第423話 2012/06/10

古田万葉論三部作『古代史の十字路』復刻

ミネルヴァ書房より、古田武彦万葉論三部作の第二弾『古代史の十字路』が復刻されました(古田武彦古代史コレクション12)。既に復刻された『人麿の運命』と共に古田武彦万葉論の傑作とされる名著で、同書により万葉集研究は歴史学の新たな段階へと発展しました。
同書に収録された「籠もよみこもち」「天の香具山」「春すぎて」「中皇命」「雷山」などの歌や作者についての、多元史観・九州王朝説による画期的な論証 の数々により、万葉集の歌が歴史史料として生き生きと蘇っているのを読者は見ることができるでしょう。そして、万葉集が指し示す古代の真実を知ることがで きるでしょう。
そして同書には有り難いサプライズが最終章に用意されています。読者や古田史学の会・会員(4名)から寄せられた質問・疑問などに対して、ひとつひとつ 丁寧に紹介し、「回答」されているのです。今年一月に大阪で開催された古田史学の会・新年賀詞交換会でのわたしからの質問に対しても7ページを割いて回答 されています。古田学派の研究者・弟子としてこれほど有り難く名誉なことはありません。
古代史ファンだでなく、万葉集ファンにも是非読んでいただきたい一冊です。そして三部作のもう一冊『壬申大乱』の復刻も待ち遠しいものです。

 


第422話 2012/06/10

「十五社神社」と「十六天神社」

 先日訪れた天草で見た「十五社神社」が気になり、ネットで調べたのですが、阿蘇十二神などを含む十五柱の祭神が祭られて いるため「十五社神社」と称されたとする説明や、「龍王」が訛って「じゅうご」と呼ばれたことにより「十五社」と当て字されたとする説などがあるようで す。
 わたしは「十五柱の祭神が祭られているため」とする説には賛成できません。なぜなら、祭神の数で命名されたのであれば、十五社だけでなく、「十一社」や 「十二社」、「十三社」、「十四社」という名前の神社も多数あってしかるべきですが、そのような神社名はあまり聞いたことがありません。やはり、本来の語 源の音(おん)に対して、後世「十五社」という字が当てられたとするべきでしょう。もちろん先に紹介した「龍王」がその語源かどうかは、わたしにはまだわ かりません。
 わたしがこのように判断したのには、ある一つの研究経験があったからです。それは筑前に多数分布する「十六天神社」についての研究と考察の経験です。通 常、この「十六天神社」についても、天神・地神が十六柱祭られているからと説明されることが多いのですが、「十五社神社」と同じ理由から、わたしはこの説 明に納得できなかったのです。それならなぜ「十七天神社」「十八天神社」「十九天神社」が無いのかという理由からです。
 ところが筑前の地誌などを調べてみると、この「十六天神社」の祭神を埴安彦・埴安姫とするものがあることに気づいたのです。というのも、同じく筑前に数 多く分布する神社に地禄神社があり、その祭神が埴安彦・埴安姫なのです。そこでわたしは、「ぢろく」あるいは「じろく」と呼ばれていた神社の当て字に「地 禄」と「十六」が用いられ、それぞれ「地禄天神社」「十六天神社」となり、後世にいたって「十六天神社」の方は十六柱の天神・地神を祭神とする付会がなさ れたのではないかと考えるに至ったのです。
 このように考えれば、筑前に濃密に分布する「十六天神社」と「地禄天神社」が共に祭神を埴安彦・埴安姫とする状況をうまく説明できるのです。しかし、問 題はこの次です。なぜ埴安彦・埴安姫が「ぢろく天神社」に祭られたのかという問題です。日本書紀神話では埴安神はイザナミがカグツチ神を生んだときにその 糞から生成した神とされ、「土の神」とされています。その「土の神」がなぜ「天神」とされ、「ぢろく」と呼ばれているのかが研究課題として残っているので す。
 おそらく、埴安彦・埴安姫は天孫降臨以前の北部九州の土着の神々ではなかったかと想像していますが(「地禄田神」という表記もあり、興味深いと思います)、天草の「十五社神社」の縁源とともに、これからも検討していきたいと考えています。


