第696話 2014/04/19

隼人の吠声(はいせい)は警蹕(けいひつ)

 本日の関西例会はいつもより発表件数が少なかったこともあり、昨今、マスコミや一般国民も巻き込んで話題となっているSTAP論文騒動について、学問の問題としての視点から、急遽、わたしの見解を発表することとなりました。
 ネイチャー誌に論文を発表したこともなければ小保方さんのSTAP論文(もっとも査読が厳しいとされるネイチャー誌が掲載に値するとした論文)さえもまともに読んだこともないようなマスコミによる常軌を逸したバッシングを「集団によるリンチ(私刑)」ではないかとわたしは思っていましたので、そもそも学術論文とは何か、「お金」のための研究(例えば特許出願。新発見の事業化により社会に貢献する)と真理追究のための学術論文発表(自らの発見や仮説を「公 知」として社会に無償提供し、科学の発展や人類の幸せに貢献する)の性格の違いと、それぞれに必要とされる要件(実験ノートの必要性の有無など。「お金」 のための研究の場合は工業的所有権〔特許権〕の争いを想定して、詳細な日付入り実験ノートの作成が要求される)の違いについて見解を述べました。幸い、多くの例会参加者のご賛同をいただき、昨今のマスコミや御用学者の「多数意見」に惑わされない「古田史学の会」関西例会参加者が多いことに安心しました。
 本日の関西例会では下記の発表がなされました。中でも正木さんの発表は、隼人の吠声(はいせい)とされているものは九州王朝における警蹕(けいひつ。天 子の移動の際の先触れの声)であり、神聖な儀礼の一つであるとされました。警蹕は現在でも神社の御神体の移動などで神官により発声(「おー」という発声)される重要で伝統的な所作であることを、ユーチューブの動画(大麻比古神社〔阿波国一宮〕の御遷座の様子)をプロジェクターの映像で説明されました。
 更に能楽の「翁」の三番叟(さんばそう)の舞に、隼人舞の起源とされる海幸・山幸伝承に記された海幸の奇妙な所作が伝承されているとされ、これもプロジェクターによる映像で説明されました。インターネット時代らしくハイテク技術を駆使して、古代の真実を明らかにするという発表方法も素晴らしいものでし た。

〔4月度関西例会の内容〕
1). 故中小路氏の仏教公伝論について(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
2). STAP論文騒動への批判的考察(京都市・古賀達也)
3). ニギハヤヒを追う(東大阪市・萩野秀公)
4). 「魏年号銘」鏡(京都市・岡下英男)
5). 海幸・山幸と「吠ゆる狗・俳優の伎」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代は輝いていたⅠ』ミネルヴァ書房から復刊。II・III も続刊・古田先生検査入院予定・『古代に真実を求めて』17集編集状況・明石~淡路島ハイキング「絵島」「大和島」見学・紹興本『三国志』に「倭人傳」と いう伝目はない・小磯千尋著『インド哲学と食』・その他


第695話 2014/04/18

一元史観による四天王寺創建年

 先日、西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人、大阪市)より資料が郵送されてきました。4月12日に行われた「難波宮址を守る会」総会での記念講演会のレジュメでした。講師は京都府立大学教授の菱田哲郎さんで、「孝徳朝の難波と畿内の社会」というテーマです。近畿天皇家一元史観による講演資料ですので、特に目新しいテーマではありませんでしたが、四天王寺の創建時期についての説明部分には興味深い記述がありました。
 そこには四天王寺について、「聖徳太子創建は疑問あり」「瓦からは620年代創建 650年代完成」とあり、「620年代創建」という比較的具体的な創建時期の記述に注目しました。かなり以前から四天王寺創建瓦が法隆寺の創建瓦よりも新しいとする指摘があり、『日本書紀』に見える聖徳太子が6世紀末頃に 創建したとする記事と考古学的編年が食い違っていました。菱田さんのレジュメでは具体的に「620年代創建」とされていたので、瓦の編年研究が更に進んだ ものと思われました。
 四天王寺(天王寺)の創建年については既に何度も述べてきたところですが(「洛中洛外日記」第473話「四天王寺創建瓦の編年」・他)、『二中歴』所収 「年代歴」の九州年号部分細注によれば、「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とあり、天王寺(現・四天王寺)の創建を倭京二年(619)としています。すなわち、『日本書紀』よりも『二中歴』の九州年号記事の方が考古学的編年と一致していることから、『二中歴』の九州年号記事の信憑性は高く、『日本書紀』よりも信頼できると考えています。菱田さんは四天王寺創建を620年代とされ、『二中歴』では「倭京二年(619)」とあり、ほとんど一致した内容となってい るのです。
 このように、『二中歴』の九州年号記事の信頼性が高いという事実から、次のことが類推できます。

