第552話 2013/04/28

「五十戸」から「里」へ

 今日は全聾の作曲家、佐村河内守(さむらこうち・まもる)作曲の交響曲第1番(HIROSHIMA)を聴きながら洛中洛外日記を書いています。重苦しい旋律とその先に見える「希望」が表現された名曲で、最近ではテレビでも取り上げられ有名になりました。

 さて、郡評論争に決着をつけたのが藤原宮跡から出土した干支木簡でしたが、同様に「評」の下部単位である「さと」表記についても出土木簡により、その変遷が明らかになりつつあります。
 古代地名の表記方法は時代とともに変化していますが、七世紀後半は「○○国△△評××五十戸」と表記されることが木簡により判明しています。その後、 683年頃から「○○国△△評××里」への変更が見られることから、「五十戸」は「里」に相当し、「さと」と訓まれていたことがわかります。
 『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「五十戸を里とす」とありますから、「里」の成立はそれまでの自然発生的な集落(『日本書紀』では「村」 「邑」の表記例が見えます)を、国家により「五十戸」単位に編成されたことによります。五十戸単位で徴兵などの役務を決めたのでしょうが、恐らくそれは戸 籍の作成と平行して行われたのではないでしょうか。その「さと」が当初は「五十戸」と漢字表記されていたことが、木簡により明らかになっているのです。
 このように『日本書紀』大化二年(646)の改新詔に「里」の表記が見えますが、出土木簡からは683年頃に「里」が現れ、それまでは「五十戸」表記で すから、この大化二年改新詔はやはり九州年号の大化二年(696)に出されたものが50年ずらして盗用されたものと推察されます。それではこの行政単位名 「五十戸」の成立と、さらには「里」へと変更したのは九州王朝でしょうか。そしてそれはいつ頃のことでしょうか。(つづく)


第551話 2013/04/25

難波朝廷の「立礼」

 洛中洛外日記「白雉改元の宮殿」の連載では、九州王朝の副都前期難波宮での「賀正礼」が、701年以後の大和朝廷に取り入れられたことを述べました。このように近畿天皇家は難波での九州王朝の諸制度を参考にしたと考えられるのですが、その痕跡が『日本書紀』天武11年九月条にも残されていました。

「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」

 天武天皇の詔勅として、従来の「跪礼・匍匐礼」に代えて「難波朝廷」の「立礼」の採用を命じた記事です。倭国・九州王朝 が難波に副都を建設したおかげで、近畿天皇家は九州王朝の宮廷儀礼を間近に観ることができたのです。このことを示すかのように、孝徳紀白雉元年条 (650)には次のような記事が見えます。

「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。」

 このように孝徳は「賀正礼を受ける」のではなく、「賀正礼を観る」と記されています。近畿天皇家にとって、九州王朝は良きお手本たったのです。おそらくは近畿天皇家の初めての律令である「大宝律令」も「九州王朝律令」をお手本として制定された条文が少なくないのではないでしょうか。こうした視点からも、「律令」研究は九州王朝史復元研究にとって重要なテーマといえます。


第550話 2013/04/21

天王寺にあった「聖徳太子」の往復書簡

 昨日の関西例会は大阪西区民センターで行いました。会場予約抽選の競争倍率が年々高くなり、会場予約担当者のご苦労がしのばれます。

 4月例会の発表テーマは次の通りでした。中でも岡下さんの発表は、「聖徳太子」実は「カミトウの利(利歌彌多弗利)」と善光寺如来の往復書簡が法隆寺ではなく天王寺(四天王寺)に保存されていたというもので、「利」は難波の地で没したのではないかという大変興味深いものでした。

 よくよく考えてみれば、法隆寺は火災で全焼しており、和銅年間頃に再建(移築)されるまで、この往復書簡は別の寺院などにあったと考えざるを得ないのですが、それが天王寺だったというのは、なるほどと思いました。岡下さんには会報への投稿を要請しました。

 

