第517話 2013/01/21

「ガリ」地名の広がり

 先週、雪の中を北陸三県へ出張しました。そのおり偶然、石川県白山市に根上(ねあがり)という地名があることを知りました。この「ねあがり」という地名は吉野ヶ里などと同類の「ガリ」地名ではないかと感じました。
 弥生時代の環濠集落として有名な吉野ヶ里遺跡のように地名接尾語「ガリ」を持つ地名は佐賀平野に多くみられるのですが、筑後川を挟んで東側の筑後平野に
は、わたしの記憶では無かったように思います。このように「ガリ」地名は非常に偏った分布を示します。
 一方、大阪府と奈良県の境にある暗峠の「クラガリ」や、信州尖石遺跡の「トガリ」も同様に「ガリ」地名ではないかと推測しています。さらに東日本大震災
で被災した大曲(おおまがり)も「ガリ」地名のように思えます。もしかすると北海道の石狩平野のイシカリや山口県光市のヒカリもそうかもしれません。
 このように見てみると、「ガリ」地名は日本列島内の広範囲に分布している可能性があります。この「ガリ」の意味はよくわかりません。地名接尾語「が
(賀)」に「り(里)」がついたのかもしれませんが、今のところ不明とせざるを得ません。これら地名成立がいつの時代まで遡るのかも今後の課題です。どな
たか調査研究してみませんか。


第516話 2013/01/19

倭人伝の官名と青銅器

 本日の関西例会は新年最初にふさわしく、優れた研究発表が続きました。中でも正木さんの発表は驚きのあまり参加者が拍手を忘れるというほど優れたものでした。詳細は「古田史学会報」で発表予定ですが、倭人伝に記された伊都国や奴国の官職名が古代中国の祭祀に用いられた青銅器に由来するというものです。
 服部さんは初めての例会発表でしたが、これもまた優れたもので、「古田史学会報」への寄稿を要請しました。「法隆寺の物差しは中国南朝尺の材」とされた川端俊一郎説への批判ですが、わたしも疑問に感じていた点を鋭く指摘されました。
 竹村さんの発表は、日本列島や沖縄の縄文人と東てい(魚是)国との関係に言及したもので、今後の展開が期待されます。
 わたしからは、新潟県「城の山古墳」から出土した盤龍鏡は九州王朝からのものとする考察を発表し、大和朝廷一元史観による新聞発表を批判しました。また、七世紀の須恵器編年についての報告では、前期難波宮創建を天武朝とする小森俊寛説が成立しないことと、大宰府政庁の須恵器編年と近畿の須恵器編年との矛盾について論じました。
 1月例会の報告テーマは次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 「法隆寺の物差しは中国南朝尺の材」は成り立つか(八尾市・服部静尚)
2). てい(魚是)海(木津川市・竹村順弘)
3). アンチョビとキュウリエソ(木津川市・竹村順弘)
4). 古田武彦著作で綴る史蹟百選・九州篇その2(木津川市・竹村順弘)
5). 新潟県「城の山古墳」出土盤龍鏡の考察(京都市・古賀達也)
6). 7世紀の須恵器編年 — 小森俊寛説が成立しない理由(京都市・古賀達也)
7). 「魏志倭人伝」伊都国・奴国の官名 — 仁平さんとともに(川西市・正木裕)
8). 北河堀町所在遺跡発掘調査現地説明会資料の解説(京都市・古賀達也)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・賀詞交歓会の報告・中村通敏氏「大津透説批判CD」・谷川清隆氏「日本書紀成立に関する一試案」・その他