 1,現・四天王寺は創建当時「天王寺」と呼ばれていた。現在も地名は「天王寺」です。
 2.その天王寺が建てられた場所は「難波」と呼ばれていた。
 3.『日本書紀』に書かれている四天王寺を6世紀末に聖徳太子が創建したという記事は正しくないか、現・四天王寺(天王寺)のことではない。(四天王寺は当初は玉造に造営され、後に現・四天王寺の場所に再建されたとする伝承や史料があります。)
 4.『日本書紀』とは異なる九州年号記事による天王寺創建年は、九州王朝系記事と考えざるを得ない。
 5.そうすると、『二中歴』に見える「難波天王寺」を作った「聖徳」という人物は九州王朝系の有力者となる。『二中歴』以外の九州年号史料に散見される 「聖徳」年号(629~634)との関係が注目されます。この点、正木裕さんによる優れた研究(「聖徳」を法号と見なす)があります。
 6.従って、7世紀初頭の難波の地と九州王朝の強い関係がうかがわれます。
 7.『二中歴』「年代歴」に見える他の九州年号記事(白鳳年間での観世音寺創建など)の信頼性も高い。
 8.『日本書紀』で四天王寺を聖徳太子が創建したと嘘をついた理由があり、それは九州王朝による難波天王寺創建を隠し、自らの事績とすることが目的であった。

 以上の類推が論理的仮説として成立するのであれば、前期難波宮が九州王朝の副都とする仮説と整合します。すなわち、上町台地は7世紀初頭から九州王朝の直轄支配領域であったからこそ、九州王朝はその地に天王寺も前期難波宮も創建することができたのです。このように、『二中歴』「年代歴」の天王寺創建記事(倭京二年・619年)と創建瓦の考古学的編年(620年代)がほとんど一致する事実は、このような論理展開を見せるのです。西井さんから送っていただいた「一元史観による四天王寺創建瓦の編年」資料により、こうした問題をより深く考察する機会を得ることができました。西井さん、ありがとうございま した。


第694話 2014/04/15

JR中央線から富士山を見る

 今朝、特急シナノ号で京都から塩尻・岡谷に行き、今は特急アズサ号に乗りJR中央線で東京・新宿に向かっています。南アルプスのごつごつとした異様な山容の隙間から、秀麗な富士山がときおり顔を見せ、なんだかほっとした気持ちになります。いつもは東海道新幹線で静岡県側からの富士山を見慣れていることもあってか、長野・山梨側から見る富士山はちょっと雰囲気が異なるような気がします。もちろん、どちらの富士山も素晴らしく、日本に生まれて良かった、日本に富士山があって良かったと、つくづく思います。
 その富士山について、小論を書いたことがあります。富士山の「ふじ」の意味と語原についての考察でした。このテーマは何年も考え続けているのですが、最近は「ふ」は「生む・生まれる」の意味ではないかと思うようになりました。というのも、北陸出張で福井県の武生(たけふ)を列車で通過するたびに、なぜ 「ふ」に「生」の字が当てられているのだろうかと不思議に思っていたのです。もしかすると古代日本語で「生む」「生まれる」「生きる」という意味で「ふ」 という言葉があり、その音に漢字を当てる際に「生」の字が選ばれたのではないかと考えました。
 日本古典文学や言語学の研究者にとっては周知のことかもしれませんが、古代日本語の「ふ」という音の意味に「生む」「生きる」という意味があったとすれ ば、富士山の「ふじ」とは「生む(ふ)」「古い時代の神様。じ(ぢ)」の合成語で「創造神」あるいは「生きている神(現人神)」ではないかという作業仮説 (思いつき)に至ったのです。
 この「思いつき」の欠点は、富士山の富士は「ふじ」であり、「ふぢ」ではないということです。ただ『日本書紀』などにも「じ」と「ぢ」が混用されている少数例もあるので、可能性のある「思いつき」ではないでしょうか。傍証としては、静岡県西部に敷知(ふち)郡という地名があり、この「ふち」と富士山の 「ふじ」の語原が共通しているのではないかとも考えています。
 また、「ふ」の神様を示唆する地名に「福井(ふくい)」などがあります。「ふ」の「くい(神)」という合成語です。扶桑も「ふ」の「そ(神)」ではないでしょうか。この点、「洛中洛外日記」40~45話で論究しました「古層の神名」をご参照下さい。
 この「思いつき」が当たっていれば、日本各地に「創造神」あるいは「現人神」を意味する地名や山名が遺存していることになり、多元的「天地創造神話」の可能性もうかがわれ、興味深いと思われるのですが、この「思いつき」はいかがでしょうか。


