第366話 2011/12/29

2012年新年賀詞交換会のご案内

新年の1月14日(土)に、恒例の「古田史学の会」新年賀詞交換会を古田先生をお招きして開催します。開会は午後1:30から、会場は「大阪市立市民交流センターひがしよどがわ」で、新大阪駅の近くです。
冒頭、水野代表や地域の会、友好団体からの参加者のご挨拶の後、古田先生よりご挨拶と講演をしていただくことになっています。ふるってご参加下さい。講 演終了後は懇親会(人数に制限があります。当日会場にてお申し込み下さい)も開催します。
『「九州年号」の研究』が上梓されたことは既にご紹介しましたが、「古田史学の会」2011年度会員には一冊進呈することになっています。幸い、ミネル ヴァ書房様から発送作業のご協力をいただき、会員の皆様には届き始めていることと思います。お正月にゆっくりとお読みいただければ幸いです。
各地の図書館で購入希望図書受付制度があれば、是非申し込みをお願いします。九州年号と九州王朝の存在を全国の歴史ファンに知らせたいと願っています。ご協力のほど、お願いいたします。


第365話 2011/12/28

漫画・「邪馬台国」はなかった

福與篤(ふくよ・あつし)さんから『漫画・「邪馬台国」はなかった』(ミネルヴァ書房、2200円+税)を御恵送いただ きました。一読し、古田先生の邪馬壱国説をよく理解されたうえで、漫画化されていることがわかりました。まさに、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の エッセンシャル版と呼ぶにふさわしい一冊です。福與さんは漫画家ではないとのことですが、本当によく描かれたものだと感心しました。
もっとも、「漫画」と銘打たれていますが、漫画好きの若者向けではなく、古田説を知らない古代史好きむけの「入門書」との位置づけと思われました。仕事 柄、マーケティングに関わっていることもあって、どうしても、「狙うターゲット層は?」「販売戦略のポジショニングは?」「価格設定は適切か?」というビ ジネス視点で見てしまうことが、わたしの悪い癖ですが、猛烈に文字数や解説文が多い同書は、いわゆる「漫画読者」が対象とはならないでしょう。
とはいえ、邪馬壱国説の入門書にふさわしく、三国志倭人伝の版本と古田先生による読み下し文も掲載されており、すでに『「邪馬台国」はなかった』をお持ちの人にも、おすすめの一冊です。同書が多くの人々に読まれることを期待しています。


第363話 2011/12/18

『「九州年号」の研究』を上梓

 ミネルヴァ書房より、できたばかりの『「九州年号」の研究 — 近畿天皇家以前の古代史』が送られてきました。著者への贈呈分として一足早く届いたようですが、これから書店に並ぶことと思います。「古田史学の会」会員の皆さんには2011年度会員サービスとして進呈されま す。会員のお手元に届くのは順次発送作業を進めるため、年明けの2月以降になると思います。しばらくお待ち下さい。
 昨日の関西例会では、百済人祢軍墓誌について竹村さんや水野さんから報告があり、活発な討論が交わされました。当然のことではありますが、まだまだ結論は出そうにありませんでした。古田先生もこれから検討に入られると思いますので、引き続き研究テーマとして例会での検討が期待されます。
 冨川さんからは、鮮卑族に捕らえられた倭人の記事が後漢書に見えることを紹介されました。今後の研究の深化が待たれます。
 12月例会の内容は次の通りでした。その後の懇親会は忘年会と『「九州年号」の研究』出版祝いも兼ねて、盛り上がりました。

〔12月度関西例会〕
(1) オフレコ(ここだけの内緒話)(豊中市・木村賢司)
(2) 鮮卑族に連れ去られた倭人たち(横浜市・冨川ケイ子)
(3) 上柱國百済禰軍の位階(木津川市・竹村順弘)
(4) 日本書紀の蓋鹵王と武寧王(木津川市・竹村順弘)
(5) 継体紀における百済本記(木津川市・竹村順弘)
(6) 万葉3234番歌の「伊勢」批判(川西市・正木裕)
(7) 記紀の干支日(木津川市・竹村順弘)

○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・園城寺の白鳳年号・百済祢軍墓誌の追跡・他。


第364話 2011/12/18

「論証」スタイル(2)

