第312話 2011/04/03

『古代に真実を求めて』

14集発刊

古田史学の会の論集『古代に真実を求めて』第14集が明石書店より発刊されました。古田史学の会の2010年度賛助会員には一冊発送いた します。一般書店でもお取り寄せ、お求めできます。定価2400円+税です(255頁)。14集には古田先生の講演録2編の他、禅譲・放伐論争シンポジウ ムと会員による7論文が収録されています。
14集の特徴は、古田先生の講演録2編を収録したことにより、著作執筆のため講演を減らされている古田先生の最新の研究成果 に触れることができることと、 関西例会で最もホットなテーマの一つである、九州王朝から大和朝廷への権力交代が禅譲だったのか放伐だったのかというシンポジウムの内容を収録したことで す。これにより、関西例会での研究内容やその雰囲気が読者に伝わることと思います。
研究論文では、愛媛県西条市の今井久さんが発見された「紫宸殿」地名に関する報告2編(今井稿、合田稿)が、多元史観に相応しいものといえるでしょう。正木さんからは近年の圧倒的な研究成果の一端が報告され、貴重です。
是非、お買い求め下さい。同時に、15集に向けてご寄稿もお願いいたします。

『古代に真実を求めて』第14集目次
○巻頭言   水野孝夫
○特別掲載  
   『古事記』と『魏志倭人伝』の史料批判     古田武彦講演録
    神籠石の史料批判−古代山城論     古田武彦講演録
    禅譲・放伐論争シンポジウム         司会 不二井伸平
                          パネリスト 西村秀己
                                  正木 裕
                                水野孝夫
                                古賀達也
○研究論文
    北部九州地方の水稲稲作と遠賀川式土器 佐々木広堂
    ーー水稲稲作はロシア沿岸州から伝わった
   越智国に紫宸(震)殿が存在した           今井 久
  越智国にあった「紫宸殿」地名の考察      合田洋一
  橘諸兄考 ーー九州王朝臣下たちの行方 西村秀己
  不破道を塞げ 四                       秀島哲雄
   ーー高良山神籠石の美濃師三千人、基肄城への不破道を塞ぐ
   移された「大化の改新」                   正木 裕
  「笠沙」は志摩郡「今宿」である              野田利郎
   ーー天孫降臨説話の解明

 

2011.4.25

『古代に真実を求めて』第十四集・正誤表


第311話 2011/04/01

正木さんからのメール「始哭」仮説

  前話で謎の九州年号「始哭」を取り上げたところ、早速、正木裕さん(古田史学の会会員)からメールが届きました。「始哭」を葬送の儀式とする仮説です。なかなか面白い解釈であり、さすがは正木さん、と思いました。
このように古田学派の研究者の間で瞬時に活発な刺激的な意見交換ができることは、良き学風であり、インターネット時代にふさわしいものです。もちろん、 関西例会では批判や反論など激しい応酬が交わされることも少なくありませんが、これもまた古田学派ならではの学問的態度、学風です。それでも二次会では一 杯飲みながら和やかに歓談するというのも、関西例会の楽しみです。
正木さんのご了承を得て、そのメールを紹介します。

