第243話 2010/02/06

前期難波宮と番匠の初め

 第224話において、寺井誠氏の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会)を紹介しましたが、そこで指摘された前期難波宮から北部九州の須恵器が出土しているという考古学的事実が何を指し示すのか、どのような証明力を有するのかをずっと考えてきました。

 というのも、通説通り前期難波宮が孝徳の王宮であれば、その建設に北部九州の工人達も参加したということになり、前期難波宮が九州王朝の副都であったという特段の証明力にならないという反論が予想されたからです。しかも、前期難波宮からは北部九州以外の土器も出土していますから、尚更です。
 こうした学問上の論証力という視点から、寺井論文の持つ意味についてより深い考察が必要と考え続けてきたのです。そして、寺井論文を何度も熟読するうちに、やがて論点がはっきりと見えてきたのです。その結論は、寺井論文はわたしの前期難波宮九州王朝副都説を間違いなく証明する貴重な考古学的事実を指し示しているというものでした。
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは 王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。ここまで論証が進むと、前期難波宮九州王朝副都説は揺るぎなく確立された最有力説と思うのですが、いかがでしょうか。


第242話 2010/01/31

太宰府と前期難波宮

フレーム版 古賀達也の洛中洛外日記へリンクしました。

2月27日、東京で講演しました(多元的古代研究会主催・文京区民センター)。「太宰府と前期難波宮 ーー九州年号と考古学による九州王朝 史復原の研究」というテーマで、7世紀段階の九州王朝研究の成果をまとめた内容です。更には関西例会で報告された各氏の説も紹介させていただきます。これを期に、関西と関東の研究交流が進むことを願っています。
講演内容の項目は次の通りです。関東の皆さんのご参加をお待ちしております。

太宰府と前期難波宮
九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究
2010/02/27
古賀達也
1.白雉改元と前期難波宮
1).大和朝廷王宮編年の矛盾
2).『日本書紀』白雉改元記事の2年移動 652年→650年
3).史料と考古学の一致 「天下立評」「律令体制」と7世紀中頃の「朝堂院」

2.九州年号と遷都遷宮
【資料】正木 裕 九州王朝の改元と『書紀』等の遷都遷宮関連記事の対応
2009/11/21 古田史学の会・関西例会

3.前期難波宮の土器
【資料】寺井 誠 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会
4.前期難波宮と藤原宮木簡
【資料】田中 卓 「古事記における国名とその表記」
『古典籍と資料 田中卓著作集10』国書刊行会 平成5年
5.太宰府条坊と政庁
【資料】井上信正 「大宰府条坊区画の成立」
『考古学ジャーナル』No.588 平成21年7月号
6.九州王朝王宮・王都の変遷
古賀旧説:太宰府政庁第II期(条坊都市・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)
古賀新説:太宰府条坊(通古賀王城宮・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)→太宰府政庁第II期(条坊拡張)
7.「白雉二年九月吉日」奉納面の発見(西条市丹原町福岡八幡神社蔵)
【資料】大下隆司 「白雉二年銘奉納面」について
2009/08/15 古田史学の会・関西例会
8.九州王朝王族の探索
【資料】西村秀己 「橘諸兄・考」 2009/12/19 古田史学の会・関西例会


第241話 2010/01/23

謡曲と九州王朝

 新年最初の関西例会では、正木さんから能楽・謡曲の中に九州王朝の痕跡が見えることなどが報告されました。謡曲と九州王朝の関係については、新庄智恵子さんによる先駆的な研究(『謡曲のなかの九州王朝』新泉社刊、2004年)がありますが、新庄さん同様に能楽・謡曲に詳しい正木さんから、より周密な研究報告が関西例会でなされてきました。
 特に今回の発表で驚いたのが、謡曲「白楽天」に見える国名表記で、「日本」と「和国」が混在しており、「和国」の部分が見事な七五調となっており、明らかに別史料からの転用と思われることでした。おそらく「和国」とは九州王朝「倭国」が原形で、この部分は九州王朝歌謡に淵源するものではないでしょうか。
 謡曲と九州王朝、あるいは古典文学と九州王朝の研究は、九州王朝歌謡・九州王朝文学の復原という可能性をうかがわせ、楽しみな研究分野です。正木さんの今後の研究成果に期待したいところです。

 1月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 伊予水軍・他(豊中市・木村賢司)

