第307話 2011/03/05

中国語の音韻

 昨日、中国から帰国しました。今回の出張は上海を拠点に、江蘇省張家港と宿遷、河北省石家荘、そして山東省斉南などを訪問。中国国内を車と飛行機で何時間もかけて移動するというハードな出張でした。
 中国に出張するようになって10年以上になりますが、その経済発展のスピードには目をみはるものがあります。行くたびに高速道路網は伸びていますし、何よりも食事がおいしくなり、女性は益々きれいになっています。冗談ではなく。
 同行していただいたのは有名な商社Mの王さんと金さん(女性)で、上海出身の王さんは北京語と上海語と日本語(やや関西弁)、朝鮮族出身の金さんは北京語と韓国語と日本語が堪能なエリート商社員です。そのため、商談では様々な言語が飛び交っていました。それにしても中国人の語学力にはいつも驚かされます。 地方都市のホテルマン(ただし高級ホテル)でも、英語と日本語の両方を話せる中国人は少なくありません。
 仕事の合間をぬって、王さんに北京語と上海語の違い、河北省語と北京語の差などについてしつこく質問し、いろいろと教えてもらいました。というのも、現在、『古田史学会報』上で内倉武久さん(本会会員。『太宰府は日本の首都だった』という好著の著者)と、倭人伝の地名などの音韻について論争中ですので、 現代中国語音韻の地域差についても知っておきたかったからです。
 そんなわけで、古代中国語音韻の先行研究を調べているのですが、大下さん(本会全国世話人・総務)から、松中祐二さん(本会会員)の「倭人伝の漢字音 −− 卑弥呼=姫王の証明」(『越境としての古代7』所収)が優れていると紹介していただきました。確かに、魏晋朝音韻研究の先行説など、わたしより深 く広く調査紹介されている好論文でした。松中さんともお会いして、御教示を賜りたいと願っています。
 それにしても、しばらくは中華料理は食べたくない、日本語以外の言葉も聞きたくないというほどの、ハードな出張ではありました。

 


第306話 2011/02/27

『古田史学会報』102号の紹介

 2月5日発行の『古田史学会報』102号の掲載原稿は下記の通りですが、拙稿「前期難波宮の 考古学(1)ーーここに九州王朝の副都ありき」も掲載させていただきました。前期難波宮九州王朝副都説を考古学の視点を中心に解説した論文で、数回に分けて掲載予定です。仕事の都合で出張が多く、なかなかまとまった調査や執筆時間が取りにくいこともあって、分割して執筆するつもりです。明日からも1週間ほど中国出張です(上海や河北省を訪問予定)。
 拙稿の他、今号は力作ぞろいです。ページ数の関係から次号回しになった原稿も少なからずありますが、古田説と異なる新説を発表される場合は、古田説よりも自説が何故優れているかの説明もお願いします。会報読者は基本的に古田説をご存じの方々ですから、この点の説明は新説発表者の義務でもあり、採否の判断基準の一つにもなります。また、その方が読者にも親切です。
 なお、念のため付け加えれば、古田説と異なっていることや批判していることが理由で不採用になることはありません。あくまでも、論証成立の正否と学問の方法論(史料根拠の明示とそれに基づいての立論など)が採否の基準となります。投稿者が新人の場合は、なるべく採用したいと考えていますので、ふるってご 投稿下さい。

『古田史学会報』102号の内容
○年頭の御挨拶  代表 水野孝夫
○ホームページ『新古代学の扉』文字化けについて  インターネット担当 横田幸男
○前期難波宮の考古学(1)ーーここに九州王朝の副都ありき  京都市 古賀達也
○短里によって史料批判を行う場合の問題点などについて  福岡市 棟上寅七
○白村江の会戦の年代の違いを検討する  中国山東省曲阜市 青木英利
○「斉明」の虚構  川西市 正木 裕
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集


