第452話 2012/08/11

古代オリンピックは2年に一度

ロンドンでのオリンピックは毎日のように感動的なシーンを見せてくれます。今まで以上に楽しいオリンピックのように思い ますが、いかがでしょうか。オリンピックは四年に一度の世界最大のスポーツイベントですが、この四年に一度というのは古代ギリシアでのオリンピックにな らったものです。ところが、わたしの研究では古代オリンピックは二年に一度だったと思われるのです。
ご存じのことと思いますが、古田先生は三国志魏志倭人伝の研究により、古代日本では倭人が一年を二年と計算する「二倍年暦」を使用していたことを明らか にされました。倭人伝に記された倭人の年齢が80~100歳と当時としては考えられないような長寿であることなどから、倭人は一年で二歳年をとると計算し ていたことを発見されたのです(『「邪馬台国」はなかった』参照)。
わたしも、この二倍年暦という概念で、洋の東西の古典を精査したところ、各地に二倍年暦と考えざるを得ない痕跡(史料状況)を見いだしました(「二倍年暦の世界」「続・二倍年暦の世界」をご参照ください)。その一つが古代ギリシアだったのです。ディオゲネス・ラエルディオス著の『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫)によれば、古代ギリシアの哲学者はのきなみ長寿(70~100歳)で、これも二倍年暦による年齢表記としか考えられないのです。
さらに、暦年表記として「第○○回オリンピックの第三年」という表記法が採用されているのです。従って、年齢表記と同様にオリンピックの「四年ごと」も現在の二年ということになります。
こうした史料状況と論理性により、古代オリンピックは四年ごとではなく、二年に一回の祭典だったことになるのです。古代人は現代人よりもはるかに短命で すから、選手の活躍年齢期間も短く、最大のスポーツイベントが四年に一度では間が空きすぎるというべきでしょう。
女子レスリングの伊調選手や吉田選手の三連覇は本当に素晴らしいことですが、これも現代人の寿命が延びたことが一要因でしょう。お二人の活躍を喜びながら、古代オリンピックの二倍年暦について考えてみました。


第451話 2012/08/08

藤原宮時代の国名は「日本」?

 今日は名古屋から東京に来ています。東京も暑いですが、京都や名古屋よりはまだましなようです。その暑い最中、新日本橋からJR神田駅まで歩いたのですが、道を間違って随分遠回りしてしまいました。今は神田駅近くのスタバでアイスコーヒーブレークしています。
 第447話で、藤原宮出土「倭国所布評」木簡についてご紹介したのですが、わたしはこの木簡にかなり衝撃を受けました。この木簡に記された「倭国」につ いて、7世紀末の王朝交代時期に、近畿天皇家が九州王朝の国名「倭国」を自らの中枢の一地域名(現・奈良県)に盗用したものと推察したのですが、より深い疑問はここから発生します。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。この疑問です。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた7世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。先の木簡の例でいえば「倭国所布評」は、「日本国倭国所布評」ということです。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、今までは701年以後とわたしは何となく考えていたのですが、今回の論理展開が正しけれ ば、701年よりも前からということになるのです。
 このような論理展開の当否を含めて、7世紀末の王朝交代時期にどのような経緯でこうした国名自称がなされたのか、九州王朝説の立場から、よく考えてみる必要がありそうです。
 さて、ようやく身体が冷えてきましたので、これからもう一仕事(近赤外線吸収染料のプレゼン)します。今晩は東京泊で、明日はまた名古屋に向かいます。


第450話 2012/08/04

大谷大学博物館「日本古代の金石文」展

 今朝は大谷大学博物館(京都市北区)で開催されている「日本古代の金石文」展を見てきました。入場無料の展示会ですが、 国宝の「小野毛人墓誌」をはじめ、古代金石文の拓本が多数展示され、圧巻でした。古田先生も大下さん(古田史学の会・総務)と共に先日見学されたそうで す。

 今回、多くの古代金石文の拓本を見て、同時代文字史料としての木簡との対応や、『日本書紀』との関係について、改めて調査研究の必要性を感じました。

 例えば、太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、689年)、釆女氏榮域碑の「直大 弐」(己丑年、689年)などは『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がある位階です。

 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記さ れています。今回見た小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664~685年の期間の位階「大錦上」が記されていました。同墓誌に記された紀年「丁丑 年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合がありますので、これからも丁寧に比較検討していきたいと思います。


