第384話 2012/02/17

「古田史学会報」108号の紹介

 第379話で紹介した期待の新人、札幌市の阿部周一さんの論稿が「古田史学会報」108号の第一面に掲載されました。新人の会報デビューで一面を飾るのは大変珍しいことなのですが、西村さんと相談の上、決定しました。
 阿部稿は評制以前の行政単位とされている「国県制」が七世紀初頭の九州王朝にて施行されたとするもので、「常陸国風土記」などを史料根拠とされ、論証を試みておられます。従来説もよく勉強されており、なかなか優れた研究者とお見受けしました。おそらく、北海道の地で古田史学・多元史観を一人で勉強されて いるのでしょう。これからのご活躍が期待されます。阿部さんは既に論文を三つほど投稿されているのですが、今回のものが最も優れていましたので、一面掲載を決断しました。
 「北の大地に学人あり、また同志ならずや」の心境です。共に古田史学・多元史観の一翼を担っていただけるものと期待しています。
 もうお一人、所沢市の肥沼さんも期待の研究者で、今回久しぶりにご寄稿いただけました。古代ハイウェイ(官道か)を九州王朝が造ったものとする新説で、これからの研究の深化が楽しみです。

「古田史学会報」108号の内容
○「国県制」と「六十六国分国」(上)
-「常陸風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連において- 札幌市 阿部周一
○前期難波宮の考古学(3)
-ここに九州王朝の副都ありき- 京都市 古賀達也
○古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か? 所沢市 肥沼孝治
○筑紫なる「伊勢」と「山邊乃五十乃原」 川西市 正木 裕
○百済人祢軍墓誌の考察 京都市 古賀達也
○2011,6,16号の新潮
「卑弥呼の鏡の新証拠」に付いて 山東省曲阜市 青木秀利
○新年のご挨拶 代表 水野孝夫
○「古田史学の会・関西」遺跡めぐりハイキング
○「古田史学の会」関西例会のご案内
○「古田史学会報」原稿募集
○編集後記


第383話 2012/02/10

ジャパン・ヤーン・フェア

昨日今日と、愛知県一宮市で開催され第9回ジャパン・ヤーン・フェアを見学してきました。一宮市は繊維織物の町として有名で、羊毛加工では日本一の生産地です。おそらくきれいな水に恵まれた地であったため、繊維加工が明治以降に盛んになったものと思われます。
今回の第9回ジャパン・ヤーン・フェアでも、ご当地(尾州)の繊維加工技術が世界一のレベルであることを実感させる、すばらしい織物や衣服が展示されて いました。中にはどうやってこんな複雑な構造を持った生地ができるのだろうかと、素人には想像もできない斬新な織物やニットの展示もありました。
弥生時代の日本列島において、絹織物の先進地域が北部九州(博多湾岸や佐賀県吉野ヶ里)であることは著名です。三国志倭人伝では中国からの下賜品や倭国 からの献上品に絹織物が多数記されています。たとえば「紺地句文錦」「白絹」などで、これら中国絹が出土した弥生遺跡は福岡県の須久岡本遺跡ですし、倭国 産の絹の出土も福岡県と佐賀県だけです。近畿の弥生遺跡からは出土していません。
「邪馬台国」論争で、しばしば「考古学的には近畿説で決まり」などと口走る方がいますが、わたしには全く理解不能な妄言としか思えません。倭人伝に記さ れた倭国の様々な文物(鉄器・銅矛などの青銅器鋳型・弥生時代の銅鏡・他)の出土は、北部九州・糸島博多湾岸を中心とした分布を示しています。考古学が学 問であり科学であるのならば、そしてその考古学者に学問的理性と良心があるのならば、「考古学的にも邪馬壱国は博多湾岸で決まり」と言うほかないはずなの です。
ジャパン・ヤーン・フェアを見学しながら、そのようなことを改めて感じました。日本古代史学も、はやく尾州の織物産業のように、世界レベルになってほし いものです。そのためには「日本古代史村」も現代日本の繊維産業のように、世界との競争原理にさらされる必要があるようです。


