第405話 2012/04/18

太宰府編年の再構築

 今日は仕事で長野県岡谷市に行ってきました。天候にも恵まれ、JR中央本線「特急しなの」の車窓から見える山々の冠雪や満開の桜がとてもきれいでした。
 このところ「古田史学会報」用論文の執筆に打ち込んでいます。題は「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」というもので、太宰府編年の整理と再構築がテーマです。九州王朝の王都太宰府については、古田学派内でも様々な編年観があるようですが、七世紀の九州王朝研究の深化のためにも、一度きちんと論文に まとめ直す必要を感じていました。
 というのも、わたし自身も当初の編年観が誤っていることに気づき、修正を重ねているからです。その修正ができたのは、二人の井上さんのおかげなのです が、一人は井上信正さん(太宰府市教育委員会)、もうお一人は井上馨さん(古田史学の会会員、山梨県在住)です。
 考古学者で太宰府遺構の調査研究にたずさわられている井上信正さんは、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺・朱雀大路よりも条坊区画の方が先に造営されており、その時期を七世紀末とする新編年を発表されました。
 当初わたしは九州王朝の王宮である大宰府政庁Ⅱ期と条坊都市は共に九州年号「倭京」年間(618~622)に造営されたものと理解していました。ところが、両者の中心軸はずれており、造営にあたり使用された基準尺も異なっていることを井上信正さんは発見されたのです。この指摘は衝撃的でした。この井上説に立てば、我が国最初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が先に造営されたことになりかねないからです。少なくとも同時期となってしま うのです。このため、九州王朝説の立場に立っても太宰府編年の見直しがせまられたのです。
 次に井上馨さんですが、昨年送っていただいた『勝山記』のコピーを読み、観世音寺の創建年が白鳳10年(「白鳳十年鎮西観音寺造」とあります)と記録さ れいることに気づいたのです。観世音寺創建年については、『二中歴』では「白鳳年間(661~683)」とされているのですが、それ以上の具体的年次が不 明でした。ところが『勝山記』のおかげで、白鳳10年(670)であったことがわかったのです。
 観世音寺創建年が670年のこととわかったおかけで、大宰府政庁Ⅱ期も同時期の造営となることから、太宰府編年研究が一気に進んだのです。こうした、二人の井上さんの「ご協力」に基づいて、太宰府編年研究を再構築すべく原稿を執筆しています。「古田史学会報」次号でご紹介できると思います。


第404話 2012/04/11

『古事記』千三百年の孤独(5)

 大和朝廷にとって『古事記』編纂の最大の目的は先住した九州王朝をなかったこ とにして、神代の時代から天皇家が日本列島の中心権力者であったとすることです。しかし、『古事記』編纂時の712年といえば九州王朝に替わって最高権力 者となってから、まだ十数年しかたっていません。ですから、列島内の多くの人々には大和朝廷が新参の権力者であることは自明のことだったのです。そのた め、自らの権力基盤を安定化するための「大義名分」(アリバイ)作りが史書編纂という形で進められました。『古事記』にはその痕跡が残されています。
 『古事記』には推古天皇まで記されていますが、各天皇の事績・伝承記事があるのは顕宗天皇までで、その後は推古まで系譜や姻戚記録等だけとなります(これにも理由があるのですが、今回はふれません)。ところが、例外のように継体記の末尾にちょっとだけ伝承記事が掲載されているのです。いわゆる「磐井の 乱」の記事です。

「この御代に、竺紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。」

 この短い記事を挿入しているのですが、この「例外」のような短文記事挿入こそ、『古事記』編纂の眼目の一つなのです。すなわち、九州王朝の王であった石井(日本書紀では磐井)より近畿の継体天皇が格上であり、この「磐井の乱」鎮圧の結果、名実ともに九州は大和朝廷の支配下にはいったという、「大義名分」 (アリバイ)作りの文章だったのです。
 これが、継体記に例外とも言える「伝承記事」を挿入した動機で、『古事記』編纂者の苦辛の跡なのです。しかし、その苦辛は報われませんでした。
 「天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」程度の理由や記事では、九州王朝の王・石井を殺して倭国のトップになったのは「歴史事実」だと、列島内の人々に信じさせることはできないと継体の子孫たち、8世紀初頭の大和朝廷には見えたのです。その結果、『古事記』は「ボツ」にされ、「継体の乱」を事細かに記した『日本書紀』が正史として新たに編纂されたのです。
 このように、『古事記』には隠された編纂意図があちこちに残されてるのですが、それらを説明するには「洛中洛外日記」では荷が重すぎます。また別の機会に紹介したいと思います。