2). 県・県主について(豊中市・木村賢司)

3). 謡曲と九州王朝2(川西市・正木裕)
 謡曲「白楽天」中の「住吉(の神)」について、本来は摂津住吉(の神)ではなく筑紫博多湾岸の「住吉(の神)」である事、また、謡曲「岩船」中の「如意宝珠」伝来の伝承は九州王朝のもので、舞台の「住吉」も博多湾岸である事を示した。
1.「白楽天」は、唐太子の賓客とされる白楽天が日本に渡るが、住吉神に唐土に吹き戻される能。渡った先は「筑紫の海」で、舞台は「松浦潟」の海上。そこに「西の海、檍が原の波間より、住吉の神」が現われ出るのであり、これは一義的に筑紫の事と考えるべき。この点、福岡には住吉神社が多数存在し、中でも姪浜住吉神社は、古田氏が伊邪那岐の禊場所とされる「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」の「小戸」付近にあった(現在は少し内陸部に移転)もので、「檍が原の波間より」の句に一致する。
 また「高砂」では住吉神を神松とし、「生の松」を名所と謡うが、姪浜住吉神社は「生の松原」に隣接し、神功皇后の植えたという「逆松(生松)」も同松原に存在した。博多区の住吉神社や福岡城にも神松の伝承があり、大宰府が舞台の謡曲「老松」も神松が主役等、博多湾岸には神松伝承が集中する。
 「白楽天」の住吉神は筑紫住吉の神で、曲の句(檍が原)と国産み神話が一致する事や神松伝承から、その由来は摂津住吉より遥かに古く、本来の住吉の神は筑紫の神だったと考える。

2.「岩船」の舞台は「摂津国住吉の浦」。しかし曲中天の探女が「如意宝珠」を帝に捧げる為に来たとあるが、如意宝珠は『隋書イ妥国伝』に「如意宝珠有り。其の色青く、大なること鶏卵の如し。夜則ち光有り、魚の眼精也と云ふ。」と阿蘇山と並び記される通りイ妥国=九州王朝の象徴である。
 また、帝は住吉に高麗・唐土と貿易を始める為市を設けると言い、曲中に「運ぶ宝や高麗百済。唐土舟も西の海」とあるが、『隋書』で「新羅、百濟皆イ妥を大国で珍物多しとし、敬仰し常に通使往来す」とされ、『魏志倭人伝』で、対海国(対馬)では「船に乗り南北の市に糴(交易)す」と、九州北岸と半島の「市」間の活発な交易を記す通り、高麗百済との交易拠点も「イ妥国=九州」だった。
 また、「西の海。檍が原の波間より。現はれ出でし住吉の。」と住吉神が謡われ、住吉の松も「宮柱」と讃えられるのは「白楽天」同様である事からも、この住吉も筑紫と考えられる。
 なお宇佐八幡宮文書中に、「筑紫の教到四年(五三四)」に天竺摩訶陀国より如意珠が渡来したとあり(古賀氏の発見・洛中洛外日記第一七四話)、これも岩船の原典が筑紫で、相当古い事を示すものだ。
 また、現在姪浜住吉神社に、豊漁や航海安全を祈願し、木製の玉を激しく奪い合う「玉競(たませせり)祭」が伝わるが、これは住吉の如意宝珠伝承とも関連するものではないか。

4). 「薬猟」の虚構(川西市・正木裕)
 『書紀』推古紀等には「五月五日の薬猟」が五回記述される。この内、推古十九年記事の薬猟における額田部比羅夫連等の先導や装束の記述部分は、その直前の推古十八年の新羅・任那使人の歓送迎記事からの盗用である事、薬猟は『書紀』の記述の様な煌びやかなものでも、重要な行事でもなかったことを「万葉三千八百八十五番歌」や、隋使歓迎記事等での額田部比羅夫の役割から明らかにした。
また薬猟記事に日の干支が無いのは、推古十八年十月の記事を盗用すれば推古十九年五月五日の干支と合わないことが主たる原因であり、この記事が『書紀』編纂において、干支の調整を済ませてからの盗用であることを示すものと考えられる。盗用の動機について、古田氏が指摘する「白村江直前の猟における九州王朝の大王の不慮の死」を隠すためではないか、との仮説を提示した。

