第490話 2012/11/07

「大長」木簡を実見

 坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ −四国の古代−」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田II遺跡出土)の実見です。
同展示は12月16日まで開催され、来年1月10日からは徳島県埋蔵文化財センター(板野郡板野町)での開催となります。入館料は無料の上、「四国遺跡88ヶ所」マップなどもいただけ、かなりお得で良心的な展示会です。
さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。

 あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。

 「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ

 これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。来年三月には愛媛県埋蔵文化財センターに「大長」木簡は帰りますので、それから赤外線写真撮影などの再調査が待たれます。

 この他に松山市久米高畑遺跡出土の「久米評」刻書土器なども展示されており、同展は一見の価値ありです。


第489話 2012/11/01

紫香楽宮跡を訪れて

 先日、紫香楽宮跡に行ってきました。近くまでドライブしたことはこれまでもあったのですが、同遺跡を見学したのは初めてでした。それまでは紫香楽宮は信楽町内の一角に宮殿跡があるのだろうと想像していたのですが、実際に訪れてみると、かなりの広範囲に寺院跡や各種建物跡が散在しているという遺跡状況でした。やはり、歴史研究は自分の足で実物を見て回ることが大切だと改めて実感しました。「歴史は脚にて知るべきものなり」 (秋田孝季)ですね。
 ご存じのように、紫香楽宮は聖武天皇により造営された複数の宮殿の一つですが、なぜこのような山の中に宮殿を造営したのか不思議です。しかしもっと不思議なことがあります。それは、近畿天皇家はなぜ聖武天皇の時代になって複数の大規模な「都」「宮殿」を次々に造営できる財力を持つようになったのかという疑問です。たとえば、後期難波宮・難波京や恭仁京、そして紫香楽宮です(東大寺の大仏殿もこの時代の造営です)。
 こうした問題意識を抱いた歴史研究者が今までにいたのかどうかは知りませんが、この答えもやはり多元史観・九州王朝説に立ったとき明確にできると思います。すなわち、701以前の九州王朝は唐や新羅との戦争にかかる戦費、神籠石山城や水城・大野城築造にかかる防衛費を負担するために、全国から集めた「税収」をつぎ込んでいたのでしょうが、701年に政権交代した近畿天皇家は戦費負担が減り、防衛費も大幅削減が可能となったので、次々に短期間で「都」「宮殿」を造営することができたと思われます。
 逆にいえば、古代日本列島(倭国)において、代表権力者に集まる富の大きさがこれらの事業規模からわかるのではないでしょうか。こうした視点からすれ ば、九州王朝が7世紀中頃、難波に大規模な朝堂院を有する画期的な副都前期難波宮を造営できる財力があったとしても不思議ではありません。

 紫香楽宮から帰ると、冨川ケイ子さん(古田史学の会々員)からメールが届き、第487話の内容に誤りがあることをお知らせいただきました。当初、わたしは庄内藩々主を本間家と書いていたのですが、本間家は大地主で藩主は酒井家であるとご指摘いただきました。これは全くわたしの思いこみによるミスで、横田さん(古田史学の会・全国世話人、HP担当)にお願いして、大急ぎで訂正していただきました。読者の皆さんと山形県の皆さんにお詫び申し上げます。そして、誤りを指摘していただいた冨川さん、ありがとうございます。
 なお、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」というような歌が江戸時代に作られたほど、庄内の本間家は裕福で立派な地主だったとのことで、 藩や領民の危機をその財力で何度も救った名家です。今回の誤りのおかげでこうした山形県の歴史を勉強することができました。


第488話 2012/10/28

多元的木簡研究のすすめ

 第485話で紹介しました原幸子さん(古田史学の会々員)からの質問、「大化改新の宮はどこか」という問題について、昨日、正木裕さんとディスカッションしました。

 『日本書紀』大化二年条(646)に記された改新詔は九州年号の大化二年(696)に藤原宮で出されたとする説をわたしは発表していたのですが、藤原宮朝堂東側回廊の完成が大宝三年(703)以降であることが出土木簡から判明したため、696年に大極殿など主要宮殿が完成していたことが疑問視されているのです。さらに突き詰めれば、天武期(680年代)には造営が開始されていた藤原宮ですが、その回廊が703年に至っても完成していなかったということに、わたしは深い疑問を抱いたのです。