第515話 2013/01/18

新潟県「城の山古墳」出土の盤龍鏡

 先日、四国出張の際に高松市で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人・会報編集担当・会計担当)と夕食をご一緒しました。西村さんは古田先生のご近所(向日市)から高松市に転居されたので、同地でお会いすることとなりました。研究情報の交換や、「古田史学の会」の運営などについて意見交換を行い、楽しい一夕となりました。
 その翌朝、ホテルで読んだ読売新聞(2013/01/16)に「新潟の古墳に中国製銅鏡」という記事がありました。あいもかわらず大和朝廷一元史観により解説された内容で、「大和政権からもたらされた可能性が高い」とか「日本書紀の記述より300年も前に、大和政権の影響がこの地に及んでいた」などの記事が並んでいました。
 同紙によれば、胎内市の「城の山」古墳(四世紀前半)から昨年出土した銅鏡が、後漢(1世紀後半~2世紀前半)か魏晋代(3世紀中頃)に作られた中国製の盤龍鏡(直径約10cm)だったとのことです。この記事が正しければ、九州王朝説の立場から次のような推察が可能です。
 まず、この古墳の主は、魏晋朝と交流があり大量の中国鏡を授与された邪馬壱国・九州王朝の影響下にあったと考えられます。
 次に、この古墳の主(一族)は、後漢・魏晋代の鏡を九州王朝から下賜され(その時期は不明)、それを4世紀まで持ち続け、墓に埋納したのですから、少なくとも古墳時代には九州王朝を盟主として仰いでいたはずです。
 その4世紀前半という古墳の編年からすれば、関東よりも新潟の方がより早く九州王朝の影響下に入った可能性が考えられます。関東が九州王朝の支配下に入ったのは、常陸国風土記に見える「倭武天皇」伝承から判断して、5世紀頃と思われます。
 出土した銅鏡が、近畿を中心に分布する三角縁神獣鏡ではなく、盤龍鏡であることも留意すべき点でしょう。
 おおよそ以上のように新聞記事から推察しましたが、最終判断は実物や他の出土品等を見た上で行うべきこと、言うまでもありません。新聞紙面などで「大和朝廷の影響」というような記事があれば、「九州王朝の影響」と読み変えれば、より多元的古代の真実に近づけるのではないでしょうか。


第514話 2013/01/15

「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告
されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話
しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であ
り、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた
民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論
理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容
だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあ
り、今回書いてみました。


第513話 2013/01/03

王朝交代の古代史

 あけましておめでとうございます。
 平成25年も興味をもっていただけるような充実した「洛中洛外日記」を綴っていきます。
 1月12日の新年賀詞交換会で古田先生のお話を聞いた後は、2月24日(日)の東京での講演(多元的古代研究会主催)の準備に入ります。演題は「王朝交代の古代史 -七世紀の九州王朝-」です。
 この数年、七世紀の九州王朝の復元研究にあたり、八世紀の大和朝廷との比較という研究方法を進めてきました。すなわち、701年を基点とした「王朝の相 似形」という視点で九州王朝の姿を推定するという方法です。例えば、列島の「全国」支配に必要な官僚群と官僚が勤務する役所は、その支配領域や律令支配の 形が九州王朝と大和朝廷でそれほど変わらなければ、両者は701年を基点として同じような規模や形式の宮殿・官衙を有していたはずという考え方です。
 701年直近の大和朝廷の王宮は藤原宮や平城宮ですが、共に大極殿や朝堂院を有した当時としては巨大(列島内最大)なものです。中でも律令体制を維持す るための朝堂院と官衙群を持った王宮であることは、七世紀の飛鳥にあった近畿天皇家の宮殿と比較しても、その差は歴然としています。すなわち、列島内ナン バーワン(701以後)と臣下としてのナンバーツー(700以前)の差です。厳密にいえば、藤原宮は701年をまたいで存在していますので、その位置づけは複雑で、今後の研究課題です。
 比べて、それらに匹敵する九州王朝の王宮・官衙は残念ながら大宰府政丁2期遺構は「内裏」も「朝堂院」も格段に見劣りがします。その理由も今後の研究課題です(白村江敗戦後の造営なのでこの程度の規模になったのではないか)。しかしながら、前期難波宮だけは藤原宮や平城宮に匹敵する規模と形式を有していますから、まさに九州王朝の副都にふさわしいのです。
 2月24日(日)の東京講演ではこうした「王朝の相似形」という方法論を駆使した研究成果を発表します。関東の皆様にお聞きいただければ幸いです。