第449話 2012/08/03

地名接尾語「な」

昨晩は金沢市で宿泊しました。金沢へは年に何度か来るのですが、宿泊したのは30年ぶりです。気のせいか、金沢や石川県は美男美女が多いようです。何か歴史的背景があるのか、地域的特性なのか、ただ単にわたしの好みの問題だけなのかもしれませんが。
今回も例によって、「金沢」の語源について考えてみました。「沢」は文字通り「沢」のことで、純粋な地名部分は「かな」でしょう。さらに、「な」は日本 各地にある地名接尾語の「な」ではないでしょうか。従って、「金沢」の地名語幹は「か」となります。
地名接尾語「な」が付くものとしては、伊奈・塩名・榛名・津名・宇品・二名・玉名・桑名・嘉手納などがあり、もしかすると、山科・更級の「な」も同類と思われます。古代朝鮮の任那(みまな)もそうかもしれません。
この「~な」地名に「沢」が付くと、金沢・稲沢・砂沢などとなり、「川」が付くと、神奈川・品川・稲川・女川・砂川などとなります。
記紀神話に登場する神様(人間)「てなづち」「あしなづち」も分解すると、「津」の「ち」(神様)、すなわち「津ち」とは「港の神様」のことで、「て な」「あしな」は地名と思われます。さらに、地名接尾語「な」を取ると、純粋な地名語幹「て」「あし」となるのです。
以上のようなことを考えながら金沢駅を後にしました。地名の研究を始めると、癖になりそうです。古田先生も、「乞食と地名研究は三日やったらやめられない」と言われていたことを思い出しました。
なお、地名接尾語「な」の意味については、今のわたしにはさっぱりわかりませんし、アイデア(思いつき)も出ません。


第448話 2012/07/28

松山市出土「大長」木簡

 芦屋市出土の「元壬子年」木簡が九州年号の白雉「元壬子年」(652年)木簡であることは、これまでも報告してきたところですが、当初、この木簡は「三壬子年」と判読され、『日本書紀』の「白雉三年」のこ とと『木簡研究』などで報告されており、九州年号群史料として有力史料と判断していた『二中歴』とは異なっていました。

 わたしは奈良文化財研究所HPの木簡データベースでこの木簡の存在を知ったとき、この「白雉三年」との説明に驚きました。『二中歴』を最も有力な九州年 号史料としていた自説と異なっていたからです。そこで、わたしはこの木簡を徹底的に調査実見し、その「三壬子年」と判読されてきたことが誤りであり、「元 壬子年」と書かれていたことを発見したのでした。

 このとき、わたしは自説に不利な史料から逃げずに、徹底的に立ち向かって良かったと思いました。このときの体験は、わたしの歴史研究生活にとって、大きな財産となりました。

 それ以後も九州年号木簡を探索してきましたが、奈良文化財研究所の木簡データベースを閲覧していて、もしかすると九州年号木簡かもしれない木簡を見いだしましたので、ご紹介します。

 それは愛媛県松山市の久米窪田II遺跡から出土した木簡で、「大長」という文字が書かれているようなのです(前後の文字は判読不明。「長」の字も推定の ようです)。最後の九州年号「大長」(704~712年)の可能性もありそうですが、断定は禁物です。人名の「大長」かもしれませんし、法華経など仏教経 典の一部、たとえば「大長者」の「大長」という可能性も小さくないからです。

 『木簡研究』第2号によれば、「大長」木簡は1977年に出土しており、その出土層は八世紀初期を前後するものとされており、まさに九州年号の大長年間(704~712年)にぴったりなのです。

 こうなると、実物を見る必要がありますので、松山市の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)に連絡し、愛媛県埋蔵文化財センターに問い合わせていた だいたところ、同木簡は「発掘へんろ」巡回展に出されており、現在は高知県で展示されていることがわかりました。そのため、同木簡が愛媛県に戻るのは来年三月とのこと。

 残念ながら、それまでは本格的な調査はできませんが、九月には香川県で展示されるようですので、せめてガラス越しにでも見に行こうと思っています。


第447話 2012/07/22

藤原宮出土「倭国所布評」木簡

 このところ毎日のように奈良文化財研究所HPの木簡データベースを閲覧しています。いくつかは「洛中洛外日記」でも紹介してきましたが、特に注目した木簡が藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。データベース によれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。

 これは「評」木簡ですから、作成時期はONライン(701年)よりも前で、藤原宮から出土していますから、7世紀末頃のものと推測できます。まさに、近畿天皇家の中枢領域から出土した九州王朝末期の木簡といえます。中でも驚いたのが「倭国」という表記です。

