのも、地名研究を歴史学に応用や利用する場合の難しさを感じていたからです。
 
例えば、太宰府政庁跡にある「紫宸殿」「大裏(内裏)」という字地名は、古田先生による九州王朝説という体系的に成立した学説や考古学的遺跡の裏づけによ
り、ここに九州王朝の宮殿が存在していたという傍証力を有しますが、仮に他の地域にあった場合、そこに古代王朝の宮殿があったという論証力を地名自身は持
ち得ないからです。
  すなわち、地名がいつ付いたのか、誰により付けられたのか、どのような歴史的背景を持つのかは一般的には地名自身からは不明です。したがって他の史料や伝承、考古学的事実に基づく個別の論証が要求されるのです。
 
例を挙げれば、紀貫之が赴任した土佐の国府跡には「内裏」という字地名が残されていますし、大伴家持は越中の国府を「大君の遠の朝廷」と『万葉集』(巻十
七・4011、巻十八・4113)で歌っています。これら地名や歌により、土佐や越中に王朝があったと言うことは学問上できません。都から派遣された国司
が自らの赴任先の館を「内裏」と呼んだり、「遠の朝廷」と歌ったというケースを否定できないからです。
 ですから、伊予に「紫宸殿」という字地名があると今井さんが「発見」された時も、九州王朝や越智国の紫宸殿という魅力的な仮説に飛びつきたい衝動と同時に、土佐や越中と同じケースもあることが脳裏をよぎったのです。
 このように地名や地名研究を歴史学に利用する場合、多元史観に立つわたしたちはより慎重にならなければなりません。その点、九州や出雲は九州王朝・出雲
王朝の存在が既に安定した学説として成立していますから、こうした多元史観に立った地名研究が、歴史学に大きく寄与できる可能性があります。地名研究の限
界に配慮しながらも、新たな可能性にわたしは期待しています。