第428話 2012/06/19

「戸籍」木簡、現地説明会の報告

台風4号の接近でJR北陸本線特急列車が運休となり京都に帰れません。急遽、福井市で一泊することにしました。そんなわけで、今日は福井駅前のホテルで書いています。明日は朝から大阪で仕事がありますので、列車が動くのか、間に合うのか心配です。
17日には大阪市中之島の府立大学サテライト校舎をお借りして、古田史学の会・会員総会と記念講演会を開催しました。午前中は関西例会が行われ、発表テーマは下記の通りでした。
関西例会では、その前日16日の太宰府市出土「戸籍」木簡の現地説明会に、古田先生とともに参加された大下さんより報告がなされました。本当にタイムリーな最新の報告で、大変勉強になりました。
大下さんの報告によれば、出土した木簡は13点で、その中の一枚が注目されている「戸籍」木簡です。出土場所は大宰府政庁の北西1.2kmの地点で、国 分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層で、その堆積層の上の部分から出土した木簡には「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されており、評 制の時期(650年頃~700年)から少なくとも天平十一年までの木簡が出土したことになりそうです。なお、この「天平十一年」木簡のみが広葉樹で、他の 12枚は針葉樹だそうです。
この他にも貴重な興味深い報告がなされました。今後、考察を含めて紹介することにします。
記念講演会では、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)の安彦さんにおこしいただき、和田家文書研究の最新成果を発表していただきました。関西例会ではなかなか聞く機会がない貴重な研究でした。
わたしからは、当初予定していたテーマに換えて、太宰府出土「戸籍」木簡について、大宝二年戸籍との比較考察を報告しました。

〔6月度関西例会の内容〕
1). 拓本文字データベース(木津川市・竹村順弘)
2). 大祚栄と粛慎(木津川市・竹村順弘)
3). 太宰府の木簡(豊中市・大下隆司)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・「三国志」版本研究の調査・藤田友治著『ゼロからの古代史事典』紹介・古代寺院と瓦の研究・その他

〔会員総会記念講演会〕
○安彦克己さん
『和田家文書』の安日彦、長髄彦
-秋田孝季は何故叙述を間違えたか-
○古賀達也
文字史料から見える九州王朝
-太宰府出土「戸籍」木簡の考察-


第427話 2012/06/16

「戸籍」木簡の史料性格

 太宰府市から出土した最古の「戸籍」木簡について、毎日考えています。中でもその史料性格についてと、その内容が指し示す歴史事実について集中し て調査検討を続けています。そこで、内容の史料批判は後日のこととして、出土木簡の基礎的な史料性格について整理確認しておきたいと思います。
まずその内容が「戸籍」関連史料であることは間違いないと思われます。今後、専門家による研究がなされることでしょう。

 次に、地域的には太宰府市での学術発掘による出土ですから由来は確かなものですし、「嶋評」という地名が記載され、一緒に出土した別の木簡にも「竺志前國嶋評」とありますから、糸島半島の旧志摩町に関わる木簡であることが明らかです。

 次に時代ですが、「嶋評」とありますから、評制が施行された650年前後から、郡制に移行する701年よりも前の時期となります。さらには「進大弐」と いう『日本書紀』天武14年に制定された冠位が記載されていることから、685~700年の時間帯まで絞り込めそうです。内容を精査検討すれば、さらに絞 り込めるかもしれません。

 このように地域と時代か特定、あるいは絞り込める文字史料ですから、研究史料としては大変有り難い貴重なものです。とりわけ、九州王朝研究にとっては王朝末期の、太宰府近傍という中枢領域での同時代史料として第一級史料です。この木簡を精査研究することにより、七世紀末の九州王朝の実体に迫ることができるのです。(つづく)


第426話 2012/06/15

最古の「戸籍」木簡、太宰府から出土

 もう皆さんはご存じのことと思いますが、ビッグニュースが届きました。13日の朝、出張先の名古屋のホテルで朝刊(中日新聞)に目を通していた ら、太宰府市から最古の「戸籍」木簡が出土したという記事がありました。本当に驚きました。駅のコンビニで全国紙3紙(読売・毎日・朝日)を購入し、急ぎ 目を通したのですが、その記事がいずれも1面に掲載されており、読売に至ってはトップ記事でした。このことからも、今回の木簡出土がいかに衝撃的な事件かがわかります。