第512話 2012/12/31

難波宮の礎石の行方

 2012年最後の洛中洛外日記です。12月の関西例会で、わたしが前期難波宮について発表したとき、今後の検討課題とし て何故難波宮が上町台地最北端で最高地点でもある大阪城のある場所に造営されなかったのかという疑問をあげました。そして、難波宮よりやや高台にあたる現 大阪城の場所には別の建築物(逃げ城的な要塞など)があったのではないかというアイデアを示しました。
 このとき西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当)より、大阪城の地は石山本願寺があったところで、もともと「石」がたくさんあったため「石山」という地名がつけられたという情報が寄せられました。お面白いご意見でしたので、このことを大阪歴博学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さんに尋ねました。
 「石山」地名の由来については山根徳太郎さんの説だそうで、礎石などが遺っていたのではないかという説とのこと。そのことに関して、豊臣秀吉時代の大阪城石垣が出土していることを教えていただきました。発掘調査報告書(『大阪城跡?』大阪市文化財協会、2002年)を見せていただいたのですが、その石垣の中に建築物の礎石が転用されていることが写真付きで報告されていました。李さんの説明では、花崗岩の礎石であり、後期難波宮の礎石の可能性があるとのことでした。その根拠として、七世紀までの礎石は凝灰岩が使用されていることが多く、八世紀からは花崗岩が多く使われていることをあげられました。
 難波宮の時代、その北側の大阪城がある場所には何があったと考えられますかと、李さんに質問したところ、おそらく神社など神聖な場所であったと考えているとのことでした。王朝(権力者)にとっても宮殿を造営することさえはばかられる場所として、神聖な「神社(神域)」説はなるほどと思いました。山根徳太郎さんの著作を読んでみる必要がありそうです。
 前期難波宮が焼失後、その上に礎石造りの後期難波宮が造営され、その礎石が石山本願寺や大阪城に再利用され、その上に徳川家康の大阪城が造られたという ことになるのでしょうが、学術調査により明らかになりつつある歴史の変遷に不思議なものを感じます。こうしたことも歴史研究の醍醐味といえるでしょう。
 さて、本年最後の洛中洛外日記もこれで終わりますが、ご愛読いただいた皆様に御礼申し上げます。それでは良いお年をお迎えください。


第511話 2012/12/30

難波宮中心軸のずれ

 大阪歴博の学芸員・李陽浩(リ・ヤンホ)さんとの問答は多岐にわたりました。李さんは建築史や建築学が専門の考古学者ですので、前期難波宮の建築学的論稿も発表されておられ、わたしが矢継ぎ早に繰り出す質問に的確に答えていただきました。中でもわたしが知らなかった難波宮の中心軸が前期と後期とでわずかに角度が振れているという指摘には驚きました。
 李さんの説明では、前期難波宮の中心軸と後期難波宮の中心軸とでは、約7分角度が振れているとのことです(『難波宮祉の研究 第13』2005年)。極めて微妙なぶれですが、よく測定できたものだと驚いたのですが、前期の上に後期を造営しているのに何故ずれているのですかと、わたしは質問しました。それ に対する李さんの解説が見事でしたので、ご紹介します。
 わたしは中心軸が振れているのを「問題」ととらえたのですが、李さんの見解は逆でした。むしろ、よくこれだけ正確に前期の中心軸と「一致」させて後期を再建できたことこそ驚きであるというものでした。そしてその理由として、朱鳥元年(686年)に焼失した後も、その焼け跡の痕跡(柱など)が残っていたから、後期難波宮が前期の中心軸にほとんど重ねて造営することができたのではないかとされたのです。
 更にその考古学的痕跡として、前期難波宮の柱の抜き取り穴に、後期難波宮の瓦片が落ち込んでいる例が発見されており、この事実は686年に焼失した前期 難波宮の焼け残っていた柱が、後期難波宮造営開始時(神亀三年・726)まで残っていたことを意味します。
 こうした考古学的事実から、前期難波宮焼失跡地は後期難波宮建設時まで焼け跡のまま「保存」されていたと李さんは考えておられました。このことは前期難波宮(跡地)を近畿天皇家がどのように考えていたのか、取り扱っていたのかという問題を検討する上で参考になりそうです。
 さらに李さんは後期難波宮の規模や朝堂院部分の位置についても興味深い指摘をされました。前期に比べて後期の朝堂院の規模が小さいのですが、より詳しく見ると前期難波宮の朝堂院中庭部分に後期の大極殿と朝堂院がすっぽりと入る形で造営されています。この事実は前期の焼け跡が残っていたからこそ、建物跡が少ない中庭部分(平地)に後期の大極殿と朝堂院が意図的に造営されたと李さんは考えられたのです。卓見だと思いました。
 李さんは考古学的事実に基づいて仮説や推論を展開される反面、考古学では断定できない部分については判断できないと返答されるので、聞いていても大変波長があいました。二人の問答はさらに続きました。(つづく)