第421話 2012/06/09

『古田史学会報』110号の紹介

 一昨日と昨日、鹿児島県・熊本県・宮崎県を仕事で回ってきました。天草市で宿泊したのですが、途中、八代市や宇土半島を通過しました。同地域は、『倭姫世記』に記された「淡海」を琵琶湖ではなく八代市河口とされた西村秀己さんの研究以来、古田学派内で注目を浴びていること もあって、出張のついでとは言え実見することができてラッキーでした。
宿泊した天草では、「十五社神社」という今まで知らなかった神社が散見され、興味を引かれました。このことについては、別途書きたいと思います。
『古田史学会報』110号が発行されましたのでご紹介します。拙論「観世音寺・大宰府政庁II期の創建年代」の他、札幌市の期待の新人、阿部周一さんの 「無文銀銭」-その成立と変遷-などが掲載されています。阿部稿はなかなかの労作で、九州王朝と無文銀銭の関係を詳しく考察されています。
掲載論文・記事は次の通りです。なお、六月十七日には古田史学の会会員総会と記念講演を開催しますので、会員の皆様のご出席をお願いします。記念講演会は非会員の方も参加できます。

〔『古田史学会報』110号の内容〕
○観世音寺・大宰府政庁II期の創建年代  京都市 古賀達也
○補遺 観世音寺建立と「碾磑」  川西市 正木 裕
○「無文銀銭」–その成立と変遷  札幌市 阿部周一
○磐井の冤罪 IV  川西市 正木 裕
○「邪馬一国」は「女王国」ではない
-『東海の古代』の石田敬一氏への回答-  姫路市 野田利郎
○(書評)古田武彦著『人麿の運命』 京都市 古賀達也
○遺跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○古田史学の会会員総会・記念講演会(六月十七日)のご案内
○「古田史学会報」原稿募集


第420話 2012/06/02

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。第352話「和歌木簡と九州年号」でもふれましたが、万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。

 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」 (647)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(652)の可能性もありますが、『日 本書紀』によれば652年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。

 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。 そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。 ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。

 さらに言えば、7世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(661)、「朱雀元年」(684)、「朱鳥元 年」(686)、「大化元年」(695)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となるのですが、661年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。 684年と686年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。

 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は7世紀中頃にならざるを得ないと言 う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を7世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。


第419話 2012/05/30

前期難波宮の「戊申年」木簡

 東京に来ています。昨日は足利市に行きましたが、途中で開業後初めて東京スカイツリーを間近で見ました。やはり大きいですね。おそらく、古代の人々が法隆寺や観世音寺の五重の塔を見上げたときも、同じような感慨を抱いたのではないでしょうか。今日はこれから福島市へ向かい、夜は山形市で宿泊予定 です。

 難波宮編年の勉強のために『大阪城址2』(2002、大阪府文化財調査報告研究センター)を読んでいますが、この発掘調査報告書にはわが国最古の紀年銘 木簡である「戊申年」(648)木簡の報告が掲載されています。この木簡の出土が、前期難波宮の時代特定に重要な役割を果たしたことは既に紹介してきたと ころですが、今回その発掘状況と史料性格(何のための木簡か)を詳しく知りたいと思い、大阪市立歴史博物館に行き、同報告を閲覧コピーしました。

 同報告書によれば「戊申年」銘木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その谷だった所(7B地区)の地層の「16層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含するとともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積層である。」(12頁)とされています。この花崗岩は化学分析等によって上町台地のものではなく、前期難波宮造営に伴って生駒山・六甲山・滋賀県田上山などから人為的に持ち込まれた とのことです。

 木簡の出土は33点確認されており、その中の「11号木簡」とされているものが「戊申年」銘が記されたものです。この他にも、「王母前」「秦人凡国評」や絵馬も出土しており、大変注目されました。

 これら花崗岩や木簡が出土した「16層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、 「難波3新」で660~670年頃とのことでした。従って、「戊申年」(648)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡作成後10~20年たっ て廃棄されたと考えられるとのことでした。積山さんの推測としては、同木簡などは前期難波宮のどこかに保管されていたもので、660~670年頃に廃棄されたのではないかとのことでした。

この積山さんの見解を正木裕さんに話したところ、これは近江遷都と関係しているのではないかとのアイデアが出されました。近江遷都は『海東諸国紀』によれば白鳳元年(661)、『日本書紀』によれば天智6年(667)とされていますが、同木簡廃棄時と同時期です。もしかすると近江遷都にともなって難波宮にあった文物の引っ越しがあり、その時に不要な木簡類が廃棄されたのではないかと想像しています。