第693話 2014/04/13

古田武彦『古代は輝いていた I』復刊

 ミネルヴァ書房から古田先生の『古代は輝いていた I』が復刊されました。同書は古田先生による九州王朝通史で、全3冊の最初の一冊です。副題に「『風土記』にいた卑弥呼」とあるように、縄文時代から『三国志』倭人伝までの九州王朝の淵源から弥生時代の邪馬壹国までが論述されています。
 1984年(昭和59年)に本書は朝日新聞社から発刊され、後に文庫化されました。古田史学による初めての本格的通史であり、かつ刺激的な新発見が全3巻に掲載され、多くの古田ファンが魅了されました。今回の第1巻での新発見は、『三国志』倭人伝の女王卑弥呼(ひみか)が、「筑紫国風土記」に「甕依姫」 (みかよりひめ)として記されていることを発見、論証されたことです。本当に衝撃的な新発見で、わたしも大きな刺激を受け、北部九州の現地伝承や現地史料の再調査を改めて実施した記憶があります。
 これから第2巻、第3巻が引き続き復刊されますが、いずれにも当時としては画期的な新発見やテーマが取り扱われており、ミネルヴァ書房からの復刊により、新たな古田ファンが誕生することでしょう。まだお持ちでない方がおられたら、是非これら3冊を書架にそろえられることをお勧めします。


第692話 2014/04/11

近畿天皇家の律令

 第691話で、 藤原宮で700年以前の律令官制の官名と思われる木簡「舎人官」「陶官」が出土していることを紹介しましたが、実はこのことは重大な問題へと進展する可能性を示しています。すなわち、藤原宮の権力者は「律令」を有していたという問題です。一元史観の通説では、これを「飛鳥浄御原令」ではないかとするのですが、九州王朝説の立場からは「九州王朝律令」と考えざるを得ないのです。
 たとえば、威奈大村骨蔵器銘文には「以大宝元年、律令初定」とあり、近畿天皇家にとっての最初の律令は『大宝律令』と記されています。この金石文の記事を信用するならば、700年以前の藤原宮で採用された律令は近畿天皇家の律令ではなく、「九州王朝律令」となります。そうすると、当時の日本列島では最大規模の朝堂院様式の宮殿である藤原宮で「九州王朝」律令が採用され、全国統治する官僚組織(「舎人官」「陶官」など)が存在していたことになります。ということは、藤原宮は「九州王朝の宮殿」あるいは「九州王朝になり代わって全国統治する宮殿」ということになります。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」と する西村秀己説の検討も必要となりそうです。
 九州王朝の実像を解明るためにも、藤原宮出土木簡の研究が重要です。わたしは「多元的木簡研究会」の創設を提起していますが、全国の古田学派研究者の参画をお待ちしています。