第510話 2012/12/29

歴博学芸員・李陽浩さんとの問答

 先日、大阪歴史博物館を訪問しました。三度目の訪問です。二階のなにわ歴史塾で前期難波宮のことなどを教えていただくのが目的です。今回の「相談員」は同館学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さん。建築学・建築史が専門の考古学者で、前期難波宮についてとても詳しい方で、何を聞いてもただちに発掘調査報告書を提示して、懇切丁寧に説明していただきました。

 今回の質問も前回と同様で、須恵器編年において、1様式の継続期間が平均30年と小森俊寛さんの著書にあるが、それは考古学者の間では「常識」なのか、 もしそうであればその根拠は何かというものでした。李さんは小森さんの著書とこの説についてよくご存じで、次のような回答がなされました。

 須恵器1様式の期間が20~30年とは一般的にいわれている見解ですが、厳密にいうと、新たな様式が出現する「周期」が約25年程度ということで、その 様式が何年続くかは個別に異なるということでした。すなわち、ある様式が発生し25年ほどたつと新様式の土器が出現しますが、それにより前様式の土器が地上から消えてなくなるわけではないということでした。また、土器様式の寿命はそれほど短くはないともいわれました。

 この説明なら、なるほどよくわかります。その上で、李さんが何度も強調された言葉に「クロスチェック」が必要、というものがありました。土器の相対編年だけでは、土器発生の先後関係がわかるだけなので、絶対年を決定するさいには、土器様式相対編年以外の方法や原理に基づいた別の根拠による「クロスチェッ ク」が必要ということです。

 具体的には、年輪年代測定や干支木簡、あるいは文献との整合性で「クロスチェック」しなければならないということでした。これは、古田先生が主張されて いる「シュリーマンの法則」と同じ考え方で、考古学出土事実と文字史料などによる伝承とが一致すれば、それは史実と見なしうる、あるいはより真実と考えら れるという方法です。

 このデータのクロスチェックという方法は自然科学では当然のようになされる基本作業なのです。たとえばわたしの専門の有機合成化学であれば、実験データ だけではなく、その合成方法も記載しなければ学術論文として認められません。なぜなら、合成方法が明示されていれば、他の化学者により実験データが正しい かどうか「再現性試験」が可能だからです。そして、その再現試験結果データと論文のデータがクロスチェックされ、その論文が正しいかどうか判断されるわけです。

 自然科学では当然とされる「クロスチェック」が、考古学編年においても必要であるというのが李さんの返答の核心でした。この点、小森さんの論文は土器様式の相対編年のみで、他の方法に基づいたデータとのクロスチェックがなされていないと批判されました。その上で、前期難波宮整地層の土器編年は水利施設出 土木わくの年輪年代(534年)などによるクロスチェックを経ており、前期難波宮が七世紀中頃の造営であることは動かないとのことでした。

 ちなみに、前期難波宮水利施設出土木わくの年輪年代(534年)については、2000年に出された「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会)で報 告されていますが、その後(2005年)に出された小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には、どういうわけかこの水利施設出土の年輪年代の報告については触れられていません。(つづく)