  今日は岐阜県各務原に来ています。当地には航空自衛隊の基地があり、ときおり戦闘機や輸送機の離着陸の轟音が響いてきます。この轟音は地元の方にはご迷惑なことと思いますが、同時に、災害派遣や国防の任にあたっておられる自衛官のご苦労も大変なことだと思いました。
 さて、361話に続いて、「論証」スタイルについて触れることにします。
  これはわたしの見方ですが、論証は「絶対論証」と「相対論証」というものに大別できるのではないでしょうか。「絶対論証」とは、「こういう史料根拠により、誰がどのように考えてもこうとしか言えない」というような決定的な証拠と論理性にもとづいた論証です。ここまで断定できる論証は、史料的に限定された 古代史研究においては珍しいことですが、安定的に成立した論証であり、この論証に基づいて、さらに仮説を展開することも可能です。
 対して、「相対論証」とは、史料根拠に基づいて、Aの可能性やBの可能性など複数の可能性が考えられるが、人間の平明な理性や経験に基づけば相対的にAの可能性が著しく、あるいは最も高い、という論証のケースです。「絶対論証」より論証力は劣るものの、他の仮説よりも有力な仮説を提起できます。
 従って、「相対論証」にとどまる場合は、なるべく多くの傍証を提示し、「相対論証」の説得力を増すよう努めなければなりません。こうした「相対論証」を得意とされるのが正木裕さん(「古田史学の会」会員)です。
  日本書紀の「34年遡り現象」というツール(九州王朝史復元手法)を駆使して、正木さんは日本書紀の中に盗用された九州王朝記事の選別と九州王朝の復元という学問的成果を次々とあげられているのですが、その論証スタイルこそ、大和朝廷一元史観に基づいた通説よりも、合理的に矛盾なく理解できる仮説を提起するという、「相対論証」なのです。
 すなわち、「絶対にそうか」といわれれば「絶対にそうだ」とは言えないまでも、「従来説よりもはるかに矛盾なく説明できる」とする、仮説の論証方法なのです。この方法は歴史研究において多用される方法なのですが、どうしてもその相対的評価時(他の仮説よりも有力と判断する時)において恣意性(自説が正しいと思いこむ)がつきまといますので、慎重に使用しなければなりません。


第362話 2011/12/16

映画「アレクサンドリア」の衝撃

この数年、多忙のため映画鑑賞の機会がめっきり減りましたが、最近ものすごい映画に遭遇しました。2009年、スペインで制作された「アレクサンドリア」という作品です。
原題はラゴラ(広場という意味)で、舞台は紀元四世紀の古代都市アレクサンドリア(エジプト)です。美貌の女性哲学者(数学者・天文学者)ヒュパティア の半生を描いたもので、ヨーロッパ映画史上最高額の制作費といわれる壮大なスケールにまず圧倒されるのですが、よくこんな映画がヨーロッパで作られたもの だと、本当に衝撃を受けました。しかも、主人公のヒュパティアが実在の人物ということに、さらに驚きました。
当時のローマ帝国皇帝がキリスト教徒になったこともあって、アレクサンドリアでもキリスト教徒が増大し、多神教の信者やユダヤ教徒への迫害(虐殺)が荒 れ狂う中、天動説を疑い地動説を研究するヒュパティアを魔女としてキリスト教徒が迫害するという、史実に基づいた映画でした。そして、「わたしが信じるも のは真理だけです」と言い放ち、キリスト教への改宗を拒否し、学問研究を続ける主人公の言動に深く感銘を受けました。
古代エジプトにおける宗教対立や奴隷制など、さまざまな問題を内包した作品ですが、わたしがもっとも驚いたのは、キリスト教徒による集団的残虐シーンが これでもかこれでもかと続くこの映画が、国民の75%がカトリック信者というスペインで作成されたという事実です。そして、この映画が興業的にも成功した という事実に、ヨーロッパでもついにこのような映画が製作され、受け入れられる時代になったということに、感銘したのです。
別の視点から見れば、この映画は古代を題材にしながらも、極めて現代的な問題を提起しているといえます。この映画の成功は思想史的にも貴重なものではな いでしょうか。学問と真実を愛する、古田学派の皆さんに是非見ていただきたい作品でしたので、紹介させていただきました。


第361話 2011/12/13

「論証」スタイル(1)