第305話 2011/02/26

法興と聖徳

 2月19日の関西例会では、竹村さんが6件という驚異的な数の発表をされました。百済など古代朝鮮に関する研究が中心で、わたしにとっては不勉強な分野ですので初めて知ることも多く、参考になりました。竹村さんを中心として、最近の関西例会はちょっとした韓流ブームです。
 正木さんからは、『二中歴』に見えない九州年号「法興」「聖徳」についての新仮説の発表で、触発されました。この二年号を多利思北孤と利歌弥多弗利の 「法名」「法号」ではないかという仮説です。また、多利思北孤と煬帝の出家が同年ではなかったかとの指摘もあり、こちらも興味深いテーマです。会報での発表が待たれます。
 2月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 宇佐八幡妄想 (豊中市・木村賢司)
2). P.Fドラッカーと森嶋通夫 (豊中市・木村賢司)
3). 歴史を学んでどう生きる (豊中市・木村賢司)
4). 遊・学同源 (豊中市・木村賢司)
5). 平成の鎖国 (豊中市・木村賢司)
6). 応神紀弓月君と佛流百済 (木津川市・竹村順弘)
7). 南史と北史の温度差 (木津川市・竹村順弘)
8). 雄略紀の百済滅亡記事 (木津川市・竹村順弘)
9). 華北の穢貊人観と江南の倭人観 (木津川市・竹村順弘)
10).百済の馬韓制圧と神功紀 (木津川市・竹村順弘)
11).世子の倭王興 (木津川市・竹村順弘)
12).隅田八幡神社人物画像鏡の銘文  (京都市・岡下英男)

13). 法興・聖徳年号とは何か(試案) (川西市・正木裕)
 釈迦三尊の光背銘や伊予温湯碑に見える「法興」は、法王たる多利思北孤の「法号・法名」であり、彼が法号を授かった五九一年時を元年とする。 聖徳は、同様に多利思北孤の太子「利」の法号である。従って九州王朝の年号というより、多利思北孤と利の個人の「仏教上の年期」を示すものである事を、隋や倭国における法号授与の経緯、法興に「元」が付される事、法皇・菩薩天子は「法号」を持たねばならない事等を根拠として示した。

14). 「橿と檍」、そしてイザナギと神武帝(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・行基と道照と智通・他(奈良市・水野孝夫)


第304話 2011/02/20

『古事記』真福寺本の「天治弟」

 わたしの所には全国各地から古代史の論文や著書が贈られてきます。この場をお借りして御礼申し上げます。つい先日も古田史学の会会員の古谷弘美さん(枚方市在住)より、秀逸の論文が送られてきました。「古事記における「沼」と「治」について ーー岩波日本思想大系古事記と桜楓社真福寺本古事記影印との比較」という論文です。
 古谷さんは関西例会の常連参加者で、これまで例会や会報に発表をされたことはありませんが、優れた研究者として関西例会では鋭い指摘や質問をされてきま した。今回、古谷さんの研究原稿を初めていただいたのですが、『古事記』真福寺本の「天沼矛(あまのぬぼこ)」の字形についての研究です。
 『古事記』冒頭のイザナギとイザナミがオノゴロ島を造るときに使用した「天沼矛(あまのぬぼこ)」が、真福寺本では「天沼弟(あまのぬおと)」と記されていることを古田先生が指摘され、「沼弟」を銅鐸(ぬ)の音(おと)のこととする説を近年発表されました。ところが、古谷さんは真福寺本の全調査をされ、 従来説の「天沼矛(あまのぬぼこ)」でも、古田説の「天沼弟(あまのぬおと)」でもなく、「天治弟(あまのちおと)」であると発表されたのです。その際、 真福寺本の「治」と「沼」の字の全調査をされ、例えば従来は「沼河比賣」「天沼琴」とされてきた字形なども、「治河比賣」「天治琴」であると指摘されたの です。もちろん、古事記本来の表記がどうであったかは今後の研究課題です。
 このような字形の全調査という実証的な研究手法は古田史学にふさわしいものです。同論文の他に、古谷さんは周代史料に短里表記による都市の大きさが記されているという論文も書かれています。こちらは『古田史学会報』に掲載予定です。関西から新たな論客が会報デビューです。古谷さんのこれからの研究が期待 されます。