第509話 2012/12/27

NHK大河ドラマ「平清盛」雑感

 NHK大河ドラマ「平清盛」が終わりました。巷では視聴率が最低だったとか、場面が暗い汚いなどと散々な評判のようです が、わたしはなかなかの名作と思いました。NHK大河ドラマで、わたしが全編を見たのは「平清盛」と「龍馬伝」だけです。どちらも面白かったのですが、平 安時代末期という時代背景や、登場人物の名前が「平○○」「源○○」「○○法皇」「○○上皇」ばかりで、わかりにくかったことも視聴率低迷の要因かもしれ ません。
 しかし、わたしは平安時代の勉強になりましたし、場面の多くが地元の京都市内ということもあって、とても身近に感じられました。それと豪華俳優陣、中でも常盤御前(牛若丸の母)役の武井咲さんや、清盛の妻・時子役の深田恭子さんらの平安時代の衣装をまとった美しさも魅力的でした。清盛役の松山ケンイチさ んの演技や特殊メイクも回を追うごとに迫真さを増し、良かったと思います。この「平清盛」は後世必ずや再評価されるに違いありません。
 古代から中世に移る源平の時代ですが、鎌倉時代に入ると、それまで諸史料に散在していた九州年号が、各種年代暦や『二中歴』(鎌倉時代初頭の成立)などの文献に「九州年号群」史料としてまとまって出現・成立するようになります。この現象を、近畿天皇家という古代王権が衰退したため、別王朝(九州王朝・倭国)の年号である九州年号の「使用」「記述」がはばかられなくなったためと、わたしは理解してきました。ところが、どうもそれだけではないのではないかと思うようになりました。
 もしかすると、中世以降の文献に九州年号が「頻繁」に出現するようになったのは、本当に九州王朝の存在が忘却されたため、別王朝の年号という認識が無いまま「使用」「記述」されたのではないでしょうか。その証拠として、ほとんどの九州年号使用「年代暦」などは、6~7世紀の九州年号が701年からは近畿天皇家の「大宝」年号へと「継続」した表記となっているからです。何者かはわからないまま、古代史料に遺された九州年号を近畿天皇家の年号と「同類視」 し、両者を疑うことなく「継続」表記させたと思われるのです。
 もちろん、例外もあります。江戸時代成立の『襲国そのくに偽僭考』などのように、明確に「九州年号」という表記があり、このことから九州年号を「九州地方の年号」とする認識がうかがわれます。宇佐八幡宮文書にも「教到」を「筑紫の年号」と記されている文書のあることが知られています。これも、九州年号を「筑紫地方の年号」と理解していた痕跡です。
 こうした若干の例外はあるものの、ほとんどの場合は九州王朝の存在が忘却され、「九州年号」が「使用」「記述」されているのです。こうした九州年号史料の日本思想史的な考察・研究も、これからの古田学派の仕事でしょう。
 さて、来年の大河は「八重の桜」です。綾瀬はるかさん演じる山本八重(同志社創立者新島嬢の妻)の生涯をドラマ化したものです。わたしの娘の母校である同志社大学からも新島八重の生涯を漫画で綴った小冊子が送られてきました。なかなかの力の入れようですが、創立者の奥さんの生涯がNHK大河ドラマとなるのですから、当然でしょう。人気女優の剛力彩芽さんや黒木メイサさんも出演されるとのことで、来年の大河ドラマも楽しみにしています。


第508話 2012/12/23

『古田史学会報』113号の紹介

 新年1月12日(土)には恒例の賀詞交換会を大阪(大阪駅前第2ビル4階)で開催し、古田先生のお話をうかがいます。ぜひご参加ください。賀詞交換会の後には懇親会も開催しますので、参加希望者は当日会場でお申し込みください。
 翌週の19日(土)には古田史学の会・関西例会を開催しますが、会場がいつもとは異なりますので、ご注意ください(大阪中央区民センター)。
 『古田史学会報』113号が発行されましたのでご紹介します。

〔『古田史学会報』113号の内容〕
○古田史学の会・四国 例会百回記念講演会  豊中市 大下隆司
○賀詞交換会(古田先生を囲んで)の案内
○「八十戸制」と「五十戸制」について  札幌市 阿部周一
○『書紀』「天武紀の蝦夷記事にいて  川西市 正木 裕
○前期難波宮の学習  京都市 古賀達也
○会報投稿のコツ  編集長 古賀達也
○割付担当のヨタ話? 玉依姫・考  西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記


