第464話 2012/09/06

「倭国所布評」木簡の冨川試案

 昨晩は初めて群馬県高崎市で宿泊しました。かなり暑い街かと思っていましたが、さすがに9月ですので、それほどではありませんでした。あるいは京
都の暑さで鍛えられていますから、そう感じたのかもしれません。今朝は桐生市に寄り、今は東武特急で浅草に向かっています。この電車からは東京スカイツリーが至近距離で見えますので、いつも楽しみにしています。 ---

 この北関東地方は「両毛」とも呼ばれ、古代史上でも重要な地域で、ヤマトタケル伝承がある「アヅマ(東・吾妻)」の国です。この「吾妻」に関して
気にかかっているテーマがあります。それは神奈川県在住の冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員)が示唆されたことなのですが、「洛中洛外日記」447話で紹介した藤原宮出土「倭国所布評」木簡について、「□妻倭国所布評大野里」の判読不明の文字は「あ」と訓む字ではないかという指摘です。たとえば、「吾妻」=あづま(東)ではないかというアイデアなのです。

 このアイデアが学問上の仮説となるためには、同木簡の精査と「東」を意味する「吾妻」という表記が他の木簡にもあるのかという手続きが必要です。わたしは、面白いけれども今一つ納得のいくアイデアではないと思い、そのような返答をしました。しかし、今回北関東(吾妻の国)の地に来てみると、この冨川試論は一考の余地があるように思えてきました。

 というのも、「倭国所布評大野里」という国名地名の直前にある二文字であり、「□妻」とあるのですから、一応「吾妻」あるいは「阿妻」のような表記も可能性の一つとしてあり得ないことはなく、少なくとも検討はしなければならないと思うに至ったのです。もし「吾妻」であれば、「アヅマ(東)倭国」となり、西の九州王朝倭国に対して、東の大和朝廷倭国との「意図的書き分け」という作業仮説も成立するからです。

 まずは学問の方法(手続き)として、同木簡を見ることから始めたいと思いますが、はたして見せてもらえるものなのでしょうか。

 --- もうすぐ浅草です。明日は大阪で仕事ですので、これから新幹線で京都に帰ります。


第463話 2012/09/04

太宰府「戸籍」木簡の「川ア里(川辺里)」

 今、新潟へ向かう特急北越7号の車中です。左には夕日に映える富山湾、右にはごつごつとした立山連峰(剣岳か)の稜線がちょっと不気味で神秘的です。 ---

 さて、久しぶりに太宰府出土「戸籍」木簡について触れます。8月の関西例会で、わたしは大宝二年の筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡(正倉院文書)につい
て解説したのですが、そのときにわたしが勘違いしていたことについても説明しました。それは、太宰府出土「戸籍」木簡に「川ア里」(アは部の略字)とあったので、同「戸籍」木簡は全て川ア里を対象とした「籍」記事と理解していたのですが、それがどうも勘違いだったようなのです。
同「戸籍」木簡には「建ア(たけるべ)」姓や「占ア(うらべ)」姓が記されており、大宝二年の「川辺里」戸籍断簡にも多数の「建部」姓や「卜部(うらべ)」姓が見えることもあって、両者は共に川辺里の「戸籍」のことと、わたしは当初判断していたのです。しかし、同「戸籍」木簡をよく読むと、木簡上部冒頭に「嶋評」とはありますが、何という「里」を対象としたものかは記されていません。あるいは判読できていません(木簡上部に「嶋一□□」という判読不明文字があります)。

 木簡中の「川ア里」という文字は人名などの記事の途中に記されており、これは、その前あるいは後の人物が「川ア里」に関係する人物であることを「注記」しているのであり、木簡に記された人名すべてが「川ア里」の人々であることは意味していないということに気づいたのです。
もし全員が「川ア里」の人であるならば、文の途中で「川ア里」とわざわざ記す必要はありません。むしろこの木簡は「川ア里」以外の別の「里」の人々の出入り増減を記したものと理解すべきではないでしょうか(同木簡には「又附去」「又依去」という記事もあり、人物の移動を示しているようです)。その中のある人物が「川ア里」に移動したことを注記するために、「川ア里」という地名が文章の途中に記されているようなのです。