古賀様、各位
最新のブログにある「始哭」ですが、中国では漢代から儒教の影響下「哭礼」の儀式が広がりました。
「中国の葬礼で、墓前や葬式で大声をあげてな くこと。哭礼。諸侯が亡くなった場合は異姓ならば城外でその国に向かって、同姓ならば宗廟で、同宗ならば祖廟で、同族ならば父の廟で哭礼を行う。魯の場 合、同姓の姫姓諸侯ならば文王の廟、同宗の?・凡・蒋・茅・胙・祭の場合は周公の廟で行う。」(『春秋戦国辞典』)
また、泣き終わるのは「卒哭」といい、今も100日の儀式として日本でも続いています。(仏教上の儀式)
「卒哭忌(そっこうor[く]き)は百ヶ日のことで、哭(な)き卒(お)さめの忌という意味である。」
「始哭」は端政元年(589)と並行している年号ですが(「始大」は字形から「始哭」の変形と考えるべきか)、この年高良玉垂命が三瀦で亡くなったことは古賀さんの指摘するとおり(太宰管内志)です。
「卒哭」があるなら「始哭」もあってしかるべきかと・・すなわち端政元年(589)に高良玉垂命の崩御を痛んで、後を継いだ多利思北孤がその葬儀と「哭 礼」をとりおこなった(「哭」を「始」めた)、これが多利思北孤関連の事跡として「法興」とセットで伝承したとは考えられないでしょうか。短期間で終わっ ているのも哭礼は100日で終わり(卒哭)、せいぜい1〜2年間の事跡と考えれば不思議はないのでは。
このあたりの年に百済から法師が大挙来朝しているのも高良玉垂命の祈願や法要のためとすれば自然に解釈できます。
以上「始哭」は高良玉垂命崩御に伴い多利思北孤が哭礼を始めた事にちなむもので、年号というより「始哭の年」という意味なのではないかという仮説を提起させていただきます。どうでしょうか。
   正木拝


第310話 2011/03/26

謎の九州年号「始哭」

前話で引用紹介した「鬼哭啾々」の「鬼哭」に似た「始哭」という九州年号があることをご存じでしょうか。それは、九州年号史料として有名な鶴峯戊申著『襲国偽僭考』に記されています。
同書の九州年号記事中の「吉貴」の項に「一説」として紹介されており、「始大」とも作るとあります。字義からして、年号に相応しいとも思われず、従来か ら誤記誤伝と見られてきたようで、九州年号研究に於いても正面から取り扱われることはほとんどありませんでした。管見では唯一、古田先生が別系列の九州年 号として言及されたのを知るのみです(「『両京制』の成立 ーー九州王朝の都域と年号論」、『古田史学会報』36号所収。2000年2月)。
最近、正木裕さん(古田史学の会会員)が、『二中歴』に見えない九州年号「法興」「聖徳」を多利思北孤や利歌弥多弗利の「法号」「法名」とする説を発表 されましたが、そうした視点から、この「始哭」も捉えられるのか、あるいは別の仮説が提起できるのか、更なる研究の深化が期待されます。
仮に、誤記誤伝と処理する場合にも、それではどのようなケースの場合、「始哭」のような誤記誤伝が発生しうるのかという説明が必要でしょう。どなたか挑戦されませんか。

第309話 2011/03/21

鬼哭啾々、涙ひまなし

この度の大震災による被災地の惨状をテレビで見るたびに、鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)、涙ひまなしの毎日です。そうした中、本日、仙台の 佐々木広堂さ んからの電話で、南相馬市の青田勝彦さん(古田史学の会全国世話人)が御無事で宮城県に避難されているという連絡が入りました。本当によかったです。古田 史学の会・仙台の会の皆さん全員の御無事をお祈りしています。
「鬼哭啾々」とは杜甫の詩「兵車行」が出典で、戦地での悲惨な状況に鬼も啾々と哭(な)くという、「春望」(国やぶれて山河あり)と共に有名な詩です。こ の詩のように鬼も泣く戦地のような惨状の中、皆さんが力を合わせて頑張っておられる姿に心打たれ、また涙しています。
「涙ひまなし」とは日蓮遺文「諸法実相抄」が出典です。日蓮は佐渡に流罪となり、弟子等は土牢に入れられるという迫害の最中(文永十年、1273)、日蓮が弟子日浄に与えた書状です。
「現在の大難を思い続くるにも涙、未来の成仏を思うて喜ぶにも涙せきあへず。鳥と虫とは鳴けども涙落ちず。日蓮は泣かねども涙ひまなし。」
大弾圧の中で弟子等を思い涙する日蓮の心情が吐露された名文です。こうした弟子等を励ます手紙を、日蓮は流刑地の佐渡から数多くしたためています。

