第414話 2012/05/17

「遠の朝廷」考

今日は新潟県長岡市に来ています。これから上越新幹線で東京に向かい、午後は化成品業界団体の会合に出席します。
さて、大伴家持の「遠のミカド」については、越の国が継体天皇の出身地であるからとする古田先生の説で一応の納得をしたのですが、わたしにはなお疑問が 残っています。それは、「遠の」というのは「昔の」という意味なのか、文字通り「遠いところの」という意味なのかという疑問です。
家持の「遠のミカド」については「遠い昔の継体天皇の出身地」と古田先生は解されたのですが、万葉集の他の用例、たとえば家持が筑紫(福岡県)のことを 「遠の朝廷」と詠んだ歌もあります(巻二十、4331)。更には聖武天皇が筑紫のことを「遠の御朝廷」と詠んだ歌さえもあります(巻六、973)。この 時、九州王朝から大和朝廷に権力交代してから30年くらいしかたっていませんから、「遠い昔」と表現するには違和感があります。
もし大和朝廷の初代天皇神武の出身地だから、「遠い昔」と家持や聖武天皇は考えていたとするなら、これもおかしいのです。なぜなら日本書紀では神武の出 身地は日向(宮崎県)とされており、いわゆる筑紫(福岡県)ではないからです。しかし、家持や聖武天皇の歌の「遠の朝廷」は筑紫(福岡県)と見なさざるを えません。従って、家持や聖武天皇の「遠の朝廷」を「遠い昔の神武天皇の出身地」とはできないのです。
そうすると、「遠い筑紫にある朝廷」という意味にとらざるを得ませんが、これでは九州王朝の朝廷のことになってしまい、まさに家持や聖武天皇は多元史観 で歌を詠んだということになってしまうのです。これはこれでおもしろい仮説ですが、皆さんはどう思われますか。この「遠の」問題を、わたしはこの数年間 ずっと考え続けています。


第413話 2012/05/15

越中の「遠の朝廷」

今日は富山県高岡市に来ています。当地のタクシーの運転手さんにお聞きしたこ とですが、高岡市は富山県に属していますが、元々は加賀藩に属しており、二代目藩主前田利長公のお墓もあるとのこと。駅でもらったパンフレットによれば、 利長公の菩提寺瑞龍寺は国宝に指定されており、利長公が建てた高岡城趾も駅の近くにあります。お墓は大名個人のものとしては日本一の高さ(11m余)だそ うです。駅前には銅像もあり、利長公は高岡市のシンボルのようです。
前田利長公のことも興味深いのですが、古代史ファンのわたしとしては、高岡市が万葉歌人大伴家持が赴任した越中国府の所在地であったことを知り、感慨に耽りました。というのも、大伴家持について永く不思議に思っていたことがあったからです。
ご存じのように、万葉集に見える「遠の朝廷(みかど)」といえば九州太宰府のことなのですが、大伴家持の歌には自らが赴任した越中国府を「遠の朝廷」と 詠っているものがあるのです。この時代(8世紀中頃)、歌に「遠の朝廷」と詠み込めば、当然のこととして聞く人は九州王朝の都があった太宰府のことと受け 取ることは明白ですから、家持はそのように理解されることを承知の上で、越中国府をあえて「遠の朝廷」と詠んだと考えざるを得ません。何故、家持はこのよ うな歌を詠んだのかという疑問をわたしはずっと抱いていました。
遠い昔、越中国府に「天子」がいたのでしょうか。「遠の朝廷」と自らの赴任地を称することに抵抗はなかったのでしょうか。時の権力者、大和朝廷に対して はばかられなかったのでしょうか。何とも不思議で、納得できる「答え」が見つからなかったのです。ところが、古田先生が見事な「回答」を出されたのです。
その答えは『人麿の運命』にあります。それは、家持は継体天皇の出身地の越の国を「遠のミカド」と詠んだとする説です。詳しくは同書を読んでいただきたいのですが、この新説によりわたしの疑問は一応の解決を見たのです。


第412話 2012/05/13

『和田家文書』研究の発表

 昨日は淡路島までドライブしてきました。高速道路のサービスエリアで無料配布されていた「遊・悠・WesT」5・6月号に、「島根、奈良の古事記の旅」という特集があったので、いただいて読んでみました。
 出雲大社や石上神宮などの神社旧跡の他、古代出雲歴史博物館・橿原考古学研究所付属博物館などが写真付きで紹介されており、古代史ファンにはうれしい内 容です。しばらくはサービスエリアなどに置かれていると思いますので、高速道路ご利用時にはお勧めです。
 さて、6月17日(日)午後に古田史学の会会員総会・記念講演会を開催しますが、その講演内容が決まりましたのでお知らせします。今年の発表者は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)の安彦克己さんとわたしです。演題は次の通りです。