 少なくとも、そうした可能性の検証なしに、すべて「川ア里」の人物を対象とした「戸籍」木簡と見るべきではなかったのです。
同「戸籍」木簡中の「嶋評」「川ア里」という地名に目を奪われた、わたしの錯覚だったようです。史料批判は慎重な上にも慎重に行わなければならないと痛感した勘違いでした。

 --- 車窓は漆黒となりました。もうすぐ目的地の長岡に到着します。


第462話 2012/09/03

通古賀の王城神社

 九州歴史資料館を見学した後、太宰府市に戻って、通古賀(とおのこが)の王城神社・清明井・観世音寺・榎寺・大野城百間石垣・国分寺跡・大字大裏・水城跡などを見学しました。弟の直樹はこのあたりの地理にやたら詳しく、おかげで短時間のうちに要領よく廻れました。
 大野城にも初めて登ったのですが、その土塁や石垣の規模は想像以上でしたし、水源の豊富さにも目を見張りました。これならば多くの人々が長期間籠城できると思いました。さすがは九州王朝の都を守る日本列島屈指の山城と言えます。
 通古賀の王城神社でも貴重な「発見」がありました。同地区は筑前国府の有力候補地であり、「古賀」地名も「国衙(こくが)」に由来すると見られていま す。そして、神社の説明が書かれた看板には、この神社の始まりを天智4年(665)に都府楼が造営された時とあったことに驚きました。大宰府政の造営年代 を665年のことと伝承されているのです。
 この天智4年(665)の都府楼造営説は船賀法印(江戸時代の僧侶らしい)による「王城神社縁起」からの引用とのことで、同縁起を何としても見てみたい ものです。都府楼を「天智天皇による造営」とする現地伝承はいくつかの古文献に見えるのですが、天智4年のことと具体的年次が記されたものは初めて見まし た。
 わたしは九州王朝の宮殿である大宰府政庁2期遺構(創建瓦は主に老司2式)の造営を、観世音寺創建時期(白鳳10年、670年。創建瓦は老司1式)との関連から、同時期か少し遅れる時期と考えていましたが、王城神社の伝承では、逆に観世音寺よりも少し早い時期ということになります。いずれにしても、白鳳年間創建という大枠は揺るぎませんが、両者の前後関係は引き続き検討しなければならないなと感じています。


第461話 2012/09/02

九州歴史資料館(小郡市)を初訪問

 昨日、久留米大学公開講座で講演を行いました。「久留米は日本の首都だった — 九州王朝史概論」というテーマで、講演冒頭に「久留米は日本の首都 だった」という胡散臭い演題ですので疑いながら聞いてください、と前置きして中国史書(隋書・旧唐書)に見える「倭国」「日本国」について説明しました。
 おかげさまで、大勢のみなさまに御聴講いただき、盛会でした。最後の質疑応答の時間も、次から次へとご質問をいただき、かなり時間オーバーとなってしまい、主催者にご迷惑をおかけしたのではないかと思っています。久留米大学の福山先生やご協力いただいた久留米地名研究会の古川さんらに御礼申し上げます。
 その前日の8月31日には、弟(古賀直樹)の案内で小郡市に移転した九州歴史資料館を初訪問しました。以前は太宰府市にあったのですが、新しくできた同館にはまだ行ったことがありませんでした。当初は太宰府市の国立九州博物館に行くつもりでしたが、ネットで展示内容を調べたところ、それほど関心のある内容ではなかったので、九州歴史資料館訪問に急遽変更したのです。
 この判断は大正解で、わたしが見たかった太宰府や観世音寺関連の遺物が多数展示してあり、大変勉強になりました。特に、大野城出土「孚石都」刻字木柱、 観世音寺や大宰府政庁2期編年の根拠とされた老司式瓦などが実見できて感動しました。いずれも九州王朝にふさわしい優美さを感じられました。同館入場料は 200円(駐車場は無料)と良心的です。是非、皆さんも訪問されてはいかがでしょうか。まだ真新しくとても美しい建物です。ただし、遺跡や遺物の「解説」 はみごとに旧来の大和朝廷一元史観に基づいていますので、この点は期待されないほうがよいと思います。


