第253話 2010/04/11

古田武彦初期三部作復刻

ミネルヴァ書房より待望の復刻が、「古田武彦・古代史コレクション」と銘打ってスタートしました。古田ファンからは「初期三部作」と呼ばれている、『「邪馬台国」はなかった』 『失われた九州王朝』 『盗まれた神話』の三冊がまず復刻されました。次いで『邪馬壹国の論理』ここに古代王朝ありき』『倭人伝を徹底した読む』の復刻が予定されています。
特に初期三部作は古田史学のデビュー作と言うだけでなく、その学問の方法を徹底して重視した論証スタイルに多くの古代史ファンが引きつけられました。 1971年に出された『「邪馬台国」はなかった』が古代史学界に与えたインパクトも強烈でした。わたしも、この本を書店で立ち読みして、「これは今までの邪馬台国ものとは違う」と感じ、買ったその日の内に読了し、是非とも著者に会ってみたいと強く願うようになりました。まさに、わたしの人生を変えた一冊となったのです。
朝日新聞社から出版された三部作は角川文庫、朝日文庫と文庫化されましたが、その後は長く絶版となり、書店に並ぶこともなく残念に思ってきました。恐らくは、この度の復刻に対し、古代史学界からは陰に陽に圧力や嫌がらせが出版社になされたことと思いますが、それらをものともせずに復刻に踏み切ったミネルヴァ書房に感謝したいと思います。是非、皆さんのご購入と近隣の図書館への購入要請を行っていただければと思います。
特に初期三部作はどちらかと言えば古田先生の著作の中では難しい本なのですが、古田史学の方法論が繰り返し論述されており、古田史学ビギナーの方々には 一読再読をお勧めします。この古田先生の学問の方法論が良く理解されていないと、古田史学の「亜流」と称されている似て非なる諸説との区別がつかなくなり ます。また、今回の復刻版には最新の古田説による追記もあり、こちらも貴重です。重ねて、皆さんの講読をお奨めします。


第252話 2010/04/04

天王寺の古瓦

 第250話で述べましたように、現在の四天王寺は地名(旧天王寺村)が示すように、本来は九州王朝の天王寺だったとしますと、その創建は『二中歴』所収「年代歴」の九州年号

「倭京」の細注「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)

という記事から、619年になります。
 他方、『日本書紀』には四天王寺の創建を推古元年(593)としています。あるいは、崇峻即位前紀では587年のことのように記されています。いずれにしても、倭京2年(619)より約20〜30年も早いのです。どちらが正しいのでしょうか。
 ここで考古学的知見を見てみましょう。たとえば、岩波『日本書紀』の補注では四天王寺の項に次のような指摘があります。
 「出土の古瓦は飛鳥寺よりも後れる時期のものと見られる点から、推古天皇末年ごろまでには今の地に創立されていたと考えられる。」(岩波書店日本古典文学大系『日本書紀・下』558頁)
 『日本書紀』では飛鳥寺(法興寺)の完成を推古4年(597)としています。四天王寺出土の古瓦はそれよりも後れるというのですから、7世紀初頭の頃となります。そうすると『二中歴』に記された倭京2年(619)に見事に一致します。従って、考古学的にも『日本書紀』の推古元年(593)よりも『二中歴』の方が正確な記事であったこととなるのです。このことからも、この寺の名称は『日本書紀』の四天王寺よりも『二中歴』の天王寺が正しいという結論が導き出されます。
 このように、地名(旧天王寺村)の論理性からも、考古学的知見からも四天王寺は本来は天王寺であり、倭京2年に九州王朝の聖徳により建立されたという『二中歴』の記述は歴史的真実だったことが支持されるに至ったのです。この史料事実と考古学的事実という二重の論証力は決定的と言えるのではないでしょうか。


第251話 2010/03/28

『古田史学会報』97号の紹介

 『古田史学会報』97号の編集が完了しました。今号には正木さんによる九州年号「端政」の意味と出典に関する貴重な発見が報告されています。その正木説を受けて、わたしも「法隆寺の菩薩天子」を執筆できました。
 会員以外では、東北大学名誉教授の吉原賢二さんから「東日流外三郡誌」真作説に立った玉稿をいただきました。著名な化学者でもある吉原さんによる
自然科学の立場からの優れた論文です。和田家文書真偽論争へ新たな一石を投じられたものといえます。