第303話 2011/02/13

豊崎神社を訪問

 先週、大阪市北区豊崎の豊崎神社を訪問しました。第268話「難波宮と難波長柄豊崎宮」で紹介しましたが、豊崎神社は淀川沿いにあり、この地は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の比定地の一つとされてきました。一度、その地を自分の目で確かめたくて訪れました。
 豊崎神社は地下鉄御堂筋線の中津駅から徒歩10分くらいの所にあり、周囲は線路やビルに囲まれているため、地勢についてはよくわかりませんでしたが、淀川に近く、古代に於いては港としては良い場所かも知れません。しかし、評制を施行した全国支配の要所とは思えませんでした。少なくとも、上町台地上にある難波宮跡とは比較になりません。もちろん、都や宮殿の場所として圧倒的に難波宮跡がふさわしいと思います。
 他方、地名との関係でみれば、「長柄」「豊崎」という地名が現存する豊崎神社周辺の方が、「長柄」も「豊崎」も存在しない上町台地法円坂の難波宮跡よりも「難波長柄豊碕宮」候補地にふさわしいこと、言うまでもありません。
 しかも、同神社は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮故地を偲んで正暦年間(990-994)に創建されたという伝承を有していることから、この地が難波長柄豊碕宮のあった場所と10世紀において認識されていたことになり、このことも難波長柄豊碕宮の比定地を考察する上で重要な「証言」となるでしょう。
 豊崎神社発行『豊崎宮』第1号(昭和50年11月)においても、難波長柄豊碕宮の候補地として法円坂の難波宮跡なども紹介した上で、豊崎神社が難波長柄豊碕宮の跡地であると説明しています。しかしその場合、それでは法円坂の前期難波宮は誰のための何のための宮殿かという説明が必要となりますが、大和朝廷一元説では説明しようがありません。また、通説のように法円坂の前期難波宮を難波長柄豊碕宮とした場合、地名との不一致が避け難い矛盾として現れてきま す。 これら、双方の持つ問題点を解決できる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。
 この問題は、難波長柄豊碕宮を筑前や豊前などの北部九州とする説に於いても発生します。すなわち、それなら法円坂の前期難波宮は誰の宮殿なのか、という問題をやはり説明できないのです。7世紀中頃における日本列島中最大規模の朝堂院様式宮殿の説明ができないという大矛盾に遭遇するのです。


第302話 2011/01/29

『常陸国風土記』の倭武天皇

 東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)訪問を期に、『常陸国風土記』に見える倭武天皇について考えてみました。この倭武天皇を通説ではヤマトタケルとしていますが、天皇ではないヤマトタケルを倭武天皇とするのもおかしなことですが、その文字表記も『日本書紀』の「日本武尊」とも『古事記』の「倭建」とも異なり、記紀よりも僅かですが後(養老6〜7年頃)に成立した『常陸国風土記』であるにもかかわらず、記紀の表記とは異なる倭武天皇としていることから、 『常陸国風土記』編者は記紀以外の伝承記録に基づいたと考えざるを得ません。
 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える倭王武(倭武=国名に基づく姓+中国風一字名称)の伝承記録、すなわち九州王朝系記録に倭武天皇とあり、それに基づいて『常陸国風土記』で倭武天皇として記録されたのではないでしょうか。
 更に言えば、当時の九州王朝の国王は「天皇」を自称していた可能性もありそうです。この時代、九州王朝は中国南朝の冊封体制に入っていましたから、「天子」を自称していたはずはありませんが、「天皇」であれば中国南朝の天子の下位であり、問題ないと思われます。とすれば、『日本書紀』継体紀25年条に見える「日本の天皇及び太子・皇子」の百済本紀の記事も、このことに対応していることになります。
 倭武天皇の活躍と『宋書』倭国伝に記された倭王武の軍功の対応も、倭武天皇=九州王朝倭王武説を支持するように思われます。従って、各地に残るヤマトタケル伝承をこうした視点から再検証する必要を感じています。たとえば、「阿波国風土記逸文」に見える「倭建天皇命」記事や、徳島県には倭武神社もあるようで、興味が尽きません。
 なお、『常陸国風土記』の倭武天皇は倭王武ではないとする見解(西村秀己さん)もあり、慎重に検討したいと思います。