第418話 2012/05/27

土器「相対編年」と「絶対年代」

 難波宮土器編年の勉強を続けていますが、その主要課題の一つに、土器様式の前後関係に基づく「相対編年」が、どのように 「絶対年代」とリンクされているのかということがあります。今回、前期難波宮の発掘調査報告を閲覧し、七世紀の畿内における土器「相対編年」と「絶対年代」との関連について、考古学者が何を根拠にどのように判断しているのかが分かってきましたので、少し紹介したいと思います。
「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)によれば、難波宮遺跡の編年は難波1期(5世紀)から難波5期(8世紀前葉~9世紀初)までに分類されており、「難波3中」が前期難波宮の時代で7世紀中葉とされています。

 こうした土器「相対編年」の中で「絶対年代」を確定できた年代は「定点」と称されています。たとえば「難波2新」段階は6世紀後葉~7世紀初頭と編年さ れていますが、その根拠となった「定点」は、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年(年輪年代測定により616年とされている)から求められてます (狭山池調査事務所1998)。

 前期難波宮の時代の「難波3中」段階は、この土器と同様式の土器が出土している兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡SD01(兵庫県教育委員会1997)の「元壬子年」(652、通説では「三壬子年」と釈文されています)木簡の年代が「定点」として採用されています。

この他にも7世紀における「定点」資料・遺構があるのですが、年輪年代測定のような自然科学的分析で絶対年代を特定し、一緒に出土した土器の「相対年代」とリンクするという方法は論理的・科学的で説得力があります。わたしもこうした「定点」と土器「相対編年」の最新考古学の成果を知ることができ、九州 など他の地域への展開が必要と思われました。


第417話 2012/05/26

前期難波宮の「年輪年代」

 太宰府編年の小論を書き終わったので、今は難波宮考古学編年の勉強を続けています。先日も大阪市立歴史博物館に行き、二階の「なにわ塾」で発掘調査報告書を閲覧したり、同館学芸員の積山洋さんから難波宮編年についていろいろと教えていただきました。

 その積山さんから勧められて読んだのが、「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)でした。難波宮の北西に位置する旧大阪市中央体育館跡地の発掘調査報告なのですが、そこから出土した前期難波宮時代の水利施設遺構について大変重要な報告が記載されていましたのでご紹介したいと思います。

 その遺構は谷から湧き出る水を通す石造の施設で、そこには大型の水溜め木枠が設置されており、その木枠の伐採年が年輪年代測定により634年であると記 されていました。そしてその石造遺構の下層と石を固定する客土に大量に含まれていた土器が、前期難波宮整地層に含まれている土器と同様式で、共に七世紀中葉と編年されています。従って、この水利施設は前期難波宮の造営時から使用され、宮内に井戸がなかった前期難波宮のためのものであることが判明しました。

 この年輪年代測定による伐採年(634)が明らかな木枠と、同じく難波宮北方から出土した「戊申年(648)」木簡は、長く論争が続いた前期難波宮の年代について、相対編年による土器様式と絶対年代を関連付ける貴重な資料となったようです。

 同報告には、「今回得られた年輪年代のデータや、『戊申年』銘木簡などの暦年代のいくつかの定点を併せて検討すれば、前期難波宮の造営期は7世紀中葉に 明確に位置づけることができるであろう。」(85頁)、「前期難波宮がいつつくられたのか、長年の論争に対しSG301(石造水利施設のこと:古賀)の No.1の年輪年代は、遺跡、遺構を解釈する上で貴重な年代情報となるであろう。」(208頁)と記されています。