 『古田史学会報』97号の内容
○九州年号「端政」と多利思北孤の事績 川西市 正木 裕
○天孫降臨の「笠沙」の所在地ーー「笠沙」は志摩郡「今宿」である 姫路市 野田利郎
○法隆寺の菩薩天子 京都市 古賀達也
○東日流外三郡誌の科学史的記述についての考察 いわき市 吉原賢二(東北大学名誉教授)
○纒向遺跡 第一六六次調査について 生駒市 伊東義彰
○「葦牙彦舅は彦島(下関市)の初現神」 大阪市 西井健一郎
○史跡めぐりハイキング
○関西例会のご案内
○2010年度会費納入のお願い


第250話 2010/03/27

天王寺と四天王寺

 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「倭京」の細注にある「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)という記事中の難波が、摂津難波
と博多湾岸にあったと考えられている「難波」のいずれなのかというテーマを検討し始めた当初から、わたしには気にかかっていたことがありました。現在の
「結論」は摂津難波と考えていますが、その場合、大阪に今もある四天王寺と『二中歴』の天王寺がはたして同じ寺かという問題でした。もっとはっきり言え
ば、四天王寺と天王寺とどちらが本来の名称なのかという疑問でした。
 関西の方なら特にご存じのはずですが、お寺の名前は四天王寺ですが、現地名は天王寺(大阪市天王寺区)なのです。古い地図でも「天王寺村」と記されてい
ますから、地名が天王寺であることは間違いありません。考えてみれば、これは大変不可解な現象です。
 四天王寺というお寺は聖徳太子が建立したと『日本書紀』にも記されており、古代からあった名称であることは確かと思いますが、それならその四天王寺が建
てられた場所としての地名も「四天王寺村」であるはずで、寺名とは異なる「天王寺村」とはしないはずです。しかし、事実は「天王寺村」であり「四天王寺
村」ではないのです。
 また、もともと「四天王寺村」であったのが、いつのまにか「天王寺村」に変わったということも考えられません。何故なら、お寺の四天王寺は現在まで立て
替えはあっても、当地に存続しているのですから、勝手に寺名とは異なる村名に変えることなどできないのではないでしょうか。また、する必要もありません。
 そうすると、考えられるケースはただ一つ。天王寺村の由来となった本来の寺名は「天王寺」だった。このケースです。すなわち『二中歴』に記された「天王
寺」が正しく、『日本書紀』の四天王寺は別の場所に建てられた別のお寺だった。あるいは、本来「天王寺」という名前のお寺が、九州王朝滅亡後に大和朝廷に
より四天王寺と名称変更されたのではないでしょうか。現存地名「天王寺」の存在が、この論理性を支持する動かぬ証拠なのです。
 この論理性の帰結からも、『二中歴』の「倭京二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」という記事が正しかったこととなります。すなわち、この難
波は摂津難波であり、天王寺は大阪市天王寺区にあった「天王寺」のことだったのです。『二中歴』編者は『日本書紀』に影響されて「難波四天王寺」とはせず
に、原史料に忠実に「難波天王寺」と記したのです。更には、九州年号と共に記されたこの記事は、九州王朝の事績であり、この時代の摂津難波は九州王朝の直
轄支配領域だったのです。


第249話 2010/03/21

九州年号と大正新脩大蔵経

 昨日の関西例会では九州王朝研究に大変役に立つ基礎研究ともいうべき、二つのデータベースが発表されました。
 一つは竹村さんによる「評・郡」別、地名別、紀年別の木簡データベースで、奈良文化財研究所の大量の木簡データベースから検索分類グラフ化したものです。これにより、藤原宮や飛鳥池・石神遺跡などからの出土木簡にどのような傾向があるのか、多元史観の視点から把握できるようになりました。これは九州王朝滅亡過程の研究に有効なツールとなりそうです。
 二つ目は、西村さんによる膨大な大正新脩大蔵経からの「九州年号」検索データベースです。これも、九州年号が仏教経典との関係が深いことを指し示しただけでなく、九州王朝がどのような経典を重視したのかを研究する上で、大変便利なデータベースです。