第403話 2012/04/08

『古田史学会報』109号の紹介

 『古田史学会報』109号が完成しました。近々、会員のお手元に届くことと思います。四月より新年度となりました。会費のお支払いをお願い申しあげます。一般会員三千円、賛助会員五千円(会誌「古代に真実を求めて」も進呈)です。
 109号一面には大下隆司さんの『七世紀須恵器の実年代 — 「前期難波宮の考古学」について』が掲載されています。この大下稿は前期難波宮の創建を天武期とするもので、わたしの「前期難波宮九州王朝副都説」を考古学的に批判する内容で、根拠と論旨が明確なすぐれた論稿です。
 久しぶりの本格的な論戦に、わたしもわくわくしています。もちろん学問論争ですから、「勝ち負け」ではなく、共に切磋琢磨して「真実に近づくこと」が大切です。考古学をしっかりと勉強して、反論したいと思います。
 109号掲載稿は次の通りです。

〔『古田史学会報』109号の内容〕
○七世紀須恵器の実年代 –「前期難波宮の考古学」について  豊中市 大下隆司
○九州年号の史料批判  京都市 古賀達也
正誤表 P5-2段-2行 大化は五十5年→大化は五十年遡らせて (失礼しました。古賀氏より)

○「国県制」と「六十六国分国」 下 –「常陸国風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連においてー  札幌市 阿部周一
○磐井の冤罪 III  川西市 正木 裕
○倭人伝の音韻は南朝系呉音 ー内倉氏との「論争」を終えてー  京都市 古賀達也
○-独楽の記紀- 記紀にみる「阿布美と淡海」  大阪市 西井健一郎
○遺跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○2012年度 会費納入のお願い
○「古田史学会報」原稿募集


第402話 2012/04/07

『真実の東北王朝』復刻

 ミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクションとして『真実の東北王朝』が復刻されました。「洛中洛外日記」第390話でもふれましたが、『真実の東北王朝』は大変思い出深い一冊です。
 今回の復刻版には、新たに和田家文書のカラー写真が掲載されており、虫食いだらけの和田家文書を見ることができ、戦後偽作説がいかに荒唐無稽なものか、読者にも実感できることでしょう。
 また巻末資料として、田中巌さん(東京古田会会員)の論稿「多賀城碑の里程等について」が収録されており、同書で示された古田説とは異なる説が展開されています。古田先生が自著の復刻版にこうした他者の論稿を収録されることは珍しいことです。しかも、自説と異なる内容ですから尚更です。それだけ田中さんの論稿が優れていることと、自説と異なっていても紹介するという古田先生の学問的度量の広さを感じます。
 『真実の東北王朝』は古田史学の多元史観における、東北王朝という新概念が提起された記念すべき一冊です。ともすると多元史観を九州王朝と大和朝廷との関係のみで理解される論者も見受けられますが、それは多元史観という学説の矮小化にもつながりかねませんので注意が必要です。そうした意味でも、『真実の東北王朝』は学問的に貴重な意義を持っていますので、まだ読んでおられない方には、この復刻版は時宜にかなっており必読です。


第401話 2012/04/03

Youtubeに古田先生の動画掲載

 「古田史学の会」総務の大下隆司さんから古田先生のラジオ放送の様子がYoutubeに掲載されているとの連絡が入りましたので、ご紹介します。
 昨年、西宮のローカルFM局「さくらFM」で12回に分けて古田先生の「日本の本当の歴史」の収録が行われ、順次放送されていますが、ようやく10回分 まで放送がおわり、その収録風景がYoutubeに掲載されました。タイトルは次の通りです。

 “伊藤恭と輝く瞳ラジオ~日本の本当の歴史第1回「北と南の潮流」”
Youtubeで「古田武彦」を入力すると第1回~第10回までの分が出てきます。第11回目と第12回目は4月に放送され、放送が終わったら順次掲載される予定です。