第382話 2012/02/09

四天王寺の丙子椒林剣

 第377話で日本刀と九州年号について紹介しましたが、古代における「日本刀」で最も著名なものの一つが、四天王寺に伝来した聖徳太子のものとされる「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん・国 宝)です。この丙子椒林剣は以前から気になっていたのですが、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝建造説の提起により、丙子椒林剣も九州王朝のものではなかったのかという疑いを、近年強く感じています。
 丙子椒林剣に刻まれた「丙子椒林」という文字については、「丙子」の年に「椒林」という人物により作刀されたとする説が有力なようですが、わたしもその理解が最も穏当なものと思っています。
 聖徳太子の時代よりも後代のものですが、『養老律令』の「営繕令」には、「凡そ軍器を営造せば、皆様(ためし)に依るべし。年月及び工匠の姓名鐫(ゑ) り題(しる)さしめよ。」とする記述があり、刀などの「軍器」に製造年月と作者名を記すことが決められています。この律令がそれまでの倭国・九州王朝の伝統の影響を受けていると考えれば、丙子椒林剣の「丙子」と「椒林」を製造年干支と作刀者と見る説は有力だと思われるのです。
 聖徳太子の頃の丙子の年は616年ですが、倭国・九州王朝の天子多利思北弧の時代です。 「丙子椒林」の文字は金象眼とのことですので、いわゆる一般兵士の実戦用武器というよりは、権力者に捧げられた宝刀ともいうべきものでしょう。とすれば、多利思北弧か太子の利歌彌多弗利に捧げられた可能性もありそうです。そうであれば、「聖徳太子の刀」として四天王寺に伝来所蔵されたのもうなずけます。
 もちろん、これらのことを証明するためには、鉄や金の科学分析などが必要ですが、大和の聖徳太子のもとのされて伝わっている物や伝承は、本来は九州王朝の多利思北弧・利歌彌多弗利のものではなかったかと、まず疑ってかかることから始める必要があると思います。そこから、真実の「聖徳太子」とその歴史が明らかになるはずです。古田史学・多元的歴史観はすでにその研究段階に進んでいるのですから。


第381話 2012/02/05

九州王朝の太子殺害事件

 今日は京都市長選挙の投票日で、京都御所の東隣にある京極小学校へ妻と二人で投票に行ってきました。京極小学校は娘が通った小学校で、湯川秀樹さんがこの小学校を卒業されたことでも有名です。京都市長選は前回より電子投票になりましたので、集計作業も早く、現職の角川さんの当選がNHK大河ドラマ終了後のニュースで早々と報道されました。
 近代民主国家は平和的に選挙で政権やリーダーの決定・交替が可能ですが、古代社会においては譲位・禅譲とは別に、放伐やクーデター、内乱、内紛など様々 な血なまぐさい交代劇が少なくありません。恐らく九州王朝内部でも近畿天皇家へ列島の代表者が替わるまで、いろんな事件があったはずです。残念ながら九州王朝史書は抹殺され遺されていませんから、その詳細はほとんどわかりませんが、其の断片が諸史料にわずかですが残っています。
 その一つに、九州年号群史料としても有名な『海東諸国紀』があります。同書は1471年に李氏朝鮮で作成された、日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・ 通行を克明に記した史料で、著者は朝鮮の最高の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟(1417~1475)です。
その中に次のような九州王朝内の驚くべき事件が記されているのです。

「(賢接)三年戊戌、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」

 賢稱三年(『海東諸国紀』は「賢接」とする)は敏達七年に当たり、大和朝廷では太子が殺されたなどという物騒な事件は起こっていません。従って、九州年号の賢稱とセットで記されたこの記事も九州王朝内部の事件と見なさざるを得ないのです。
 この記事が事実だとすると、この賢稱三年(578)は九州王朝の輝ける天子多利思北孤即位のほぼ前代に当たり(即位は端政元年〔589〕)、すなわち多利思北孤は正統たる皇位継承者の太子が殺害された結果、即位できた天子となるのです。このことについては拙論「九州王朝の近江遷都 — 『海東諸国紀』の史料批判」(『「九州年号」の研究』に収録)をご参照下さい。
 現時点では、これ以上のことは不明ですが、今後、丹念に諸史料に遺されている九州王朝系記事を精査する事により、失われた九州王朝史の復原が少しずつでも進むことが期待されます。