 今日は名古屋に来ています。これから星ヶ丘にある椙山女学園大学に向かいます。同大学のJ教授とお会いし、学生の卒論研究テーマの打ち合わせを行うことになっています。大学に行くと、研究や学問に打ち込む若い学生さんがたくさんおられ、いい刺激を受けます。
 さて、「会報投稿のコツ」で「論証」に触れましたが、その具体例についてもご紹介したいと思います。最初は、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人、会報編集担当、会計)です。
 西村さんの口癖は「それはおかしいやろう」ですが、研究発表への厳しい指摘や批判が、この言葉とともに続きます。ですから、わたしは研究成果を論文にする前に、できる限り関西例会で発表し、西村さんの顔色を確かめてから執筆にかかるようにしています。「それはおかしいやろう」が出たら、その部分を訂正したり、再反論を考えてから論文化するのです。これにより、わたしの勘違いや論証の弱点に気づくことができるので、西村さんの「それはおかしいやろう」を大変重宝しています。
 その西村さんの「論証」スタイルは、一言で言えば「骨太な論断」です。大局的に見てこう考えざるを得ない、という「論証」スタイルです。たとえば、七世紀末の列島最大規模の宮殿・都市は藤原宮(京)だから、701年以前には九州王朝の天子が藤原宮にいたと考えるべき、といった一刀両断の「論証」スタイル です。
 わたしは、その論理性に一定の妥当性を認めながらも、王朝交代時期の七世紀末について、それほど単純に割り切るのはいかがなものか、少なくともわたしは そこまで大胆にはなれないと、いつも「反論」しています。もっとも、西村さんはその後も傍証を固められ、自説強化に努められています。
 こうした大胆な論証を好まれる西村さんですが、わたしが舌を巻いた緻密な論証もあります。「マリアの史料批判」です。
 ある日、西村さんが「新約聖書に記されたイエスの周囲にいる女性の名前にマリアが多すぎる。これはおかしいやろう。」と言われたので、当時はマリアとい う名前はありふれたもので、たまたまではないかと生返事をしたところ、西村さんはとんでもないことをされたのです。
 その後しばらくして西村さんは書きあげたばかりの一編の論文をわたされました。そこには何と、旧約聖書に登場する全女性の名前を調べあげ、「マリア」と いう名前の女性は1名しか登場しないことを指摘し、当時、「マリア」という名前はありふれた名前ではないということを証明されたのです。
 わたしはグウの音も出ず、ただ「おそれいりました」と頭を下げました。その時の西村さんの「どや顔」を今でもよく覚えています。これは見事な論証と言うしかありません。その論文が「マリアの史料批判」だったのですが、わたしはキリスト教研究史に残る名論文だと思います。西村さんに英訳を勧めているのですが、英語に堪能などなたかご協力いただけないでしょうか。
 新約聖書に記されたマリアが、ありふれた名前かどうかを新約聖書以前の史料である旧約聖書で全数調査するという学問の方法こそ、古田学派らしい論証方法ではないでしょうか。古田先生が「邪馬壹国は邪馬臺国の誤り」としていた通説を検証するために、三国志の中の「壹」と「臺」の字の全数調査をされ、両者が間違って使われている例が無いことを証明されましたが、その方法を西村さんは踏襲されたのです。
 本ホームページにも「マリアの史料批判」が掲載されていますので、是非ご一読下さい。切れ味鋭い「論証」スタイルの一端に触れることができます。(つづく)

第360話 2011/12/11

会報投稿のコツ(4)

 続けてきました「会報投稿のコツ」も今回が最後となります。テーマは「論証」です。
 わたしが古田先生の著作に感銘を受けて、「市民の古代研究会」に入会したのが、今から25年前でした。その後、わたしも研究論文を書きたくなり、へたくそながら「市民の古代ニュース」などに投稿を始めたのですが、最初にぶつかった壁が「論証」でした。古田先生からは「論証は学問の命」と教えられました。 ですから、論証が成立していなければ学術論文として失格です。ところが論証とは何か、どうすれば論証したことになるのかという、基本的なことがなかなか理解できませんでした。
 その時、一つのヒントになったのが中小路俊逸先生(故人・追手門学院大学教授)の「ああも言えれば、こうも言えるというのは論証ではない」という言葉でした。言い換えれば、「誰が考えても、どのように考えても、このようにしか言えない」と説明することが論証するということなのです。しかし、わたしが真にこのことを理解できたのは、さらにその数年後でした。
 和田家文書偽作キャンペーンの勃発により「市民の古代研究会」は分裂し、少数派に陥ったわたしは水野さんらとともに「古田史学の会」を立ち上げたのですが、マスコミも巻き込んで執拗に続けられる偽作キャンペーンと古田バッシングに対して、わたしたちは学術論文で対抗しました。
 その時は「やるか、やられるか」という真剣勝負でした。しかも、その勝敗・優劣を決めるのは多くの読者、あるいは裁判所の裁判官でした(裁判所への陳述書も書きました)。わたしがどう思うかではなく、第三者が偽作論者の主張とわたしたちの主張とのどちらが正しいと考えるかが勝敗を分けるのです。そこにおいて、第三者を納得させることができるのは、証拠(史料根拠)の提示と「論証」だけでした。
 このときの胃の痛くなるような経験が、わたしにとって学問における「論証」の何たるかを、より深く理解できる機会となったのです。その意味では、わたしは偽作キャンペーンに「感謝」しています。あのときのあの経験がなければ、今でも「論証」の意味を深く理解できていなかったかもしれないからです。
 会報に投稿される古田学派の研究者の皆さん。どうか、学問の命である論証を何よりも大切にした論文を送ってください。たとえその結論に反対であっても、わたしや西村さんが掲載せざるを得ないようなするどい原稿を心からお待ちしています。