第460話 2012/08/29

九州年号改元の手順

 先日、正木裕さん(古田史学の会・会員)が見えられ、最近の研究テーマや話題について意見交換しました。主な話題は札幌市の阿部周一さんが「発
見」された九州年号群史料『日本帝皇年代記』でした。二人ともこのような史料がまだ残されていたことに驚き、おそらくわたしたちがまだ知らない史料が各地に遺されているであろうことなどを話し合いました。古田学派の研究者の数がもっと増え、切磋琢磨して研究レベルを上げることができれば、こうした史料発掘や研究がさらに進むことでしょう。今回の阿部さんの史料発掘には感謝の気持ちでいっぱいです。

 「洛中洛外日記」第459話でご紹介した九州年号改元記事(各地からの白雉などの献上に基づいて改元されたという記事)について、わたしの見解を述べたところ、正木さんからするどい指摘がなされました。それは、改元の動機と手順についての基本的な論理性についてでした。

 正木さんが指摘されたのは、白雉や赤雀・赤雉が献上されたから、白雉・白鳳や朱雀・朱鳥に改元されたのではなく、まず改元の動機となる事件(国家的災難・吉兆や辛酉改元の慣習など)が発生し、ついで改元予定の発表があり、それに基づいて各地から献上品が届けられ、その上で新元号が定められ、最後に改元の詔勅が公布されるのではないか、という考え方です。

 細かい点はいろいろとあるにせよ、基本的に改元とはこうした行政手続きを経て行われるというのは、ある意味で当然のことと思いました。この正木さんの指摘は大変するどいものといわざるを得ません。おそらく、九州王朝内で改元の検討が始まったとき、各地でそれにふさわしい献上品が選択され、九州王朝に競って献上されたのではないでしょうか。新元号の根拠とされた品を献上した国に対しては、昇進や褒美、あるいは課役の免除が行われるからです。『日本書紀』の白雉改元記事を見ても、このことは明らかです。

 この正木さんが指摘された「改元手順の論理性」のおかけで、わたしはある疑問の解決案を思いつきました。それは芦屋市出土の「元壬子年」木簡について抱いていた疑問です。同木簡が九州年号の白雉元壬子年(652)を意味することは疑えないのですが、その記載内容や「書式」に疑問をわたしはずっと抱いていたのです。その疑問の一つは、「元壬子年(以下欠)」と書かれた面と、その裏面の「子卯丑□何(以下欠)」という文字列の書き出しがずれていることです。具体的には「元壬子年」の文字が、裏面の文字列より一字分下にずれて書かれているのです。そのため、「元壬子年」という文字列の上にはかなりの空白があり、「白雉」という年号を記すスペースは十分あるにもかかわらず、何故か空白となっていることに、わたしは疑問を感じていました。

 この疑問に対して、今回の正木指摘に基づいて考えると、この「元壬子年」木簡が記された時点では、新年号は未定だったのではないかという可能性と新理解が浮かんだのです。改元の予告と、新元号が決定されるまでの期間にこの木簡が作られた場合、未定の新年号部分を意図的に空白にしたと考えたのです。そのように考えた場合、この木簡の史料状況がうまく説明できるのですが、いかがでしょうか。

 さらにももう一つの疑問ですが、この木簡の上部は半円形に加工されており、いわゆる荷札木簡とは形状が異なっています(下部は欠損)。おそらくこの木簡は手に持っての使用を想定されたもので、改元に関わる儀礼・儀式に用いられたのではないでしょうか。意味不明の「子卯丑□何」という記載もこうした視点からの検討が必要と思われます。

