第393話 2012/03/07

『古事記』千三百年の孤独(1)

今年は『古事記』編纂1300年に当たることから、様々な『古事記』関連書籍が出版されています。書店でそれらをパラパラパラと立ち読みしているのですが、いずれも期待はずれで、購入する気になれません。皆さんはいかがでしょうか。
わたしの見るところ、古田先生以外の学者や作家のほとんどは『古事記』を正しく理解していないようです。その意味では1300年たっても理解者が極めて 少ないこの状況は、「『古事記』千三百年の孤独」と表現できそうです。もちろんこれは、わたしが好きな南米チリのノーベル賞作家ガルシア・マルケスの名著 『百年の孤独』の模倣です。
『古事記』編纂1300年という良い機会ですので、九州王朝説・多元史観から見た『古事記』の史料性格について考えてみることにします。
大局的には、大和朝廷による『古事記』編纂の目的として、二つの動機が推定されます。一つは、先住した九州王朝を否定し、大和朝廷こそ神代の時代から日 本列島の代表者であったと主張(偽装)すること。もう一つは、『古事記』編纂時の天皇が大和朝廷の正当な後継者であることを主張(いいわけ)することで す。
こうした視点から分析考察する上で、わたしたちは格好の比較史料『日本書紀』を有しています。というのも、『古事記』と『日本書紀』を比較することによ り、『古事記』の史料性格が鮮明に浮かび上がってくるからです。以下、具体的に述べていきます。(つづく)


第392話 2012/03/05

秋田土崎の橘氏

この数年、いろいろと忙しくて和田家文書の研究は全く手つかずの状態が続いています。これからもしばらくは取り組めそうにないのですが、佐々木広堂さんからのファックスがきっかけで、昔書いた論文「知的犯罪の構造 –「偽作」論者の手口をめぐって」(『新・古代学』第2集、1996)を読みなおしました。おかげで当時の記憶が次から次へとよみがえってきたのですが、それらを忘れないうちに書きとどめておくのもいいかもしれないと思い、これから時折「洛中洛外日記」に記していくことにします。
その最初として、和田家文書『東日流外三郡誌』の著者、秋田孝季(あきたたかすえ)のことを少しご紹介します。『東日流外三郡誌』などの末尾には「秋田 土崎住 秋田孝季」と記されている例が多いのですが、これらの記述から、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三郡誌』などを著述したとがわかる のですが、なぜ津軽ではなく秋田土崎なのかが不明でした。
ところが、秋田県ご出身の太田斉二郎さん(古田史学の会・副代表)が現地調査などで秋田市土崎に橘姓が多いことを発見されたのです。というのも、和田家 文書によれば秋田孝季のもともとの名前は橘次郎孝季だったからです。孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより、橘次郎孝季から秋田孝 季と名乗るようになったのです。ですから、秋田土崎は秋田孝季の「実家」の橘家があった可能性が高いのです。だから、秋田土崎の地で『東日流外三郡誌』を 初めとした膨大な和田家文書の執筆に孝季は専念できたのです。
秋田県や秋田市には全国的に見れば、橘姓はそれほど多く分布していません。むしろ少ないと言った方がよいかもしれません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していることを太田さんが発見されたのです(太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」、『古田史学会報』24号、1998)。この発見により秋田孝季がなぜ秋田土崎で執筆したのかがわかったのです。
こうした事実は偽作説では説明しにくいでしょう。現地調査により、秋田孝季の実在を証明する事実が明らかになるのではないかと期待しています。いつかわたしも現地調査を行いたいと思っており、現地に協力者が現れることを願っています。


第391話 2012/03/03

和田家文書の「稲作伝播」伝承

第370話「東北水田稲作の北方ルート伝播」で佐々木広堂さんらの論文をご紹介しました。東北地方への稲作は沿海州から伝播したという説ですが、その佐々木さんから一枚のファックスが届きました。その 中で、東北への稲作が九州からではなく、中国から伝わったとする伝承が和田文書に記されていることが指摘されていました。
このことを既に佐々木さんは『古代に真実を求めて』第9集(明石書店、2006年)に掲載された「東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北 部・ロシア沿海州から伝わったーー封印された早生品種と和田家文書の真実」で発表されています。わたしはその論文の内容の詳細を忘れていたのですが、 佐々木さんからのファックスで紹介していただき、再読しました。
同論文によれば、和田家文書の『東日流六郡誌大要』(八幡書店、554頁)に次のような記事があります。
「耶馬台族が東日流に落着せしは、支那君公子一族より三年後の年にて、いまより二千四百年前のことなり。~彼等また稲作を覚りし民なれど持来る稲種稔らず。支那民より得て稔らしむ。」
津軽に耶馬台族の持ってきた稲は実らず、支那の民より得た稲は実った、という記事ですが、おそらく日本列島の西南部(近畿か九州)から伝来した稲は寒さ で実らず、支那(大陸)の稲は早生種であったため、寒い津軽でも実ったという伝承が記されているのです。弥生時代の青森へ、大陸の早生種が伝来したという 佐々木さんの説と同じことが和田家文書に記されていたのです。
もちろん、和田家文書にはこの他にも津軽への稲作伝来に関する様々な異説が記されていますが、それらの中に佐々木さんの研究結果と同じ伝承が残っていた ことは驚きです。稲作の伝来一つをとっても、和田家文書の伝承力・記録量は素晴らしいものがあります。偽作論などに惑わされることなく、学問的な和田家文 書の史料批判と研究が期待されます。