「日本の本当の歴史」

1, 「北と南の潮流」
2, 「磯を求めて」
3, 「二倍年歴」
4, 「俾弥呼の実像(その1)」
5, 「俾弥呼の実像(その2)」
6, 「俾弥呼の実像(その3)」
7 , 「崇神天皇の時代」
8 , 「倭の五王と磯城宮」
9 , 「東北王朝」
10, 「日出ずる処の天子」
11,「九州年号」
12, 「”大化の改新”の虚実」

是非見て下さい。


第400話 2012/04/02

『古代に真実を求めて』15集発刊

 「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』15集が明石書店より発刊されました(2200 円+税)。2011年度賛助会員には一冊進呈します(発送作業に時間がかかりますので、しばらくお待ちください)。
 掲載論文は次の通りです。古田先生の講演録・論文が三編収録されており、最新の古田先生の研究動向がよくわかります。

○特別掲載
三国志全体序文の発見 –「古田史学の会」新年賀詞交換会  古田武彦
九州王朝新発見の現在 –久留米大学公開講座 古田講演  古田武彦
九州王朝終末期の史料批判 –白鳳年号をめぐって  古田武彦

○研究論文
東北水稲稲作の北方ルート伝播説の強化 佐々木広堂
九州王朝鎮魂の寺 –法隆寺天平八年二月二二日法会の真実  古賀達也
不破道を塞げ 五 –古人は白村江の勇将の主君、吉野山・瀬田・山前は妙見を祀る 秀島哲雄
九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について 正木 裕
「筑紫なる飛鳥宮」を探る 正木 裕
「帯方郡」の所在地 –倭人伝の記述する「帯方」の探求 野田利郎
長屋王のタタリ 水野孝夫

○付録ーー会則/原稿募集要項/他
古田史学の会・会則
「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
第十六集投稿募集要項/古田史学の会 会員募集
編集後記


第399話 2012/04/01

本居宣長の門人たち

わたしが本居宣長に興味を抱いた理由は、その学問的業績だけではなく、江戸時代には在野の研究者であった宣長やその学説 が、明治維新後には新政府の学問の主流となったという歴史事実にありました。わたしたち古田学派が将来の日本において歴史学の主流となるために、何をしな ければならないのか、何が必要なのかを考えるための参考として、本居宣長に興味を抱いたのです。
今回、本居宣長記念館を訪問し、同記念館編集の『本居宣長の不思議』という本を購入しました。本居宣長の人生や学問がわかりやすくまとめられており、初 心者にも読みやすい良本です。この本の最後の方に宣長の門人一覧と現在の県別の門人数が記されています。三重県の220人を筆頭に北は北海道から南は宮崎 県までのべ513人の分布図と氏名が記されており、宣長の名声が全国に広がっていたことがわかります。
「古田史学の会」の会員数も約500名ですから、偶然とは言え不思議な縁を感じます。もちろん、江戸時代と現代では交通手段も情報量や伝達速度も比較になりませんが、在野にある古田学派にとって励まされるものではないでしょうか。
この国で古田史学・多元史観がどのように認められ受け入れられるのかは、今のわたしにはわかりませんが、体制や世俗に迎合するのではなく、真実と学問が 持つ力を信じて、研究活動と宣伝顕彰を進めていきます。そして、百年後には「古田武彦記念館」が作られるよう頑張っていきたいと思っています。


398話 2012/03/31

本居宣長記念館・鈴屋を訪問

先週の土曜日、妻と松阪市までドライブしました。妻には松阪牛を食べにいこうと誘い、実は以前から行きたかった本居宣長記念館を訪問し、宣長の書斎「鈴屋」(すずのや)を見てきました。
古田先生がフィロロギーを学ばれた東北大学の村岡典嗣先生は本居宣長研究でも著名です。わたしも古田先生から村岡典嗣先生のことをいろいろとうかがう機会がありましたので、村岡先生が研究された本居宣長にも興味を持っていました。そうしたことから、松阪市の本居宣長の旧宅鈴屋を訪れたいと思っていたので す。
本居宣長の旧宅は当初あった魚町から松阪城跡に移築されており、記念館に隣接しています。わたしは旧宅全体が鈴屋(すずのや)と呼ばれているものと思っていたのですが、案内していただいた城山さんの説明では二階の書斎部分が鈴屋とよばれているとのこと。その書斎の中には入れないのですが、窓が開けられていたため、外から内部を見ることができました。
旧宅の土蔵には宣長の書籍や手紙などが大量に保存されていたとのことで、現在も版木が保存されているそうです。城山さんからは本居宣長のことや松阪城を 築城した蒲生氏郷のことなど多くのことを教えていただきました。記念館に展示されていた宣長の著作や手紙を拝見して、宣長の業績の一端に触れることがで き、感銘を受けました。
地元の松阪には宣長の偉業を知らない人が多いと嘆かれていた城山さんに、また訪問することをお約束し、松阪を後にしました。帰りに、樹敬寺にある宣長一族のお墓に参りました。もちろん、松阪牛もしっかりと食べてきました。