 阿部さんの史料発掘や正木さんの改元手順の指摘のおかげで、新たな理解に至ることができ、さらなる展開が期待できそうです。


第459話 2012/08/26

『日本帝皇年代記』の九州王朝記事

 阿部周一さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた『日本帝皇年代記』は様々な史料を寄せ集めて編集されていますが、その中に九州王朝系史料からの引用と思われるものが散見されます。それらの史料批判により九州王朝史の復元に寄与できそうです。それら九州王朝記事についてご紹介します。
 九州王朝系記事として注目さるのが、白雉・白鳳・朱雀・朱鳥の九州年号改元記事です。白雉は「壬子白雉」(652)の下の細注に「依長門国上白雉也」と、長門国からの白雉献上に基づいて改元したとあります。この白雉献上記事は『日本書紀』の「白雉元年」(庚戍・650)二月条に記されているのですが、 『日本帝皇年代記』には九州年号の白雉元年(652)に記されており、本来の九州年号史料に基づいていると考えられます。なお、『日本書紀』の白雉改元記事が二年ずらして盗用されていることに関しては、拙論「白雉改元の史料批判」(『「九州年号」の研究』所収)をご参照ください。
 次に白鳳改元記事ですが、「辛酉白鳳」(661)の細注に「依備後国上白雉也」とあり、備後国からの白雉献上に基づいて白鳳に改元したとされています。これは『日本書紀』にも見えない記事で、九州王朝系記事として貴重です。
 朱雀改元記事では、「甲申朱雀」(684)の細注に「依信濃国上赤雀為瑞」と、信濃国からの赤雀献上が記されています。これも『日本書紀』には見えない記事です。
 朱鳥改元でも、「丙戍朱鳥」(686)の細注に「依大和国上赤雉也」とあり、この大和国からの赤雉献上記事も『日本書紀』には見えません。これは九州王朝への赤雉献上記事ですが、近畿天皇家一元史観では「大和の朝廷」への「大和国」からの献上となり、不自然な感じがあります。
 この他にも、『日本帝皇年代記』には九州王朝系記事が見られますので、別途、『古代に真実を求めて』に小論を投稿したいと思います。


第458話 2012/08/25

『日本帝皇年代記』の九州年号

 昨日の深夜、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールが届きました。『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)のことが紹介されており、その中に九州年号が使用されていることや、白鳳10年条(670)に「鎮西建立観音寺」という記事があることなどをお知らせいただきました。『日本帝皇年代記』という年代記はわたしも初めて聞くもので、阿部さんもインターネット検索で「発見」されたとのこと。
 さっそく、お知らせいただいた長崎大学リポジトリ(山口隼正「『日本帝皇年代記』について:入来院家所蔵未刊年代記の紹介」2004.03.26)を閲覧したところ、たしかに今まで見たことのないタイプの九州年号群史料でした。神代の時代から始まり、歴代天皇へと続く年代記ですが、九州年号の善記元年(522)からは九州年号を用いた編年体年代記となり、大化6年(700)までは九州年号を、それ以降は近畿天皇家の大宝年号へと続いています。
 多くの史料から集められた様々な和漢の記事が記されている年代記ですが、なかでもわたしが注目したのは、阿部さんも指摘された白鳳10年(670)の 「鎮西建立観音寺」という記事でした。太宰府の観世音寺創建年を記す貴重な記録ですが、同様の記事が山梨県の『勝山記』に見えることは既にご紹介してきたところです。観世音寺白鳳10年建立を記した史料が、山梨県から遠く離れた鹿児島県の入来院家所蔵本『日本帝皇年代記』にも記されているという史料状況は、観世音寺白鳳10年建立の記事が誤記誤伝の類ではなく、九州王朝系史料に確かに存在していたことを指し示すものです。同年代記の「発見」により、観世音寺白鳳10年建立説は創建瓦の編年との一致も含め、ますます確かなものになったといえます。(つづく)