〔4月度関西例会の内容〕
1). 山田宗睦仮説(日本書紀の仁徳~武烈紀は全文作為)の検証:仁徳~安康紀編(八尾市・服部静尚)
2). 「消息往来」の伝承(その2)(京都市・岡下秀男)
3). 史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)
4). 難波朝廷の賀正礼と立礼(京都市・古賀達也)
5). 天皇家と「師木津日子」の系譜(高松市・西村秀己)
6). 「I-siteなんば」に収蔵された古田先生の著作(概要・2013年4月現在)(川西市・正木裕)
7). 博多湾岸「邪馬壱国」と怡土平野なる「奴国」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況「研究自伝」執筆中・古田先生テレビ出演・会務報告・大和田始『風土記解体』を読む・「乙巳の変」の中臣鎌足は藤原不比等(水野説)・その他


第549話 2013/04/11

白雉改元の宮殿(9)             

 『養老律令』の「儀制令」には「賀正礼」について次のような条文があります。
 「凡そ元日には、国司皆僚属郡司等を率いて、庁に向かいて朝拝せよ。訖(おわ)りなば長官は賀を受けよ。」
 都から遠く離れた国司たちに、元日は都の大極殿(庁)に向かって拝礼し、その後に部下からの「賀」を受けよ、という規定です。おそらくは九州王朝律令も同様の規定があったと想像できますが、この規定を孝徳や天武に当てはめると、九州王朝の副都前期難波宮のご近所(難波長柄豊碕宮)に住んでいた孝徳は、元日に前期難波宮で行われる「賀正礼」に出席していたでしょうから、『日本書紀』孝徳紀には元日の「賀正礼」記事が記されることとなります。
 たとえば、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
 ここでは「賀正礼を受ける」のではなく、味経宮に行き「賀正礼を観る」とあります。すなわち、味経宮(前期難波宮か)で孝徳は「賀正礼」を受ける立場ではなく、「賀正礼」に参加して、それを「観る」立場だったのです。孝徳紀のこの記事は、孝徳がナンバーワンではなかったことを正直に表現していたのです。 ちなみに孝徳紀の他の「賀正礼」記事も、「賀正礼を受ける」という表現はなく、「賀正す」というような、何かよくわからない表現です。これも、「賀正礼を受ける」のは九州王朝の天子だったからにほかなりません。
 天武紀になると、前期難波宮から離れた飛鳥に天武らは住んでおり、九州王朝の宮殿(前期難波宮または太宰府)での天子への「賀正礼」は欠席し、飛鳥から 九州王朝の宮殿に向かって拝礼していたことでしょう。そして、天武紀では「賀正礼」は翌二日の行事となる例が多くなっていることから、元日は九州王朝の都へ向かって拝礼し、翌日の二日に自らの部下からの「賀正礼」を受けていたと推察されます。おそらくは九州王朝律令にそのような規定があったのではないでしょうか。
 そして、701年以降の『続日本紀』の時代になって、文字通り誰はばかることなく元日に「賀正礼」を受ける身分(列島内ナンバーワン)になったのです。
 以上、「白雉改元の宮殿」の考察と「賀正礼」の史料批判により、七世紀末王朝交代期の復元が少しですができたように思われるのです。(完)

2014.2.23 「職員令」は「儀制令」の間違いでした。訂正済み


第548話 2013/04/07

『古田史学会報』115号の紹介

 『古田史学会報』115号が発行されました。今回も好論満載です。古田先生からも中嶋嶺雄さんのご逝去にあたり、追悼文をいただはました。
 西村さんからは「隼人」は北部九州の勢力であったとする新説が発表されました。今後の「隼人」研究における基本論文の一つとなるでしょう。正木さんから は大宰府観世音寺の「碾磑」が観世音寺建立時にベンガラの湿式粉砕に用いられたとする研究を詳述されました。わたしは七世紀の須恵器編年に関する知見から、前期難波宮天武期造営説が成立し得ないことを報告しました。札幌市の阿部周一さんも快調に論稿を発表されています。掲載稿は次の通りです。

〔『古田史学会報』115号の内容〕
○追悼 中嶋嶺雄君に捧ぐ  古田武彦
○隼人原郷  高松市 西村秀己
○七世紀の須恵器編年 -前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁-  京都市 古賀達也
○観世音寺の「碾磑」について 川西市 正木裕
○『三角縁神獣鏡辞典』  京都市 岡下英男
○「元興寺」と「法隆寺」(1)「維摩経疏」残巻と「元興寺」の関係  札幌市 阿部周一
○割付担当の穴埋めヨタ話? 「自天祖降跡以逮」とは  高松市 西村秀己
○2013年度 会費納入のお願い
○会報原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記


