第440話 2012/07/13

市 大樹著

『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』

   の紹介

 最近、木簡研究のために関連書籍や論文を読んでいますが、先月、中公新書から刊行された市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(860円+税)は、なかなかの好著でした。著者は奈良文化財研究所の研究員で、木簡の専門家です。東野治之さんのお弟子さんのようで、新進気鋭の日本古代史研究者といえそうです。

 もちろん、旧来の近畿天皇家一元史観による著作ですので、そのために多くの限界も見えますが、それらを割り引いても一読に値する本です。特に、飛鳥出土木簡の最新学説や研究状況を知る上で、多元史観研究者も読んでおくべき内容が随所に含まれています。

 ご存じのように、古代木簡は7世紀後半の「天武期」以降に出土量が急激に増えます。従って、九州王朝と大和朝廷の王朝交代期における九州王朝研究にとっ ても、木簡研究は不可欠のテーマなのです。わたしも、太宰府市出土「戸籍」木簡と同様に、飛鳥出土木簡の勉強を深めなければならないと、同書を読んで痛感しました。

 なお、九州年号木簡である「元壬子年」木簡について、同書では「このうち、三条九ノ坪遺跡(兵庫県芦屋市)出土の壬子年の木簡は、弥生時代から平安時代 初頭までの遺物を含む流路から出土したもので、六五二年と断定するには一抹の不安が残る。」(26ページ)と、さらりと触れるだけで、読者には「壬子年」 の文字の上に記された「元」(従来は「三」と判読されてきた)の字の存在と意味が知られないよう、周到な「配慮」の跡が残されています。明らかに著者は、 わたしの九州年号の白雉「元壬子年」(652年)説を意識し、その上で九州王朝説・九州年号説はなかったことにしたのです。他の重要木簡については詳細な検討と解説を行っている著者でしたが、この一文を読み、「やはり逃げたな」と、わたしは思いました。近畿天皇家一元史観の限界を露呈する、日本古代史学界の深い「闇」を、そこに見たのでした。


第439話 2012/07/12

大化二年改新詔の造籍記事

 「戸籍」木簡の出土に触発されて、古代戸籍の勉強をしています。特に『日本書紀』に記された造籍記事を再検討しているのですが、大化二年(646)改新詔にある造籍記事に注目しました。

 大化二年改新詔の中の条坊関連記事や建郡記事が、696年の九州年号「大化二年」の記事を50年ずらしたもので、本来は藤原京を舞台にした詔勅であったとする説(注1)を、わたしは発表しましたが、同じ改新詔中の造籍記事もこれと同様に九州年号大化二年の記事を50年ずらしたのではないかという疑いが生じてきました。すなわち、「庚寅年籍」(690年)の六年後(696年)の造籍記事ではなかったかと考えています。7世紀末頃の戸籍は通常6年ごとに造籍されたと考えられていますから、これは「庚寅年籍」の次の「丙申年籍」造籍記事に相当します。

 しかも『日本書紀』ではこの大化二年の造籍が「初めて戸籍・計帳・班田収授之法をつくれ」と記されていることから、近畿天皇家にとって、この「丙申年籍」が最初の造籍事業だった可能性もありそうです。従って、わが国最初の全国的戸籍とされている「庚午年籍」(670年)は九州王朝による造籍であったこととなります。

 この大化二年(646年)改新詔の造籍が696年のこととすると、その6年後の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記された造籍記事もまた、50年ずれた大宝二年(702年)の造籍と考えることができます。今も正倉院に現存している「大宝二年戸籍(断簡)」がその時に造られたものです。 しかも『日本書紀』白雉三年条に記された造籍記事には大宝律令の条文と同じ文章(「戸主には、皆家長を以てす。」など)が記されており、「大宝二年戸籍」 の記事が50年ずらして掲載されている可能性がうかがえます。