参考

『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介(上) PDF


第457話 2012/08/23

坂出市にあった讃岐国府

 昨日から仕事で香川県坂出市に来ています。同市の地図を見て知ったのですが、讃岐国の国府は坂出市にありました。恥ずかしながら、わたしは讃岐国
府はてっきり県庁所在地の高松市付近にあるものと勝手に思っていました。本当に情けない話ですが、伊予国府もずっと松山市近郊か伊予郡にあったと思っていたのですが、実は今治市にあったことを合田洋一さん(古田史学の会・四国)から教えていただいたこともありました。もっと四国のことを勉強しなければと、自らの知識不足を痛感しています。

 そういえば、四国高速道路のパーキングエリアに「府中湖」があり、何度も利用したことがあったのですが、この「府中」が国府所在地を意味することに気づかずにいたのでした。また、NHK大河「平清盛」で崇徳上皇の流刑地が坂出市だったことを知ったのですが、なぜ坂出市だったのかがようやく納得できました。坂出市の国府跡の近傍に香川県埋蔵文化財センターがあるのも、よく納得できました。

 同センターの学芸員の方にお聞きしたのですが、国府跡の遺構はまだ確定できていないそうですが、遺物の出土量が多く、「府中」という地名から考えても、この地域(府中町本村)であることはほぼ間違いないでしょうとのことでした。この地に国府が置かれたのは大化期(7世紀中頃)から鎌倉時代までとのことで、それ以前の讃岐の中心領域はどこかたずねたところ、いくつか候補地(観音寺市・善通寺市・高松市)があり、坂出市府中もその一つとのこと。
国府跡の側にある城山(きやま)は石塁や土塁がある古代山城とのことでしたので、いつ頃の遺跡かたずねたところ、発掘調査からは不明で、白村江戦以後(天智期)との通説によっておられました。遺構は岡山県の鬼ノ城によく似たものも出土しているとのことでした。また、石塁は神籠石のような一段列石ではなく、いわゆる朝鮮式山城のような積み石とのことです。

 同地域は山間の狭い地域ですので、なぜこんなところに国府がおかれたのか疑問でしたが、古代官道の南海道が近くを通っていたらしく、そういえば高速道路もJR予讃線もこの付近を通っており、交通の要所であることは確かなようです。

 なお、松山市出土の「大長」木簡が展示される「発掘へんろ」巡回展は9月18日から12月16日まで、この香川県埋蔵文化財センターで開催され、入場無料とのことでした。またそのころに訪問するつもりです。


第456話 2012/08/21

古田武彦コレクション『壬申大乱』復刻

 ミネルヴァ書房より古田武彦古代史コレクション『壬申大乱』が復刻されました。既に復刻された『人麿の運命』『古代史の十字路』とともに、古田万
葉論三部作がそろいました。『壬申大乱』は万葉論にとどまらず、『日本書紀』の「壬申の乱」(天武紀上巻)の史料批判としても画期的な一冊です。
 天武紀の「壬申の乱」については、これまで多くの歴史研究者や作家により、さまざまな研究や解釈が重ねられてきました。それは、『日本書紀』の中で他に
類を見ないほど「壬申の乱」が日付入りで詳細な「記録」が記されていることもあり、様々な論者の注目を浴びやすかったことも一因としてあります。
 他方、古田先生はこの「壬申の乱」については著書や講演会でふれられることはありませんでした。15年以上も昔のことになりますが、なぜ「壬申の乱」に
ついて触れられないのか、古田先生に直接おたずねしたことがあります。そのとき、古田先生の返答は次のようなものでした。
 「『日本書紀』天武紀の壬申の乱の記述は詳しすぎます。これは逆に真実かどうか怪しい証拠です。そのような記述を信用して論をなすことは危ない。」
 というものでした。この先生の言葉に、歴史研究とはかくあらねばならないのか、と深く感銘したものです。今回の『壬申大乱』には、こうした学問の方法に
貫かれた、まったく新たな「壬申大乱」像を読者は見ることができるでしょう。古田ファンには是非読んでいただきたい、珠玉の一冊です。
 また、巻末に新たに書き下ろされた「日本の生きた歴史」では、最新の研究成果が記されています。中でもわたしが注目したのが、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄
剣銘の新理解でした。同銘文にある人名「乎獲居臣」の「臣」は「豆」とする新説や、「左治天下」の「天下」をアマ族が天下った支配領域とする新解釈などで
す。こうした古代金石文の新理解は、他の金石文、たとえば出雲の岡田山1号墳出土の「各田ア臣(ぬかたべのおみ)」銘鉄刀の「臣」や、江田船山古墳出土鉄
剣銘の「治天下」などについても、波及しそうで楽しみです。