4). 倭人伝の地名比定とその領域(豊中市・大下隆司)

5). 魏志は「漢音」で読むべきだ(富田林市・内倉武久)

5). 巨大古墳の環境破壊に伴う九州王朝の関西進出(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・初詣、矢田坐久志玉比古神社・他(奈良市・水野孝夫)

試みに、連携として正木氏の例会報告を掲載致します。通常は4).のように四〇〇字以内で収録の予定。


第240話 2010/01/11

2010年も古代に真実を求めて

 明けましておめでとうございます。2010年も古代に真実を求めて頑張りたいと思います。
 昨日は古田先生をお迎えして「古田史学の会・新年賀詞交換会」を大阪で開催しました。古田史学の会・仙台の青田さんや古田史学の会・東海の竹内さん林さん、古田史学の会・四国の合田さん等、各地から多数の会員にお越し頂き、旧交を温めました。古田先生も変わらずお元気で約3時間にわたり熱弁をふるわれました。これからも先生のご長寿と研究の発展を祈念し、古田史学の会としても総力をあげて支援していきたいと考えています。
 2009年の関西例会で発表された研究において、7世紀の九州王朝史復原や大和朝廷との権力交代の実態について、激しい論争を通じて検討が深められたように思われます。昨年12月の関西例会においても、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人・会計)からの、大和朝廷で左大臣まで上り詰めた橘諸兄が九州王朝王族の子孫だったという発表は衝撃的でした。その論証の詳細は『古田史学会報』96号に掲載されますので、ご参照下さい。
 もしこの西村説が正しければ、九州王朝の有力者が少なからず大和朝廷の高級官僚になっていたことが推察され、王朝交代の実態が禅譲なのか放伐なのかという、古田学派内での永年の論争テーマの解決に寄与できるかもしれません。いずれにしても、2010年の関西例会での研究の深化を予感させる仮説です。
 12月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 京都「泉屋博古館」を見学・他(豊中市・木村賢司)

2). 橘諸兄・考(向日市・西村秀己)

3). 古田武彦・第6回古代史セミナー報告(豊中市・大下隆司)

4). 天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕)
 天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。
 一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。
 そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。
 この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか

5). ホンマかいな?奈良の邪馬台国(木津川市・竹村順弘)

6). おシャカさんはなぜ死んだか(生駒市・五十嵐修)

7). 能楽と九州王朝(川西市・正木裕)
 十四世紀に観阿弥・世阿弥が大成した能楽の中に、九州王朝の芸能が取り込まれている事を謡曲「綾鼓」や「芦刈」より検証した。
 1.「綾鼓」は、世阿弥の書から古伝もとづく作品とされているが、斉明の「忌み殿」であるはずの筑紫朝倉木の丸殿に皇居があり、臣下・女御がいたとするなどの不自然さが見られる。
 一方、木の丸殿の北「麻底良山」には、古田武彦氏が九州王朝の天子筑紫君薩夜麻とされる「明日香皇子」が祀られ、南には古賀氏が九州王朝の天子とされる「天の長者」が造った「天の一朝堀」(『書紀』では斉明が「狂心の渠」を造ったとある)、東には「久喜宮」「杷木神護石」がある等から「綾鼓」は筑紫を舞台とした演芸を、原典を生かして世阿弥が再構成したものと考えられる。
 2.「芦刈」も、古い能をもとにして世阿弥が今の形に作ったと考えられているが、シテ(主人公)が活躍する「日下」は内陸部の「河内」に属し、難波の浦の景色は望めないのに、曲では「摂津」難波が舞台とされ海辺の秀でた情景がテーマとなる等、曲の内容と場所に矛盾がある。
 一方で、博多湾岸には草香(草香江)があり海浜の情景描写に適合し、曲中の聞かせ所・見せ所の「笠の段」に謡われ・舞われる「笠尽くし」も摂津難波では「笠」の意味が不明だが、博多湾近郊には御笠、御笠川、御笠山などの「笠」地名と謂れ・伝承が集中する。同じく「笠の段」中の「田蓑島」も、博多湾岸の草香江付近には「田島」「蓑島」が存在する。 「笠の段」は「博多湾岸」の名所を歌ったものとして極めて自然であり、筑紫を舞台とした原曲を分解しその一部を取り込み、舞台・場所や人物を変え世阿弥が再構成したものと考えられる。
 以上「綾鼓」や「芦刈」の原典は九州王朝の曲・演芸であり、これを中世に観阿弥・世阿弥らが再構成したもので、こうした手法は他の能楽「老松・檜垣・布刈・高砂・難波・竜田・磐船他」にも見られると考えられる。