第301話 2011/01/23

讃岐の白鳥神社訪問

 先日、東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)を訪問しました。以前から気になっていた神社で、一度訪れたいと思っていました。もちろん御祭神は日本武尊で、白鳥伝説に基づいた縁起を有していました。しかし、人間が死後白鳥になって飛んできたはずはありませんから、何か別の理由でこの神社が創建されたはずです。このことを確かめたかったのです。
『常陸国風土記』に見える倭武天皇は九州王朝の倭王武の伝承ではないかと古田先生は指摘されていますが、この白鳥神社の日本武尊伝承も、もともとは倭王武の伝承ではなかったのかとも考えています。
 例えば、ここの白鳥神社には日本武尊の他に、その正妃の両道入姫命(ふたじのいりひめ)と妃の橘姫命が御祭神として祀られています。猪熊兼年宮司からおうかがいしたところ、両道入姫命が祀られている神社は全国でも珍しいそうです。また、橘姫命は通常「弟橘姫」とされていますが、ここでは「弟」が付かない 「橘姫」命とのことでした。
 『常陸国風土記』の倭武天皇記事でも、橘皇后あるいは大橘比売命と記されていますから、倭王武の妃は橘姫だった可能性があり、この白鳥神社の伝承でも橘姫命とされていることは、『常陸国風土記』と同様に、日本武尊ではなく九州王朝の倭王武の伝承に基づいているのではないかと推察していますが、いかがで しょうか。
 白鳥神社を訪問した日は大変寒かったのですが、猪熊宮司さんからは長時間にわたり親切に御説明いただき、感謝しています。氏は大学で日本思想史を研究されたとかで、村岡典嗣先生のお名前もよくご存じで、話しが弾みました。


第300話 2011/01/16

両京制への展望

 昨日の関西例会では、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の検証が行われました。事前に大下さんに多岐に渡る質問項目をレジュメとして用意していただいたので、有意義な質疑応答が繰り返されました。
 わたしも事前に自説を改めて見直したのですが、前期難波宮は副都に留まらず、難波京ともいうべき規模であることから、九州王朝は7世紀後半に倭京(太宰府)と難波京の「両京制」を採用していたのではないかと考えるようになりました。というのも、昨年、難波に条坊制の痕跡が確認されたことにより、その条坊区割り尺度から前期難波宮の造営と同時に条坊制の京域設計がなされたと考えられるに至ったからです。この点、『古田史学会報』に連載予定の拙稿「前期難波宮の考古学」にて詳細に説明したいと考えています。
 この他、例会では竹村さんによる『先代旧事本紀』の研究報告や、水野代表による東大寺「お水取り」長屋王鎮魂法要説は興味深いものでした。このように、新年最初の関西例会に相応しい発表や質疑応答があり、2011年も新発見続出の予感がしています。
1月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 米国防長官 (豊中市・木村賢司)
(2) 天子(帝)になれる条件 (豊中市・木村賢司)
(3) 陳寿の音韻 (豊中市・木村賢司)
(4) 「糊塗」 (豊中市・木村賢司)
(5) 出産の測定は曜日でする (豊中市・木村賢司)
(6) 倭人伝の「距離」と「旅行記」
ーー倭人伝に残された謎(1)の補足(姫路市・野田利郎)
(7) 其の北岸 ーー倭人伝に残された謎(2) (姫路市・野田利郎)
(8)先代旧事本紀「推古27年条」 (木津川市・竹村順弘)
(9) 唐の倭国駐留軍 (木津川市・竹村順弘)