 


第308話 2011/03/20

東日本大震災

 この度の大地震・大津波でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。また、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。テレビなどを通じて知らされるこの災害の悲惨さに、語るべき言葉もありません。また、古田史学の会の東北地方在住会員の皆さまの御無事をお祈りするばかりです。
 古田史学の会全国世話人で仙台市の佐々木広堂さんとはようやく連絡がとれ、御無事であることを確認できましたが、同じく南相馬市の青田勝彦さんとは未だ連絡がとれません。とても心配しています。
 同日開催しました古田史学の会役員会では、被災地域である岩手県・宮城県・福島県の三県在住会員の2011年度会費を免除することを決定いたしました。既に御支払い済みの場合は2012年度会費として取り扱うこととします。
 昨日の関西例会では亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、参加者全員で黙祷を捧げました。発表内容は次の通りでした。

〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 国難 (豊中市・木村賢司)
(2) 白鳥さんと水主神社 (豊中市・木村賢司)
(3) 辟易 (豊中市・木村賢司)
(4) 古代史「道楽三昧」No,4の作成 (豊中市・木村賢司)
(5) 前期難波宮の九州王朝副都説についての疑問 (豊中市・大下隆司)
(6) 「邪馬壹国」は「女王国」ではない
ーー魏志倭人伝「不弥国」の新解釈 (姫路市 野田利郎)
(7) PC検索とDB活用 (木津川市・竹村順弘)
(8) 恵総と慧慈 (川西市・正木裕)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・白鳳朱雀年号の研究史・他(奈良市・水野孝夫)


第307話 2011/03/05

中国語の音韻

 昨日、中国から帰国しました。今回の出張は上海を拠点に、江蘇省張家港と宿遷、河北省石家荘、そして山東省斉南などを訪問。中国国内を車と飛行機で何時間もかけて移動するというハードな出張でした。
 中国に出張するようになって10年以上になりますが、その経済発展のスピードには目をみはるものがあります。行くたびに高速道路網は伸びていますし、何よりも食事がおいしくなり、女性は益々きれいになっています。冗談ではなく。
 同行していただいたのは有名な商社Mの王さんと金さん(女性)で、上海出身の王さんは北京語と上海語と日本語(やや関西弁)、朝鮮族出身の金さんは北京語と韓国語と日本語が堪能なエリート商社員です。そのため、商談では様々な言語が飛び交っていました。それにしても中国人の語学力にはいつも驚かされます。 地方都市のホテルマン(ただし高級ホテル)でも、英語と日本語の両方を話せる中国人は少なくありません。
 仕事の合間をぬって、王さんに北京語と上海語の違い、河北省語と北京語の差などについてしつこく質問し、いろいろと教えてもらいました。というのも、現在、『古田史学会報』上で内倉武久さん(本会会員。『太宰府は日本の首都だった』という好著の著者)と、倭人伝の地名などの音韻について論争中ですので、 現代中国語音韻の地域差についても知っておきたかったからです。
 そんなわけで、古代中国語音韻の先行研究を調べているのですが、大下さん(本会全国世話人・総務)から、松中祐二さん(本会会員)の「倭人伝の漢字音 −− 卑弥呼=姫王の証明」(『越境としての古代7』所収)が優れていると紹介していただきました。確かに、魏晋朝音韻研究の先行説など、わたしより深 く広く調査紹介されている好論文でした。松中さんともお会いして、御教示を賜りたいと願っています。
 それにしても、しばらくは中華料理は食べたくない、日本語以外の言葉も聞きたくないというほどの、ハードな出張ではありました。

 