 こうした疑問もあり、正木さんと意見交換を行いました。まだ結論は出ていませんが、何か重要な視点(仮説)が抜け落ちているような気がしています。たとえば『日本書紀』で持統が694年に遷都したとされる「藤原宮」は発掘された藤原宮(鴨公村大宮土壇)と同じなのか、697年に文武が即位した宮殿はどこなのか、大宝元年(701)に文武が朝賀の儀式を行った宮はどこかといった問題を通説にとらわれず丁寧に再調査する必要を感じています。

 ちなみに、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)は文武が即位したのは(飛鳥)清原大宮とする説を発表されていますが、古田先生も同様の見解を京都で発表されました(10月21日、「森嶋学と日本古代史」京都市下京区旧・成徳中学校舎にて)。

 7~8世紀における九州王朝から近畿天皇家への権力交代を研究するうえで、同時代史料である木簡の多元史観による研究は不可欠です。このことを正木さんに提案し、「多元的木簡研究会」を立ち上げることで合意しました。具体的なことはこれから検討していきますが、将来的には研究成果を書籍として出版したいと考えています。


第487話 2012/10/25

月山の初冠雪

 昨日は月山が初冠雪するなど、山形市も肌寒くなりました。今朝はこれから山形新幹線と東海道新幹線を乗り継いで名古屋に向かいます。午後は名古屋で代理店との交渉です。

 山形に来るといつも違和感を覚えることの一つに、テレビや新聞の天気予報があります。山形では庄内・最上・村山・置賜(おきたま)の4地域にわけ
て天気予報がなされるのですが、まず自分がいる山形市がどの地域に属するのかが京都人のわたしにはわかりませんでした。そして、一つの県をなぜ4地域にも
分けて天気予報を報じなければならない理由もわかりません。京都府なんかは北部と南部の2地域なのに、なんとも不思議でした。
 そこでアテンドしていただいた山形市の代理店のKさんにその理由を聞いてみました。Kさんの説明では、日本海側の庄内地方は平野で、その他はそれぞれ盆
地になっており、微妙に天気が異なるとのこと。さらに、戦国時代や江戸時代はそれぞれ別の大名が支配していた歴史があり、今でもあまり「仲が良くない」と
冗談めかして話されていました。もちろん現在はそのようなことはないでしょううが。
 たとえば米沢市がある置賜地方は上杉家が、山形市がある村山地方は最上家が殿様で両者は戦国時代には敵対していた間柄とのこと。ちなみに上杉家はNHK大河ドラマ「天地人」で有名ですし、江戸時代には屈指の名君・上杉鷹山を出しています。
 最上家は戦国武将の最上義光(もがみよしあき)を出しています。最上義光と仙台の伊達正宗とは親戚関係だそうです。
 庄内藩は酒井家が藩主で、大地主の本間家も有名です。そういえば庄内地方の酒田市長選がテレビで報道されていましたが、候補者の一人が本間正巳さん(前副市長)でした。本間家の御子孫でしょうか。有名な「ゴルフのホンマ」もこの本間家出身とのこと。
 このような歴史的背景のうえに、現在の山形県の風土が形作られているようです。まさに「多元的山形県」ですね。青森県でも津軽と南部とでは似たような関
係があるそうですし、津軽内部でも津軽家と津軽為信に滅ぼされた側の勢力があり、現在も両者は「仲が良くない」という話しを聞いたことがあります。
 このような歴史的背景や歴史的力関係は古代も現代も日本列島に存在しています。こうした歴史理解に基づいた学問が多元史観であり、九州王朝説でもあるのです。現代日本も多元的に分析すると、新たな切り口や真の勢力関係が見えてきそうです。


第486話 2012/10/23

古田先生と森嶋通夫さん

 未明から降り出した強い雨の中、新幹線で東京にむかっています。JR東海エクスプレスカードのポイントを利用して、グリーン車でくつろいでいます。出張の多いビジネスパーソンにはありがたいサービスです。
 今日は東京日本橋のN商社で今年度下期のビジネスの打ち合わせと景気動向について情報交換をした後、今晩は山形市で宿泊予定です。ちなみに、東京の日本橋は「にほんばし」と言い、大阪の日本橋は「にっぽんばし」と言います。なぜ読み方が異なるのか理由は知りませんが、このことに最近気づきました。