 ちなみに大宝二年は九州年号の大化八年に相当することから、九州年号の「大化八年」と「大化二年」の造籍記事が、『日本書紀』の大化二年と白雉三年にそれぞれ50年ずらして掲載されたことになるのです。この「大化八年籍」(702年、大宝二年)という視点は、正木裕さん(古田史学の会・会員)からのご教示によるものです。この「九州年号・大化期造籍」について、正木さんも精力的に研究を進められており、関西例会などで発表されることと思います。

 これら造籍記事には、九州王朝から大和朝廷への王朝交代期(7世紀末~8世紀初頭)の複雑な問題を内包しており、古田学派によるさらなる研究の深化が期待されています。

(注1)「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号。『「九州年号」の研究』に転載。


第438話 2012/07/08

済み

古田先生が愛知サマーセミナーで講義

古田先生は今年の夏で86歳になられますが、お元気に活躍されています。7月15日(日)には、愛知県の東邦大学で開催される「愛知サマーセミ ナー2012」にて講義をされます。講座名は「真実の学問とは –邪馬壱国と九州王朝論」です。東邦高校をはじめ県内の私立高校の生徒さんや一般の受講者へ熱く語られます。受講料は無料です。詳細は「愛知サマーセミ ナー2012」のホームページをご覧下さい。
同サマーセミナーへは「古田史学の会・東海」が毎年のように講師派遣をして参加協力されていました。そのご努力もあって、今年は古田先生の講座が設けられました。東海地方の多くの皆さんのご参加をお待ちしています。
また、10月6日(土)には「古田史学の会・四国」の月例会100回目を記念して、松山市でも古田先生が講演されます。こちらも、道後温泉旅行も兼ねて、是非、遠方の皆様にもご参加いただきますよう、お願いいたします。


第437話 2012/07/08

西条市の「紫宸殿」「天皇」地名

前夜の雷雨とは一転して、今日は晴れました。瀬戸大橋を渡る車窓から見える瀬戸内海の景色は別格です。
昨日は「古田史学の会・四国」の総会で講演しました。講演会後の懇親会で、当地の会員の方から教えていただいたのですが、西条市(旧・東予市)に現存する字地名「紫宸殿」の南側を流れる新川(明理川)の対岸に、字地名「天皇」があるとのことです。
「紫宸殿」や「天皇」というただならぬ地名が近接して存在するのですから、これは大変なことになりそうです。これらは誰かが好き勝手につけられる地名で はありませんし、それを周囲が認めるものでもないでしょう。したがって、ある時代に「紫宸殿」が存在し、「天皇」が住んでいたので、それらが地名として遺 存したと考えざるを得ないのです。
この「紫宸殿」からは土器が二片出土していたことがわかっていますが、現在では行方不明になっているらしく、年代判定の貴重な史料だけに惜しまれます。しかし、字地名「紫宸殿」は現存していますから、今後の発掘調査が期待されます。
この地方を古代「越智国」とする説を合田洋一さんは発表されており、越智国に存在した「紫宸殿」「天皇」としての位置づけによる研究が進むものと期待し ています。そうした意味からも多元史観で古代史研究を進める「古田史学の会・四国」の使命は重要です。わたしも応援していきたいと思っています。