第306話 2011/02/27

『古田史学会報』102号の紹介

 2月5日発行の『古田史学会報』102号の掲載原稿は下記の通りですが、拙稿「前期難波宮の 考古学(1)ーーここに九州王朝の副都ありき」も掲載させていただきました。前期難波宮九州王朝副都説を考古学の視点を中心に解説した論文で、数回に分けて掲載予定です。仕事の都合で出張が多く、なかなかまとまった調査や執筆時間が取りにくいこともあって、分割して執筆するつもりです。明日からも1週間ほど中国出張です(上海や河北省を訪問予定)。
 拙稿の他、今号は力作ぞろいです。ページ数の関係から次号回しになった原稿も少なからずありますが、古田説と異なる新説を発表される場合は、古田説よりも自説が何故優れているかの説明もお願いします。会報読者は基本的に古田説をご存じの方々ですから、この点の説明は新説発表者の義務でもあり、採否の判断基準の一つにもなります。また、その方が読者にも親切です。
 なお、念のため付け加えれば、古田説と異なっていることや批判していることが理由で不採用になることはありません。あくまでも、論証成立の正否と学問の方法論(史料根拠の明示とそれに基づいての立論など)が採否の基準となります。投稿者が新人の場合は、なるべく採用したいと考えていますので、ふるってご 投稿下さい。

『古田史学会報』102号の内容
○年頭の御挨拶  代表 水野孝夫
○ホームページ『新古代学の扉』文字化けについて  インターネット担当 横田幸男
○前期難波宮の考古学(1)ーーここに九州王朝の副都ありき  京都市 古賀達也
○短里によって史料批判を行う場合の問題点などについて  福岡市 棟上寅七
○白村江の会戦の年代の違いを検討する  中国山東省曲阜市 青木英利
○「斉明」の虚構  川西市 正木 裕
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集


第305話 2011/02/26

法興と聖徳

 2月19日の関西例会では、竹村さんが6件という驚異的な数の発表をされました。百済など古代朝鮮に関する研究が中心で、わたしにとっては不勉強な分野ですので初めて知ることも多く、参考になりました。竹村さんを中心として、最近の関西例会はちょっとした韓流ブームです。
 正木さんからは、『二中歴』に見えない九州年号「法興」「聖徳」についての新仮説の発表で、触発されました。この二年号を多利思北孤と利歌弥多弗利の 「法名」「法号」ではないかという仮説です。また、多利思北孤と煬帝の出家が同年ではなかったかとの指摘もあり、こちらも興味深いテーマです。会報での発表が待たれます。
 2月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 宇佐八幡妄想 (豊中市・木村賢司)
2). P.Fドラッカーと森嶋通夫 (豊中市・木村賢司)
3). 歴史を学んでどう生きる (豊中市・木村賢司)
4). 遊・学同源 (豊中市・木村賢司)
5). 平成の鎖国 (豊中市・木村賢司)
6). 応神紀弓月君と佛流百済 (木津川市・竹村順弘)
7). 南史と北史の温度差 (木津川市・竹村順弘)
8). 雄略紀の百済滅亡記事 (木津川市・竹村順弘)
9). 華北の穢貊人観と江南の倭人観 (木津川市・竹村順弘)
10).百済の馬韓制圧と神功紀 (木津川市・竹村順弘)
11).世子の倭王興 (木津川市・竹村順弘)
12).隅田八幡神社人物画像鏡の銘文  (京都市・岡下英男)

13). 法興・聖徳年号とは何か(試案) (川西市・正木裕)
 釈迦三尊の光背銘や伊予温湯碑に見える「法興」は、法王たる多利思北孤の「法号・法名」であり、彼が法号を授かった五九一年時を元年とする。 聖徳は、同様に多利思北孤の太子「利」の法号である。従って九州王朝の年号というより、多利思北孤と利の個人の「仏教上の年期」を示すものである事を、隋や倭国における法号授与の経緯、法興に「元」が付される事、法皇・菩薩天子は「法号」を持たねばならない事等を根拠として示した。

14). 「橿と檍」、そしてイザナギと神武帝(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・行基と道照と智通・他(奈良市・水野孝夫)