 こうした労作により、九州王朝研究が加速することは間違い有りません。お二人に感謝したいと思います。なお、今回も遠方(埼玉県)からの初参加者があったり、久々に冨川さんの参加発表もあり、盛会でした。発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「南九州一元史観・神話の旅」・「リコール」(豊中市・木村賢司)
2). 日本(倭)年号の大蔵経における出現回数(向日市市・西村秀己)
3). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)
4). 評木簡と藤原宮(木津川市・竹村順弘)
5). 夢殿救世観音と法華経(川西市・正木裕)
6). 藤原宮(相模原市・冨川ケイ子)
7). 纏向遺跡・第166次調査について(生駒市・伊東義彰)
8). 『海東諸国紀』中の「太子を殺す」記事について(川西市・正木裕)
9). 『二中歴』鏡當「新羅人来従筑紫至播磨焼之」(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・神武を祀る神社(熊本県最多。天草に多い)・他(奈良市・水野孝夫)


第248話 2010/03/13

法隆寺と難波

 『日本書紀』天智紀に記された法隆寺(若草伽藍)焼失後、和銅年間頃、跡地に移築された現法隆寺の移築元寺院の所在地や名称について、古田学派内で検討が進められてきましたが、未だ有力説が提示されていないように見えます。わたし自身も、倭国の天子である多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院ですから、九州王朝倭国の中枢領域にあったはずと考え、筑前・筑後・肥前・肥後を中心に調査検討を行ってきましたが、有力な手掛かりを見いだせずにきました。
 しかし、近年到達した前期難波宮九州王朝副都説により、摂津難波も九州王朝が副都をおけるほどの直轄支配領域であるという認識を持つに至ったことから、この地も法隆寺移築元寺院探索の調査対象に加えるべきではないかと考えています。
 前期難波宮が九州王朝の副都として創建されたのは652年、九州年号の白雉元年ですが、それ以前の七世紀前半から摂津難波が九州王朝にとって寺院建立の有力地であった史料根拠があります。それは現存最古の九州年号群史料として著名な『二中歴』所収「年代歴」です。そこには、九州年号「倭京」の細注に次の記事があります。

「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)

 倭京二年に九州王朝の聖徳と呼ばれていた人物が難波に天王寺を建てたという内容ですが、当初わたしはこの記事の難波を博多湾岸の「難波」という地名と考え、その地に天王寺が建てられたと考えていました。しかし、筑前の「難波」であれば、九州王朝内部の記事ですから、単に天王寺を建てたとだけ記せば、九州王朝内の読者には判るわけですから、「難波」は不要なのです。しかし、あえて「難波天王寺」と記されているからには、筑前ではなく摂津難波の難波であることを特定するための記述と考えざるを得ません。
 たとえば、同じ『二中歴』「年代歴」の九州年号「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」と寺院建立記事がありますが、こちらには観世音寺の場所に関する記述がありません。それは観世音寺と言えば太宰府の観世音寺であることは九州王朝内の読者には自明なことであり、従って、わざわざ「筑紫観世音寺」などとは表記されなかったのです。ですから、「難波天王寺」とあれば、読者には摂津難波の天王寺と理解されるように記されたと考えるほかないのです。
 また、倭京二年の建立とされていますが、倭京は多利思北孤の時代の九州年号です。その二年に「聖徳」という人物が建てたというからには、これも同様に聖徳と記せばわかるほどの九州王朝内の有力者と考えられます。恐らく、多利思北孤の太子である利歌弥多弗利のことではないでしょうか。多利思北孤の太子である利歌弥多弗利が聖徳と称されていれば、文字通り「聖徳太子」となり、この利歌弥多弗利の伝承や業績が、『日本書紀』に盗用されたのものが、いわゆる聖徳太子記事ではないかと推察しています。
 このように、九州王朝は七世紀前半の倭京二年(619年)に、難波に天王寺を建立していた史料根拠があるのですから、天王寺以外にも多利思北孤自身が建立した寺院が摂津難波にあっても不思議ではないのです。地理的にも、遠く九州の寺院を移築するよりも、摂津難波の寺院を移築した方がはるかに容易ですから。
 このような認識の進展により、法隆寺移築元寺院の探索地に摂津難波を加えなければならないと考えています。更には、難波の四天王寺の調査研究も九州王朝との関係から再検討しなければならないと思っているのです。