第455話 2012/08/12

「史蹟百選・九州篇」の検討

 突然の豪雨や雷で、JR環状線などが止まる中、昨日、関西例会が行われました。

 竹村さんからは、ミネルヴァ書房より発行予定の「古田史学による史蹟ガイド・九州編」(仮称)の企画案が報告されました。おかげで、同ガイドのイメージが一層明確になりました。もちろん、単なる「観光ガイド」ではなく、読んだ人が行きたくなり、古田史学・多元史観の勉強も同時にできるという、そんな切り口の遺跡ガイドになればと思っています。まずは、役員で手分けして古田史学にとって重要な九州の100箇所をピックアップしていきます。ご期待ください。

8月例会の報告テーマは次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
1). 日本書紀の「難波」(豊中市・木村賢司)
2). 「□妻倭国所布評大野里」木簡(向日市・西村秀己)
3). 古田武彦著作で綴る史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)
4). 太宰府「戸籍」木簡と大宝二年「嶋郡川辺里戸籍」(京都市・古賀達也)
5). 高砂と筑紫の「神松」「山ほめ祭」(川西市・正木裕)
6). 「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」木簡の「春草」とは(川西市・正木裕)
7). 杜甫の「鬼」(豊中市・木村賢司)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・ミネルヴァ『壬申大乱』出版・『大日本古文書』「大宝二年嶋郡川辺里戸籍」の確認・会務報告・後藤聡一『邪馬台国・近江説』を読む・その他


第454話 2012/08/12

久留米は日本の首都だった

 9月1日(土)に久留米大学の公開講座で講演します。テーマは九州王朝史概論で「久留米は日本の首都だった」という内容です。15日には正木裕さんも講演されます。詳細は久留米大学ホームページをご覧ください。故郷の馴染み深い久留米大学御井キャンパスでの講演をとても楽しみにしています。ちなみに、わたしは同大学の近隣にある御井小学校を卒業しています。
 同公開講座てで配布されるパンフレットに掲載されるレジュメを下記に転載します。

 久留米は日本の首都だった
     -九州王朝史概論-
    古賀達也(古田史学の会・編集長)
 古田武彦氏が『失われた九州王朝』(朝日新聞社・1973)において、古代中国史書などで「倭国」と記されてきた日本列島の中心王朝は近畿天皇家(大和朝廷)ではなく、太宰府を首都(7世紀)とした九州王朝であることを明らかにされた。すなわち、志賀島の金印を授与された委奴国(1世紀頃)を縁源とする、後に三国志魏志倭人伝に邪馬壱国と称された王朝である(2~3世紀。「邪馬台国」とするのは「ヤマト国」と訓みたいための原文改訂であり、学問的には誤った手法である。)。
 6~7世紀、隋書によれば倭国(「イ妥国」と記されている)には阿蘇山があることも記されており、引き続いて北部九州に都をおいていたことがわかっている。7世紀初頭には、その王「阿毎の多利思北弧」が隋の皇帝に国書を出し、それには「日出ずるところの天子」と自称されている。旧来の日本古代史学界では、この国書を近畿天皇家の聖徳太子によるものとしてきた。しかしそれは誤りであり、古田武彦氏が指摘するように、阿蘇山がある国、九州王朝の国書であることは自明といえよう。
 九州王朝(倭国)は白村江敗戦後の7世紀末には衰退し、701年には倭国の分家筋に当たる近畿の大和朝廷が列島の代表王朝となった。旧唐書に「日本国」と記されているのが大和朝廷である。旧唐書には「日本国は倭国の別種」と記されていることからも、このことは明らかである。
 古田武彦氏による九州王朝説は多くの支持者を得た反面、旧来の日本古代史学界はこれに有効な反論をなし得ず、あろうことか無視を続け、今日に至っている。他方、九州王朝研究の進展に伴い、九州王朝の年号が記された木簡「(白雉)元壬子年(652年)」(芦屋市出土)などが発見された。それら九州年号研究は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。2011)などで発表され、反響をよんでいる。
 このように古田武彦氏の九州王朝説は「多元的歴史観」として、歴史の真実を求める心ある人々からは学問的に正当に評価されているのである。今回の公開講座では、こうした九州王朝史を概説し、7世紀初頭に九州王朝が太宰府を首都としたこと、4~6世紀には筑後地方(中心は現・久留米市)に首都をおいていたことを、文献史学などの成果により明らかにする。さらには、今も筑後地方に九州王朝の末裔の家系が続いていることも紹介する。