第397話 2012/03/30

『古事記』千三百年の孤独(4)

『古事記』が大和朝廷にとって不都合だったのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではありませんでした。八世紀初頭の大和朝廷にとって、自らの権力の正統性を確立する上で、避けて通れない問題がありました。それは、継体天皇の皇位継承の正統性についてでした。
このことは古田先生が度々指摘されてきたところですが、「日本書紀」では継体の前の武烈天皇の悪口や非道ぶりをこれでもかこれでもかと書き連ねられてい ます。だから有徳な継体が武烈なきあと皇位についたと主張しているのですが、これほど武烈の悪口を言わなければならないのは、逆にそれだけ継体が皇位継承 (略奪)の正統性に欠ける悪逆な人物だった証拠なのです。
ところが、そうであるにもかかわらず、「古事記」では継体の皇位継承の正統性が強調されておらず、継体の子孫である八世紀初頭の天皇家の人々にとって、 「古事記」は不十分極まりない「欠陥史書」だったのです。すなわち、継体が行った皇位略奪の後ろめたさと武烈に対する「悪口」不足こそ、「古事記」が正史 とされず、新たに武烈の悪口を書き連ねた「日本書紀」を編纂せざるを得なかった理由の一つなのです。(つづく)


第396話 2012/03/18

史料批判の基本「大局観」

 昨日の関西例会でも活発な質疑応答がなされました。わたしもなるべく発言するよう心がけているのですが、岡下さんの発表「隅田八幡神社人物画像鏡の銘文」に関しては難しくて黙り込んでしまいました。
 隅田八幡神社人物画像鏡が国産で、「日本書紀」神功紀四六年条に見える「斯摩宿禰」が大王年に贈ったとする説を岡下さんは発表されたのですが、神功紀や鏡の編年、銘文解釈について活発な質疑が行われました。しかし、わたしにはどうしても腑に落ちない課題があり、最後まで発言できませんでした。
 それは、この鏡の大局的な位置づけがわからなかったからです。歴史学において、取り扱う史料の性格や大局的な位置づけを明らかにするという、史料批判に おける最初に取り組むべき課題・作業があります。たとえば、古事記や日本書紀は近畿天皇家が近畿天皇家のために作成した「勝者自らの史書」という史料性格 と大局的位置づけが明確なため、歴史研究に使用する場合も、天皇家にとって都合よく編纂されていという視点で読むことになります。
 これと同様に隅田八幡神社人物画像鏡でも大局的位置づけが必要なのですが、百済王から倭王(日十大王年)に贈られたとする説に対して、岡下さんが指摘されたように、国家間の贈答品にしては鏡の出来が悪いという「史料事実」から、見直しが迫られているのです。このため、岡下さんは国産説を採られ、臣下から倭王への献上品とされたのですが、この鏡の出来の悪さが、国内献上説をも否定してしまうのです。国産の献上品であれば粗悪な鏡でもかまわないとはならないからです。
 こうしたことから、わたしにはこの鏡の大局的位置づけ、すなわち「出来の悪さ」と銘文解釈の双方をうまく説明できる仮説を提起できなかったのです。たとえば、百済王から倭国王への贈答品の質の良い鏡が別に存在していて、そのレプリカがこの人物画像鏡だったのではないかなどの作業仮説も浮かびましたが、確信を持てるまでには至りませんでした。
 これからも考え続けたいと思います。なお、関西例会の発表は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
(1) 「古田史学キーワード辞典」の作成協力者を求む(豊中市・木村賢司)
(2) 学校の先生の教育をする自由(豊中市・木村賢司)
(3) 「古代史・道楽三昧」第五号の発行(豊中市・木村賢司)
(4) 主格助詞「イ」(明石市・不二井伸平)
(5) 円仁と張保皋(木津川市・竹村順弘)
(6) 石棺と装飾古墳(木津川市・竹村順弘)
(7) 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文(その4)(京都市・岡下英男)
(8) 「継体」年号前後(相模原市・冨川ケイ子)
(9) 守君大石の正体と小郡なる飛鳥の宮(川西市・正木裕)
(10)卑しめられた蘇我馬子(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
会員寄贈著書紹介(寺本躬久著「いのちの風景」)・古田先生近況・会誌「古代に真実を求めて」15集編集状況・会務報告・関西例会担当者交代(新担当:竹村順弘)・東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」はおかしい・その他