 今回、わたしは大阪市立歴史博物館を訪れて、前期難波宮の編年を確定した水利施設遺構や木枠の年輪年代の存在について知ることができ、大変よい勉強になりました。


第416話 2012/05/25

日蝕(は)え尽きたり

21日の金環食を見られた方は多いと思いますが、わたしも出勤前に拙宅の二階の窓から、東山の上で起きた世紀の天体 ショーを観察することができました。その後、自転車で勤務先に向かったのですが、都大路や路地(ろーじ)でたくさんの人々が一斉に空を見上げている光景 に、なんだか幸せな気分になりました。ホテルの玄関先でも修学旅行生たちが大勢で日食を見ていましたが、京都での金環食は良い思い出になったのではないで しょうか。また、御池通りの並木の木漏れ日が、歩道に無数の三日月状となっていたことにも感動しました(ピンホールカメラの原理による)。
わが国最初の日食記事は、「日本書紀」推古28年(620)三月条に見えます。「日蝕(は)え尽きたり」と記されており、「尽きたり」とありますから皆 既日食のようです。岩波新書『星の古記録』斉藤国治著(1982年刊)によれば、この時の日食は奈良県飛鳥では最大食分0.93ほどで、皆既日食ではな く、「尽きたり」というのは「単なる文飾」とされています。ところが、第263話(「古代天文学」の近景)でご紹介しました谷川清孝さんらの論文「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』第11巻3・4号、2008年)によれば、推古28年の日食は最新の計算(微調整)によれば皆既日食であるとのことです。
このように最新科学(天文学)の成果による文献史学へのサポートは、歴史研究に大きな貢献を果たしており、ありがたいことです。なお、推古28年条の日食観測は奈良県飛鳥で行われたものか、九州太宰府で行われたものかという興味深いテーマを内包しているのですが、更なる天文学の発展により将来解明される かもしれません。楽しみな課題です。


第415話 2012/05/20

碾磑と水碓

 昨日の関西例会では、大下さんから碾磑(てんがい)と水碓(みずうす)についての研究発表がありました。これは正木さん による観世音寺の碾磑についての発見に触発されたものです。大下さんによれば、碾磑と水碓とは異なり、「日本書紀」天智10年(670)「是歳」条は「水 碓」であり、観世音寺に現存する「碾磑」とは別物とされました。
 その上で、「日本書紀」推古18年条(610)に見える「碾磑」が観世音寺に現存するものではないかとされ、観世音寺の創建年は610年頃とする見解を発表されました。
 これに対して正木さんは、「日本書紀」編纂時には碾磑と水碓が同じものと認識されていたと反論されました。今後の研究の展開が楽しみです。
 5月例会の内容は次の通りでした。

〔5月度関西例会の内容〕
1). 伊勢松阪の住人(豊中市・木村賢司)
2).台湾旅行・他(豊中市・木村賢司)
3).倭人字磚の倭人同盟(木津川市・竹村順弘)
4).漢書地理志の倭人と東てい(魚是)人(木津川市・竹村順弘)
5).黒歯常之と黒歯国(木津川市・竹村順弘)
6).『三角縁神獣鏡研究事典』(京都市・岡下英男)
7).接頭語「い」(明石市・不二井伸平)
8).豊受大神の探索(大阪市・西井健一郎)
9).碾磑と水碓 観世音寺創建は610年代(豊中市・大下隆司)
10).任那(百済南西部)の百済への割譲と九州王朝(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・「三国志」版本研究の調査・「国分寺」九州王朝創建説・その他


第414話 2012/05/17

「遠の朝廷」考

今日は新潟県長岡市に来ています。これから上越新幹線で東京に向かい、午後は化成品業界団体の会合に出席します。
さて、大伴家持の「遠のミカド」については、越の国が継体天皇の出身地であるからとする古田先生の説で一応の納得をしたのですが、わたしにはなお疑問が 残っています。それは、「遠の」というのは「昔の」という意味なのか、文字通り「遠いところの」という意味なのかという疑問です。
家持の「遠のミカド」については「遠い昔の継体天皇の出身地」と古田先生は解されたのですが、万葉集の他の用例、たとえば家持が筑紫(福岡県)のことを 「遠の朝廷」と詠んだ歌もあります(巻二十、4331)。更には聖武天皇が筑紫のことを「遠の御朝廷」と詠んだ歌さえもあります(巻六、973)。この 時、九州王朝から大和朝廷に権力交代してから30年くらいしかたっていませんから、「遠い昔」と表現するには違和感があります。
もし大和朝廷の初代天皇神武の出身地だから、「遠い昔」と家持や聖武天皇は考えていたとするなら、これもおかしいのです。なぜなら日本書紀では神武の出 身地は日向(宮崎県)とされており、いわゆる筑紫(福岡県)ではないからです。しかし、家持や聖武天皇の歌の「遠の朝廷」は筑紫(福岡県)と見なさざるを えません。従って、家持や聖武天皇の「遠の朝廷」を「遠い昔の神武天皇の出身地」とはできないのです。
そうすると、「遠い筑紫にある朝廷」という意味にとらざるを得ませんが、これでは九州王朝の朝廷のことになってしまい、まさに家持や聖武天皇は多元史観 で歌を詠んだということになってしまうのです。これはこれでおもしろい仮説ですが、皆さんはどう思われますか。この「遠の」問題を、わたしはこの数年間 ずっと考え続けています。