○安彦克己さん
『和田家文書』の安日彦、長髄彦
-秋田孝季は何故叙述を間違えたか-

○古賀達也
文字史料から見える九州王朝
-百済禰軍墓誌・「大歳庚寅」銘鉄刀・「はるくさ」木簡・『勝山記』・他-

 安彦さんは古田学派で最も熱心に『和田家文書』を研究されている研究者のお一人です。関西例会では『和田家文書』についての研究発表が少ないこともあり、今回大阪で発表していただくことにしました。
 わたしは、近年新たに発見された金石文などの文字史料を九州王朝説の視点から解説することにしました。まだ検討不十分な内容もありますが、古田学派内での研究のたたき台にしていただければ幸いです。
 なお、午前中は同じ会場(大阪府立大学中之島サテライト2階ホール=大阪府立中之島図書館別館2階)で関西例会を開催します。午後、記念講演会終了後に 会員総会を行います。その後は恒例の懇親会となりますが、懇親会への参加申し込みは、当日会場での受付となります。講演会・例会は会員以外の方も参加でき ます。ふるってご参加ください。


第411話 2012/05/10

筑紫君の子孫

 仕事で香川県宇多津町に来ています。新幹線で広島県福山市まで行って、そこから車で来たのですが、瀬戸内海の夕焼けと瀬戸大橋、そして讃岐富士(飯野山)のシルエットが絶景でした。
 今日は九州王朝の天子、筑紫君の子孫についてご紹介します。この20年ほど、わたしは九州王朝の末裔について調査研究してきました。その一つとして筑紫 君についても調べてきましたが、福岡県八女市や広川町の稲員家(いなかず・高良玉垂命の子孫)が九州王朝末裔の一氏族であることが古田先生の調査で判明し たことは、今までも何度かご紹介してきたところです。
 それとは別に筑前に割拠した筑紫一族についても調べたのですが、今一つわからないままでした。ところが、江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記拾 遺』(巻之十八御笠郡四。筑紫神社)青柳種信著に、筑紫神社の神官で後に戦国武将筑紫広門を出した筑紫氏について次のように記されていました。

「いにしへ當社の祭を掌りしは筑紫国造の裔孫なり。是上代より両筑の主なり。依りて姓を筑紫君といへり。」

 そしてその筑紫君の祖先として、田道命(国造本紀)甕依姫(風土記)・磐井・葛子らの名前があげられています。この筑前の筑紫氏は跡継ぎが絶えたため、 太宰少貳家の庶子を養子に迎え、戦国武将として有名な筑紫広門へと続きました。ところが、関ヶ原の戦いで広門は西軍に与(くみ)したため、徳川家康から所領を没収され、その子孫は江戸で旗本として続いたと書かれています。
 現代でも関東地方に筑紫姓の人がおられますが、もしかすると筑前の筑紫氏のご子孫かもしれません。たとえば、既に亡くなられましたが、ニュースキャス ターの筑紫哲也さんもその縁者かもしれないと想像しています(大分県日田市のご出身らしい)。
 というのも、古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』を筑紫哲也さんに贈呈したことがあるのですが、そのおり直筆の丁寧なお礼状をいただいたことがあったからです。筑紫さんは古田先生の九州王朝説のことはご存じですから、ご自身の名前と九州王朝との関係に関心を持っておられたのではなかったでしょうか。生前にお尋ねしておけばよかったと今でも悔やんでいます。


第410話 2012/05/08

観世音寺の水碓(みずうす)