 一昨日の日曜日に京都市下京区の旧・成徳中学校校舎で古田先生の講演会があり聴講しました。主催者は「文化政策・まちづくり大学校」(代表:池上惇・京都大学名誉教授)という団体で、旧・成徳中学校校舎を拠点に様々な学習会活動を主催されています。
 今回の古田講演は世界的に高名な経済学者の森嶋通夫さんの奥様(ロンドン在住で一時帰国されています)をお招きして、「森嶋学と日本古代史」というテーマで、古田先生が森嶋通夫さんとの出会いや最新の発見について講演されました。古田史学の会からは水野代表をはじめ木村賢司さん・大下隆司さん・正木裕さん・古賀らが参加しました。古田先生の奥様も参加されました。
 講演で話された古田先生と森嶋さんの出会いのエピソードについては、正木さんの提案により会報に掲載する予定です。
 森嶋さんは何度もノーベル経済学賞候補に名前が上った経済学者で、若くして文化勲章も受賞された方です(53歳のとき)。2004年に亡くなられました が、古田先生の熱心な支持者で、邪馬壱国説や九州王朝説についてもよくご存じでした。1998年11月には古田先生と対談をされ、その様子が『新・古代学』第4集(新泉社刊、1999年)に掲載されています(対談「虹の架け橋 ロンドンと京都の対話」)。
 理系(有機合成化学)出身のわたしには経済学はさっぱりわからない分野ですが、森嶋さんが古田先生同様に学問や論証をとても大切にされる本物の学者であ ることは、氏の著書(『なぜ日本は没落するか』『血にコクリコの花咲けば–ある人生の記録』『智にはたらけば角が立つ–ある人生の記録』他)を読めばよくわかります。また、文化勲章受章にともなってもらえる「年金」は全額ロンドン大学の研究所に寄付されているそうです(森嶋さんはロンドン大学名誉教授でした)。日本では本物の学者は、経済学であれ古代史であれなかなか受け入れられないようですが、世界の知性はしっかりと評価しているのではないでしょう か。
 日頃聞くこともできないような世界の経済学者のエピソードなども森嶋夫人からお聞きすることができ、とても思いで深い京都の一夕でした。


第485話 2012/10/20

大化改新詔の宮は何処?

 今日の関西例会も優れた面白い研究発表が続きました。初めての参加者も増え、初心者にも楽しんでいただけたようです。毎月の会場確保は大変です が、大下さん西井さんや正木さんらのご尽力もあり、何とか会場を確保しています。今回は初めて「エル大阪」という会場を正木さんに確保していただきまし た。関係各位には感謝にたえません。
 今回は木簡研究に関する報告が正木さんや冨川さんからなされ、理解が進みました。正木さんの発表では、藤原宮の回廊が完成するのは大宝三年(703)以 降であることが改めて指摘されたのですが、それを聞いた原幸子さん(古田史学の会々員・奈良市)から休憩時間に、「それでは大化改新詔が出された宮殿はどこなのですか」と問われ、わたしは考え込みました。
 わたしの説では大化二年の改新詔は九州年号の大化二年(696)のことであり、藤原宮で出されたと考えていたのですが、藤原宮出土木簡の研究から、大化二年(696)には藤原宮回廊が未完成であったことが判明したので、それではどこで大化改新詔が出されたのかわからなくなったのです。
 例会後の懇親会で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)にこのことをたずねると、「回廊は未完成でも大極殿などは完成していたと考えれば問題ない」との返答が返ってきました。確かにそうかもしれませんが、まだよくわかりません。歴史研究には様々な説が「相対的」な論証力を持ち、優劣付けがたいケースがあります。結論を急がず、検討を続けたいと思います。
 こうした甲論乙駁により、自分一人で行う研究に比べ、例会などによる「論争」は自らの説の弱点や誤りにも気づかされることがあり、大変有意義です。関西例会の有り難みを噛みしめる今日この頃です。
 例会発表のテーマは次の通りでした。なかでも岡下さんの聖徳太子と九州年号の研究は刺激的でした。会報への投稿が期待されます。正木さんのプロジェクターを使用した発表は、九州王朝説への理解を助け、説得力のあるもので、ことのほか好評でした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 九州王朝の近畿侵入譚(木津川市・竹村順弘)
2). 人麿はジェノバラインを知っていた・2(明石市・不二井伸平)
3). 藤原京出土木簡について(川西市・正木裕)
4). 楽浪郡と平壌出土戸口簿(相模原市・冨川ケイ子)
5). 「真宗と九州年号」を読んで(京都市・岡下英男)
6). 「正法輪蔵」のなかの九州年号(京都市・岡下英男)
7). 久留米大学講演「九州王朝論の新展開 — 最近の考古学的発見と九州王朝」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・古田先生京都講演会「森嶋学と古代史」・TV大学市民講座「幕末維新期の鳩居堂」他・日本触媒姫路の爆発事故・別府市HPに水野孝夫の名前・その他