第691話 2014/04/08

近畿天皇家の宮殿

 このところ特許出願や講演依頼(繊維機械学会記念講演会)を受け、その準備などで時間的にも気持ち的にも多忙な日々が続いています。若い頃よりもモチベーション維持に努力が必要となっており、こんなことではいけないと自らに言い聞かせている毎日です。

 さて、701年を画期点とする九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の実体について、多元史観・古田学派内でも諸説が出され、白熱した論議検討が続けられています。「古田史学の会」関西例会においても「禅譲・放伐」論争をはじめ、様々な討議が行われてきました。
 そこで、701年以前の近畿天皇家の実体や実勢を考える上で、その宮殿について実証的に史料事実に基づいて改めて検討してみます。もちろん『日本書紀』 の記事は、近畿天皇家の利害に基づいて編纂されており、そのまま信用してよいのかどうか、記事ごとに個別に検討が必要であること、言うまでもありません。 従って、金石文・木簡・考古学的遺構を中心にして考えてみます。
 『日本書紀』の記事との関連で、700年以前の近畿天皇家の宮殿遺構とされているものには、「伝承飛鳥板葺宮跡」(斉明紀・天武紀)、「前期難波宮遺 構」(孝徳紀)、「近江大津宮遺構(錦織遺跡)」(天智紀)、「藤原宮遺構」(持統紀)などがよく知られています。「前期難波宮」と「近江大津宮」については、九州王朝の宮殿ではないかとわたしは考えていますので、近畿天皇家の宮殿とすることについて大きな異論のない「伝承飛鳥板葺宮跡」と「藤原宮遺構」 について今回は検討してみます(西村秀己さんは、「藤原宮」には九州王朝の天子がいたとする仮説を発表されています)。
 幸いにも両宮殿遺構からは多量の木簡が出土しており、両宮殿にいた権力者の実像が比較的判明しています。たとえば「伝承飛鳥板葺宮跡」の近隣にある飛鳥池遺跡から出土した木簡には「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」などと共に、「詔」の字が記されたものも出土していることから、その地の権力者 は「天皇」を名乗り、「詔勅」を発していたことが推測されます。
 「藤原宮遺構」からは700年以前の行政単位である「評」木簡が多数出土しており、その「評」地名から、関東や東海、中国、四国の各地方から藤原宮へ荷物(租税か)が集められていたことがわかります。これらの史料事実から、700年以前の7世紀末に藤原宮にいた権力者は日本列島の大半を自らの影響下にお いていたことが想定できます。
 その藤原宮(大極殿北方の大溝下層遺構)からは700年以前であることを示す「評」木簡(「宍粟評」播磨国、「海評佐々理」隠岐国)や干支木簡(「壬午年」「癸未年」「甲申年」、682年・683年・684年)とともに、大宝律令以前の官制によると考えられる官名木簡「舎人官」「陶官」が出土しており、 これらの史料事実から藤原宮には全国的行政を司る官僚組織があったことがわかります。7世紀末頃としては国内最大級の礎石造りの朝堂院や大極殿を持つ藤原宮の規模や様式から見れば、そこに全国的行政官僚組織があったと考えるのは当然ともいえます。
 こうした考古学的事実や木簡などの史料事実を直視する限り、701年以前に近畿天皇家の宮殿(「伝承飛鳥板葺宮跡」「藤原宮遺構」)では、「詔勅」を出したり、おそらくは「律令」に基づく全国的行政組織(官僚)があったと考えざるを得ないのです。九州王朝から近畿天皇家への王朝交代について論じる際は、 こうした史料事実に基づく視点が必要です。