 観世音寺や大宰府政庁の編年見直しの研究に取り組んでいますが、一応の結論と して観世音寺の創建を白鳳10年(670)、大宰府政庁II期の創建を670~680年頃とする論文を執筆しました。執筆直後(5月5日)、正木裕さん (古田史学の会会員)に電話でその内容を説明し、「日本書紀」にこの結論と関係するような記事がないか問い合わせたのですが、その翌日、正木さんから素晴らしい一報が届きました。
 それは観世音寺創建に関する発見なのですが、「日本書紀」の天智9年(白鳳10年に相当)の「是歳」条に「是歳、水碓を造りて治鉄(かねわか)す」という記事があり、この水碓は観世音寺に現存する「碾磑(てんがい・水碓のこと)」ではないかと指摘されたのです。そしてそれを裏付けるように、貝原益軒の 『筑前国続風土記』(巻之七御笠郡上。観世音寺)寛政十年(一七九八)に、「観世音寺の前に、むかしの石臼とて、径三尺二寸五分、上臼厚さ八寸、下臼厚さ 七寸五分なるあり。是は古昔此寺営作の時、朱を抹したる臼なりと云。」という記事があることを発見されたのです。
 すなわち、観世音寺が創建された年にあたる「日本書紀」天智9年(白鳳10年)に水碓の記事が唐突に記されており、『筑前国続風土記』にも現地伝承とし て観世音寺創建時に造られた臼のことが記されていたのです。しかも、どちらもその用途を金属の粉砕(湿式粉砕と思われる)としているのですから、これは偶然の一致ではなく、共に同じ歴史事実を記したものと考えざるを得ません。とりわけ、「日本書紀」の記事の年代が「勝山記」に記された観世音寺創建年の白鳳 10年(670)なのですから、この一致は決定的です。
 「二中歴」や「勝山記」、そして創建瓦「老司I式」の編年が、いずれも観世音寺創建を白鳳年間(白鳳10年)であることを指し示し、更にだめ押しのような正木さんの「水碓」記事の発見が加わったことにより、観世音寺白鳳10年創建説は揺るぎないものになったのではないでしょうか。
 なお、わたしの観世音寺・大宰府政庁II期に関する論文と正木さんのこの発見については「古田史学の会報」6月号に掲載予定です。


第409話 2012/05/06

「竈門山旧記」の太宰府

ゴールデンウィークは外出せずに自宅で論文を書いたり、本を読んですごしました。その中で、太宰府の北東の宝満山(竈門山・御笠山とも呼ばれる)にある竈門神社の記録「竈門山旧記」(五来重編『修験道史料集』?)におもしろい記事を見つけましたので、ご紹介します。
それは太宰府に天智天皇の時代に都が造られたという次のような記述です。
「天智天皇ノ御宇、都ヲ太宰府ニ建玉ウ時、鬼門ニ當リ、竈門山ノ頂ニ八百萬神之神祭リ玉ヒ」
「太宰ノ府ト申ハ水城ヲ以テ惣門トシ片野ヲ以テ後トス。今ノ太宰府ハ往昔ノ百分一ト可心得、内裏ノ四礎今ニ明ケシ。」
天智天皇の時代に太宰府に都が造られ、水城が惣門にあたり、当時は今の百倍の規模で、内裏の礎が今も明確であるというものです。
太宰府に都があったという伝承が記された貴重な記録です。この「竈門山旧記」の成立年代は不明ですが、「延寶八年」(1680)までの記事が記されてい ますから、成立はこれ以後となります。おそらく当地には九州王朝に縁源する文書がまだ他にもあるのではないでしょうか。


第408話 2012/04/29

『人麿の運命』復刻

古田先生の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)は古田ファン必読の三冊ですが、今回は古田先生の万葉集論三部作をご紹介します。
それは『人麿の運命』『古代史の十字路-万葉批判』『壬申大乱』の三冊ですが、このたびミネルヴァ書房より『人麿の運命』が「古田武彦古代史コレクション」として復刻されました。
古田先生の万葉論は文献史学の方法論として、「歌」を歴史史料として取り扱う上で貴重な提言が含まれています。ともすれば、様々な「解釈」が可能な万葉集の歌に基づいて、恣意的な研究が見られる分野ですが、歴史学としての古田先生の万葉論のエッセンスを学ぶことができる重要な一冊が『人麿の運命』です。
その方法論上のキーポイントをちょっと説明します。まず第一は、一次史料としての「歌」そのものと、編纂時に付け加えられた「題」や「左注」を切り離し、一次史料の「歌」そのものを史料批判するという点です。この方法論は歴史学としての万葉集研究を確立した素晴らしいものてす。
第二は、古田学派であれば当然のこととしてご理解いただけると思いますが、万葉集の原文により近い写本を基礎史料として使用するという点です。具体的には「元暦稿本」(有栖川王府本)と呼ばれる万葉集写本を重視されたことです。
第三は、多元史観・九州王朝説の視点から史料批判するという点です。
これらの方法論は古田史学の基本的なことですから、こうしたことを学ぶためにも『人麿の運命』の復刻は喜ばしいことです。青山富士夫さん撮影によるカラー写真もふんだんに掲載されており、古田万葉論の理解を助け、真実の万葉の世界を深くイメージすることができます。
巻末にある書き下ろしの「君が代」論、「男系天皇」論、「万世一系」論などもタイムリーなテーマで、おすすめの一冊です。