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・柿本人麻呂を祀る神社・他(奈良市・水野孝夫)

2010.1.16 試みに、正木氏の例会報告を掲載。


第239話 2009/12/21

纏向遺跡は

卑弥呼の宮殿ではない(3)

 238話では、漢字文明の痕跡の有無という視点から、纏向遺跡が「邪馬台国」では有り得ないことを説明しましたが、こうした考古学的事実との一致・不一
致という視点からすれば、他にも重要なテーマがあります。それは、弥生時代における二大青銅器文明というテーマです。

 弥生時代の日本列島には、北部九州等を中心とする「銅矛・銅戈」等の武器型青銅器文明圏と近畿等を中心とする「銅鐸」文明圏の二大青銅器文明圏が存在し
ていたこと著名です。従って、「邪馬台国」を中心とする弥生時代の倭国がこのいずれかの文明圏に属していたことは当然です。そして「邪馬台国」はそのいず
れかの中枢領域に位置していたことも当然でしょう。
 そこで問題となるのが、倭国はどちらの文明圏に属していたかということですが、その答えははっきりしています。魏志倭人伝中に記された倭国内の国々の所
在地で、殆どの論者で異議のない国がいくつかあります。たとえば対海国(対馬)、一大国(壱岐)、伊都国(糸島半島)、奴国(福岡県北部)などです。そし
てこの所在地が明確な国はいずれも銅矛・銅戈文明圏に属しています。従って、弥生時代の倭国は銅矛・銅戈文明圏の国なのです。
 ところが、纏向遺跡のある奈良県は銅鐸文明圏に属しています。この一点を見ても、纏向遺跡が「邪馬台国」ではなく、倭国の中枢領域でもないことは明々白
々な考古学的事実なのです。更に言うなら、纏向遺跡は銅鐸圏の中枢領域でさえありません。このような地域が「邪馬台国」であるはずがないのです。一体、
「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者達は、本当にこうした考古学的事実が見えているのでしょうか。
 このように「銅鐸」の視点から、「倭人伝に銅鐸が記述されていない」と指摘されたのは古田先生です。『古田史学会報』95号においても「時の止まった歴史学−岩波書店に告ぐ」という論文で、この問題を取り上げられていますので、ご一読下さい。

〔『古田史学会報』95号の掲載論文・記事〕
○時の止まった歴史学—岩波書店に告ぐ— 古田武彦
○九州年号の改元について(前編) 川西市 正木 裕
○四人の倭建  大阪市 西井健一郎
○梔子2 深津栄美
○エクアドル「文化の家博物館」館報 豊中市 大下隆司
○伊倉11 —天子宮は誰を祀るか— 武雄市 古川清久
○関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング


第238話 2009/12/13

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(2)

 237話では里程問題から、纏向遺跡が卑弥呼の宮殿では有り得ないことを指摘しましたが、別の視点からも同様のことが導き出されます。それは「漢字文明」の痕跡の有無という視点です。
 魏志倭人伝には当時の倭国の状況が簡潔ではありますが比較的多く記されています。この古代中国での史書編纂という、自国のみならず周辺諸国の文物をも記録するという一大漢字文明の業績により、わたしたちは弥生時代の日本の様子を知りうることができる言っても過言ではありません。
 その倭人伝には次のような重要な情報が記されており、「邪馬台国」を中心とする倭国は、中国の漢字文明圏に属しており、倭国の文字官僚たちは漢字を使用していたことがわかるのです。

 「古より以来、其の史中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。」
 「詔書して倭の女王に報じて曰く、『親魏倭王卑弥呼に制詔す。(以下略)』」