第304話 2011/02/20

『古事記』真福寺本の「天治弟」

 わたしの所には全国各地から古代史の論文や著書が贈られてきます。この場をお借りして御礼申し上げます。つい先日も古田史学の会会員の古谷弘美さん(枚方市在住)より、秀逸の論文が送られてきました。「古事記における「沼」と「治」について ーー岩波日本思想大系古事記と桜楓社真福寺本古事記影印との比較」という論文です。
 古谷さんは関西例会の常連参加者で、これまで例会や会報に発表をされたことはありませんが、優れた研究者として関西例会では鋭い指摘や質問をされてきま した。今回、古谷さんの研究原稿を初めていただいたのですが、『古事記』真福寺本の「天沼矛(あまのぬぼこ)」の字形についての研究です。
 『古事記』冒頭のイザナギとイザナミがオノゴロ島を造るときに使用した「天沼矛(あまのぬぼこ)」が、真福寺本では「天沼弟(あまのぬおと)」と記されていることを古田先生が指摘され、「沼弟」を銅鐸(ぬ)の音(おと)のこととする説を近年発表されました。ところが、古谷さんは真福寺本の全調査をされ、 従来説の「天沼矛(あまのぬぼこ)」でも、古田説の「天沼弟(あまのぬおと)」でもなく、「天治弟(あまのちおと)」であると発表されたのです。その際、 真福寺本の「治」と「沼」の字の全調査をされ、例えば従来は「沼河比賣」「天沼琴」とされてきた字形なども、「治河比賣」「天治琴」であると指摘されたの です。もちろん、古事記本来の表記がどうであったかは今後の研究課題です。
 このような字形の全調査という実証的な研究手法は古田史学にふさわしいものです。同論文の他に、古谷さんは周代史料に短里表記による都市の大きさが記されているという論文も書かれています。こちらは『古田史学会報』に掲載予定です。関西から新たな論客が会報デビューです。古谷さんのこれからの研究が期待 されます。


第303話 2011/02/13

豊崎神社を訪問

 先週、大阪市北区豊崎の豊崎神社を訪問しました。第268話「難波宮と難波長柄豊崎宮」で紹介しましたが、豊崎神社は淀川沿いにあり、この地は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の比定地の一つとされてきました。一度、その地を自分の目で確かめたくて訪れました。
 豊崎神社は地下鉄御堂筋線の中津駅から徒歩10分くらいの所にあり、周囲は線路やビルに囲まれているため、地勢についてはよくわかりませんでしたが、淀川に近く、古代に於いては港としては良い場所かも知れません。しかし、評制を施行した全国支配の要所とは思えませんでした。少なくとも、上町台地上にある難波宮跡とは比較になりません。もちろん、都や宮殿の場所として圧倒的に難波宮跡がふさわしいと思います。
 他方、地名との関係でみれば、「長柄」「豊崎」という地名が現存する豊崎神社周辺の方が、「長柄」も「豊崎」も存在しない上町台地法円坂の難波宮跡よりも「難波長柄豊碕宮」候補地にふさわしいこと、言うまでもありません。
 しかも、同神社は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮故地を偲んで正暦年間(990-994)に創建されたという伝承を有していることから、この地が難波長柄豊碕宮のあった場所と10世紀において認識されていたことになり、このことも難波長柄豊碕宮の比定地を考察する上で重要な「証言」となるでしょう。
 豊崎神社発行『豊崎宮』第1号(昭和50年11月)においても、難波長柄豊碕宮の候補地として法円坂の難波宮跡なども紹介した上で、豊崎神社が難波長柄豊碕宮の跡地であると説明しています。しかしその場合、それでは法円坂の前期難波宮は誰のための何のための宮殿かという説明が必要となりますが、大和朝廷一元説では説明しようがありません。また、通説のように法円坂の前期難波宮を難波長柄豊碕宮とした場合、地名との不一致が避け難い矛盾として現れてきま す。 これら、双方の持つ問題点を解決できる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。
 この問題は、難波長柄豊碕宮を筑前や豊前などの北部九州とする説に於いても発生します。すなわち、それなら法円坂の前期難波宮は誰の宮殿なのか、という問題をやはり説明できないのです。7世紀中頃における日本列島中最大規模の朝堂院様式宮殿の説明ができないという大矛盾に遭遇するのです。