第390話 2012/03/01

好評!「古田武彦コレクション

 ミネルヴァ書房より、同社の「新刊案内」3月号が送られてきました。そこに「ミネルヴァ書房の売れ行き良好書」というランキングコーナーがあり、人文科学のベストファイブが紹介されているのですが、なんと古田先生の『古代は沈黙せず』が4位、福與篤著・古田武彦解説『漫画「邪馬台国」はなかった』が5位と、古田先生関係書籍が二つもランキング入りしていました。古田先生の根強い人気と、ミネルヴァ書房の「古田武彦コレクション」シリーズが好評であることがうかがえます。
 この「新刊案内」によると、「古田武彦・古代史コレクション10」として『真実の東北王朝』が刊行されるとのこと。この本はわたしにとって、いろんな意 味で思い出深い一冊です。学問的には多賀城碑の史料批判や、東北王朝の提起など、古田史学・多元史観にとって重要な本なのですが、古田先生が初めて著書で 和田家文書『東日流外三群誌』を紹介された本でもあります。
 和田家文書偽作キャンペーンが勃発したとき、この『真実の東北王朝』と古田先生はマスコミも含めた偽作論者からの猛烈なバッシングを受けました。邪馬壱 国説・九州王朝説に対して、学問的に有効な反論ができなかった一元史観の学者たちが、ここぞとばかりに古田叩きを始めたのです。今から思い出しても、それ はひどいものでした。
 そのとき、古田先生の支持者や、支持団体の中からも古田叩きに同調する人物が何人も現れました。あるいは、中立を装いながら、実は古田先生から距離をお きはじめた自己保身の輩(やから)もいました。このとき、わたしはまだ三十代でしたが、「兄弟子」と思っていた多くの人々が古田先生から離れていくのを眼 前にして、「何という人たちだ。恩知らずにもほどがある。」と怒りに身を震わせたものでした。
 こうしたことが一因となって、わたしは水野さんらと共に「古田史学の会」を立ち上げ、古田先生と一緒に偽作キャンペーンや大和朝廷一元史観と戦うことを 決意し、自分の半生を古田史学に捧げる道を選びました。そして、今はその時の決断が正しかったと実感しています。運命(使命)と行動を共にする
 多くの同志と出会えたからです。これも「偽作キャンペーン」「古田バッシング」のおかげと、皮肉ではなく本気で思っています。あの試練を経て、「古田史学の会」が誕生し、古田学派は力強く発展したからです。


第389話 2012/02/26

パソコンがクラッシュ

永年愛用してきたデスクトップパソコンが、昨日とうとうクラッシュしてしまいました。バックアップしていないデータが大 量に失われれてしまい、どのような問題が発生するか調査しています。当面はインターネット用に使っているノートパソコンとテキスト入力専用機のポメラで対応していきます。
ミネルヴァ書房より発刊予定の二倍年暦に関する既報論文のデータも失われましたが、こちらは「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」に掲載してい ましたので、そこからデジタルデータを取り出せます。思わぬところでホームページが役立ちました。
発行予定の二倍年暦の本ですが、古田先生と相談の結果、私の論文と大越邦生さんが現在書かれている論文とで構成することになっています。まだ具体的な書名や発刊時期は決まっていませんが、古典に記された古代人の長寿の謎に、二倍年暦という視点で解明したものとなるでしょう。こちらも『「九州年号」の研究』同様に後世に残る一冊になればと願っています。