第247話 2010/03/07

菩薩天子と現人神

 法隆寺建立当初(七世紀初頭頃)の本尊が、夢殿の救世観音だったとするわたしの仮説が正しければ、多利思北孤は自らを菩薩天子と認識していたのみなら
ず、自らの姿に似せた菩薩像を本尊としたことになります。ここに新しいテーマが出現するのです。それは日本仏教思想史上のテーマです。
 すなわち、仏教国において、時の最高政治権力者が自らに似せた仏像を崇拝の対象にさせたというテーマです。このような先例が古代アジアの仏教国にあった
のかどうか、今後調べてみたいと思いますが、権力者の仏教信仰において、まず思い起こされるのが中国南朝梁の武帝の逸話ではないでしょうか。
 梁の武帝は仏教を深く信仰し、度々仏前に捨身し三宝の奴と称したほどで、この時代、南朝では仏教が興隆しました。日本でも聖武天皇が自らを「三宝の奴」と
称した宣命が『続日本紀』に記されていることは有名です(天平勝宝元年四月:749)。
 こうした例から、権力者が仏教に帰依している、いわゆる仏教国においては仏法僧の三宝が上位で、世俗の権力者が相対的に下位にあるものと、わたしはこれま
で理解していました。ところが、仏教国である九州王朝倭国では世俗権力のトップが菩薩天子となり、その姿に似せた菩薩像を崇拝の対象にさせたとすれば、何
とも異質な宗教観が倭国には存在していたように思われるのです。おそらく、キリスト教国やイスラム教国では絶対に起こり得ない現象ではないでしょうか。も
ちろん、一神教と多神教の差異がありますので、単純な比較はできないでしょうが。
 それでは、こうした「異質」な宗教観は多利思北孤の時代に始めて成立したのか、それともずっと以前からあったものなのでしょうか。おそらく、日本列島や倭
国において、仏教伝来以前から存在した宗教観のように思われます。それは、『日本書紀』の景行紀や雄略紀に見える「現人神」(あらひとがみ)という表現に
表された、神が人間の姿となって現れる、あるいは「天皇」を現人神とする宗教観が淵源ではないかと考えています。『万葉集』に見える「大君は神にしあれ
ば」という表現も同類の思想です。
 すなわち、九州王朝では天子やトップを「現人神」とする伝統があり、仏教を受け入れて以降は「現人仏」「現人菩薩」「菩薩天子」などへと「発展進化」した
のではないでしょうか。中国での「菩薩天子」「如来天子」思想の調査研究を含めて、新たな研究テーマにしたいと思います。(つづく)


第246話 2010/03/06

法隆寺の本尊と菩薩天子

 二月の関西例会で正木さんから発表された、九州年号「端政」(589〜593)の語源と出典に関する発見はわたしに新たな視点と示唆を指し示してくれました。それは法隆寺の最初の本尊についての問題でした。
 今でこそ法隆寺の本尊は釈迦三尊像ですが、この釈迦像は倭国の天子、多利思北孤(上宮法皇)が没した翌年(癸未年:623年)に造られたと、その光背銘に記されています。他方、近年の年輪年代測定の成果により法隆寺五重塔の心柱の伐採年が594年であったことが判明し、五重塔や金堂が七世紀初頭に建立さ
れた可能性が高くなっています(その後、和銅年間に現在地に移築)。そうしますと、法隆寺建立から釈迦像が造られた623年までの期間は別に本尊があった
ことになり、その元の本尊は何だったのだろうか。このような問題意識を漠然と持ち続けていたのですが、正木さんの研究によりこの問題が一気に発展したので
す。
 九州年号「端政」が菩薩の顔の様相を表現した仏教用語であったとする正木さんの発見は、端政年号の時の倭国の天子、多利思北孤が『隋書』にあるように隋
の天子を海西の菩薩天子と呼び、同時に自らを「海東の菩薩天子」と認識していたとする古田先生の指摘とも見事な一致を示します。菩薩の顔の様相である「端
政」という年号に、自らを菩薩天子とする多利思北孤の強い意志が感じられるのです。
 こうした視点に立ったとき、法隆寺建立当初の本尊は菩薩像ではなかったのか。もしそうであれば、法隆寺夢殿に長く秘仏として蔵されていた救世観音菩薩像こそ本尊に最もふさわしく、その可能性が最も高いことに気づいたのです。
  釈迦三尊像が上宮法皇の「尺寸の王身」と光背銘に記されているように、そのモデルは倭国の菩薩天子、多利思北孤です。そして、釈迦像と顔がそっくりの
夢殿の救世観音菩薩も、天平宝字五年(761)の『東院資財帳』に「上宮王等身観世音菩薩像」と記されているように、やはりモデルは多利思北孤と考えられ
るのです。これらのことから、法隆寺建立当初の本尊は、夢殿の救世観音像との考えに到達したのです。(つづく)