 明日16日には現地説明会が開催されますが、古田先生も参加されるとのことです(古田史学の会・総務の大下隆司さんがアテンドされます)。古田史学にとっても新たな進展の予感がしています。

 新聞記事を読んでみると、専門家の様々なコメントやもっともらしい解説が掲載されていましたが、「何故、畿内ではなく九州太宰府から出土したのか」とい う本質的な疑問への説明は皆無でした。おそらく、古田先生の九州王朝説を知っている一元史観の学者にとっては、素晴らしい木簡が出土したことへの喜びと、 「よりによって太宰府から出土した(九州王朝説に有利)」ことへの「不安感(九州年号木簡などもう出ないで欲しい)」が交錯しているのではないでしょう か。

 今回出土した木簡に対する、わたしの見解発表は詳細な解説や報告を待ってからにしたいと思いますが、古代戸籍(主に大宝二年戸籍。正倉院文書)について は従来から西海道(九州)戸籍の「高度な統一性(用紙・体裁・記載様式)」が指摘されていました。わたしはこの西海道戸籍の「高度な統一性」こそ、九州王 朝が存在し、大和朝廷に先立って戸籍を造籍していたことの反映と理解していましたが、今回の「戸籍」木簡が他でもない九州王朝の都である太宰府近傍から出土したことにより、その「高度な統一性」が九州王朝に縁源することが証明されたのです。その意味でも、多元史観・九州王朝説にとっても画期的な出土史料な のです。

 この他にも、今回出土した木簡には様々な興味深い発見があるのですが、もう少し詳細な情報を得てから、紹介したいと思います。


第425話 2012/06/12

「天草」の語源

第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこ は海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらっ た観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。


第424話 2012/06/10

九州王朝の「五京制」

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表して以来、賛否両論をいただき有り難く思っています。ただ、反対意見の大半は 「感覚的」な御意見のようで、具体的な史料根拠に基づく論理的な批判は少数にとどまっているようにも見えます。もちろん全ての反対意見を把握しているわけではありませんので、これはわたしの主観的な受け止め方に過ぎないかもしれません。
 最近も水野代表から、大和朝廷のそばに九州王朝の副都があることに違和感を覚える人もおられることをお聞きしたばかりです。このような感覚的な違和感への反論や説明は簡単ではないのですが、こうした批判に対しても答える必要を感じています。そこで今回は古代東アジアにおける副都制や五京制の存在について ふれ、九州王朝副都説さらには「五京制」説への展望を示したいと思います。
 たとえば渤海国(698-926)では五京制が採用され、都が五カ所(上京竜泉府・東京竜原府・中京顕徳府・南京南海府・西京鴨緑府)ありました。ちなみに年号も制定しています。七世紀末の新羅も「九州」制を採用し、首都の金城(慶州市)以外に五つの副都(五小京制)を採用しています。しかも、旧敵国内 (百済や高句麗)に置いています。この他にも、中国の歴代王朝でも両京制や三京制・四京制が普通に見られ、むしろ副都を制定するのは古代東アジアの国々にとって、「常識」であったとさえ言えるのです。
 したがって古代日本列島の代表王朝だった九州王朝が副都を制定するのは当然の「国際常識」であり、支配領域に評制を施行した九州王朝であれば、その支配領域の中心部で海運の便も良好な難波に副都「難波京」を制定しても何ら不思議とするにあたりません。列島内ナンバー2の実力者である近畿天皇家を牽制監視する上でも適切な場所と言えるでしょう。
 ここからは推測となりますが、おそらく九州王朝は難波以外にも複数の副都を制定した、あるいは制定しようとしたのではないかと考えています。もちろん首都は九州太宰府の倭京です。筑後にも副都を置いたように思われます(古田武彦「両京制の成立」古田史学会報36号参照。『「九州年号」の研究』に転載)。 七世紀後半には近江京(古賀達也「九州王朝の近江遷都」古田史学会報61号参照。『「九州年号」の研究』に転載)。更には信濃にも副都を作ろうとした痕跡 が『日本書紀』天武紀に見えます。
 これらの推測が当たっていれば、九州王朝も「五京制」を採用していた可能性があると思うのですが、いかがでしょうか。少なくとも、東アジアの国際状況を考えたとき、決して無茶な推測・仮説ではないと思うのです。