第302話 2011/01/29

『常陸国風土記』の倭武天皇

 東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)訪問を期に、『常陸国風土記』に見える倭武天皇について考えてみました。この倭武天皇を通説ではヤマトタケルとしていますが、天皇ではないヤマトタケルを倭武天皇とするのもおかしなことですが、その文字表記も『日本書紀』の「日本武尊」とも『古事記』の「倭建」とも異なり、記紀よりも僅かですが後(養老6〜7年頃)に成立した『常陸国風土記』であるにもかかわらず、記紀の表記とは異なる倭武天皇としていることから、 『常陸国風土記』編者は記紀以外の伝承記録に基づいたと考えざるを得ません。
 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える倭王武(倭武=国名に基づく姓+中国風一字名称)の伝承記録、すなわち九州王朝系記録に倭武天皇とあり、それに基づいて『常陸国風土記』で倭武天皇として記録されたのではないでしょうか。
 更に言えば、当時の九州王朝の国王は「天皇」を自称していた可能性もありそうです。この時代、九州王朝は中国南朝の冊封体制に入っていましたから、「天子」を自称していたはずはありませんが、「天皇」であれば中国南朝の天子の下位であり、問題ないと思われます。とすれば、『日本書紀』継体紀25年条に見える「日本の天皇及び太子・皇子」の百済本紀の記事も、このことに対応していることになります。
 倭武天皇の活躍と『宋書』倭国伝に記された倭王武の軍功の対応も、倭武天皇=九州王朝倭王武説を支持するように思われます。従って、各地に残るヤマトタケル伝承をこうした視点から再検証する必要を感じています。たとえば、「阿波国風土記逸文」に見える「倭建天皇命」記事や、徳島県には倭武神社もあるようで、興味が尽きません。
 なお、『常陸国風土記』の倭武天皇は倭王武ではないとする見解(西村秀己さん)もあり、慎重に検討したいと思います。


第301話 2011/01/23

讃岐の白鳥神社訪問

 先日、東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)を訪問しました。以前から気になっていた神社で、一度訪れたいと思っていました。もちろん御祭神は日本武尊で、白鳥伝説に基づいた縁起を有していました。しかし、人間が死後白鳥になって飛んできたはずはありませんから、何か別の理由でこの神社が創建されたはずです。このことを確かめたかったのです。
『常陸国風土記』に見える倭武天皇は九州王朝の倭王武の伝承ではないかと古田先生は指摘されていますが、この白鳥神社の日本武尊伝承も、もともとは倭王武の伝承ではなかったのかとも考えています。
 例えば、ここの白鳥神社には日本武尊の他に、その正妃の両道入姫命(ふたじのいりひめ)と妃の橘姫命が御祭神として祀られています。猪熊兼年宮司からおうかがいしたところ、両道入姫命が祀られている神社は全国でも珍しいそうです。また、橘姫命は通常「弟橘姫」とされていますが、ここでは「弟」が付かない 「橘姫」命とのことでした。
 『常陸国風土記』の倭武天皇記事でも、橘皇后あるいは大橘比売命と記されていますから、倭王武の妃は橘姫だった可能性があり、この白鳥神社の伝承でも橘姫命とされていることは、『常陸国風土記』と同様に、日本武尊ではなく九州王朝の倭王武の伝承に基づいているのではないかと推察していますが、いかがで しょうか。
 白鳥神社を訪問した日は大変寒かったのですが、猪熊宮司さんからは長時間にわたり親切に御説明いただき、感謝しています。氏は大学で日本思想史を研究されたとかで、村岡典嗣先生のお名前もよくご存じで、話しが弾みました。