第407話 2012/04/22

鹿島神は地震の神様

最近、地震研究者の都司嘉宣さん(つじよしのぶ・元東京大学地震研究所)の研究を知る機会がありました。都司さんは高名な地震学者ですが、地震の歴史を調査研究するという、歴史地震学という分野でも活躍されています。
中でもわたしが感心したのは、フィールドワークを大切にされているという研究姿勢です。「歴史は脚にて知るべきものなり。」(秋田孝季)に通じるもので す。具体的な研究テーマとしては、地震の神様の研究に注目しました。鹿島神社が地震の神様として信仰されているという指摘と、その神様の全国分布調査に は、古田史学と相通じるものを感じたのです。
その都司さんの論文『歴史地震』第八号掲載の「地震神としての鹿島信仰」(1992年)を是非読みたいと願っています。どこの図書館にあるか調査中です。
広瀬・竜田の神が風や水の神様であり、日本書紀の天武紀などによく現れるのは有名ですが、地震の神様の存在など、祭神研究以外にその神様の効能研究という分野も面白いものだと思いました。どなたか、研究されてみてはいかがでしょうか。
なお、都司さんは古田先生が立ち上げた「国際人間観察学会」に もご協力いただいており、同会会報「Phonix」No.1(2007)にも寄稿されています(Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon)。本会ホームページからも閲覧できますので、英語に堪能な方は是非ご覧ください。


第406話 2012/04/21

古田先生緊急入院と退院

 4月14日、古田先生が体調不良で緊急入院され大変心配していましたが、19日には無事退院されました。先生も今年8月8日で86歳になられますから、無理をなさらずお身体を大切にしていただきたいと願っています。とはいえ、今も精力的に執筆や研究をされておられますので、やはり心配です。
 本日、関西例会が開催され盛況でした。池上さんは初めての発表でした。池上さんに続いて例会デビューされる人が出ることを期待しています。
 正木さんの発表では、「磐井の乱」も「継体の反乱」もなかったとする最新の古田説に対して、参加者から様々な意見が飛び交いましたが、結論には至りませんでした。同じく正木さんの、謡曲「老松」を九州王朝の舞楽から発生したものとする説は興味深いものでした。会報での発表が待たれます。
 今回はスイス在住の方の例会初参加もありました。
 発表内容は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
1). 道楽三昧・余録「楽しい徒労」(豊中市・木村賢司)
2). 故・林会長の「東海の古代」を冊子化・他(豊中市・木村賢司)
3). 百済と倭の位置(木津川市・竹村順弘)
4). 『日本書紀私記・丁本』に見る「日本」(相模原市・冨川ケイ子)
5). 神功皇后紀中の魏、晋へ貢献した倭国又は倭についての考察(高槻市・池上正道)
6). 『書紀』磐井の乱の盗用手法と『古事記』『筑後国風土記』(川西市・正木裕)
7). 九州王朝と松(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・古田史学キーワード辞典・会務報告・テレビ帝塚山大学市民講座・曹操の別荘の所在地と短里(青木英利説の紹介)・その他
○関西例会会計報告(豊中市・大下隆司)


第405話 2012/04/18

太宰府編年の再構築

 今日は仕事で長野県岡谷市に行ってきました。天候にも恵まれ、JR中央本線「特急しなの」の車窓から見える山々の冠雪や満開の桜がとてもきれいでした。
 このところ「古田史学会報」用論文の執筆に打ち込んでいます。題は「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」というもので、太宰府編年の整理と再構築がテーマです。九州王朝の王都太宰府については、古田学派内でも様々な編年観があるようですが、七世紀の九州王朝研究の深化のためにも、一度きちんと論文に まとめ直す必要を感じていました。
 というのも、わたし自身も当初の編年観が誤っていることに気づき、修正を重ねているからです。その修正ができたのは、二人の井上さんのおかげなのです が、一人は井上信正さん(太宰府市教育委員会)、もうお一人は井上馨さん(古田史学の会会員、山梨県在住)です。
 考古学者で太宰府遺構の調査研究にたずさわられている井上信正さんは、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺・朱雀大路よりも条坊区画の方が先に造営されており、その時期を七世紀末とする新編年を発表されました。
 当初わたしは九州王朝の王宮である大宰府政庁Ⅱ期と条坊都市は共に九州年号「倭京」年間(618~622)に造営されたものと理解していました。ところが、両者の中心軸はずれており、造営にあたり使用された基準尺も異なっていることを井上信正さんは発見されたのです。この指摘は衝撃的でした。この井上説に立てば、我が国最初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が先に造営されたことになりかねないからです。少なくとも同時期となってしま うのです。このため、九州王朝説の立場に立っても太宰府編年の見直しがせまられたのです。
 次に井上馨さんですが、昨年送っていただいた『勝山記』のコピーを読み、観世音寺の創建年が白鳳10年(「白鳳十年鎮西観音寺造」とあります)と記録さ れいることに気づいたのです。観世音寺創建年については、『二中歴』では「白鳳年間(661~683)」とされているのですが、それ以上の具体的年次が不 明でした。ところが『勝山記』のおかげで、白鳳10年(670)であったことがわかったのです。
 観世音寺創建年が670年のこととわかったおかけで、大宰府政庁Ⅱ期も同時期の造営となることから、太宰府編年研究が一気に進んだのです。こうした、二人の井上さんの「ご協力」に基づいて、太宰府編年研究を再構築すべく原稿を執筆しています。「古田史学会報」次号でご紹介できると思います。