第413話 2012/05/15

越中の「遠の朝廷」

今日は富山県高岡市に来ています。当地のタクシーの運転手さんにお聞きしたこ とですが、高岡市は富山県に属していますが、元々は加賀藩に属しており、二代目藩主前田利長公のお墓もあるとのこと。駅でもらったパンフレットによれば、 利長公の菩提寺瑞龍寺は国宝に指定されており、利長公が建てた高岡城趾も駅の近くにあります。お墓は大名個人のものとしては日本一の高さ(11m余)だそ うです。駅前には銅像もあり、利長公は高岡市のシンボルのようです。
前田利長公のことも興味深いのですが、古代史ファンのわたしとしては、高岡市が万葉歌人大伴家持が赴任した越中国府の所在地であったことを知り、感慨に耽りました。というのも、大伴家持について永く不思議に思っていたことがあったからです。
ご存じのように、万葉集に見える「遠の朝廷(みかど)」といえば九州太宰府のことなのですが、大伴家持の歌には自らが赴任した越中国府を「遠の朝廷」と 詠っているものがあるのです。この時代(8世紀中頃)、歌に「遠の朝廷」と詠み込めば、当然のこととして聞く人は九州王朝の都があった太宰府のことと受け 取ることは明白ですから、家持はそのように理解されることを承知の上で、越中国府をあえて「遠の朝廷」と詠んだと考えざるを得ません。何故、家持はこのよ うな歌を詠んだのかという疑問をわたしはずっと抱いていました。
遠い昔、越中国府に「天子」がいたのでしょうか。「遠の朝廷」と自らの赴任地を称することに抵抗はなかったのでしょうか。時の権力者、大和朝廷に対して はばかられなかったのでしょうか。何とも不思議で、納得できる「答え」が見つからなかったのです。ところが、古田先生が見事な「回答」を出されたのです。
その答えは『人麿の運命』にあります。それは、家持は継体天皇の出身地の越の国を「遠のミカド」と詠んだとする説です。詳しくは同書を読んでいただきたいのですが、この新説によりわたしの疑問は一応の解決を見たのです。


第412話 2012/05/13

『和田家文書』研究の発表

 昨日は淡路島までドライブしてきました。高速道路のサービスエリアで無料配布されていた「遊・悠・WesT」5・6月号に、「島根、奈良の古事記の旅」という特集があったので、いただいて読んでみました。
 出雲大社や石上神宮などの神社旧跡の他、古代出雲歴史博物館・橿原考古学研究所付属博物館などが写真付きで紹介されており、古代史ファンにはうれしい内 容です。しばらくはサービスエリアなどに置かれていると思いますので、高速道路ご利用時にはお勧めです。
 さて、6月17日(日)午後に古田史学の会会員総会・記念講演会を開催しますが、その講演内容が決まりましたのでお知らせします。今年の発表者は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)の安彦克己さんとわたしです。演題は次の通りです。

○安彦克己さん
『和田家文書』の安日彦、長髄彦
-秋田孝季は何故叙述を間違えたか-

○古賀達也
文字史料から見える九州王朝
-百済禰軍墓誌・「大歳庚寅」銘鉄刀・「はるくさ」木簡・『勝山記』・他-

 安彦さんは古田学派で最も熱心に『和田家文書』を研究されている研究者のお一人です。関西例会では『和田家文書』についての研究発表が少ないこともあり、今回大阪で発表していただくことにしました。
 わたしは、近年新たに発見された金石文などの文字史料を九州王朝説の視点から解説することにしました。まだ検討不十分な内容もありますが、古田学派内での研究のたたき台にしていただければ幸いです。
 なお、午前中は同じ会場(大阪府立大学中之島サテライト2階ホール=大阪府立中之島図書館別館2階)で関西例会を開催します。午後、記念講演会終了後に 会員総会を行います。その後は恒例の懇親会となりますが、懇親会への参加申し込みは、当日会場での受付となります。講演会・例会は会員以外の方も参加でき ます。ふるってご参加ください。