第547話 2013/04/03

新益京(あらましのみやこ)の意味

 今朝は名古屋市に来ています。名古屋駅前の桜通りを歩いたのですが、「桜通り」の名称ほどには桜の木は多くありません。それでも交差点の角々にある満開の桜は、おりからの強風で花びらを散らし、文字通りの桜吹雪の状態です。
 今日の午前中は名古屋で、午後からは三重県四日市市で、夜は愛知県一宮市で仕事です。世間ではアベノミクスとやらで気分だけは「好景気」のようですが、 物価上昇が先行し、国民所得は二~三年後にしか上がらないでしょうから、その間、シュリンクした国内マーケットは厳しさを増すようにも思われます。          

 さて、藤原京と呼ばれている大和朝廷の都ですが、『日本書紀』持統紀には「新益京(あらましのみやこ)」と記されており、「藤原京」という名称はありません。他方、宮殿は「藤原宮」と記されています。
 この藤原宮下層遺構からは多数の木簡や土器が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年・六八二)」「癸未年(天武十二・六八三)」「甲申年(天武十三年・六八四)」から、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。この藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたこと から、藤原京造営時にはここ(大宮土壇)に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
 こうした考古学的出土事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデア(思いつき)に至りました。この「思いつき」を「仮説」とするためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
 この王宮の位置が変更されたとする「思いつき」が正しければ、「藤原京」のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる「新益京」とした理由もわかりそうです。それは、長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、 その拡張された新たな全京域を意味する「新益京(あらましのみやこ)」という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、「藤原京」がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。ただし、このアイデアは先の「思いつき」を前提とした「思いつき」ですので、これから慎重に調査検討していきたいと思います。


第546話 2013/03/31

藤原宮へドライブ
       
       
         
            

 昨日は飛鳥までドライブしました。午前中は万葉文化館を見学し、館内の食堂で昼食をとりました。その後、橿原考古学研究
所附属博物館に行き、長谷田土壇の発掘調査報告書の有無について問い合わせましたが、あいにく学芸員の方が不在でしたので、後日連絡していただくことにな
りました。
               そのとき、長谷田土壇がある醍醐集落から礎石が発見されていることを教えていただきました。礎石は道路沿いの小川の淵に露出しており、見ることができるとのことなので、早速醍醐集落に向かいました。
             
 醍醐集落は藤原宮跡の北側にあり、その内裏部分に位置する醍醐池は桜の名所で、花見客で賑わっていました。醍醐池の北側にある醍醐集落まで行き、小川沿
いの礎石を見つけることができました。コンクリートの護岸壁に埋め込まれた状態の大きな礎石二つが露出していました。そこにあった説明板によると、この礎
石は藤原宮を囲む大垣の十二門の内の北西に位置する「海犬養門」の礎石とのことでした。したがって、位置的にも長谷田土壇とは異なっていました。藤原宮の
礎石は全て平城宮造営のために移動転用されたと思っていたのですが、大垣の門の礎石が残っていたことに驚きました。
             
 こうして今回のドライブでは長谷田土壇を見つけることはできませんでしたが、周囲の土地勘が少しはできて有意義でした。ただ、昨日は黄砂の飛散が多く
て、車に黄砂がびっしりと付着するほどでした。また同地を調査旅行したいと思います。それにしても、こんな狭隘な地域の王者が日本列島の代表者(大和朝
廷)となったことが何とも不思議です。古代において、それを可能とした何が起きたのでしょうか。


第545話 2013/03/29

藤原宮「長谷田土壇」説
       
       
         
            

 今日は八重洲のブリヂストン美術館内のお店で昼食をとっています。フラスコ画が展示してあり、おちついた雰囲気のお店なのでとても気に入っています。午後、もう一仕事してから京都に帰ります。

            

 藤原宮跡が発掘された大宮土壇ですが、古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。真淵のこの説は弟子の本居宣長や孫弟子の上田秋成に受け継がれ、明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。
             
 こうした流れの中にあって、大正時代に入ると喜田貞吉による、藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。喜田貞吉は、法隆寺再建・非再建論争で著名な学者で
すが、『日本書紀』の記述(法隆寺全焼)を根拠に再建説を主張し、後に若草伽藍の発掘により、その正しさが証明されたことは研究史上有名です。
             
 藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかる
という点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いび
つな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれい
な長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
            
 こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられ
た大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では
条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。(つづく)


第544話 2013/03/28

二つの藤原宮
       
       
         
            

 昨晩から東京に来ています。京都御所の桜はようやく開花し始めましたが、東京の桜はもう散り始めており、日本列島内の花
模様の違いを楽しんでいます。今、赤坂のカフェで昼食を兼ねた遅い朝食をとりながら、洛中洛外日記を執筆中ですが、このところ前期難波宮や賀正礼について
の連載が続いていますので、今回は前期難波宮からちょっと離れて、藤原宮と藤原京について書くことにします。
             
 三月の関西例会でも発表したのですが、藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層か
ら、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造
られているのです。
             
 この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を
決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮は
そうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建さ
れていたのではないかという可能性です。
               実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。(つづく)

            

 さて、次の仕事(化成品工業協会の会合)までちょっと時間がありますので、これから赤坂サカスと日枝神社でプチ花見をしてきます。


第543話 2013/03/26

白雉改元の宮殿(8)

 『日本書紀』に記された「賀正礼」記事に九州王朝の「賀正礼」の痕跡が残されていたのですが、『続日本紀』になるとその様相は一変します。
 たとえば『続日本紀』でも、年によって「賀正礼」記事が記されていたり無かったりはするのですが、基本的に「賀正礼」記事は正月朔(一日)に現れます。 もちろん、持統天皇崩御により取りやめられたり、雨天などにより順延(二日や三日に開催)されるケースなども散見されますが、その場合でも「元日」に行わ なかったことが記され、次いで二日や三日に執り行った記事が記されるのです。この点、唐突に二日に行った記事が出現する『日本書紀』のありようとは異なっ ています。
 更に『日本書紀』孝徳紀と異なる点として、「賀正礼」が行われる場所が「大極殿」「大安殿」などと明記され、その日の内に天皇が「別の宮殿に帰る」などという記事はありません。
 このように、『日本書紀』と『続日本紀』に見える「賀正礼」には明らかな違いがあるのです。これもONライン(701)を境とした、九州王朝から大和朝廷への王朝交代の痕跡と考えざるを得ません。(つづく) 


第542話 2013/03/24

白雉改元の宮殿(7)

 『日本書紀』孝徳紀に初めて現れ頻出する「賀正礼」ですが、その舞台が九州王朝の副都前期難波宮であり、同じ難波に邸宅 (難波長柄豊碕宮)を持つ孝徳は正月朔(ついたち)の「賀正礼」に参列し、その日の内に自らの邸宅に帰還していたことを第541話で指摘しました。この 「賀正礼」ですが、孝徳紀の次の斉明紀になると記載がありません。次いで、天智紀・天武紀・持統紀に次の「賀正礼」記事が見えます。

  ○天智十年(671)「十年の春正月の己亥の朔庚子(二日)に、大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣と、殿の前に進みて、賀正事奏(もう)す。」
  ○天武四年(675)「(正月)丁未(二日)に、皇子より以下、百寮の諸人、拝朝す。」
  ○天武五年(676)「五年の春正月の庚子の朔に、群臣百寮拝朝す。」
  ○天武十年(681)「十年の春正月の辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸神祇に頒(あかちまだ)す。癸酉(三日)に、百寮の諸人、拝朝庭す。」
  ○天武十二年(683)「十二年の春正月の己丑の朔庚寅(二日)に、百寮、拝朝庭す。」
   ○天武十四年(685)「十四年の春正月の丁未の朔戊申(二日)に、百寮、拝朝庭す。」
  ○天武朱鳥元年(686)「朱鳥元年の春正月の壬寅の朔癸卯に、大極殿に御して、宴(とよあかり)を諸王卿に賜う。」
  ○持統三年(689)「三年の春正月の甲寅の朔に、天皇、万国を前殿に朝(まうこ)しむ。」
  ○持統四年(690)「四年の春正月の戊寅の朔に、(略)皇后、即天皇位す。(略)己卯(二日)に、公卿百寮、拝朝すること、元会儀の如し。