第436話 2012/07/07

地名接尾語「が」

今日は松山に向かう特急しおかぜ3号に乗っています。午後から「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演します。テーマは太宰府市出土「戸籍」木簡を中心とする九州王朝の文字史料の説明です。年に一度、四国の会員の皆様にお会いできるのを楽しみにしています。
また、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)の「越智国論」や、今井久さん(会員・西条市)が発見された「紫宸殿」地名、万葉歌のニギタツ比定地な ど、当地は古代史研究のホットスポットでもあり、古田学派や「古田史学の会」が重視している地域なのです。観光や研究旅行地としてもおすすめです。
さて、前話で地名接尾語「ま」について述べましたが、この古語の「ま」の意味はおそらく、「一定の領域・距離・時間」のことと考えられますが、同じ地名接尾語でもその意味がどうしてもよくわからないものに、「が」があります。
私の姓の古賀もその一例で、古賀家は元々は星野姓を名乗っていましたが、豊臣秀吉の九州征伐(侵略)に敗れて、本家は討ち死にし、生き残った一族は散り 散りバラバラとなり、わたしのご先祖は浮羽郡の古賀集落に土着したことにより、古賀姓を名乗ったとされています。すなわち地名の古賀に由来した姓なので す。ちなみに新潟県小千谷市まで逃げた一族もいます(小千谷市に星野姓が多いのはこのためです)。
古賀のように、末尾に「が」がつく地名はたくさんあります。たとえば、佐賀・嵯峨・滋賀・伊賀・甲賀・加賀・多賀・山鹿・羽賀・敦賀・古河・足利・男鹿・蘇我・春日などです。このように多くの地名に接尾語「が」が見られるのですが、その意味がよくわからないのです。
役所のことを「官が」ともいいますから、何か関係があるのかもしれませんが、そう言い切れる自信はありません。これからも悩み続けようと思っています。


第435話 2012/07/06

地名接尾語「ま」

第434話で地名接尾語の「ま」についてふれましたが、昨日、富山県魚津市や富山市を訪れて、富山(とやま)の「ま」も同じく地名接尾語の「ま」ではないかと気づきました。
というのも、富山市付近には「と」山と呼ばれるような著名な山もないようですし、地名語源についても納得できるような説もみあたりません。したがって、「とや」が地名の語幹で、それに地名接尾語「ま」が付いたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
ちなみに、地名接尾語「ま」がついたと思われる地名として、前回紹介したもの以外にも次のようなものがあります。筑摩・練馬・鹿島・吾妻・三潴・但馬・ 大間・入間・宇摩・球磨・鞍馬・浅間・志摩・中間・群馬などです(個別の検証はおこなっていません。試例としてご理解下さい。)。
これら地名接尾語「ま」の応用地名として「まつ」があります。すなわち「ま」津で、港がある地名のケースです。この場合、「まつ」の当て字として「松」 が多用されています。たとえば、高松・浜松・小松・若松・下松・黒松などですが、今津というような、「松」の字を使わない例もあります。
したがって高松の場合、「たか」+「ま」+「津」で、地名語幹は「たか」です。同様に浜松の地名語幹は「はま」となります。今まで何となく浜辺に松林が あるから「浜松」と思っていましたが、地名接尾語「ま」と港を意味する「津」との合成語地名であることに気づいたのです。こうした視点から、日本各地の地 名を見直すと、歴史的にもおもしろいことが見えてきそうです。
なお付言しますと、「山(やま)」「浜(はま)」「島(しま)」などの基本的地形名詞の「ま」も、地名接尾語「ま」と同類と推測しています。日本語成立の過程を考えるうえでヒントになるのではないでしょうか。