 『旧唐書』などの中国史書では、九州王朝の国名として「倭国」と記されているのですが、『日本書紀』などの国内史料では今の奈良県に相当する「大和(やまと)」国を「倭」国と表記されています。すなわち、九州王朝の国名「倭国」を、701年の王朝交代に伴って、近畿天皇家は自らの中枢領域の「やまと」に「倭」という表記を採用し、上代の時代から、あるいは中国史書に記された「倭」は自分たちのことであると、歴史改竄と国名盗用を行ったと、わたしたち多元史観・九州王朝説論者は考えてきました。

 ところが、この木簡の示すところでは、評制時代の7世紀末頃には、既に大和国(奈良県)を近畿天皇家は「倭国」と表記していたことになるのです。この史料事実は、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代が7世紀末頃から複雑な過程を経て行われたことをうかがわせます。古田学派の研究者も、こうした出土木簡が示す史料事実をより重視して、更なる研究を深めなければならないと思います。


第446話 2012/07/22

九州王朝の文字史料

昨日の関西例会では、正木裕さんから近年発見された九州王朝にかかわる金石文や木簡の文字史料などの研究成果がまとめて発表されました。「元壬子年」木簡、韓国出土「ナニワ連公」木簡、元岡古墳出土「四寅剣」、韓国の前方後円墳などです。
さらに『日本書紀』大化二年や白雉三年条に見える造籍記事を50年後の九州年号・大化二年や大化八年のことであったとする仮説を発表されました。
わたしも、奈良文化財研究所の木簡データベースによる元岡遺跡や飛鳥池出土木簡の調査結果を報告しました。
7月例会の報告テーマは次の通りでした。

〔7月度関西例会の内容〕
1). 安彦氏の記念講演を聞いて(豊中市・木村賢司)
2). 第24回愛知サマーセミナー2012in「古田武彦講演会」を聴講・ほか(豊中市・木村賢司)
3). 「自女王国以北」の国々(姫路市・野田利郎)
4). 最近の考古学的発見と『日本書紀』(川西市・正木裕)
5). 大宰府「戸籍」木簡と飛鳥「天皇・皇子」木簡(京都市・古賀達也)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・倭人伝「持兵守衛女王国」について・会務報告・多元的古代研究会の難波宮見学ツアー・日羅の碑・平安時代の緑釉瓦・その他


第445話 2012/07/21

太宰府「戸籍」木簡の「政丁」

 太宰府市出土「戸籍」木簡の文字で、ずっと気にかかっていたものがありました。「政丁」という記載です。通常、木簡や大 宝二年西海道戸籍などでは、「正丁」という表記なのですが、大宰府出土の「戸籍」木簡には「政丁」とあり、意味は共に徴税の対象となる成人男子 (20~60歳)のことと思われるのですが、なぜ表記面積が紙よりも狭い木簡に、より画数の多い「政丁」が使用されるのかがわかりませんでした。

 ところが木簡の勉強を進めているうちに、同じ福岡県の福岡市西区元岡遺跡から出土していた木簡にも、「政丁」と記載されているものがあることを知ったの です。同遺跡からは、「壬辰年韓鉄」と書かれた木簡も出土しており、この「壬辰年」は692年のこととされていますので、これら元岡遺跡出土の木簡は7世紀末頃のもののようです。

 この元岡遺跡出土の木簡によれば、7世紀末の筑紫では「政丁」という文字使いがなされていたと考えられ、大宰府「戸籍」木簡の「政丁」と一致しますから、九州王朝では「政丁」という表記が正字として採用されていたと考えていいようです。

 ONライン(701年)を越えた8世紀以降は、大宝二年西海道戸籍にある「正丁」に変更されていますから、ここでも九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の影響が見られるのです。

 なお、大宝二年御野国戸籍(美濃国。岐阜県)では、徴税対象となる「戸」を「政戸」と表記していますから、太宰府市や元岡遺跡から出土した木簡の「政丁」という表記との関係がうかがえます。通説では、大宝二年の御野国戸籍の様式は古い浄御原令によっており、西海道戸籍は新しい大宝律令によっていると見 られていますので、「政丁」「政戸」という表記は701年以前の古い様式であったとしてよいようです。

 このように木簡研究により、7世紀末の九州王朝や近畿天皇家の様子がリアルに復元できそうで、木簡研究の重要性を再認識しています。


第444話 2012/07/20

飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 昨日は関東から多元的古代研究会の皆さんが来阪され、難波宮跡などの見学をされ、夕方は「古田史学の会」のメンバーと研修会・懇親会が行われました。わたしも研修会で前期難波宮九州王朝副都説について説明させていただきました。これを機に、関東と関西の古田学派の交流が更に深まるものと期待しています。

 古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。

 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。

 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。この点、市大樹著『飛鳥の木簡 — 古代史の新たな解明』(146頁)では、この「天皇」木簡に対して、「現在、『天皇』と書かれた日本最古の木簡である。この『天皇』 が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い。」と されています。専門家らしく慎重な解説がなされており、ひとつの見識ではあると思いました。