第380話 2012/02/02

聖徳太子と九州年号

先日、NHKのBS放送で聖徳太子の特別番組が放送されたそうです。事前に何人かの会員の方からその番組のことをお知ら せいただいたのですが、あいにく我が家のテレビではBS放送は映らず、同番組を見ることができませんでした。放送を見た人のお話では、あいかわらず近畿天 皇家一元史観による「陳腐」な内容だったようです。
ちょうど良い機会ですので、聖徳太子と九州年号が意外と関係が深いというテーマについてご紹介したいと思います。
たとえば後代に編纂された『聖徳太子伝』などの聖徳太子の伝記類には、九州年号の「金光」「勝照」「端政」などが散見されます。おそらく、九州王朝の天 子・多利思北弧やその太子、利歌彌多弗利の九州年号付きで記された年代記を盗用する際、九州年号がそのまま残されたものと推察しています。
さらに、法隆寺にも九州年号が記された文書が存在しているようなのです。それは「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているもので、X写真によれば、その箱の中 に3枚の文書が入っており、それらは聖徳太子と善光寺如来との間で交わされた書簡とされています。その内、1通は国立東京博物館に明治時代の写しが現存し ています。他の2通の内容は不明です。
法隆寺側は「御文箱」を永久に封印する方針とのことなので、その聖徳太子の書簡を見ることはできないのですが、残りの2通に九州年号が記されている可能 性が濃厚なのです。そこで、何とかその往復書簡の内容を調べたいと思い、わたしは善光寺側の史料を調査したのですが、なんと善光寺側はそれら書簡を公開し ていたのでした。
詳しくは拙論「九州王朝仏教史の研究」(『「九 州年号」の研究』に収録)を読んでいただきたいのですが、聖徳太子からの手紙に「命長七年」という九州年号が記されていたのです。すなわち、聖徳太子と善 光寺如来の往復書簡とは九州王朝の天子と善光寺との書簡だったのです。おそらく、それら書簡が法隆寺移築時か後に法隆寺にもたらされ、聖徳太子の書簡とし て伝来されたようです。
このように聖徳太子と九州年号は結構関係が深いのですが、こうした史料状況は聖徳太子伝説の多くが九州王朝の伝承だった可能性を強く感じさせるのです。


第379話 2012/01/25

新たな論客の出現

 昨日から東京出張で、今日は帰りの新幹線車中で書いています。年始より出張が続き、さすがに疲れてきました。
 こうしたこともあって、「古田史学会報」への投稿論文の採否チェックは新幹線車中で行うことが多いのですが、最近、すぐれた投稿が増えて喜んでいます。 なかでも北海道のAさん、埼玉県のKさんの論稿は、安心して読めるもので、新たな論客が出現したと期待しています。
「安心して読める」論稿とは、古田説は当然として通説もよく咀嚼されており、史料根拠も明確で、その論証や結論の当否は別としても、その文章が論理的であるということが共通しています。
 AさんやKさんの論稿はこれから「古田史学会報」に順次掲載予定ですので、お楽しみに。なお、お二人が常連投稿者となられるようでしたら、次第に採用基準を厳しくさせていただくことになります。偉そうな言い方ですみませんが、期待の現れとご理解ください。
そろそろ、京都駅に到着ですので、今日はこのへんで。


第378話 2012/01/22

隅田八幡人物画像鏡の品質

一昨日の関西例会では新年の幕開けにふさわしい、優れた研究報告がなされました。中でもわたしが特に感心したのが、岡下さんの隅田八幡人物画像鏡に関する報告でした。
岡下さんは以前にも同画像鏡に関する報告をされていて、鏡の出来が良くないとされ、百済王からの贈答品ではないのではないかとの見解を示されていました。それに対して、わたしは隅田八幡人物画像鏡の出来は悪くないと反論していました。
ところが岡下さんはその批判に負けることなく、隅田八幡人物画像鏡と他の人物画像鏡の比較写真などを提示され、その製造方法の違いや画像や文字の稚拙さ を具体的に指摘されたのです。この実証的な再反論は見事なもので、わたしも認識を改めざるを得ませんでした。
もちろん、百済王から倭王へ送られたということに関しては、岡下さんとは見解が異なりますが、「銘文解釈は鏡の出来の悪さも説明できるものでなければな らない」という岡下さんの主張は、なるほどその通りだと思いました。この鏡について、より深く検討することをせまられた、岡下さんの発表でした。
このように、関西例会での厳しい論争のやりとりは、大変勉強になるもので、学問的にも有意義なものです。岡下さんには発表後に、お礼を述べました。なお、例会では下記の報告がなされました。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 前倒し、先送り(豊中市・木村賢司)
2). 浅読み、深読み(豊中市・木村賢司)
3). 追従(服従)、反発(抵抗)(豊中市・木村賢司)
4). 鮮卑族に連れ去られた倭人たち(続)(相模原市・冨川ケイ子)
5). 和田家文書の邪馬台国(木津川市・竹村順弘)
6). 『書紀』継体紀、磐井の乱と近江毛野臣記事(川西市・正木裕)
7). 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文(その3)(京都市・岡下英男)
8). 大安寺伽藍縁起の天皇名(木津川市・竹村順弘)
9). 元興寺伽藍縁起の天皇名(木津川市・竹村順弘)
10). 和田家文書と北魏(木津川市・竹村順弘)