第423話 2012/06/10

古田万葉論三部作『古代史の十字路』復刻

ミネルヴァ書房より、古田武彦万葉論三部作の第二弾『古代史の十字路』が復刻されました(古田武彦古代史コレクション12)。既に復刻された『人麿の運命』と共に古田武彦万葉論の傑作とされる名著で、同書により万葉集研究は歴史学の新たな段階へと発展しました。
同書に収録された「籠もよみこもち」「天の香具山」「春すぎて」「中皇命」「雷山」などの歌や作者についての、多元史観・九州王朝説による画期的な論証 の数々により、万葉集の歌が歴史史料として生き生きと蘇っているのを読者は見ることができるでしょう。そして、万葉集が指し示す古代の真実を知ることがで きるでしょう。
そして同書には有り難いサプライズが最終章に用意されています。読者や古田史学の会・会員(4名)から寄せられた質問・疑問などに対して、ひとつひとつ 丁寧に紹介し、「回答」されているのです。今年一月に大阪で開催された古田史学の会・新年賀詞交換会でのわたしからの質問に対しても7ページを割いて回答 されています。古田学派の研究者・弟子としてこれほど有り難く名誉なことはありません。
古代史ファンだでなく、万葉集ファンにも是非読んでいただきたい一冊です。そして三部作のもう一冊『壬申大乱』の復刻も待ち遠しいものです。

 


第422話 2012/06/10

「十五社神社」と「十六天神社」

 先日訪れた天草で見た「十五社神社」が気になり、ネットで調べたのですが、阿蘇十二神などを含む十五柱の祭神が祭られて いるため「十五社神社」と称されたとする説明や、「龍王」が訛って「じゅうご」と呼ばれたことにより「十五社」と当て字されたとする説などがあるようで す。
 わたしは「十五柱の祭神が祭られているため」とする説には賛成できません。なぜなら、祭神の数で命名されたのであれば、十五社だけでなく、「十一社」や 「十二社」、「十三社」、「十四社」という名前の神社も多数あってしかるべきですが、そのような神社名はあまり聞いたことがありません。やはり、本来の語 源の音(おん)に対して、後世「十五社」という字が当てられたとするべきでしょう。もちろん先に紹介した「龍王」がその語源かどうかは、わたしにはまだわ かりません。
 わたしがこのように判断したのには、ある一つの研究経験があったからです。それは筑前に多数分布する「十六天神社」についての研究と考察の経験です。通 常、この「十六天神社」についても、天神・地神が十六柱祭られているからと説明されることが多いのですが、「十五社神社」と同じ理由から、わたしはこの説 明に納得できなかったのです。それならなぜ「十七天神社」「十八天神社」「十九天神社」が無いのかという理由からです。
 ところが筑前の地誌などを調べてみると、この「十六天神社」の祭神を埴安彦・埴安姫とするものがあることに気づいたのです。というのも、同じく筑前に数 多く分布する神社に地禄神社があり、その祭神が埴安彦・埴安姫なのです。そこでわたしは、「ぢろく」あるいは「じろく」と呼ばれていた神社の当て字に「地 禄」と「十六」が用いられ、それぞれ「地禄天神社」「十六天神社」となり、後世にいたって「十六天神社」の方は十六柱の天神・地神を祭神とする付会がなさ れたのではないかと考えるに至ったのです。
 このように考えれば、筑前に濃密に分布する「十六天神社」と「地禄天神社」が共に祭神を埴安彦・埴安姫とする状況をうまく説明できるのです。しかし、問 題はこの次です。なぜ埴安彦・埴安姫が「ぢろく天神社」に祭られたのかという問題です。日本書紀神話では埴安神はイザナミがカグツチ神を生んだときにその 糞から生成した神とされ、「土の神」とされています。その「土の神」がなぜ「天神」とされ、「ぢろく」と呼ばれているのかが研究課題として残っているので す。
 おそらく、埴安彦・埴安姫は天孫降臨以前の北部九州の土着の神々ではなかったかと想像していますが(「地禄田神」という表記もあり、興味深いと思います)、天草の「十五社神社」の縁源とともに、これからも検討していきたいと考えています。