第359話 2011/12/09

会報投稿のコツ(3)

 今日は大阪にいます。わたしが仕事の関係で理事をさせていただいている「繊維応用技術研究会」の講演会が大阪のホテルで開催されており、その休憩時間に書いています。それでは「会報投稿のコツ」の続きです。

 会報の花形はやはり一面トップ論文です。基本的に投稿原稿の中から最も優れたタイムリーな原稿が一面に掲載されます。読者もそういう目で読まれますか ら、一面にどの原稿を採用するかは、編集部の見識や力量も問われ、西村さんが毎号悩まれることになります。一面にふさわしい投稿が無いときは、それこそ大 変で、常連投稿者に頼み込んで急遽書いてもらうということもありました。
 採用される研究論文の評価ポイントがありますが、特に留意していただきたいことは次の諸点です。

1.最初に何を論証したのかという結論を明記してください。最後まで読まないと何が言いたいのかわからない原稿では困ります。研究論文は推理小説とは違うと言うことをご理解ください。

2.論証の根拠とした史料や文献は必ず出典を明記してください。必要があれば関係部分を引用してください。そうしないと読者がその新説の当否を検証できませんから。史料根拠が示されていない論文は学術論文の体をなしていません。

3.先行説と自説をはっきりと分けて記述し、先行説の出典も明記してください。学問は学説の積み重ね、あるいは淘汰しながら発展しますから、賛成にせよ反対にせよ先行説にふれない論文もまた学術論文として不十分です。もちろん、先行説が存在しないほどの先駆的研究であれば別ですが。あるいは、説明や紹介の 必要性がないほど周知の通説は、省略してもかまわない場合があります。

4.論証と断定を意識的に区別してください。「没」になる理由の大半がこれらが区別されず、自らの断定を論証と勘違いされているケースなのです。「まわり が何と言おうがわたしはこう思う」は断定であり、「誰が考えても、どのように考えてもこうならざるを得ない」という説明が論証です。

5.自説に不利な史料や先行説を無視軽視せず紹介した上で、どういう理由や根拠で自説の方が有力・合理的であるかを、読者が理解できる平明な言葉と論理性で説明してください。

 おおよそ以上の点が審査項目ですが、現実にはかなり甘く判定しています。常連投稿者になると、厳しく審査しますが、初投稿者の場合は、エールを送る意味から甘くしています。
 それから、あれもこれも論証しようとして「大論文」にしてしまう方も見られますが、会報はスペース上の制限がありますので、なるべく1テーマに的を絞ったシャープな切れ味の論文が望まれます。どうしても「大論文」にされたい場合は、「古田史学会報」ではなく会誌「古代に真実を求めて」に投稿をお願いしま す(投稿先:水野孝夫)。(つづく)


第358話 2011/12/07

会報投稿のコツ(2)

 今日は愛知県一宮市に来ています。この町には真澄田神社というお社があり、尾張一宮の社格を持っています。尾張の一宮が熱田神宮ではなくて、なぜ真澄田神社なのかという面白いテーマがあり、以前から気になっている神社です。
 話題を戻します。「古田史学会報」の投稿原稿は研究論文が中心ですが、その他に書評や地方新聞などに掲載されたローカルでユニークな新情報の紹介なども対象となります。あるいは遺跡巡りや博物館見学の報告などもOKです。
 研究はちょっと苦手という会員の方はこうした投稿に挑戦されてはいかがでしょうか。会報の内容が研究論文中心ですから、意外と掲載されます。ただし、この場合でも字数に留意してください。会報2ページ程度を目安にされると、採用の確率がアップします。
 特に古田先生の新刊書評はかなりの確率で採用されますので、是非ご投稿ください。ただ、書評の場合は会報1ページ以内でお願いします。新刊書評は、内容にあまり差がなければ、早い者勝ちです。
 古田先生の講演録(概略や感想文でも可)に至っては、お願いしてでも掲載したい原稿ですから、大歓迎です。
 これから注目されそうなのがインターネットによる検索情報やデータの紹介です。関西例会で竹村順弘さんが得意とされている「ワザ」で、これなどもテーマ選定やデータ解析の切り口次第では結構面白い記事となります。皆さんの創意工夫をこらした投稿をお待ちしています。(つづく)