第434話 2012/07/04

九州王朝の「豊国副都」試案

今日の午前中は三重県四日市方面を訪れ、今は富山県高岡市のホテルです。ところで、近鉄電車の四日市駅から南へ二つ目の駅名が「海山道」というの ですが、何と訓むのかご存じでしょうか。わたしはてっきり伊勢に向かう古代官道の名残で「かいさんどう」とでも訓むのかと思っていたら、車内アナウンスで 「みやまど」と聞き、すごい当て字だなと驚きました。
おそらく、本来の語義は「宮ま戸」あるいは「御屋ま戸」ではないでしょうか。神殿か有力者の館の入り口(戸)という意味です。「ま」は須磨・播磨・多 摩・薩摩・相馬などと同じ地名接尾語です。もちろん、海山道の現地調査などをしていないので、わたしのアイデア(思いつき)にすぎません。あまり信用しな いでください。なお、わたしの携帯ワープロ(ポメラ)は「みやまど」と打つと、一発で「海山道」と変換し、妙に感心しました。
さて、本題に入りますが、このところ太宰府市出土「戸籍」木簡の研究に夢中になっているわたしですが、実はもう一つ重要な遺跡発見の新聞発表が6月8日 にあったのをご存じでしょうか。九州歴史資料館(福岡県小郡市)からの発表によると、行橋市南泉の福原長者原(ふくばるちょうじゃばる)遺跡で、奈良時代 の九州最大級の役所跡が見つかりました。まだ、遺跡の全てが発掘されているわけではありませんが、規模的には大宰府政庁に匹敵するとのことです。
新聞の解説では「8世紀の豊前国府跡か」とのことでしたが、豊前国府跡は別にありますから(みやこ町。行橋市南泉の南)、何とも不思議な記事でした。両者は時代が異なるとも説明されていましたが、編年がころころ変わるのも納得できません。
わたしは以前に九州王朝の「五京制」の可能性について論文(注1)で触れたことがあるので すが、その「五京」候補の一つとして豊前の京都郡を指摘しました。その理由は北部九州に位置する「ただならぬ地名」だからでした。その後、わたしの研究も 進み、九州王朝の副都という概念が明確となったこともあり、今回発見された九州最大級の遺跡は、「豊国副都」の可能性を感じさせるのです。現時点では、考 古学編年や遺跡の詳細がわかりませんので、とても断定はできませんが、一試案として「豊国副都」作業仮説をこれから検討したいと思います。まだまだ史料根 拠が不十分ですので、間違っている可能性もありますので、これもあまり信用しないでください。
なお、この「豊国副都」試案は、いわゆる「豊前王朝」説とは全く異なる概念ですので、誤解なきよう念のため申し添えておきます。

(注1)「九州を論ず」『市民の古代』15集所収、1993年。その後、『九州王朝の論理』(明石書店)に転載。
(「洛中洛外日記」読者の方からも、今回の遺跡発見ニュースのご連絡をいただきました。ありがとうございます。)

参考資料

福原長者原遺跡現地説明会資料を7月7日リンク致しました。


第433話 2012/07/03

『「九州王朝」の研究』(仮称)の出版企画

先日、ミネルヴァ書房の田引さんとお会いし、新たな書籍出版の企画について話し合いました。田引さんからは、古田史学に基づいた各地の遺跡や遺 物・博物館などの「歴史散歩」ガイドブックを古田史学の会で編集してほしいとの御提案をいただきました。もちろん大賛成ですので、古田史学の会の役員会に はかることをお約束しました。
田引さんとの打ち合わせの結果、まずは「九州編」から始めることになりそうです。来年秋には脱稿して欲しいとのことですので、編集チーム作りと現地会員 への協力要請を行い、取り上げるスポットの選考を行うことになるでしょう。「九州編」が成功したら、次は「近畿編」「東海編」「関東編」「東北・北海道 編」「中国・四国編」などへと発展できれば素晴らしいと思います。従来から、古田史学による遺跡の紹介・解説をした書籍発行への要望が大きかったので、是 非、実現できればと思います。
わたしからは、昨年末発行していただいた『「九州年号」の研究』の姉妹編として、『「九州王朝」の研究』(仮称)の発行を提案しました。前著は「九州年 号」という切り口で九州王朝の実像に迫りましたが、『「九州王朝」の研究』では、多面的な視点から九州王朝の全体像に迫りたいと考えています。具体的に は、この20年間での九州王朝研究における優れた論文を採録し、九州王朝史年表や新たに発表される最新の論稿も掲載したいと考えています。
完成まで数年かかると思いますが、皆さんのご協力をお願いします。


第432話 2012/06/30

 太宰府「戸籍」木簡の「進大弐」

 今回太宰府市から出土した「戸籍」木簡は、九州王朝末期中枢領域の実体研究において第一級史料なのですが、そこに記された「進大弐」という位階は重要な問題を提起しています。