 このように、倭国の使者が古より「大夫」という中国風「官職名」を自称しており、度々詔書を貰っていることなどが随所に記されています。当然のこととし て、詔書は漢字漢文で書かれており、倭国側もそれが読めたはずです。この他にも「伝送の文書」「金印」など漢字が記されている文物の記載もあります。
 こうした史料事実から、倭国は漢字漢文を使用しており、漢字文明圏に属していたことを疑うことができないのです。それでは弥生時代の大和盆地の遺跡遺物 に漢字文明の痕跡はあるでしょうか。纏向遺跡から出土しているのでしょうか。弥生時代の日本列島を代表するほどの出土事実はあるのでしょうか。答えは簡単です。「ノー」です。
 考古学が科学であり、学問であるのならば、考古学者はこの倭人伝と纏向遺跡の「完璧な不一致」から目を背けてはなりません。学問的良心があるのなら、この「完璧な不一致」から逃げてはなりません。
 他方、目を転ずれば、北部九州の弥生遺跡にこそこの漢字文明の痕跡が集中出土していることは天下の公知事実です。たとえば、「漢委奴国王」という漢字が彫られた志賀島の金印を始め、いわゆる漢鏡と呼ばれる弥生の鏡に記された多数の「銘文」などです。これら漢字文明の痕跡が大量かつ集中出土している筑紫こそが倭国の中心であり、「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)がその地に存在していたことを、倭人伝と考古学事実の「完璧な一致」が証言しているのです。(つ づく)


第237話 2009/12/06

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(1)

 巻向遺跡で発掘された弥生時代の住居跡が「邪馬台国」の女王卑弥呼の宮殿であるかのような報道がテレビや新聞でなされましたが、これは学問的に見れば全 くナンセンスなことです。古田史学をご存じの方には言うもおろかですが、「邪馬台国」(『三国志』魏志倭人伝には邪馬壹国と表記されており「邪馬台国」と するのは誤り)のことが記されている中国の史書『三国志』には、「邪馬台国」の位置を次のように表記しています。

「郡より女王国に至る、万二千余里」

 すなわち、帯方郡(今のソウル付近)から約12000里離れたところに女王卑弥呼の国はあると述べているのです。したがって、『三国志』で使用されている1里が何メートルかを調べれば、女王国の大まかな位置がわかるように記されているのです。
 従来説では漢代の1里435メートルと同じとされてきましたが、古田先生は1里約77メートルとする短里説を唱えられたのは、ご存じの通りです。
 1里約77メートルの短里説にたてば、12000里は北部九州にピッタリですが、435メートルの長里説にたちますと、九州も巻向遺跡のある大和盆地も はるかに通り越し、太平洋の彼方に「邪馬台国」はあったことになるのです。従って、学問的には短里でも長里でも絶対に大和では有り得ないのです。
 「邪馬台国」畿内説論者はこの魏志倭人伝の位置表記を百も知っていながら、この単純明快な史料事実を国民には伏せたまま、巻向遺跡の住居跡を卑弥呼の宮殿であるかのように、大騒ぎしているのです。その手口は学問的態度とはかけ離れており、「醜悪」と言うほか有りません。(つづく)

参考『吉野ヶ里の秘密』光文社
 1章「邪馬台国」にトドメを刺(さ)す 古田武彦


第236話 2009/11/22

「米良」姓の分布と熊野信仰

 昨日の関西例会は初参加の方が3名あり、遠く長野県からの参加者もおられ、いつものように活発な質疑応答が交わされました。いずれの発表も貴重な研究で触発されるものでした。
 例会の休憩時間に、第234話で触れた日向米良修験道の「米良」姓の分布調査を西村さん(本会全国世話人)に依頼したところ、ご自慢の携帯電話で電話帳 検索をまたたくまの間にしていただけました。その結果は私の予想以上のもので、とても驚きました。
 「米良」さんの県別分布は宮崎県の286件をトップに、何と2位が大都市の東京(31件)大阪(39件)を倍近く抜いて千葉県の64件だったのです。ち なみに有名な那智勝浦の熊野大社のある和歌山県は7件で、その内6件が那智勝浦に集中していました。やはり熊野信仰と米良氏は関係の深いことが推察されま した。これは私の予想していたとおりでしたが、千葉県の64件は全く「想定外」だったのです。しかも、千葉県の米良さんも勝浦に集中しているのです。米良 さんが集中している千葉県勝浦と和歌山県那智勝浦、そして米良さん最多集中の宮崎県は黒潮で結ばれた「熊野信仰圏」ではないでしょうか。
 もしそうだとすると、その方向は宮崎から和歌山そして千葉へ。このように考えざるを得ません。そして、その移動の時代が古代まで溯る可能性大ではないで しょうか。
 しかもその淵源は菊池氏・天氏となりますから、熊野信仰の淵源は九州王朝となります。なお、千葉県勝浦の近傍には「天津」「天津小湊」「天面(あまつら)」という興味深い地名もあります。
 以上、例会の休憩時間を利用した初歩的で簡単な調査と推論ではありますが、とても魅力的かつ雄大なスケールを持つ研究テーマと言えそうです。どなたか本格的に米良氏と熊野信仰を研究されてはいかがでしょうか。
 11月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「蒔かぬ種」「蒔いた種」・他(豊中市・木村賢司)
2). 大湖望での短里実験(交野市・不二井伸平)
3). 万葉集第304番歌の作歌場所(京都市・岡下英男)
4). 新撰姓氏録の人口分布(木津川市・竹村順弘)
5). 命長改元と「大宰府政庁」について(川西市・正木裕)
6). 一切経写経と利歌弥多弗利そして『十七条憲法』(川西市・正木裕)
○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・巻向出土遺跡現地説明会報告・柿本人麻呂を祀る神社・他(奈良市・水野孝夫)