第421話 2012/06/09

『古田史学会報』110号の紹介

 一昨日と昨日、鹿児島県・熊本県・宮崎県を仕事で回ってきました。天草市で宿泊したのですが、途中、八代市や宇土半島を通過しました。同地域は、『倭姫世記』に記された「淡海」を琵琶湖ではなく八代市河口とされた西村秀己さんの研究以来、古田学派内で注目を浴びていること もあって、出張のついでとは言え実見することができてラッキーでした。
宿泊した天草では、「十五社神社」という今まで知らなかった神社が散見され、興味を引かれました。このことについては、別途書きたいと思います。
『古田史学会報』110号が発行されましたのでご紹介します。拙論「観世音寺・大宰府政庁II期の創建年代」の他、札幌市の期待の新人、阿部周一さんの 「無文銀銭」-その成立と変遷-などが掲載されています。阿部稿はなかなかの労作で、九州王朝と無文銀銭の関係を詳しく考察されています。
掲載論文・記事は次の通りです。なお、六月十七日には古田史学の会会員総会と記念講演を開催しますので、会員の皆様のご出席をお願いします。記念講演会は非会員の方も参加できます。

〔『古田史学会報』110号の内容〕
○観世音寺・大宰府政庁II期の創建年代  京都市 古賀達也
○補遺 観世音寺建立と「碾磑」  川西市 正木 裕
○「無文銀銭」–その成立と変遷  札幌市 阿部周一
○磐井の冤罪 IV  川西市 正木 裕
○「邪馬一国」は「女王国」ではない
-『東海の古代』の石田敬一氏への回答-  姫路市 野田利郎
○(書評)古田武彦著『人麿の運命』 京都市 古賀達也
○遺跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○古田史学の会会員総会・記念講演会(六月十七日)のご案内
○「古田史学会報」原稿募集


第420話 2012/06/02

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。第352話「和歌木簡と九州年号」でもふれましたが、万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。

 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」 (647)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(652)の可能性もありますが、『日 本書紀』によれば652年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。

 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。 そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。 ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。

 さらに言えば、7世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(661)、「朱雀元年」(684)、「朱鳥元 年」(686)、「大化元年」(695)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となるのですが、661年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。 684年と686年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。

 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は7世紀中頃にならざるを得ないと言 う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を7世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。


第419話 2012/05/30

前期難波宮の「戊申年」木簡

 東京に来ています。昨日は足利市に行きましたが、途中で開業後初めて東京スカイツリーを間近で見ました。やはり大きいですね。おそらく、古代の人々が法隆寺や観世音寺の五重の塔を見上げたときも、同じような感慨を抱いたのではないでしょうか。今日はこれから福島市へ向かい、夜は山形市で宿泊予定 です。

 難波宮編年の勉強のために『大阪城址2』(2002、大阪府文化財調査報告研究センター)を読んでいますが、この発掘調査報告書にはわが国最古の紀年銘 木簡である「戊申年」(648)木簡の報告が掲載されています。この木簡の出土が、前期難波宮の時代特定に重要な役割を果たしたことは既に紹介してきたと ころですが、今回その発掘状況と史料性格(何のための木簡か)を詳しく知りたいと思い、大阪市立歴史博物館に行き、同報告を閲覧コピーしました。

 同報告書によれば「戊申年」銘木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その谷だった所(7B地区)の地層の「16層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含するとともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積層である。」(12頁)とされています。この花崗岩は化学分析等によって上町台地のものではなく、前期難波宮造営に伴って生駒山・六甲山・滋賀県田上山などから人為的に持ち込まれた とのことです。

 木簡の出土は33点確認されており、その中の「11号木簡」とされているものが「戊申年」銘が記されたものです。この他にも、「王母前」「秦人凡国評」や絵馬も出土しており、大変注目されました。

 これら花崗岩や木簡が出土した「16層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、 「難波3新」で660~670年頃とのことでした。従って、「戊申年」(648)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡作成後10~20年たっ て廃棄されたと考えられるとのことでした。積山さんの推測としては、同木簡などは前期難波宮のどこかに保管されていたもので、660~670年頃に廃棄されたのではないかとのことでした。