第484話 2012/10/17

「十五社神社」の分布

 名古屋のホテルのパソコンで「十五社神社」を検索したところ、天草の85社が最濃密分布で、次いで長野県岡谷市の4社のようです。いずれもネット検索の数値ですから実数値というよりも「参考値」に過ぎませんが、天草の最濃密分布は揺るがないと思います。
 ネット検索によれば、次の地域に「十五社神社」がヒットしました。ちなみに御祭神は地域により異なり、天草と岡谷市以外は各1社です。

 茨城県かすみがうら市
 長野県茅野市
 長野県松本市
 長野県岡谷市(4社)
 静岡県袋井市
 岐阜県山県市
 和歌山県和歌山市
 兵庫県加古川市
 福岡県北九州市
 熊本県天草(85社)
 熊本県宇城市
 鹿児島県鹿屋市 
 鹿児島県出水郡長島町

 これらの分布状況が指し示すことは、「十五社神社」の分布の中心は圧倒的に天草であり、次いで長野県岡谷市ということができます。従って「十五社 神社」の移動(広がり)の方向は、「天草→その他。どういうわけか信州岡谷市にやや多い」ということができそうです。この展開の方向について、その時期と理由はまだ不明ですが、歴史の秘密が隠されていそうです。わたしの直感ですが、ここにも九州王朝説による説明が必要のように思われます。


第483話 2012/10/16

岡谷市の「十五社神社」

 今、塩尻から名古屋へ向かう特急しなのに乗っています。これから2時間ほど木曽路の旅を満喫できます。今日は仕事で岡谷市に行ったのですが、岡谷駅前に「十五社神社」が鎮座していることに気づきました。こんなところにも「十五社神社」があることに驚きました。
 「十五社神社」といえば、第422話で紹介しましたように、熊本県天草諸島に分布している不思議な神社なのですが、それと同じ名称の神社が遠く離れた長野県岡谷市にもあったのです。タクシーの運転手さんにたずねたところ、岡谷市内に数カ所あるそうで、いずれも大きな神社ではないとのこと。名古屋のホテルに着いたら、ネットで調べてみたいと思います。
 長野県というところは本当に不思議なところで、福岡県久留米市にある高良大社(筑後国一宮)と同じ神を祭る「高良社」が数カ所あることがわかっています。京都の石清水八幡宮の隣にも高良神社がありますが、長野県のように複数あるのは北部九州以外では珍しいことです。
 このように「十五社神社」が共通してあるということから、九州天草と信州にどのような関係があるのか興味津々です。
 今、南木曽駅に着きました。名古屋まであと1時間です。ところで、「南木曽」と書いて何と訓むかご存じですか。答は「なぎそ」です。面白い当て字ですね。それではまた。


第482話 2012/10/14

中国にあった「始興」年号

 第480話で、「始興」という年号は中国にも日本にも無いと書いたのですが、出張時に持っていた「東方年表」に基づいた判断でしたのでちょっと気にかかり、帰宅後にネットで調べてみました。そうしたらなんと7世紀初頭に「始興」という年号があったのです。
 たとえばウィキペディアによると、隋末唐初に「燕」という短命の政権が高開道により樹立され、「始興」(618~624)という年号が建元されています。同じく隋末に操師乞(元興王)により樹立された地方政権が「始興」(616)が一年間だけ建元されています。
 ウィキペディアではこの二つの「始興」年号を「私年号」と説明していますが、短命ではありますが、樹立された地方政権が建元しているのですから、「公的」なものであり「私年号」とするのは学問的な定義としては問題があります。九州年号を「私年号」とする日本古代史学会も同様の誤りを犯しているのです。 年号が「私」か「公」かをわける基準を政権の「勝ち」「負け」で決めるのは不当です。より厳密にいえば、「年号」とはどれほど狭い地域や短い期間に使用されていても、それが「支配者」により公布され使用されていれば「私」ではなく、「公」的なものであることから、そもそも「私年号」という名称が概念として矛盾した名称と言わざるを得ないのです。
 そういうことで、「始興」年号の出典を確認しました。『隋書』巻四の「煬帝下」に次の記事があり、操師乞による「始興」建元は確認できました。