〔代表報告〕
○会務報告・古田先生近況・賀詞交換会での古田講演の概説・唐招堤寺へ初詣・市民講座「ここまでわかった紫香楽宮」・その他


第377話 2012/01/20

日本刀と九州年号

今日は岐阜県関市に来ています。関市といえば「関の孫六」で有名な日本刀の産地で、今でも日本刀が関市で造られているようですが、日本刀と九州年号に関係があることをご存じでしょうか。
『刀剣美術』384号(昭和64年、新年号)に掲載された間宮光治さんの「刀剣古伝書と九州年号」によれば、『銘尽正安本写』(刀剣博物館蔵)などに九 州年号が散見されることが報告されています。たとえば『佐々木氏延暦寺本銘尽』によれば、「海中 継体天皇御宇、善記年中、二尺三寸剣竜王作」「宗(方+ ム) 法清年中、走雲鬼作、号野干剣焼無之夜暗ヲハラス」「長光 師安年中 鬼作、忠崎(ナカゴサキ)三ニ破タリ 長二尺」「天雲 継体天皇御宇 教到年 中、天(火+兼)切作之」といった記事があり、九州年号の「善記」「法清」「師安」「教到」「朱鳥」が記されています。
刀剣の作成時期が九州年号で記されており、興味深い史料です。刀剣博物館でそれら刀剣古伝書を実見したいものです。
この他にも、刀剣古伝書には九州年号に関して面白い史料があり、いつかご紹介できればと思っています。関市への出張のおかげで、間宮さんの論稿を思い出 しましたので、ご紹介しました。ちなみに、間宮稿には製鉄加工技術の伝来は北部九州にもあったのではないかとされておられます。


第376話 2012/01/19

「古田史学会報」107号の紹介

 今日は三重県四日市市に来ています。中日新聞の一面に、紫香楽宮から二棟の正殿跡が出土したことが大きく紹介されています。さすがは地元紙ですね。
 紫香楽宮を造った聖武天皇は後期難波宮も造っており、多元史観から見ても王朝交代直後であり九州王朝の影響を受けているようで、大変興味深い天皇の一人です。
 わたしも『古代に真実を求めて』15集(本年春発行予定)に「九州王朝鎮魂の寺」を投稿しましたが、それは聖武天皇の時代における法隆寺の性格について論究したものです。8世紀初頭の近畿天皇家の歴史は、九州王朝説に基づいて研究する必要を感じています。
 ところで、年末年始ばたばたしていたため、「古田史学会報」107号の紹介を忘れていました。遅くなりましたがご紹介します。

『古田史学会報』107号の内容
○古代大阪湾の新しい地図
-難波(津)は上町台地になかった-  豊中市 大下隆司
○「大歳庚寅」象嵌鉄刀銘の考察  京都市 古賀達也
○中大兄はなぜ入鹿を殺したか  小金井市 斎藤里喜代
○福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について  川西市 正木裕
○磐井の冤罪II  川西市 正木裕
○朝鮮通信使(文化八年度)饗応『七五三図』絵巻物
–小倉藩小笠原家作成絵図の対馬での公開にあたって  松山市 合田洋一
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集


第375話 2012/01/15

「これから出る本」

昨日の賀詞交換会に相模原市から参加された冨川ケイ子さんから面白いパンフレットをいただきました。「これから出る本」(2012年No.2、日本書籍出版協会)というもので、近々発刊される本を紹介するものです。
その歴史図書の欄に『「九州年号」の研究』が紹介されていたのですが、同じ欄に久保常晴著『日本私年号の研究(新装版)』(吉川弘文館、14700円) も掲載されていました。この本は九州年号研究者であれば知らない人はいないという一冊なのです。九州年号偽作説に立っていますが、九州年号史料をが多数紹 介されており、史料調査に大変役立ちました。わたしが研究を始めた20年前には既に市販されていませんでしたので、京都府立総合資料館で長時間閲覧したも のでした。
このような古代や中世の逸年号の研究書が復刻発刊されるということに驚きましたが、おそらく九州年号に対する興味が古代史ファンに広がっている反映だと 思われます。古田説や九州王朝説が確実に浸透していることが、このことからもうかがえます。2012年が古田史学にとって画期となる年となる予感がしてい ます。