第245話 2010/02/21

九州年号「端政」 と菩薩天子

 昨日の関西例会では、姫路市の野田さんから天孫降臨の「笠沙」を御笠郡ではなく、クシフル岳の北側に位置する今宿の「笠掛」とする新説を発表されました。有力な仮説だと思いました。更なる証拠堅めが期待されます。
 正木さんからは今回も素晴らしい発見が報告されました。九州年号「端政」の出典が、中国南北朝時代の僧、曇鸞(467〜542)の著『讃阿弥陀仏偈』に ある「願容端正(政)」(菩薩の顔の相)ではなかったかというものです。隋書イ妥国伝の「海西の菩薩天子」の菩薩に対応しており、なるほどと思わせる発見でした。この多利思北孤と「菩薩天子」というテーマは法隆寺の本尊の変遷にも関わってきそうで、楽しみなテーマです。
 2月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「栗隈王」など知らない・他(豊中市・木村賢司)

2). 天孫降臨の「笠沙」の所在地   ーー「笠沙」は志摩郡「今宿」である(姫路市・野田利郎)
 「笠沙」は「今宿」/古事記の「笠沙」/日本書紀の「笠狭の岬」/分散としての降臨/不可解なニニギノ命の行動/「既而」/「天浮橋」の用途/宗像から来たニニギノ命の行動/今宿に留まる、ニニギノ命

3). 常立神・その2ーー常根津日子とシキのハエ(大阪市・西井健一郎)

4). 謡曲と九州王朝3「多利思北孤」と『風姿花伝』(川西市・正木裕) 世阿弥著『風姿花伝』に記す、聖徳太子が秦河勝に命じた「六十六番の遊宴、六十六面製作」譚、及び法華経を六十六国の菩薩に納める「六十六部廻国」風習は、「海東の菩薩天子」たる多利思北孤の六十六国分割と、『二中歴』に記す端政元年法華経伝来の証左であり、また六十六国分割は仏教説話に由来する事を論じた。

5). 九州年号「端政(正)」改元と多利思北孤(川西市・正木裕) 多利思北孤の即位年号と考えられる「端政」(五八九〜)は、「正しい政治の始め」の意味と共に、菩薩の顔容を示す語『顔容端政』から採られた事、彼は物部討伐後、隋に備え難波・河内に進出、更に東国へ使者を派遣、全国を仏教にのっとり六十六に分国し、宗教上・政治上の権力を兼ね備えた「菩薩天子」を志向した。以上を南朝「梁」の武帝も崇拝した僧「曇鸞」の『讃阿弥陀仏偈』、端政年間の九州年号諸資料等から示した。

6). 忍熊王と両面宿儺などその他(木津川市・竹村順弘)

7). 魏志倭人伝は「漢音」で読んではいけない(京都市・古賀達也)

8). 前期難波宮と藤原宮の考古学(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「淡海」八代海説ほか、遠賀川河口説、琵琶湖説比較考察・他(奈良市・水野孝夫)


第244話 2010/02/07

『古田史学会報』96号の紹介

 『古田史学会報』96号が発行されました。今号には正木さんと西村さんの秀逸な論文が掲載されています。どちらにも九州王朝史研究にとって貴重な方法論と仮説が提示されています。
 九州年号と『日本書紀』中の遷都遷宮記事との関連性を情況証拠と作業仮説の積み上げで肉薄を試みられた正木稿。7世紀後半の筑紫率である栗隈王は九州王朝の王族であるから、その孫の橘諸兄も九州王朝の王族で、九州王朝滅亡後に大和朝廷の左大臣まで上り詰めたとの骨太な論証を展開された西村稿。双方ともと
ても重要な研究と方法論と思われました。この方法論を更に援用展開することにより、失われた九州王朝の歴史が復原作業が進むものと期待されます。
 なお、最近『古田史学会報』への投稿が少なく、編集割付作業に苦労しています。投稿や地域の情報提供など、よろしくお願いいたします。