第507話 2012/12/22

九州王朝の天子たち

 九州王朝が百済救援のため、唐・新羅連合軍との「開戦の詔勅」が『日本書紀』斉明紀六年条(660)にあったことを述べ ましたが、それではこの詔勅を出した九州王朝の天子は誰でしょうか。『日本書紀』に散見される「伊勢王」という不詳の人物がいるのですが、この伊勢王の死亡記事が斉明七年(661)六月条にあります。
 この斉明七年にあたる661年には九州年号が白鳳に改元されていますから、伊勢王が九州王朝の天子であれば、その死去により改元されたこととなります。 この伊勢王を九州王朝の天子とする研究については、正木裕さんによる詳細な論稿がありますので、ご参照ください(「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、「伊勢王と筑紫君薩夜麻」『古田史学会報』86号、他)。
 正木さんの研究によれば、伊勢王は九州年号の常色・白雉年間に評制を施行し、白雉元年(652)には「難波遷都」した天子とされています。九州王朝最後 の天子とされる筑紫君薩野馬(明日香皇子)の父親でもあります。こうした研究成果によれば、七世紀におる九州王朝の歴代天子の系譜は次のように考えられま す。

 阿毎多利思北弧(上宮法皇) 端政元年(589)即位~倭京五年没(622、法興32年) ※筑後から太宰府に遷都(倭京元年)。遣隋使を派遣。九州島を「九州」に分国。
 利歌彌多弗利(カミトウの利) 仁王元年(623)即位~命長七年(646)没 ※多利思北弧の太子(「聖徳」太子か)。
 伊勢王 常色元年(647)即位~白鳳元年(661)没 ※評制を施行。難波遷都。
 筑紫君薩野馬(薩夜麻) 白鳳元年(661)即位~? ※おそらく701年以後の没。白村江戦の戦いで唐の捕虜となり、天智十年(671、白鳳十一年)帰国。

 おおよそこのような系譜が想定されます。もちろん、今後の研究の進展により修正がなされるかもしれませんが、大きくは間違っていないと思います。


第506話 2012/12/21

九州王朝の「開戦の詔勅」

 九州王朝が同盟国の百済復興のため、唐と新羅の連合軍と戦い、白村江の海戦で大敗北を喫し、その後滅亡へと進みました。白村江戦は九州王朝史のクライマックスシーンの一つでしょう。
 この白村江戦にあたり、九州王朝では「開戦の詔勅」が出されたはずと最近考えていました。そこで、『日本書紀』にこの「開戦の詔勅」が遺されているので
はないかと、斉明紀を読みなおしたところ、やはりありました。斉明六年(660)十月条です。百済からの援軍要請と、倭国に人質となっていた百済国王子豊
璋を帰国させ王位につけたいという百済側の要請に応え、百済支援の詔勅が出されています。
 もちろん、『日本書紀』編纂時の造作かもしれませんが、『日本書紀』には九州王朝史書の盗用がかなり見られますので、この「開戦の詔勅」も同様に九州王朝史書からの盗用と思われます。
 わたしはこの「開戦の詔勅」中の次の文が気になっています。

 「将軍に分(わか)ち命(おほ)せて、百道より倶(とも)に前(すす)むべし。雲のごとく会ひ雷のごとく動きて、倶に沙喙(さたく)に集まらば、(以下略)」

 沙喙(さたく)とは新羅の「地名」(六部の一つ。行政地域名)とされており、百道からともに進み沙喙に集まれと命じているのです。沙喙が実際に新羅にあった「地名」ですから、「百道」も具体的な倭国内の地名ではないかと考えたのです。
 というのも、「百道」とは数詞としての「100の道」とは考えにくいのです。たとえば『日本書紀』では数詞の100であれば、「一百」と記すのが通例で
す。「一」がつかない「百」の場合は、国名としての百済(くだら)や人名の百足(ももたり)などのように固有名詞の一部に使用されるケースと、「百姓」
「百僚」などのような成語のケースがあります。「百道」が固有名詞(地名)か成語かはわかりませんが、もし地名だとすれば、博多湾岸にある地名「百道(も
もち)」との関係が気になるところです(早良区、福岡市立博物館などがあります)。
 斉明六年の詔勅中の「百道」を博多湾岸の「百道(ももち)」ではないかとするアイデアは、二十数年前に灰塚照明さん(故人。当時、「市民の古代研究会・
九州」の役員)からうかがった記憶があり、以来、気になり続けた問題の一つでした。今回、九州王朝の「開戦の詔勅」というテーマから再考していますが、そ
の可能性はありそうです。(つづく)