(10)「飛鳥」は「筑紫小郡」か  (川西市・正木裕)
ーー書紀の編纂者は「飛鳥浄御原宮」の命名根拠を知らなかった

『書紀』では天武が六七二年飛鳥浄御原宮を造り即位したと記す一方、六八六年に朱鳥改元に因んで飛鳥浄御原宮と名づけたとする。この二つの記事の合理的解釈として、
1).飛鳥浄御原宮は九州王朝の宮で「飛鳥の明日香」と呼ばれた筑紫小郡にあった。
2).天武は壬申乱後この宮で即位した。
3).薩夜麻はここで育ち、その地名(山川・野の名)をとり幼名明日香皇子と名づけられた。
4).しかし、近畿天皇家が政権を奪取した九州年号大化期に明日香(飛鳥)は大和の地名とされ、筑紫明日香は阿志岐に変えられた。
5).『書紀』編者は「飛鳥浄御原宮」を近畿天皇家・天武の宮とする必要があったが、筑紫の現地地名に因む宮の名の由来を知らなかった為、「朱鳥改元」を根拠にせざるを得なかった。

以上を「大化改新詔」「古事記序文」「万葉歌」ほかを根拠に示した。

(11)前期難波宮九州王朝副都説の検証 (京都市・古賀達也)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・東大寺「お水取り」は長屋王鎮魂法要・他(奈良市・水野孝夫)


第299話 2011/01/09

ホームページが文字化け

 新年の御挨拶を申し上げます。
 新年が古田史学や皆さまにとって画期の良き一年となりますように。

 さて、年末から古田史学の会ホームページが文字化けし、皆さまにご心配とご迷惑をかおかけし、お詫び申し上げます。契約しているプロバイダーのシステム改訂に伴うトラブルのようで、現在はほとんど復旧しているとのことですが、一部では依然として文字化けが続いているようです。インターネット担当の横田さんも全力で対応されており、今しばらくお待ち下さい。といっても、文字化けしている方々には読めませんが。(文字化けしている方は、F5キーを押せば一時的に復旧いたします。)

 昨日は大阪で恒例の古田史学の会新年賀詞交換会と懇親会を開催し、古田先生に最新の発見について御講演いただきました。本年、85歳になられますが、お元気なお姿に接し、多くの参加者の皆さまも喜んでおられました。講演内容もバイブル創生神話の男女神についての発見など、画期的なものでした。本当にすごい先生です。
 賀詞交換会には東京から多元的古代研究会和田事務局長様を始め遠方からの参加者も多く、新年の幕開けに相応しい和気藹々としたものでした。
 わたしの年頭の抱負としては、洛中洛外日記の執筆と、『古田史学会報』への前期難波宮研究論文の連載を続けたいと考えています。本年も皆さまのご指導とご協力をお願い申し上げます。