第453話 2012/08/12

科学的事実と空気的事実

 今回は古代史から離れますが、科学的事実(古代史では多元史観・古田史学)よりも、社会の「空気」(利害関係に縛られた通念)を「正しい」とする空気的事実(古代史では近畿天皇家一元史観)という、学問・真理と現実社会に焦点を当てた鋭い一文を紹介します。

 執筆者の武田邦彦さんは中部大学教授で、原子力工学・材料工学の専門家です。テレビにもよく出ておられる著名人といってもよいでしょう。下記は氏
のホームページから転載させていただきました。これを読んで、皆さんはどのように感じられるでしょうか。わたしは、古田史学と古代史学界の関係に似ている
ようで、とても考えさせられました。

 

「理科離れ」・・・君の判断は正しい(先輩からの忠告)  武田邦彦

 「理科離れ」が進んでいる。日本は科学技術立国だから250万人ほどの技術者が必要で、少なくなると自動車もパソコンもテレビも公会堂も作れなくなるし、輸出もできずに食料や石油を輸入することもままならない貧乏国になる。

 だから、どうしたら理科離れを防ぐことができるか?と学会、文科省などが苦労している。でも、私は子供に理科をあまり勧められない。

・・・・・・・・・・

 理科が得意な子供は「アルキメデスの原理」を理解できる。そうすると「北極の氷が融けても海水面は上がらない」ということが分かる。それを学校で言うと先生から「君は温暖化が恐ろしいのが分からないのか!」と怒られる。

 理科が得意な子供は「凝縮と蒸発の原理」が理解できる。そうすると「温暖化すると南極の氷が増える」と言うことが分かる。でも、それを友人に言う
と「お前は環境はどうでも良いのか!」といじめられる。反論しても「NHKが放送しているのがウソと言うのか!」とどうにもならない。

 理科が得意な子供は「森林はCO2を吸収しない」ということを光合成と腐敗の原理から理解している。しかし、それを口にすることはできない。「森を守らないのか!」と怒鳴られる。

 物理の得意な大学生は「エントロピー増大の原理から、再生可能エネルギーとかリサイクルは特殊な場合以外は成立しない」ことを知る。でも、そんな
ことを学会で話すことはできない。エントロピー増大の原理を理解している人は少ないし、まして、そのような難解な原理と日常生活の現象を結びつけることが
できる人も少ない。

 日本は「理科を理解しない方がよい」という社会である。「それは本当はこうなんです」と説明すると「ダサい」と言われる。原発が危険な理由を説明すると「お前は日本の経済はどうでも良いのか!」とバッシングを受ける。

 理科を理解できない人が理科を理解している人をバッシングする時代、理科的に正しいことでも社会にとって不都合と思われることを口にできない時代なのだ。だから君が理科を勉強すると不幸が訪れる。「理科離れ」は正しいのだ。

 これほど自然現象を無視した社会では理科を勉強しない方がよい。NHKは科学的事実を報道しているのではなく、空気的事実を報道する。そしてそれが社会の「正」になるし、さらに受信料を取られる。それは極端に人の心を傷つけるものだ。

(平成24年8月11日)