第690話 2014/04/06

朝来市「赤淵神社」へのドライブ

 昨日はお花見を兼ねて、兵庫県朝来市までドライブしました。高速道路を使って京都から3時間ほどの行程で、途中、有名な山城の竹田城を車窓から見ることもできました。今回のドライブの一番の目的は、九州年号史料(常色元年〔647〕など)の『赤渕神社縁起』を持つ赤淵神社を訪問することでした。地図などでは「赤渕神社」と表記されることが多いのですが、同神社紹介のパンフレット(旧「和田山町教育委員会」発行)には「赤淵神社」とありましたので、今後は神社名は「赤淵神社」、史料名としては『赤渕神社縁起』と記すことにします。
 残念ながら宮司さん(国里愛明さん)はご不在でしたので朝来市和田山郷土歴史館に行き、『和田山町史』(平成16年発行・2004年)をコピーさせていただきました。赤淵神社のパンフレットも同館で入手したものです。入館料や駐車料金も無料で、とても親切な歴史館でした。そこでの展示パネルを見て驚いたのですが、同地の円龍寺には白鳳時代のものと思われる小型の金銅菩薩立像(32cm)があることでした。
 更にこんな山奥の狭い地域にもかかわらず多くの古墳があり、三角縁神獣鏡などが出土していることも注目されました。朝来市発行の観光パンフレットなどによれば、朝来市和田山筒江にある「茶すり山古墳」は近畿地方最大の円墳(直径約90m、高さ18m。5世紀前半代)とのことで、未盗掘だったため、長さ 8.7mの木棺からは多数の副葬品が出土しています。
 北近畿豊岡自動車道の山東パーキングエリアに隣接している朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」には同地の古墳などからの出土品が展示されており、まだ真新しく、しかも入館料・駐車料ともに無料でした。一般道路からも入れますので、おすすめです。遺跡等を紹介したパンフレットも多数あり、それらも無料でしたのでいただいてきました。展示品には「茶すり山古墳」出土の「蛇行剣」とその複製品に目を引かれました。
 天長5年(828)成立の九州年号史料『赤渕神社縁起』や、『古事記』(和銅5年成立・712年)よりも成立が古い『粟鹿大神元記』(和銅元年成立・ 708年)で著名な「粟鹿神社」、そして近畿地方最大の円墳「茶すり山古墳」などが存在する朝来市は予想以上にすごいところでした。「粟鹿神社」を最後に訪問して京都に帰りましたが、朝来市の桜も京都鴨川の桜並木も満開で、快適なドライブでした。


第689話 2014/04/03

近畿天皇家の称号

 近畿天皇家が701年の王朝交代以降は「天皇」を称号としていたことは明確ですが、それ以前については古田学派内でも諸説あり、やや「混乱」しているようにも見えます。この問題について、実証的に史料事実に基づいて改めて考えてみました。
 まず、古田先生の著作では史料根拠を提示して、7世紀初頭頃には「天皇」号を称していたと論述されています。『古代は輝いていた・3』(朝日新聞社。 269頁)によれば、法隆寺薬師仏後背銘にある「天皇」「大王天皇」を7世紀初頭の同時代金石文とされ、それを根拠に推古ら近畿天皇家の主は「大王」や 「天皇」を称していたとされました。もちろん、九州王朝の「天子」をトップとしての、ナンバーツーとしての「天皇」号です。
 その後の近畿天皇家の称号を確認できる史料根拠としては、飛鳥池遺跡から出土した7世紀後期(天武の頃と編年されています)の「天皇」木簡や「皇子」木簡(舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)があります。これらの史料事実から、近畿天皇家は7世紀前期と後期において「天皇」号を用いていたことがわかります。 これもまた、九州王朝の「天子」の下でのナンバーツーとしての「天皇」です。
 その後、8世紀になると九州王朝に替わってナンバーワンとしての「天皇」号を近畿天皇家は名乗りますが、同時に「天子」や「皇帝」などの称号も併用しています。その史料根拠の一つは『養老律令』です。その「儀制令第十八」には次のように記されています。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
 このように『養老律令』では複数の称号の使い分けを規定しているのです。おそらくこうした「儀制令」の規定は『大宝律令』にもあったと思われますが、その実用例として、和銅五年(712)成立の『古事記』序文(上表文)に、当時の元明天皇に対して「皇帝陛下」と記していますから、701年以後は近畿天皇家の称号として、「天皇」の他にも「天子」「皇帝」を併用していたことがうかがえるのです。おそらくは、九州王朝での呼称(「九州王朝律令」)を先例としたのではないでしょうか。