第374話 2012/01/14

全国世話人会を開催

 今日の新年賀詞交換会に先だって、午前中に「古田史学の会」全国世話人会を開催しました。会誌『古代に真実を求めて』を発行していただいている明石書店からも佐野さんにオブザーバーとして出席していただきました。
 今回の世話人会でも問題となったのが、「古田史学会報」や例会の内容が難しすぎるという声が新入会員から出ているということでした。会員をもっと増やし、古田史学を広めるためにも、わかりやすく面白い会報にすることが求められているのですが、なかなか妙案が出ませんでした。
 論議の結果、会報編集部を増員し、企画力などを向上させることとなり、不二井伸平さん(全国世話人)に編集部入りしていただくことになりました。
 これにより、投稿原稿以外に企画に基づいた依頼原稿を増やし、初心者向けの記事を増やしたいと考えています。会員の皆さんのご理解とご協力をあらためてお願いいたします。


第373話 2012/01/13

『「九州年号」の研究』編集後記

 今日は大阪で仕事をしています。お昼休みを利用して、紀伊国屋書店(本町店)をのぞいてきました。もちろん目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかどうかの確認です。その結果は、幸いなことに何と古代史コーナーに平積みで並んでいました。ありがたいことです。わたしは紀伊国屋書店が大好きになりそうです。
 ミネルヴァ書房の田引さんの話では、『「九州年号」の研究』は順調に売れているそうです。そこで、田引さんのご了承を得ましたので、『「九州年号」の研究』の編集後記を転載します。まだお読みになっていない方に、同書の概要をご理解いただけると思いますので。

『「九州年号」の研究』編集後記

 古田武彦先生が日本古代史学の分野に多元史観を提唱され、その中核をなす九州王朝説はそれまでの大和朝廷一元史観の閉塞を打ち破り、真実の古代史像をわたしたちの眼前に示されたのであるが、その主要テーマの一つが九州王朝(倭国)の年号「九州年号」であった。
 以来、古田先生を初め古田説支持者による九州年号研究は、各地に遺存する九州年号や九州年号史料の調査発掘という第一段階を経て、その年号立ての原形論研究という第二段階へと発展したのであるが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号が最も原形に近いとする一定の「結論」を迎えた後は、その九州年号に基づいた九州王朝史の究明というテーマを中心とする第三段階へと進んだ。本書はその第三段階での主たる研究論文などにより構成されている。
 本書には、正木裕さんと冨川ケイ子さんの秀逸の論文を収録できた。お二人は「古田史学の会」における優れた研究者であり、わたしも関西例会などで繰り返し意見を闘わし、共に研究を進めてきた学問的同志である。
 正木さんの、九州年号を足がかりとした『日本書紀』の史料批判による九州王朝史復原研究は、近年の古田学派における質量ともに優れた業績である。冨川さんによる、明治時代における九州年号研究の発掘は、古写本「九州年号」の実在を鮮明にしたものであり、同写本の再発見をも期待させるものである。
 最近の十年間における最も大きな九州年号研究の成果といえば、やはり「元壬子年」木簡の「発見」であろう(芦屋市三条九ノ坪遺跡、一九九六年出土)。当初、この木簡は『日本書紀』の白雉年号にあわせて「三壬子年」と解読されてきたが、わたしたちによる再検査により、その文字は「元壬子年」であり、『二中 歴』などに記されている九州年号の白雉元年壬子(六五二)に相当する九州年号木簡であることが判明したのである。
 同木簡の写真と赤外線写真(大下隆司さん撮影)を本書冒頭に掲載した。九州王朝や九州年号を認めない大和朝廷一元史観の古代史学界はこの九州年号木簡の 「発見」に対して、今も黙殺を続けているが、それでこの木簡が消えて無くなるわけではない。九州王朝と九州年号の真実の歴史の「生き証人」として、この木 簡は古代史学界を悩ませ続けるに違いない。
 本書の序文は「古田史学の会」代表水野孝夫さんからいただいた。水野さんもまた「古田史学の会」草創の同志であり、人生の先輩でもある。本書を「古田史学の会」の事業として出版することに御賛同いただいたものであり、感謝に堪えない。古田先生からは巻頭論文を新たに書き下ろしていただいた。ありがたい御配慮である。
 わたしが古田武彦先生の著作に感銘し、その門を叩いたのは今から二五年前のことである。以来、古田先生の学説や学問の方法に学び、主たる研究テーマの一 つとして九州年号の研究に没頭してきた。その二五年間の集大成ともいうべき本書を上梓することにより、学恩に僅かでも報いることができれば、まことに幸いとするところである。
二〇一一年七月二四日記    古賀達也