第357話 2011/12/06

会報投稿のコツ(1)

 最近、ありがたいことに「古田史学会報」への投稿が増えています。ところが、大変申し訳ないのですが、不採用になる原稿も少なからずあります。せっかく会員の方が苦労して書かれた原稿を没にするのは心苦しいのですが、会報を楽しみにされている会員読者のことを考え ると、その期待に応えられる原稿を掲載することが編集部の責任ですし、スペース上の制約もあります。
 そこで、せっかく書かれた原稿がより採用されるよう、論文執筆のコツや、原稿採否基準などについて、少し説明したいと思います。
 まず、会報採否の流れについて、ご説明します。わたしに送られてきた原稿は、最初にわたしが次の四分類にわけます。

A採用 優れた論文で、次号に掲載すべき。
B採用 採用合格だが、次号でなくてもよい。
C採用 必ずしも採用基準に達してはいないが、会報スペースが空いていれば掲載可。
D不採用 採用すべきでない。

 このように分類した原稿を、編集担当の西村さんに転送し、わたしの判断が適切かチェックしてもらい、両者合意の上で最終決定します。もし、両者の見解がどうしても不一致の場合は、水野代表に判断を求めることになりますが、今まで一度もそのようなことはありませんでした。
 また、投稿原稿とは別に、編集部からの依頼原稿や転載依頼原稿もありますが、こちらは原則としてよほどのことが無い限り掲載します。そうしないと失礼ですから。
 こうした分類により、会報には常に優れた原稿が優先的に掲載されるようにし、読者に読みごたえのある会報を提供できるよう努めています。従って、投稿時期や採用時期の順に掲載されるわけでは必ずしもありません。
 なお、投稿の際にCDやフロッピーのみ送られてくる方もごくまれにありますが、必ず印刷したものも送ってください。
 上記のように、まずABCD分類しますから、自信のある方はABを狙っていただくとして、初心者の方はC採用を狙うことをおすすめします。Cだと後回しにされて、なかなか掲載されないのですが、実は次の点がクリアされていれば掲載される可能性がCでもぐっと上がります。

1.千字以内の短文。
2.新情報が含まれており、読者の興味を引ける。

 編集作業をしていて、少し空きスペースが発生する場合があります。そこにちょうど埋まる短文原稿があれば、C原稿でも掲載されるチャンスが生まれるのです。もちろんAB採用で短い論文であれば、更に優先的に掲載されます。(つづく)


第356話 2011/12/03

南郷村神門神社の綾布墨書

 百済人祢軍墓誌の「僭帝」が誰なのかという考察を続けていますが、倭王筑紫君薩野馬とする見解に魅力を感じながらも断定できない理由があります。それは、百済王も年号を持ち、「帝」を自称していた痕跡があるからです。 百済王漂着伝承を持つ宮崎県南郷村の神門(みかど)神社に伝わる綾布墨書に「帝皇」という表記があり、これが7世紀末の百済王のことらしいのです。「明雲 廿六年」「白雲元年」という年号表記もあり、百済王が「帝皇」を名乗り、年号を持っていた痕跡を示しています(『古田史学会報』20号「百済年号の発見」 で紹介しました)。

 また、金石文でも「建興五年歳在丙辰」(536年あるいは569年とされる)の銘を持つ金銅釈迦如来像光背銘が知られており、百済年号が実在したことを疑えません。こうした実例もあり、百済王が「帝」を自称した可能性も高く、百済人祢軍墓誌の「僭帝」が百済王とする可能性を完全に排除できないのです。

 学問の方法として、自説に不利な史料やデータを最も重視しなければならないという原則があります。従って、百済人祢軍墓誌の「僭帝」を百済王とする可能性が有る限り、どんなに魅力的であっても「僭帝」を倭王とする仮説を、現時点では「断定」してはならないと思っています。

百済禰軍墓誌


第355話 2011/12/01

百済人祢軍墓誌の「僭帝」

 この2週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送ってい ただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなの かが、今一番の検討課題となっています。
 この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全31行中の14行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その6行前には「顕慶五年(660) 官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、同じく4行前には「「日本余(口へんに焦)、據扶桑以逋誅」という記事があります。そして 「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年 (672)」の授位記事(17行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(663)以後でしょう。
 従って、660年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われま す。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝 廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
 しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」 という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアには いないのです。
 以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。

百済禰軍墓誌