第298話 2010/12/29

中国風一字名称の伝統

 九州王朝倭王が中国風一字名称を持っていたことが古田先生により『失われた九州王朝』で明らかにされています。例えば邪馬壹国の女王壹與の「與」、『宋書』の倭の五王「讃・珍・済・興・武」、七支刀の「旨」、隅田八幡人物画像鏡の「年」などです。
 更にその後、『隋書』に見える太子の利歌弥多弗利についても、「利」が一字名称であり、「太子を名付けて利となす、歌弥多弗(かみたふ)の利なり」とする読みを発表されました。ただ、本当にこの読みでよいのだろうかという疑問をわたしは抱いていたのですが、最近、これで間違いないと思うようになりました。
 それは、古代日本語にはラ行の音で始まる和語は無いということを、内田賢徳氏(京都大学大学院教授)から教えていただいたからです。理由は不明ですが、古代日本においては漢語では欄(らん)・櫓(ろ)・猟師(りょうし)といったラ行で始まる言葉はありますが、和語ではないのだそうです。
 従って、ラ行の「利」で始まる利歌弥多弗利(りかみたふり)という名前は考えにくく、古田先生のように「利」を中国風一字名として理解する他ないことを知ったのです。このことにより、九州王朝倭国では少なくとも3世紀から7世紀初頭に至るまで、中国風一字名称が使用されていたこととなるのです。
 近畿天皇家は中国風一字名称を用いた痕跡が無く、死後のおくり名(漢風諡号)も二字であり、この点、九州王朝とは伝統を異にしているようです。その理由も含めて今後の研究課題でしょう。


第297話 2010/12/28

倭人伝韓国内陸行の再検討

 18日に行われた関西例会において野田利郎さんから、倭人伝の韓国内水行陸行の出発地である帯方郡を従来説のソウル付 近ではなく、ソウルと平壌の中間付近に位置する沙里院(しゃりいん)とする説を発表されました。その根拠の一つとして、実測値としての距離が倭人伝に記された七千里となることを指摘されまし た。
 わたしとしては古田説のソウル付近で妥当と考えますが、野田さんが指摘された問題点は貴重な論点と思われ、今後の論争・検討の深化が期待されます。
 この他、竹村さんからの、韓国ドラマでは「奴」を「の」と発音しているという報告を興味深くお聞きしました。現代韓国語の漢字音は、いわゆる「日本漢音」と「日本呉音」のどちらに近いのか興味を覚えました。ご存じの方がおられれば御教示下さい。
   12月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「箱物」「心物」(豊中市・木村賢司)
(2) 年の瀬・体験雑感(豊中市・木村賢司)
(3) 中国曲阜市に留学中の会員(青木氏)からの報告 代理報告・大下隆司
(4) 倭人伝に残された謎(姫路市・野田利郎)
(5) 韓ドラに嵌って(木津川市・竹村順弘)
(6) 河内戦争2(相模原市・冨川ケイ子)
(7) 九州年号資料は面白い(その1)−峯相紀の謎−(川西市・正木裕)
(8) 「斉明」とは誰か?(川西市・正木裕)
○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・京都東山の伊勢神宮(日向大神宮)・他(奈良市・水野孝夫)


第296話 2010/12/11

2011年 新年賀詞交換会を開催します

この度発行しました『古田史学会報』101号でもご案内を同封しましたが、来年1月8日に恒例の古田史学の会新年賀詞交換会を大阪で開催します。

日時 2011年1月8日(土) 午後1時30分〜4時30分
会場 大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第2ビル5階第1研修室
主催 古田史学の会
参加費 1000円
※終了後に懇親会(有料)もあります。

地域の会や遠隔地からご参加の会員の御挨拶などを受けた後、古田先生にもご出席いただきま すので、最新の研究などについてお聞かせいただける予定です。皆さまのご参加をお待ちしております。『古田史学会報』101号の内容は次の通りです。 100号に続いて古田先生からご寄稿いただけました。

『古田史学会報』101号の内容
○九州王朝終末期の史料批判ーー白鳳年号をめぐって 古田武彦
○「漢代の音韻」と「日本漢音」
ーー内倉武久氏「漢音と呉音」の誤謬と誤断  京都市 古賀達也
○「東国国司詔」の真実  川西市 正木 裕
○「磐井の乱」を考える
ーー『日本書紀』記事と『筑後国風土記』の新解釈 姫路市 野田利郎
○星の子II **古田武彦著『古代は輝いていた』より** 深津栄美
○伊倉 十四 ーー天子宮は誰を祀るか 武雄市 古川清久
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○新年賀詞交換会のご案内