第688話 2014/04/02

『古田史学会報』121号の紹介

 『古田史学会報』121号が発行されましたので、ご紹介します。アクロス福岡での古田先生の講演要旨などを掲載しました。掲載稿は次の通りです。西村稿は3月の関西例会で発表されたテーマで、もっとも好評だったものです。

〔『古田史学会報』121号の内容〕
○筑紫舞再興30周年記念
「宮地嶽 黄金伝説」のご報告
 古田武彦講演要旨・他(文責:古賀達也)
○一元史観からの太宰府「王都」説
  — 井上信正説と赤司善彦説の運命 京都市 古賀達也
○神代と人代の相似形?
 もうひとつの海幸・山幸  高松市 西村秀己
○『三国志』の「尺」  姫路市 野田利郎
○納音(なっちん)付き九州年号史料の出現
 -熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介-  京都市 古賀達也
○『倭人伝』の里程記事は正しかった
  — 「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算 川西市 正木裕
○2014年度会費納入のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第687話 2014/04/01

和水(なごみ)町「石原家文書」

調査と講演案内

 納音(なっちん)付き九州年号史料が発見された熊本県玉名郡和水(なごみ)町を5月の連休に訪問することになりました。みかん箱二箱分にも及ぶという「石原家文書」を見せていただけるということで、とても楽しみにしています。40代の頃、青森県五所川原市の「和田家文書」調査以来の本格的な古文書調査となりますので、歴史研究者としての血が騒ぎます。調査結果は、6月15日(日)に開催予定の「古田史学の会」会員総会記念講演で報告させていただきます。

 5月3日に和水(なごみ)町に入り、「石原家文書」を見せていただき、翌4日(日)の午後に当地で講演させていただきます。和水町のみなさまにお会いできることも、楽しみにしています。おそらく『隋書』に記されたように、倭国を訪問した隋使の一行は、阿蘇山の噴火を見ていますから、和水町あたりまで訪れたのではないでしょうか。講演では当地のみなさんに古田先生の九州王朝説と九州年号についてご説明させていただきます。詳細は次の通りです。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

講師 古賀達也(古田史学の会・編集長)

演題 「九州年号」の古代王朝

   -阿蘇山あり、その石、火起り天に接す-『隋書』

日時 5月4日(日)13:30~

会場 和水町中央公民館

   熊本県玉名郡和水町江田3883-1

   電話 0968-86-2022

   ※九州縦貫自動車道菊水インターから車で5分

    和水町町役場南隣(駐車場無料)

主催 菊水史談会(問い合わせ先 090-3787-4460 前垣様)

参加費 100円(資料代等)

YouTubeに「納音菊水九州年号」古賀達也として掲載


第686話 2014/03/30

『古田史学会報』120号の紹介

 本年2月に発行された『古田史学会報』120号を遅くなりましたがご紹介します。新年賀詞交換会での古田先生の講演要旨を掲載しました。
 編集後記で西村秀己さんが書かれているように、投稿原稿が「帯に長く襷にも長いものばかり」となっています。また、「古田史学の会・四国」の阿部誠一副会長(今治市)からは、会報の内容が難しい、とのご批判もいただいています。是非、短くわかりやすく面白い原稿を送ってください。会報は皆さんの原稿で成り立っています。ご協力のほど、よろしくお願いします。長文の原稿は『古代に真実を求めて』へご投稿ください。

〔『古田史学会報』120号の内容〕
○「古田史学の会」新年賀詞交換会
 古田武彦講演会・要旨 2014年1月11日 i-site なんば
○「よみがえった筑紫舞30年記念イベント」
 古田武彦講演会のお知らせ
 2014年3月2日(日) アクロス福岡イベントホール
○九州年号「大長」の考察  京都市 古賀達也
○「末廬国・奴国・邪馬壹国」と「倭奴国」
 −何故『倭人伝』に末廬国の官名が無いのか−  川西市 正木裕
○「天朝」と「本朝」
 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 下  札幌市 阿部周一
○「ウィキペディア」の史料批判  京都市 古賀達也
○万葉歌「水鳥のすだく水沼」の真相  川西市 正木裕
○年頭のご挨拶  古田史学の会・代表 水野孝夫
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第685話 2014/03/29