第235話 2009/11/15

難波天王寺、聖徳が造る

 現存最古の九州年号群史料である『二中歴』年代歴ですが、その九州年号の下に記された細注の記事、特に仏教関連記事が九州王朝下のものであるとする論文「九州王朝仏教史の研究−経典受容記事の史料批判」(『古代に真実を求めて』第三集、2000年)を発表したことがあります。
 その細注の中で、倭京二年(619年)「難波天王寺聖徳造」という記事の難波について、「年代歴に見える『難波天王寺』を、九州の難波とする可能性も捨て難い。この点、今後の課題として保留しておきたい。」(139頁)と態度を保留していたのですが、この問題について解決を見ました。
 結論から言えば、この難波は摂津の難波と考えざるを得ません。なぜなら、同じ『二中歴』年代歴の「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」とあり、「筑紫観世音寺」ではなく、単に「観世音寺」とだけしかないことは、この記事が筑紫で成立したからで、筑紫の読者に対してその場所を殊更に記す必要が無かったと考えられます。それに対し、天王寺には「難波天王寺」と、その場所が難波であると記す必要があったということは、この天王寺は筑紫ではないことを示します。もし筑紫にあったのであれば、筑紫で成立した細注に単に「天王寺」と記せば、読者にはわかるはずですから。したがって、「難波」とわざわざ表記したのは、筑紫ではなく、遠く摂津の難波にある天王寺であることを説明する必要があったと考えるべきなのです。
 こうした史料事実の示す論理性から、この難波天王寺は摂津難波の天王寺と理解するよう、細注筆者は読者に要求していることが明かとなったのです。そうすると、この難波天王寺は九州王朝の聖徳と呼ばれる人物が建立したことになりますが、この倭京二年(619年)が九州王朝天子・多利思北孤の晩年に当たることから、聖徳とは皇太子の利歌弥多弗利であった可能性が大きいように思います。そして、この聖徳・利歌弥多弗利の活躍記事が、『日本書紀』の「聖徳太子」記事として盗用されたのではないでしょうか。
 更にもう一つ、重要な問題があります。それは摂津難波に九州王朝が天王寺を建立したのであれば、当時、摂津難波は九州王朝の直轄支配領域であったことになります。だからこそ、九州年号の白雉元年(652年)に九州王朝は副都として前期難波宮を建設することができたと思われるのです。
 それでは、九州王朝はいつ頃摂津難波を支配領域としたのでしょうか。このテーマについては別に論じたいと思います。

参考
九州王朝への一切経伝来 ーー『二中歴』一切経伝来記事の考察(古田史学会報12号)へ
善光寺如来と聖徳太子の往復書簡ー九州年号の秘密ー (古田史学会報58号)へ


第234話 2009/11/08

九州王朝天子「天」一族の行方

 わたしの二十数年に及ぶ九州王朝研究において、重要テーマの一つに、九州王朝王族の末裔に関する問題があります。古田先生と松延氏(八女市)の出会いが
きっかけとなって、高良玉垂命の末裔の稲員家・松延家が倭王の末裔だったことが、同家の系図などにより明かとなったことは著名ですが、『隋書』にある「日
出ずる処の天子」多利思北孤が名のっていた「天(あめ)」一族について、面白そうな情報に出会いました。
 それは、丸山晋司さんからいただいた本、『山岳宗教史研究叢書16 修験道の伝承文化』五来重編に収録されている、日向米良修験道を紹介した次の文です。