第404話 2012/04/11

『古事記』千三百年の孤独(5)

 大和朝廷にとって『古事記』編纂の最大の目的は先住した九州王朝をなかったこ とにして、神代の時代から天皇家が日本列島の中心権力者であったとすることです。しかし、『古事記』編纂時の712年といえば九州王朝に替わって最高権力 者となってから、まだ十数年しかたっていません。ですから、列島内の多くの人々には大和朝廷が新参の権力者であることは自明のことだったのです。そのた め、自らの権力基盤を安定化するための「大義名分」(アリバイ)作りが史書編纂という形で進められました。『古事記』にはその痕跡が残されています。
 『古事記』には推古天皇まで記されていますが、各天皇の事績・伝承記事があるのは顕宗天皇までで、その後は推古まで系譜や姻戚記録等だけとなります(これにも理由があるのですが、今回はふれません)。ところが、例外のように継体記の末尾にちょっとだけ伝承記事が掲載されているのです。いわゆる「磐井の 乱」の記事です。

「この御代に、竺紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。」

 この短い記事を挿入しているのですが、この「例外」のような短文記事挿入こそ、『古事記』編纂の眼目の一つなのです。すなわち、九州王朝の王であった石井(日本書紀では磐井)より近畿の継体天皇が格上であり、この「磐井の乱」鎮圧の結果、名実ともに九州は大和朝廷の支配下にはいったという、「大義名分」 (アリバイ)作りの文章だったのです。
 これが、継体記に例外とも言える「伝承記事」を挿入した動機で、『古事記』編纂者の苦辛の跡なのです。しかし、その苦辛は報われませんでした。
 「天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」程度の理由や記事では、九州王朝の王・石井を殺して倭国のトップになったのは「歴史事実」だと、列島内の人々に信じさせることはできないと継体の子孫たち、8世紀初頭の大和朝廷には見えたのです。その結果、『古事記』は「ボツ」にされ、「継体の乱」を事細かに記した『日本書紀』が正史として新たに編纂されたのです。
 このように、『古事記』には隠された編纂意図があちこちに残されてるのですが、それらを説明するには「洛中洛外日記」では荷が重すぎます。また別の機会に紹介したいと思います。


第403話 2012/04/08

『古田史学会報』109号の紹介

 『古田史学会報』109号が完成しました。近々、会員のお手元に届くことと思います。四月より新年度となりました。会費のお支払いをお願い申しあげます。一般会員三千円、賛助会員五千円(会誌「古代に真実を求めて」も進呈)です。
 109号一面には大下隆司さんの『七世紀須恵器の実年代 — 「前期難波宮の考古学」について』が掲載されています。この大下稿は前期難波宮の創建を天武期とするもので、わたしの「前期難波宮九州王朝副都説」を考古学的に批判する内容で、根拠と論旨が明確なすぐれた論稿です。
 久しぶりの本格的な論戦に、わたしもわくわくしています。もちろん学問論争ですから、「勝ち負け」ではなく、共に切磋琢磨して「真実に近づくこと」が大切です。考古学をしっかりと勉強して、反論したいと思います。
 109号掲載稿は次の通りです。

〔『古田史学会報』109号の内容〕
○七世紀須恵器の実年代 –「前期難波宮の考古学」について  豊中市 大下隆司
○九州年号の史料批判  京都市 古賀達也
正誤表 P5-2段-2行 大化は五十5年→大化は五十年遡らせて (失礼しました。古賀氏より)

○「国県制」と「六十六国分国」 下 –「常陸国風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連においてー  札幌市 阿部周一
○磐井の冤罪 III  川西市 正木 裕
○倭人伝の音韻は南朝系呉音 ー内倉氏との「論争」を終えてー  京都市 古賀達也
○-独楽の記紀- 記紀にみる「阿布美と淡海」  大阪市 西井健一郎
○遺跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○2012年度 会費納入のお願い
○「古田史学会報」原稿募集