 この「進大弐」という位階は『日本書紀』天武14年正月条(685年)に制定記事があることから、この「戸籍」木簡の成立時期は685年~700年(あるいは701年)と考えられています。わたしも「進大弐」について二つの問題を検討しました。一つは、この位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかという問題です。二つ目は、この位階制定を『日本書紀』の記述通り685年と考えてよいかという問題でした。

 結論から言うと、一つ目は「不明・要検討」。二つ目は、とりあえず685年として問題ない。このように今のところ考えています。『日本書紀』は九州王朝の事績を盗用している可能性があるので、天武14年の位階制定記事が九州王朝のものである可能性を否定できないのですが、今のところ不明とせざるを得ません。時期については、天武14年(685年)とする『日本書紀』の記事を否定できるほどの根拠がありませんので、とりあえず信用してよいという結論になりました。

 この点、もう少し学問的に史料根拠に基づいて説明しますと、九州王朝の位階制度がうかがえる史料として『隋書』国伝があります。それによると九州王朝の官位として、「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」「大義」「小義」「大礼」「小礼」「大智」「小智」「大信」「小信」の十二等があると記されています。『隋書』の次代に当たる『旧唐書』倭国伝にも同様に「官を設くること十二等あり」と記されていますから、7世紀前半頃の九州王朝ではこのような位階制度であったことがわかります。

 これに対して、「戸籍」木簡の「進大弐」を含む天武14年条の位階は全く異なっており、両者は別の位階制度と考えざるを得ません。したがって、「進大弐」の位階制度は『日本書紀』天武紀にあるとおり、7世紀後半の制度と考えて問題ないと理解されるのです。文献史学ですから、史料根拠を重視することは当然でしょう。

 この結果、「戸籍」木簡に記された「進大弐」に残された問題、すなわちこの位階制度が九州王朝のものなのか、近畿天皇家のものなのかというテーマについて、わたしは毎日考え続けています。(つづく)


第431話 2012/06/29

太宰府「戸籍」木簡の「評」

 今回の「戸籍」木簡から、「やはりそうか」という感想を持ったのが、「嶋評」の表記でした。白村江敗戦後の7世紀後半から造られたとされる、「庚午年籍」(670年)を筆頭とする古代戸籍は、700年までは九州王朝の評制下で造籍されたのですから、当然のこととして行政単位は「評」で記されていたと論理的には考えざるを得なかったのですが、今回の「戸籍」木簡の出現により、やはり「評」表記であったことが確実になりまし た。

 何をいまさらと言われそうですが、『日本書紀』や『古事記』では「評」は完全に消し去られ、「郡」に置き換えられていることから、近畿天皇家は九州王朝の痕跡を消すべく、徹底的に「評」文書を地上から消滅させようとしたと考えられていました。ところが、その一方で「大宝律令」や「養老律令」では、評制文書である「庚午年籍」の半永久的保管を近畿天皇家は命じているのです。これは何ともちぐはぐな対応ですが、今回の評制「戸籍」木簡の出土により、近畿天皇家は戸籍に関しては評制文書であるにもかかわらず、隠滅することなく保管していたと考えざるを得ないことが明らかとなったのでした。
たとえば9世紀段階でも近畿天皇家は全国の国司に「庚午年籍」の書写を命じ、中務省への提出を命じています(洛中洛外日記120話「九州王朝の造籍事業」参 照)。したがって、全国の国司たちは『日本書紀』の「郡」の記述が嘘であり、真実は「評」であったことを9世紀段階でも知っていたことになります。こうした歴史事実があったことも手伝って、若干ではありますが後代の諸史料に「評」表記が散見される一因となったのではないでしょうか。(つづく)