『立正安国論』と『三教指帰』

 わたしは三十代の若き日より、古田先生のもとで日本古代史を学び、自ら研究も行ってきましたが、同時に古田先生の影響を受けて親鸞研究などの日本思想史についても初歩的ではありますが、勉強する機会を得ました。現在、わたしが日本思想史学会の会員であるのも古田先生の薫陶と推薦を受けてのことです。
 わたしは1991年に発表した論文「空海は九州王朝を知っていた」(『市民の古代』13集所収、新泉社)を執筆するにあたり、会社が休みの日は京都府立総合資料館に終日閉じこもり、空海の著作・書簡(全集など20冊以上はあったように思います)を片っ端から読みました。正確には「読む」というよりも「目を通し」ました。こんな無茶な「読書」は若かったからできたことで、今では体力的にも到底できるものではありません。この乱読により、何となく空海の生き様や思想の一端に触れることができ、この経験がわたしにとって初めての日本思想史研究に関わるものでした。
 その翌年には「日蓮の古代年号観」(『市民の古代』14集所収、新泉社。1992年)を発表したのですが、空海のときと同様に膨大な「日蓮遺文」を読み進めました。そして日蓮の代表作のひとつ『立正安国論』(1260年、北条時頼に提出)を読んだとき、その構成や文章に空海の『三教指帰(さんごうしいき)』(797年成立)に似た表現があることに気づきました。
 たとえば、『三教指帰』は仏教・道教・儒教のそれぞれの立場の人物による対話形式をとった構成で、いわば比較思想学の先駆けともいえる著作です。そして、結論として仏教が最も優れているということを主張しています。日蓮の『立正安国論』も主人と客との対話形式をとり、結論として法華経が最も優れた教えであり、国家や民衆を救うために法華経を採用すべきという結論へと導いた内容です。
 似ているのは対話形式という構成だけではなく、たとえば次のような類似点があります。
 空海『三教指帰』巻上
 「善いかな、昔、雀変じて蛤となる。(中略)鳩の心忽ちに化して鷹となる」
 日蓮『立正安国論』第九答
 「鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る。悦しいかな(後略)」
 この他にも『三教指帰』中に見える文章と類似したものがあり、日蓮は空海の『三教指帰』を読んでおり、その影響を受けているのではないかという仮説に、わたしは至ったのです。博覧強記の日蓮であれば、空海の著作を若い頃に修学していたことは、十分に考えられることです。
 この発見を論文として発表するために、本格的に先行説や関連研究について調査を始めたのですが、なんと、昭和41年に同様の指摘が発表されていたことがわかりました。それは岡田栄照さんによる「日蓮遺文にみられる空海の著作」(『印度学仏教学研究』第15巻 第1号所収、昭和41年。日本印度学仏教学会)という論文です。そこには「日蓮遺文」と空海の著作について次のように記されていました。
 「日蓮が修学時代に素読用として使用し、安国論の文体に影響を与えている三教指帰には法華経、法華経文句、摩訶止観が引用されている」
 この学問分野では「日蓮遺文」に空海の著作の影響があることは、既に知られていることだったのでした。この岡田論文に接したとき、わたしの「新発見」が「ぬか喜び」となった残念さと、危うく先人の研究業績を侵害し、自らの不明をさらすところだったと冷や汗をかきました。このときの経験以来、わたしは新説発表の際に先行説の有無に、より注意するようになりました。
 今でも『古田史学会報』編集責任者として投稿原稿の採否では、先行説の有無の確認にいつも悩まされています。30年前(「市民の古代研究会」時代)からの古田学派内の全ての研究論文を知っているわけでもありませんし、記憶しているわけでもありません。そのため、西村秀己さん、不二井伸平さんによるチェックも経てはいますが、どうしても不安な場合は水野代表や他の研究者に聞いたりしています。将来、「古田史学の会」ホームページなどが更に拡充され、全ての古田学派の研究がデジタル化されれば、この問題は大幅に解消されるでしょう。