 以上のような「賀正礼」記事が見えるのですが、孝徳紀のように元日に行われた「賀正礼」は天武五年、朱鳥元年、持統三年 だけで、他は正月の二日か三日に行われています。しかも、朱鳥元年は「拝朝」「拝朝廷」という表記がなく、本当に「賀正礼」記事としてよいのか疑義も残り ます。それでは二日や三日に「賀正礼」を行った年の元日は何をしていたのでしょうか。
 この疑問を推測する上で参考になるのが、天武十年(681)の記事で、「十年の春正月の辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸神祇に頒(あかちまだ)す。癸 酉(三日)に、百寮の諸人、拝朝庭す。」とあるように、三日の「賀正礼」の前日、二日に神祇に幣帛を奉納していることです。すなわち、より権威が大きいも のに対しての「礼」を自らへの「賀正礼」よりも優先させているのです。
 それでは近畿天皇家が自らへの「賀正礼」よりも優先すべき行事とは何でしょうか。九州王朝説に立てば、当然のこととして九州王朝への「賀正礼」しかあり ません。孝徳が九州王朝の副都前期難波宮へ「賀正礼」に赴いたように、その後の近畿天皇家も九州王朝への「賀正礼」を元日に行ったと考えられるのです。で すから、『日本書紀』では元日に行われていた九州王朝への「賀正礼」記事をカット、あるいは、自らへの「賀正礼」であるかのような編集を行ったのです。そ してその痕跡が正月二日や三日の「賀正礼」記事だったのです。(つづく)


第541話 2013/03/21

白雉改元の宮殿(6)

 「白雉改元の宮殿」の執筆を続けるにあたり、『日本書紀』孝徳紀などを繰り返し読んでいますが、次々と発見が続いています。その一つに「賀正礼」があります。『日本書紀』における「賀正礼」の初出は孝徳紀大化二年条(646)で、その様子が次のように記されています。

  「二年の春正月の甲子の朔(ついたち)に、賀正礼おわりて、即ち改新之詔を宣ひて曰く、~」

 この後に著名な改新詔が続くのですが、わたしの研究ではこの「大化二年改新詔」は九州年号の大化二年(696)年のことですから、ここでの「賀正礼」は『日本書紀』では「初出」ですが、実際の「初出」とは言い難いと思われます。
 その次に見える「賀正礼」記事は同じく孝徳紀大化四年(648)です。

  「四年の春正月の壬午の朔に、賀正す。是の夕に、天皇、難波碕宮に幸す。」

 「賀正礼」を行った宮殿は不明ですが、その終了後に孝徳は難波碕宮に行ったとありますから、この「賀正礼」は孝徳の宮殿以外の場所で行ったことがうかがえます。
 同じく孝徳紀大化五年(649)には、

  「五年の春正月の丙午の朔に、賀正す。」

とだけあり、場所は不明です。

 次いで、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。

  「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」

 恐らくは九州年号の白雉元年(652)に味経宮で行われた賀正礼に孝徳は参加し、その日の内に宮に還ったとありますから、ここでも「賀正礼」は孝徳の宮殿とは別の味経宮で行われたことになります。
 その次の「賀正礼」は孝徳紀白雉三年(652)に見える次の記事です。

「三年の春正月の己未の朔に、元日礼おわりて、車駕、大郡宮に幸す。」

ここでも孝徳は「賀正礼」が終わって大郡宮へ行ったとあります。

 このように、『日本書紀』は孝徳紀になって突然に「賀正礼」記事が出現し、孝徳紀に頻出します。そして、その後の斉明紀には「賀正礼」記事がまた見えな くなるのです。これは不思議な現象ですが、さらに問題なのが「賀正礼」終了後に、その日の内に孝徳は別の宮殿に帰るという行動です。普通、正月の挨拶は臣下が主人の宮殿に参上し、その「賀正礼」を主人が受けるというものでしょう。そして終了後に還るのは臣下の方ではないでしょうか。ところが、孝徳紀に見える「賀正礼」はそうではないケースが普通なのです。
 この不思議な現象を合理的に説明できる仮説があります。孝徳は九州王朝の天子の宮殿に参上し、「賀正礼」に参列した後、その日の内に帰れるほど近くに自らの邸宅を有していた。この仮説です。 これこそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と整合する仮説であり、傍証ともなる『日本書紀』の史料事実なのです。
 したがって、孝徳が「賀正礼」に参上した宮殿は、難波宮あるいは味経宮と呼ばれていた前期難波宮(上町台地法円坂)であり、その日の内に帰宅できた孝徳の邸宅は難波長柄豊碕宮(北区豊崎)等と思われます。(つづく)