 (大業12年12月、616年)「賊操天成挙兵反、自号元興王、建元始興。」

 『隋書』によれば、この頃各地で地方政権が樹立され年号が建元されています。たとえば、「白烏」「昌達」「太平」「丁丑」「秦興」などが見えます。

 次に高開道による「始興」建元ですが、『旧唐書』によれば「列伝第五」にある高開道伝には、「(武徳三年・620年)復称燕王、建元」とあり、年号名は記されていません。「建元」とありますから620年が元年のはずですが、ウィキペディアに記された期間(618~624)とは異なります。
 以上のことから、高開道の「始興」は確認できませんでしたが、操師乞による「始興」建元は信用してもよいようです。しかし、『維摩詰経』巻下残巻末尾に見える「始興」は定居元年(611)よりも前のこととなりますから、操師乞の「始興(616)」年号では年代があいません。また、百済僧の来倭記事に隋末 の短命地方政権の年号を使用するというのも不自然です。従って、「始興」は「始哭」の誤写・誤伝ではないかとするわたしの作業仮説は有効と思います。
 最後に、歴史研究において簡単な「辞典」や「年表」に頼りきるのは危険であることを再認識させられました。ましてやウィキペディアの記載をそのまま信用するのは更に危険です。素早く調べるための「道具」として利用するのには便利ですが、その上で原典にしっかりとあたる、というのが大切です。その意味でも良い勉強となりました。(つづく)


第481話 2012/10/13

九州の書店で古田武彦フェア

 ミネルヴァ書房の神内冬人(かみうちふゆと)さんから、九州・沖縄の主要書店16店で古田武彦書籍フェア開催のご案内をいただきましたので、お知らせします。開催書店のお近くの方は是非行ってみて下さい。

 ミネルヴァ書房刊行の古田先生関連の書籍を集めたフェアとのことで、古田先生のフェアに寄せたメッセージを掲載した特別リーフレットが展示されま
す。「邪馬壹国」「九州王朝」のご当地の九州で、多くの市民の皆様に古田先生の学説を知っていただくよい機会になればと期待しています。

 

【フェア概要】

フェア名称:「古田武彦・古代史フェア」

期間:2012年10月1日~10月末日までの予定

書目:「古田武彦・古代史コレクション」「シリーズ・古代史の探求(古田史学の会編「九州年号」の研究・他)」「なかった」「なかった別冊」「俾弥呼」(日本評伝選)「ゼロからの古代史事典」

ご協力書店:

(北九州市)アカデミアサンリブシティ小倉店、ブックセンタークエスト小倉本店、 喜久屋書店小倉店、白石書店本店

(福岡市)紀伊國屋書店福岡本店、ジュンク堂書店福岡店

(久留米市)紀伊國屋書店久留米店

(福津市)未来屋書店福津店

(粕屋町)フタバ図書TERA福岡東店、ブックイン金進堂長者原店

(長崎市)メトロ書店本店

(熊本市)喜久屋書店熊本店、蔦屋書店熊本三年坂

(荒尾市)ブックスあんとく荒尾店

(鹿児島市)ジュンク堂書店鹿児島店

(那覇市)ジュンク堂書店那覇店


第480話 2012/10/09

「始興」は「始哭」の誤写か

 今、湖西線を走る特急サンダーバードに乗っています。今朝は天気も良く、車窓から見える琵琶湖がとてもきれいです。湖面に浮かぶ船や竹生島もくっきりと見えます。

 韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)に紹介された、九州年号「定居元年」が末尾に記されている『維摩詰経』巻下残巻ですが、韓昇さんが説明できていない問題があります。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 この末尾2行部分の「定居」については、「日本の私年号」と説明されているのですが、「始興」については、「定居」とともに「始興」も年号とする他者の論稿の引用のみで、韓昇さん自身の説明はありません。それも仕方がないことで、「始興」という年号は中国にも近畿天皇家にもなく、九州年号にもないからです。そのため、韓昇さんは「始興」の説明ができなかったものと思われます。
 わたしも「始興中」とはある期間を特定した記事であることから、「始興」は年号のように思うのですが、確かに未見の「年号」です。そこでひらめいたのですが、「始興」ではなく、「法興」か「始哭」の誤写・誤伝ではないかと考えたのです。字形からすると「始哭」の方が近そうです。他方、「法興」とすると、「定居元年」(611)が法興年間(591~622)に含まれてしまいますので、二つ並んだ年号表記記事としては不自然です。
 そこで、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝とすればどうなるでしょうか。正木裕さん(古田史学の会々員・川西市)の研究(洛中洛外日記311話「正木さんからのメール『始哭』仮説」・他、参照)によれば、「始哭」は589年か590年頃とされており、定居元年(611)よりも少し前の時期に相当しますの で、記事内容に矛盾が生じません。すなわち、「始哭」(589~590)中に慧師聰がもたらした震旦(中国の異称)の善本を、定居元年(611)に上宮厩戸が書写し、法興寺に蔵されている、という理解が可能となるのです。
 しかしそれでも解決できない問題が残っています。年号としての「始哭」の誤写・誤伝であれば、「定居元年」と同様に「始哭元年」とか「始哭二年」とあってほしいところです。この疑問を解決できるのが、やはり正木さんの「始哭は年号ではなく、葬送儀礼の『哭礼』の始まりを意味する」という仮説です。
 正木説によれば、端政元年(589)に玉垂命が没したとき、後を継いだ多利思北弧が葬儀を執り行い、その儀礼として「哭礼」を開始したという記事に、「始哭」という表記があり、それを後に九州年号と勘違いされ伝わったということです。「哭礼」は通常は一年程度続き、長くても三年程度というのが正木さんの見解ですので、もし正木説が正しければ、玉垂命の葬儀に慧師聰が参列し、そのおりもたらされた震旦の善本『維摩詰経』を定居元年に上宮厩戸が書写したということになります。
 ちなみに慧師聰は『日本書紀』推古三年条(595)に百済より来訪した「慧聰」として見え、翌年、高麗僧「慧慈」と共に法興寺に住まわされています。この『日本書紀』の記事が正しければ、慧聰は「始哭中」に相当する端政元年(589)に九州王朝に来倭し、玉垂命の葬儀に参列した後、推古三年(595、九州年号の告貴二年・法興五年)に近畿へ来たことになります。
 このように、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝と見た場合、九州王朝説の立場から『維摩詰経』末尾2行の文意がうまく説明できるのです。そしてこのアイデアが当たっていれば、この末尾2行を書いた人は「始哭」などが記された九州王朝系史料を見ていたこととなります。中国にある『維摩詰経』残巻を実見しないことには結論は出せませんが、現時点での「作業仮説」として検証・研究をすすめたいと考えています。
 なお、念のため付け加えれば、「始興」のままでよりうまく説明できる仮説があれば、わたしの提案した「始哭」説よりも有力な仮説となることは当然です。 「原文を尊重する」「必要にして十分な論証を経ずに安易な原文改訂をしてはならない」というのは、古田史学にとって重要な「学問の方法」なのですから。 (つづく)


第479話 2012/10/07

皇室御物『法華義疏』の史料性格

 九州年号「定居元年」が記された『維摩経義疏』断簡の存在を服部和夫さん(古田史学
の会々員・名古屋市)から教えていただいたことを契機に「三経義疏」の勉強を始めたのですが、ますますわからないことが増えています。わたしの勉強の「成
果」でもある、その増えた問題について、ちょっとだけご紹介します。
 それは古田先生が実地調査された皇室御物『法華義疏』の史料性格についてです。聖徳太子や「三経義疏」関連の著作を購入し読んでいるのですが、『法華義疏』の史料状況や史料性格について更に深く検討する必要を感じるようになりました。
 たとえば、中公クラシックス『聖徳太子 勝鬘経義疏・維摩経義疏(抄)』の解説(田村晃祐「『三経義疏』の世界」)によれば、『法華義疏』には訂正や誤
字が多く、その頻度は「2.5行に一カ所ぐらいの割合で訂正が行われている」とのことです。具体的には、「釈迦」と書くべきところが「迦釈」と文字がひっ
くり返っている例もあります。この他にも仏教のことを知っていれば間違うはずのない基礎的な誤字・誤写が少なくなく、このような史料状況から、『法華義
疏』は達筆だが仏教のことに詳しくない人物により慌てて書写されたということがうかがえるのです。
 これほどの誤写や訂正が多い『法華義疏』が九州王朝の天子・多利思北弧への献上物(収集物)にふさわしいと言えるでしょうか。天子に献上する前に、書写
者や王朝内部で浄書すればよいのにと思うのですがいかがでしょうか。大和朝廷と同様に九州王朝にも「写経所」や写経専門家がいたはずです。なぜそうした
「専門機関」を多利思北弧は利用しなかったのでしょうか。わたしはこの難問を解くべく連日考え続けています。(つづく)