第430話 2012/06/24

太宰府「戸籍」木簡の「兵士」

 今回の出土で注目された「戸籍」木簡ですが、わたしはそこに記された「兵士」という文字に強い関心を抱きました。この二文字は九州王朝研究にとって重要な問題を持っているからです。

 九州王朝末期における列島内のパワーバランスを左右する要素として、白村江戦後に筑紫に進駐した数千人にも及ぶ唐の軍隊はいつ頃まで倭国に滞在したのか という問題があるのですが、『日本書紀』では天武元年五月条(672年)に唐軍の代表者である郭務宗(りっしんべん+宗)等の帰国を記してはいますが、そ の時全ての唐軍が帰国したかどうかは不明でした。古田学派内では唐軍はその後も長期間筑紫に駐留したと理解されてきたようですが、特に明確な史料根拠に基づいていたわけではありませんでした。

 このような研究状況の中で、今回の「戸籍」木簡にある「兵士」の二文字は、685~700年において、「徴兵制度」を維持、あるいは再開していたことを示しているからです。ということは、この時期に唐軍が筑紫に駐留していたとするならば、九州王朝倭国の武装解除をせずに、徴兵を容認していたことになります。これでは何のために唐軍は筑紫に駐留していたのか、その意味がわからなくなります。逆にこの時期、唐軍は既に帰国しており、筑紫にいなかったとすれば この矛盾は解消されるのです。

どちらが歴史の真実かはこれからも研究と考察を続けたいと思いますが、「戸籍」木簡の「兵士」の二文字は、「既に唐軍は帰国していた」とする仮説成立の可能性を示しているのです。(つづく)


第429話 2012/06/23

太宰府「戸籍」木簡の「竺志」

太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡について少しずつ検討結果や「発見」について報告したいと思います。その最初として、「戸籍」木簡と一緒に出土した「竺志前國嶋評」と記された木簡について述べることにします。
この木簡には「竺志前國嶋評」の下半分に2行で次のような文字が記されています。
「私祀板十枚目録板三枚父母」
「方板五枚并廿四枚」
この文から別の24枚の木簡の「タグ」の役割をしていたようです。また、「板」という表現から、古代において木簡のことを「板」と呼んでいたたことも判 明しました。しかし、わたしが最も注目したのは「竺志前國」の部分でした。すなわち、7世紀後半あるいは7世紀末の九州王朝において、「ちくし」の漢字表 記として「竺志」が正字として使用されていたことが明らかとなったのです。
通常、「筑紫」という漢字使いが現在でも一般的ですが、古代の九州王朝では「行政文書」としての木簡に「竺志」が採用されていたことは重要です。『日本 書紀』などでは「筑紫君薩野馬」のように、九州王朝の天子と考えられている人物の名称に「筑紫」の字を使っています。他方、『続日本紀』の文武四年六月条 (700年)には「竺志惣領」という文字表記がありますが、この文字表記が7世紀末の正当なものであったことが、この木簡により証明されたわけです。
なお、同じく『続日本紀』の文武四年十月条には「筑紫総領」という表記もあり、どちらが本来の文字使いなのかが釈然としなかったのですが、今回の木簡出 土により判明したのです。ちなみに六月条の「竺志惣領」は人名が不明ですが、十月条の「筑紫総領」は「石上朝臣麻呂」という人名が記されていることから、 前者は九州王朝の人物(だから名前がカットされた)、後者は近畿天皇家が任命した人物と考えてよいと思います。まさに、王朝交代時期の「ちくし」の代表者 交代を示した記事の文字使いの変化だったのです。
さらに「竺志前國」とありますから、この時期には既に「筑前」と「筑後」に分国されていたことも明確になりました。わたしは九州島を9国に分国したのは 九州王朝の天子・多利思北弧であり、その時期を7世紀初頭とする論文を発表しています。『九州王朝の論理』(明石書店)に採録された「九州を論ず」「続・ 九州を論ず」です。お持ちの方は是非御再読ください。(つづく)