第388話 2012/02/24

鈴鹿峠と「壬申の乱」

 先日、仕事で伊賀上野までドライブしました。京都南インターから新名神の信楽インターで降りるルートを採るつもりでしたが、カーナビの推奨ルートが京都南インターから新名神で亀山まで行き、そこから東名阪国道で伊賀上野まで戻るという、何とも遠回りを指示したものですから、そちらの方が早いのだろうと思い、結局、一日で鈴鹿山脈を2往復計4回越えることとなりました。
 これはこれで良い経験となりましたが、その時、脳裏をよぎったのが「壬申の乱」の天武の吉野からの脱出ルートでした。ご存じのように、『日本書紀』は天武紀前半の第二八巻まるまる一巻を「壬申の乱」の記述にあてています。日時や場所など他の巻とは比較にならないほどの詳細な記述がなされていることから、『日本書紀』に基づいて多くの歴史家や小説家が壬申の乱をテーマに論文や小説を書いています。
 他方、古田先生は壬申の乱については永く本に書いたり、講演で触れたりはされませんでした。ある時、古田先生にその理由をおたずねしたところ、「『日本書紀』の壬申の乱の記述は詳しすぎます。これは逆に怪しく信用できません。このような記述に基づいて論文を書いたり話したりすることは、学問的に危険です。」と答えられました。このときの先生の慎重な態度を見て、「さすがは古田先生だ。歴史研究者、とりわけ古田学派はかくあらねばならない」と、深く感銘 を受けたものでした。
 こうした古田先生の歴史家としての直感がやはり正しかったことが明らかになりました。それは、馬の研究家である三森堯司さんの論文「馬から見た壬申の乱 -騎兵の体験から『壬申紀』への疑問-」(『東アジアの古代文化』18号、1979年)によってでした。
 三森さんは『日本書紀』壬申の乱での天武らによる乗馬による踏破行程が、古代馬のみならず品種改良された強靱な現代馬でも不可能であることを、馬の専門家の視点から明らかにされたのです。すなわち、『日本書紀』に記された壬申の乱は虚構だったのです。この三森論文により、それまでのすべての壬申の乱の研究や小説は吹き飛んでしまったのでした。もちろん、大和朝廷一元史観の学者のほとんどは、この三森論文のインパクト(学問的提起)に未だ気づいていないか のようです。
 その後、古田先生が九州王朝説・多元史観に基づいて、名著『壬申大乱』(東洋書林、2001年刊)を著されたのはご存じの通りです。舗装された道路を自動車での鈴鹿越えを繰り返しながら、『日本書紀』の「壬申の乱」が虚構であることを改めて実感した一日でした。


第387話 2012/02/20

九州王朝太子殺害記事の正木異説

 第381話で、『海東諸国紀』に「(賢接)三年戊戌(578)、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」(以六斎日被覧経論殺其太子)とい う、九州王朝内での太子殺害事件が記されていることを紹介しました。これに対して、先週の関西例会で正木さんから異論が出されました。
 『聖徳太子伝傳記』(1318年成立)に、「太子七歳戊戌(578)経論被見六斎日殺生禁断」という記事があり、『海東諸国紀』の「以六斎日被覧経論殺 其太子」は、本来「以六斎日、被覧経論、殺生禁断、其太子~」とあったものが、誤写などで「生禁断」が抜け落ち、誤伝したのではないかとされたのです。
 なるほど、これは優れた見解と思われました。正木さんのこの異論は以前の関西例会でも発表されており、確かな史料根拠に基づいたもっともな説と思っているのですが、それにもかかわらず、わたしが第381話で「九州王朝太子殺害記事」として紹介したのには理由がありました。
 一つは、殺生禁断という仏教的にはありふれた記事が、太子殺害記事という重大事件に誤写誤伝されるものだろうか、という点です。二つ目は、この578年 という年は、日本史の中でも著名な「聖徳太子」の時代であり、朝鮮国の公的な書籍といえる『海東諸国紀』の編纂に当たって、太子が殺されたとする、それほ どずさんな誤写、あるいは誤伝史料の採用を行うだろうかという素朴な疑問を払拭できなかったからなのです。
 やはり九州王朝史料に「太子殺害事件」が記されており、後の時代に聖徳太子伝記を編集するときに、殺生禁断記事に書き換えられたという可能性を否定でき ないと思うのです。もちろん、現時点では正木異説も有力と考えており、断定するべきではないとも思っています。引き続き、研究を深めたいと思います。な お、正木さんの異説発表には敬意を払います。学問研究にとって、異論の提起は大切なことですから。