  『古田史学会報』96号の内容
○九州年号の改元について(後編) 川西市 正木裕
○橘諸兄考 —九州王朝臣下たちの行方— 向日市 西村秀己
○第六回古代史セミナー〜古田武彦先生を囲んで〜
  日本古代史新考自由自在(その二) 霧島市 松本郁子
○古賀達也の洛中洛外日記より転載
  纏向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない 京都市 古賀達也
○「人文カガク」と科学の間「科学の本質は自己修正的である事だ」カールセーガン
 「古田史学を語る会・奈良」太田齊二郎
○梔子(3) **古田武彦『古代は輝いていた』より** 深津栄美
○伊倉 十二 —天子宮は誰を祀るか—  武雄市 古川清久
○史跡めぐりハイキング古田史学の会・関西
○年頭のご挨拶 代表 水野孝夫
○古田史学の会関西例会のご案内
○割付担当の穴埋めヨタ話(2) 綱敷天神の謎 西村秀己


第243話 2010/02/06

前期難波宮と番匠の初め

 第224話において、寺井誠氏の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会)を紹介しましたが、そこで指摘された前期難波宮から北部九州の須恵器が出土しているという考古学的事実が何を指し示すのか、どのような証明力を有するのかをずっと考えてきました。

 というのも、通説通り前期難波宮が孝徳の王宮であれば、その建設に北部九州の工人達も参加したということになり、前期難波宮が九州王朝の副都であったという特段の証明力にならないという反論が予想されたからです。しかも、前期難波宮からは北部九州以外の土器も出土していますから、尚更です。
 こうした学問上の論証力という視点から、寺井論文の持つ意味についてより深い考察が必要と考え続けてきたのです。そして、寺井論文を何度も熟読するうちに、やがて論点がはっきりと見えてきたのです。その結論は、寺井論文はわたしの前期難波宮九州王朝副都説を間違いなく証明する貴重な考古学的事実を指し示しているというものでした。
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは 王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。ここまで論証が進むと、前期難波宮九州王朝副都説は揺るぎなく確立された最有力説と思うのですが、いかがでしょうか。


第242話 2010/01/31

太宰府と前期難波宮

フレーム版 古賀達也の洛中洛外日記へリンクしました。

2月27日、東京で講演しました(多元的古代研究会主催・文京区民センター)。「太宰府と前期難波宮 ーー九州年号と考古学による九州王朝 史復原の研究」というテーマで、7世紀段階の九州王朝研究の成果をまとめた内容です。更には関西例会で報告された各氏の説も紹介させていただきます。これを期に、関西と関東の研究交流が進むことを願っています。
講演内容の項目は次の通りです。関東の皆さんのご参加をお待ちしております。

太宰府と前期難波宮
九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究
2010/02/27
古賀達也
1.白雉改元と前期難波宮
1).大和朝廷王宮編年の矛盾
2).『日本書紀』白雉改元記事の2年移動 652年→650年
3).史料と考古学の一致 「天下立評」「律令体制」と7世紀中頃の「朝堂院」

2.九州年号と遷都遷宮
【資料】正木 裕 九州王朝の改元と『書紀』等の遷都遷宮関連記事の対応
2009/11/21 古田史学の会・関西例会

3.前期難波宮の土器
【資料】寺井 誠 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会
4.前期難波宮と藤原宮木簡
【資料】田中 卓 「古事記における国名とその表記」
『古典籍と資料 田中卓著作集10』国書刊行会 平成5年
5.太宰府条坊と政庁
【資料】井上信正 「大宰府条坊区画の成立」
『考古学ジャーナル』No.588 平成21年7月号
6.九州王朝王宮・王都の変遷
古賀旧説:太宰府政庁第II期(条坊都市・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)
古賀新説:太宰府条坊(通古賀王城宮・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)→太宰府政庁第II期(条坊拡張)
7.「白雉二年九月吉日」奉納面の発見(西条市丹原町福岡八幡神社蔵)
【資料】大下隆司 「白雉二年銘奉納面」について
2009/08/15 古田史学の会・関西例会
8.九州王朝王族の探索
【資料】西村秀己 「橘諸兄・考」 2009/12/19 古田史学の会・関西例会