 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。

 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。


第443話 2012/07/16

木簡に記された七世紀の位階

今日は祇園祭の宵山です。一年中で京都が最もにぎやかな夜。そして、明日はクライマックスの山鉾巡行です。今朝から御池 通には観覧客用の大量のイスが、車道二車線にびっしりと並べられています。これだけのイスをどこに保管していたのだろうと、疑問に思うほどの数のイスが河 原町通から新町通までの間に並べられるのですが、これも京都の風物詩一つです。

その一方で、北部九州を襲っている記録的豪雨。わたしの久留米市の実家や、うきは市の親戚の安否が心配で、毎日のように電話しています。ところが、京都市も北区で川が氾濫し、驚いています。拙宅は御所の近くですので、地形的にやや高台になっており、雨水が溢れる心配はないようです。さすがは「千年の都」 だけに、御所のある場所は歩いていても気づかないのですが、微妙に「高台」になっているのです。

さて、「戸籍」木簡に記されていた「進大弐」という位階の研究を続けていますが、『日本書紀』には、「進大弐」などが制定された天武14年条(685) 以外にも、大化期や天智紀にも位階制定・改訂記事がみえます。それらの位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかは実証的な研究が必要です が、その実在の当否は同時代金石文や木簡などによる検証が可能なケースがあります。

たとえば、『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる位階「大乙下」「小乙下」などは、「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されて おり、一緒に出土した「辛巳年」(681年)と記された木簡から、時代的にも『日本書紀』の記述と一致しており、これらの位階記事が歴史事実であったと考えられるのです。

したがって残された問題は、これら位階制度が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるのかという点なのですが、これも歴史学という学問の問題ですから、 史料根拠に基づいた実証的な研究と、論理的な検証が不可欠であることは言うまでもありません。もっと出土木簡の勉強を続けたいと思います。


第442話 2012/07/15

藤原宮の完成年

 市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』を読み、自らの不勉強を痛感する昨今です。中でも、藤原宮の完成が大宝三年(703年)以降であったことが、出土木簡から明らかとなったという指摘には驚きました。

 同書(168頁)によると、藤原宮の朝堂院東面回廊の東南隅部付近の南北溝から7940点の木簡が出土しているのですが、この南北溝は東面回廊造営時に 掘削され、回廊完成とともに埋められました。出土した大部分の木簡は八世紀初頭のもので、記されていた最も新しい年紀は「大宝三年」(703年)でした。 このことから、東面回廊が完成したのは、703年以降となり、このことはとりもなおさず藤原宮の完成が703年以降だったことを意味します。

 このようなことまで判明するのも、同時代史料としての木簡のすごさですが、このことと関係しそうな記事が『続日本紀』慶雲元年十一月条(704年)にありました。

「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布を賜うこと差あり。」

 694年の藤原京遷都から10年もたっているのに、「始めて藤原宮の地を定む。」というのもおかしな話だったのですが、大宝三年(703年)以降に藤原宮が完成していたとになると、この記事も歴史の真実を反映していたことになりそうです。

 『続日本紀』慶雲元年十一月条(704年)のこの記事については、古田学派内でもいろんな見解が出されてきましたが、今後はこの出土木簡7940点を精査したうえでの再検証が必要ではないでしょうか。


第441話 2012/07/14

「戸籍」木簡の「進大弐」とONライン

 古田史学・九州王朝説にとって、木簡が果たした役割は小さくありません。たとえば、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代時期を701年とするONライン(OLD NEW Line)は、木簡により明確になったものです。その根拠は、行政単位が九州王朝の「評」から近畿天皇家の「郡」に替わったのが701年(大宝元年)だったことが紀年銘木簡の「評」「郡」表記でした。このように同時代文字史料としての木簡は、歴史研究にとって第一級史料なのです。

 今回、太宰府市から出土した「戸籍」木簡も同様に貴重なものですが、そこに記された「進大弐」という位階記事も、その年代を特定できる根拠の一つとなりました。この「進大弐」の位階は『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がありますが、この記事にある48等の位階は他の木簡にも記されています。

 第440話で紹介した市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(210ページ)によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記事がありました。

「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」

 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。
この木簡から、天武14年(685年)に制定された位階制度から、大宝元年(701年)から大宝二年に制定された律令による新位階制度へ変更されたことがわかるのです。ここにも、位階制度のONラインが存在したことが木簡により決定的となったのです。

 従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土の「戸籍」木簡も7世紀末頃のものであることがわかるのです。