第395話 2012/03/10

『古事記』千三百年の孤独(3)

『日本書紀』と『古事記』の差異の中でも特筆されることがいくつかありますが、その第一は「壬申の乱」の取り扱いです。
『日本書紀』の第二八巻すべてが「壬申の乱」の記述に当てられていることは著名です。他方、『古事記』は推古天皇までで終わっており(説話が記されてい るのは継体天皇まで)、「天武記」はありません。しかし、『古事記』序文の15%近くを「壬申の乱」の記述が占め、共に「壬申の乱」をいかに重視していた かが読みとれます。ところが、両書の「壬申の乱」の内容(大義名分)が異なるのです。
拙稿「『古事記』序文の壬申大乱」(『古 代に真実を求めて』第九集所収。明石書店、2006)で詳論しましたが、簡単にいうと『日本書紀』では、吉野に入った天武を大友皇子側が攻めたので、天武 はやむなく東国へ脱出挙兵し大友皇子を殺し、皇位についたとされています。すなわち、天武は仕方なく戦い、皇位についたとされているのです。ところが『古 事記』序文では、皇位につくことを目的にして吉野に入り、その後挙兵したとされているのです。
どちらが真実に近いでしょうか。当然、『古事記』序文の方です。最初から皇位纂奪を目指すという「非道」な『古事記』序文の方が「正直」と思われるから です。だからこそ『古事記』は正史とされず、しかたなく防衛のため戦ったとする『日本書紀』が採用されたのです。天武の子孫である『日本書紀』成立時の天 皇たちにとって、自らの皇位継承の正当性と大義名分のために『古事記』を「隠蔽」し、『日本書紀』を国内に後世に流布したのです。
それでは序文のみを削除して『古事記』を正史とする手段もあったかもしれませんが、実際は「隠蔽」されていることから、当時の天皇家にとって不都合だっ たのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではなかったことがわかります。それ以外の不都合な記述とは何だったのでしょうか。これも『古事記』と『日本書紀』 を比較することにより判明します。(つづく)


第394話 2012/03/08

『古事記』千三百年の孤独(2)

『古事記』の史料性格を考える際、その大前提ともいうべきテーマがあります。それは皆さんもご存じの通り、『古事記』は 大和朝廷の正史として採用されることなく「隠蔽」され、『日本書紀』が正史として後世に伝えられたという歴史的事実です。この事実は次のことを指し示しま す。すなわち、『古事記』は編纂当時の大和朝廷の天皇にとって、不都合かつ不必要な史書であり、『日本書紀』は逆に都合がよく、必要であったということで す。
もし『古事記』が不都合でなければ、『日本書紀』とともに併用して普及あるいは後世に公的に伝えられたはずですが、実際は中世に真福寺から「発見」され るまで、書名こそ伝わっていたものの存在が不明な史書だったのです。ですから、『古事記』が大和朝廷にとって不都合で後世に伝えたくなかった史書であるこ とは明らかです。
それでは『古事記』の何が不都合だったのでしょうか。そのことを調べる方法が残されています。それは正史『日本書紀』と比較することによって、判明する はずです。『日本書紀』は天皇家にとって都合が良かったから正史として採用されたのですから、両書を引き算すればよいのです。『日本書紀』マイナス『古事 記』イコール「都合の良い部分(日本書紀の中の)」と「都合の悪い部分(古事記の中の)」と見なす。この方法です。これは古田先生が『盗まれた神話』で提 起された学問の方法で、わたしたち古田学派にとってお馴染みの方法です。(つづく)