第386話 2012/02/19

「丙子椒林剣」国産説

 第382話で四天王寺の丙子椒林剣について述べましたが、その際「日本刀」と「」付きで表記しました。その理由は、丙子椒林剣が国産かどうか判断できなかったことによります。国産でなければ日本刀と言えないからです。厳密な表記としては、製造地を特定しない上古刀と表記するべきという見解もあります。もっともな意見だと思います。
 先週、たまたま大阪西区にある市立中央図書館に寄る機会があったので、古代史コーナーを見ていたら、石井昌國・佐々木稔著『古代刀と鉄の科学』という本が目に留まり閲覧しました。
 同書に紹介されていた「兵庫県養父郡八鹿町箕谷2号墳の銅象嵌戊辰年銘大刀」が丙子椒林剣と同形で、「戊辰年五月□」という銘文から608年の作刀とさ れています。切っ先が「カマス」と称される直線的な形状をしており、丙子椒林剣と一致しています。丙子椒林剣の丙子が616年と見られますから、戊辰年銘大刀の様式が進化して丙子椒林剣になったとされています。
 この他にも同様式の大刀が七世紀初頭の古墳から出土していることも紹介されており、こうした史料状況(出土状況)から見て、四天王寺の丙子椒林剣は国産 と考えて問題ないようです。正倉院にも同類の大刀があるようですので、これらも九州王朝との関係を含めて見直す必要を感じています。
 なお、水野さん(古田史学の会・代表)から、丙子椒林剣は四天王寺にあった四天王像が持っていたのではないかとする説の存在を教えていただきました。面白い視点だと思いました。


第385話 2012/02/18

前期難波宮九州王朝副都説への批判

 今朝、京都は珍しく積雪でした。幸い大阪は晴れて、関西例会も盛会でした。初めての参加者も二名ほどおられ、研究発表も目白押しでした。
 今回の例会では大下さんから私の前期難波宮九州王朝副都説への考古学的な批判が寄せられ、大変刺激を受けました。会報での発表が待たれます。
 正木さんからは『聖徳太子傳記』の九州王朝系史料の説明があり、興味深い研究でした。例会発表のテーマは次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
1). 「積み重ねと一発逆転」他 近時雑文(豊中市・木村賢司)
2). 主語、ときどき主格(明石市・不二井伸平)
3). ネットサーフィン(明石市・不二井伸平)
4). 饒速日と物部守屋(木津川市・竹村順弘)
5). 間宮論文の引用記事(木津川市・竹村順弘)
6). 土石流と藤原京(木津川市・竹村順弘)
7). 富雄丸山古墳の被葬者(木津川市・竹村順弘)
8). 紀年の記年換算(木津川市・竹村順弘)
9). 「熊曾国」が教える九州王朝の統治域(大阪市・西井健一郎)
10).「倭人の国」はどこに(相模原市・冨川ケイ子)
11).茨城県の横穴墓から出土した正倉院宝物と同形の金具(相模原市・冨川ケイ子)
12).『聖徳太子傳記』の「歳序次第」(川西市・正木裕)
13).会報掲載「前期難波宮の考古学」について(豊中市・大下隆司)

〔代表報告〕
○会務報告・古田先生近況・赤穂、明石の地名について・興福寺南大門遺跡の地鎮具とその意義・丙子椒林剣と四天王像・その他


第384話 2012/02/17

「古田史学会報」108号の紹介

 第379話で紹介した期待の新人、札幌市の阿部周一さんの論稿が「古田史学会報」108号の第一面に掲載されました。新人の会報デビューで一面を飾るのは大変珍しいことなのですが、西村さんと相談の上、決定しました。
 阿部稿は評制以前の行政単位とされている「国県制」が七世紀初頭の九州王朝にて施行されたとするもので、「常陸国風土記」などを史料根拠とされ、論証を試みておられます。従来説もよく勉強されており、なかなか優れた研究者とお見受けしました。おそらく、北海道の地で古田史学・多元史観を一人で勉強されて いるのでしょう。これからのご活躍が期待されます。阿部さんは既に論文を三つほど投稿されているのですが、今回のものが最も優れていましたので、一面掲載を決断しました。
 「北の大地に学人あり、また同志ならずや」の心境です。共に古田史学・多元史観の一翼を担っていただけるものと期待しています。
 もうお一人、所沢市の肥沼さんも期待の研究者で、今回久しぶりにご寄稿いただけました。古代ハイウェイ(官道か)を九州王朝が造ったものとする新説で、これからの研究の深化が楽しみです。