 「さてその米良氏は、現在すでに各地に分家してしまったが、その出自については、菊池氏の後裔という説がある。これは近世、近代に書かれた系図、系譜、由緒書に基づいており、また天(あめ)氏を名乗った形跡も見られる。」同書603ページ
 「また、東臼杵郡東郷町附近に定着した米良氏は、天氏を名乗っており、天文十八年には羽坂神社に梵鐘を奉納している。」同書604ページ「米良修験と熊野信仰」より

 このように宮崎県などの熊野信仰の担い手だった米良修験道の米良氏が、菊池氏の後裔であり、天(あめ)氏を名乗っていたということが紹介されているので
す。出典調査などはこれからですが、肥後の菊池氏に由来する米良氏が天氏を名乗っていたということは、『隋書』イ妥国伝の天子・阿毎多利思北孤(あめのた
りしほこ)との関係をうかがわせるのではないでしょうか。
 「菊池氏の探究」は新たなテーマですが、全国の天氏の分布図などもあれば、何か面白い事実が浮かび上がるかもしれませんね。


第233話 2009/10/31

南朝の「黄葉」と北朝の「紅葉」

 わたしは京都の化学会社に勤めているのですが、社員教育の一環として月に一度、京都大学教授の内田賢徳(うちだまさのり)先生による日本語や万葉集のセミナーを受講しています。その10月のセミナーで内田先生から興味深い史料事実を教えていただきました。
 それは、8世紀に成立した万葉集では、「もみじ」の表記に「黄葉」が使用されているが、9世紀の漢詩集などでは「紅葉」が使用されており、これは中国南朝(六朝時代、4〜6世紀)に使用されていた「黄葉」と、7世紀の唐で使用されていた「紅葉」の影響を、それぞれが受けたという史料事実です。すなわち、 万葉集は南朝の影響を色濃く受け、9世紀以降は北朝の影響を日本文学は受けているのだそうです。
 この史料事実は九州王朝説により、万葉集は九州王朝時代に成立した和歌を数多く含み、九州王朝が長く中国南朝に臣従し、その文化的影響を受けていた痕跡と考えると、うまく説明できそうです。対して、8世紀以後の大和朝廷の時代になると遣唐使により北朝の影響を受けだしたものと思われます。
 中国南朝が滅亡した後も、九州王朝(倭国)文学は南朝の影響と伝統を継承したのでしょう。このように、文学史の視点からも九州王朝説は有力であり、より深い理解へと導きうる仮説と言わざるを得ません。


第232話 2009/10/26

太宰府の蔵司(くらのつかさ)

  第229話「太宰府の内裏」で紹介しました『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著に記されている、大宰府の蔵司(くらのつかさ)の北側にある「内裏」地名について御教示を乞うたと ころ、早速、福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から当地の字地名を記した地図がファックスで届きました。こうした素早い対応は本当に有り難い限りですし、全国組織の強みでもあります。その地図によれば、大宰府政庁跡の字地名は「大裏」とされ、問題の蔵司の北側は、残念ながら字地名が記されていませんでした。
 上城さんからは更に福岡県教委と九州歴史資料館による蔵司調査のニュース記事(2009/10/22)も送られてきましたので、インターネットで関連記事を検索したところ、蔵司の建物跡が奈良時代平安時代において九州最大規模の建物であり、奈良の正倉院よりも大きいという内容でした。いずれの記事もこのことを「特筆大書」していたのですが、正直に申して「なんで今頃大騒ぎするのだろう」とわたしは思いました。
 既に鏡山猛氏が『大宰府都城の研究』において、正倉院よりも古く大規模な建築物が存在していたとする調査結果を発表されており、古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社刊、昭和54年)で、そのことを紹介され、大和朝廷の正倉院よりも古く大規模な倉庫群が太宰府にあったことは九州王朝存在の証拠であるとされていたからです。
 いずれにしても、蔵司遺跡が注目され発掘調査されることは大歓迎です。ここでも九州王朝の痕跡が一段と明かとなることでしょう。わたしも蔵司には引き続き注目していきたいと思います。