この積山さんの見解を正木裕さんに話したところ、これは近江遷都と関係しているのではないかとのアイデアが出されました。近江遷都は『海東諸国紀』によれば白鳳元年(661)、『日本書紀』によれば天智6年(667)とされていますが、同木簡廃棄時と同時期です。もしかすると近江遷都にともなって難波宮にあった文物の引っ越しがあり、その時に不要な木簡類が廃棄されたのではないかと想像しています。


第418話 2012/05/27

土器「相対編年」と「絶対年代」

 難波宮土器編年の勉強を続けていますが、その主要課題の一つに、土器様式の前後関係に基づく「相対編年」が、どのように 「絶対年代」とリンクされているのかということがあります。今回、前期難波宮の発掘調査報告を閲覧し、七世紀の畿内における土器「相対編年」と「絶対年代」との関連について、考古学者が何を根拠にどのように判断しているのかが分かってきましたので、少し紹介したいと思います。
「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)によれば、難波宮遺跡の編年は難波1期(5世紀)から難波5期(8世紀前葉~9世紀初)までに分類されており、「難波3中」が前期難波宮の時代で7世紀中葉とされています。

 こうした土器「相対編年」の中で「絶対年代」を確定できた年代は「定点」と称されています。たとえば「難波2新」段階は6世紀後葉~7世紀初頭と編年さ れていますが、その根拠となった「定点」は、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年(年輪年代測定により616年とされている)から求められてます (狭山池調査事務所1998)。

 前期難波宮の時代の「難波3中」段階は、この土器と同様式の土器が出土している兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡SD01(兵庫県教育委員会1997)の「元壬子年」(652、通説では「三壬子年」と釈文されています)木簡の年代が「定点」として採用されています。

この他にも7世紀における「定点」資料・遺構があるのですが、年輪年代測定のような自然科学的分析で絶対年代を特定し、一緒に出土した土器の「相対年代」とリンクするという方法は論理的・科学的で説得力があります。わたしもこうした「定点」と土器「相対編年」の最新考古学の成果を知ることができ、九州 など他の地域への展開が必要と思われました。


第417話 2012/05/26

前期難波宮の「年輪年代」

 太宰府編年の小論を書き終わったので、今は難波宮考古学編年の勉強を続けています。先日も大阪市立歴史博物館に行き、二階の「なにわ塾」で発掘調査報告書を閲覧したり、同館学芸員の積山洋さんから難波宮編年についていろいろと教えていただきました。

 その積山さんから勧められて読んだのが、「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)でした。難波宮の北西に位置する旧大阪市中央体育館跡地の発掘調査報告なのですが、そこから出土した前期難波宮時代の水利施設遺構について大変重要な報告が記載されていましたのでご紹介したいと思います。

 その遺構は谷から湧き出る水を通す石造の施設で、そこには大型の水溜め木枠が設置されており、その木枠の伐採年が年輪年代測定により634年であると記 されていました。そしてその石造遺構の下層と石を固定する客土に大量に含まれていた土器が、前期難波宮整地層に含まれている土器と同様式で、共に七世紀中葉と編年されています。従って、この水利施設は前期難波宮の造営時から使用され、宮内に井戸がなかった前期難波宮のためのものであることが判明しました。

 この年輪年代測定による伐採年(634)が明らかな木枠と、同じく難波宮北方から出土した「戊申年(648)」木簡は、長く論争が続いた前期難波宮の年代について、相対編年による土器様式と絶対年代を関連付ける貴重な資料となったようです。

 同報告には、「今回得られた年輪年代のデータや、『戊申年』銘木簡などの暦年代のいくつかの定点を併せて検討すれば、前期難波宮の造営期は7世紀中葉に 明確に位置づけることができるであろう。」(85頁)、「前期難波宮がいつつくられたのか、長年の論争に対しSG301(石造水利施設のこと:古賀)の No.1の年輪年代は、遺跡、遺構を解釈する上で貴重な年代情報となるであろう。」(208頁)と記されています。

 今回、わたしは大阪市立歴史博物館を訪れて、前期難波宮の編年を確定した水利施設遺構や木枠の年輪年代の存在について知ることができ、大変よい勉強になりました。