「古田史学会報」108号の内容
○「国県制」と「六十六国分国」(上)
-「常陸風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連において- 札幌市 阿部周一
○前期難波宮の考古学(3)
-ここに九州王朝の副都ありき- 京都市 古賀達也
○古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か? 所沢市 肥沼孝治
○筑紫なる「伊勢」と「山邊乃五十乃原」 川西市 正木 裕
○百済人祢軍墓誌の考察 京都市 古賀達也
○2011,6,16号の新潮
「卑弥呼の鏡の新証拠」に付いて 山東省曲阜市 青木秀利
○新年のご挨拶 代表 水野孝夫
○「古田史学の会・関西」遺跡めぐりハイキング
○「古田史学の会」関西例会のご案内
○「古田史学会報」原稿募集
○編集後記


第383話 2012/02/10

ジャパン・ヤーン・フェア

昨日今日と、愛知県一宮市で開催され第9回ジャパン・ヤーン・フェアを見学してきました。一宮市は繊維織物の町として有名で、羊毛加工では日本一の生産地です。おそらくきれいな水に恵まれた地であったため、繊維加工が明治以降に盛んになったものと思われます。
今回の第9回ジャパン・ヤーン・フェアでも、ご当地(尾州)の繊維加工技術が世界一のレベルであることを実感させる、すばらしい織物や衣服が展示されて いました。中にはどうやってこんな複雑な構造を持った生地ができるのだろうかと、素人には想像もできない斬新な織物やニットの展示もありました。
弥生時代の日本列島において、絹織物の先進地域が北部九州(博多湾岸や佐賀県吉野ヶ里)であることは著名です。三国志倭人伝では中国からの下賜品や倭国 からの献上品に絹織物が多数記されています。たとえば「紺地句文錦」「白絹」などで、これら中国絹が出土した弥生遺跡は福岡県の須久岡本遺跡ですし、倭国 産の絹の出土も福岡県と佐賀県だけです。近畿の弥生遺跡からは出土していません。
「邪馬台国」論争で、しばしば「考古学的には近畿説で決まり」などと口走る方がいますが、わたしには全く理解不能な妄言としか思えません。倭人伝に記さ れた倭国の様々な文物(鉄器・銅矛などの青銅器鋳型・弥生時代の銅鏡・他)の出土は、北部九州・糸島博多湾岸を中心とした分布を示しています。考古学が学 問であり科学であるのならば、そしてその考古学者に学問的理性と良心があるのならば、「考古学的にも邪馬壱国は博多湾岸で決まり」と言うほかないはずなの です。
ジャパン・ヤーン・フェアを見学しながら、そのようなことを改めて感じました。日本古代史学も、はやく尾州の織物産業のように、世界レベルになってほし いものです。そのためには「日本古代史村」も現代日本の繊維産業のように、世界との競争原理にさらされる必要があるようです。


第382話 2012/02/09

四天王寺の丙子椒林剣

 第377話で日本刀と九州年号について紹介しましたが、古代における「日本刀」で最も著名なものの一つが、四天王寺に伝来した聖徳太子のものとされる「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん・国 宝)です。この丙子椒林剣は以前から気になっていたのですが、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝建造説の提起により、丙子椒林剣も九州王朝のものではなかったのかという疑いを、近年強く感じています。
 丙子椒林剣に刻まれた「丙子椒林」という文字については、「丙子」の年に「椒林」という人物により作刀されたとする説が有力なようですが、わたしもその理解が最も穏当なものと思っています。
 聖徳太子の時代よりも後代のものですが、『養老律令』の「営繕令」には、「凡そ軍器を営造せば、皆様(ためし)に依るべし。年月及び工匠の姓名鐫(ゑ) り題(しる)さしめよ。」とする記述があり、刀などの「軍器」に製造年月と作者名を記すことが決められています。この律令がそれまでの倭国・九州王朝の伝統の影響を受けていると考えれば、丙子椒林剣の「丙子」と「椒林」を製造年干支と作刀者と見る説は有力だと思われるのです。
 聖徳太子の頃の丙子の年は616年ですが、倭国・九州王朝の天子多利思北弧の時代です。 「丙子椒林」の文字は金象眼とのことですので、いわゆる一般兵士の実戦用武器というよりは、権力者に捧げられた宝刀ともいうべきものでしょう。とすれば、多利思北弧か太子の利歌彌多弗利に捧げられた可能性もありそうです。そうであれば、「聖徳太子の刀」として四天王寺に伝来所蔵されたのもうなずけます。
 もちろん、これらのことを証明するためには、鉄や金の科学分析などが必要ですが、大和の聖徳太子のもとのされて伝わっている物や伝承は、本来は九州王朝の多利思北弧・利歌彌多弗利のものではなかったかと、まず疑ってかかることから始める必要があると思います。そこから、真実の「聖徳太子」とその歴史が明らかになるはずです。古田史学・多元的歴史観はすでにその研究段階に進んでいるのですから。