第258話 2010/05/04

多利思北孤の学問僧たち

『日本書紀』推古31年(623)条の新羅と任那からの仏像一具・金塔・舎利貢献記事が九州王朝への記事となると、その後に記された新羅使節と一緒に唐より帰庫した学問僧たちも九州王朝が派遣した人物ということになります。
 そこには恵齊・恵光・恵日・福因等の名前が記されていますが、彼らこそが『隋書』イ妥国伝に記された、大業3年(607)に多利思北孤が隋に送った「沙門数十人」の一員だったのではないでしょうか。少なくとも時期的にはピッタリです。彼らは中国で仏法を16年ほど学んだことになりますが、その間、中国で
は隋が滅び、唐王朝が成立します。また、倭国では多利思北孤が没します。
 このような東アジアの激動の時代に彼らは異国の地で仏法を学んだのでした。恐らくは、帰国を果たせなかった沙門たちもいたことでしょう。この後、倭国は唐や新羅との関係悪化が進み、運命の白村江戦へと激動の時代に向かっていきます。


第257話 2010/05/03

盗まれた弔問記事

 九州王朝の難波天王寺が、後に近畿天皇家により聖徳太子が建立した四天王寺のことにされたとする仮説を発表してきましたが、この仮説は更に『日本書紀』 に記された四天王寺関連記事中にもまた、九州王朝の難波天王寺の記事を盗用したものがあるのではないかという新たな史料批判の可能性をうかがわせてくれま す。
 こうした視点で『日本書紀』を精査したところ、推古31年(623)条に新羅と任那からの使者が来朝し、仏像一具と金塔・舎利などを貢献してきたので、仏像を葛野の秦寺に置き、その他の金塔・舎利などを四天王寺に納めたという記事があることに注目しました。この四天王寺は九州王朝の難波天王寺のことではないかと考えたのです。
 難波天王寺は九州年号の倭京2年(619)に完成していますから、その4年後に新羅と任那は九州王朝に仏像や舎利を贈り、難波天王寺に金塔・舎利を納めたものと思われます。何故なら推古31年(623)は九州年号の仁王元年にあたり、その前年に日出ずる処の天子である多利思北孤が没しているからです。隣国の天子が亡くなった翌年に仏像や舎利を贈るという、この使節の目的は弔問以外に考えられません。しかも多利思北孤は篤く仏教を崇敬した菩薩天子なのですから、それに相応しい贈り物ではないでしょうか。
 『隋書』イ妥国伝にも、新羅や百済がイ妥国が大国で珍しい物が多く、これを敬迎したと記されています。また、常に通使が往来するとも記されており、関係が緊密であったことがうかがえます。こうした関係から考えても、多利思北孤が亡くなった翌年に遣使が来るとすれば、弔問と考える他ありません。まかり間違っても、九州王朝を素通りして近畿の推古に贈り物をすることなど、九州王朝説に立つ限り考えられないのです。
 従って、弔問使節が持参した仏像や舎利などが納められた寺院は九州王朝の寺院であり、推古31年条に見える四天王寺は九州王朝の難波天王寺と考えざるを得ません。この時の奉納品が四天王寺に存在していたことは、「太子伝古今目録抄所引大同縁起延暦二十二年四天王寺資財帳逸文」にも記されていますから、まちがいなく現四天王寺=九州王朝難波天王寺に納められたのです。
 このように、現四天王寺を九州王朝の難波天王寺と考えると、『日本書紀』に盗用された九州王朝の事績を洗い出すことが可能となるケースがあります。『日本書紀』以外の四天王寺関連史料も同様の視点で史料批判することにより、九州王朝史の復原が進むのではないかと期待されるのです。


第256話 2010/05/02

正倉院の中の「評」史料

 今日は久しぶりに京都府立総合資料館に行って来ました。自転車で鴨川沿の道を走りましたが、比叡山や如意ヶ嶽(大文字山)の新緑が青空に映えて、とても快適でした。資料館では都合三時間ほど図書を閲覧したのですが、最近の論稿なども含め、収穫が大でした。
 特に今回の目的の一つは、東野治之氏の『日本古代木簡の研究』(昭和58年)の閲覧でした。というのも、正倉院に「評」史料が存在するという論文を以前同書で読んだ記憶があったので、その論文を再確認したかったからです。
 ご存じのように大和朝廷は『日本書紀』や『万葉集』などで、700年以前の「評」を「郡」に書き換えており、故意に評制史料の隠滅をはかったと考えられてきました。しかし、膨大な評制史料である庚午年籍に関しては近畿天皇家は長期にわたり保存・書写を命じており、評制史料の取扱いは一様ではなかったのでは ないかと、わたしは考えてきました。古田先生からは正倉院文書に評制史料がないという指摘も受けていたのですが、東野氏により、正倉院内にも「評」史料が存在することが報告されていたので、同論文に深い関心を持っていたのです。
 その論文は「正倉院武器中の下野国箭刻銘についてーー評制下における貢進物の一史料」というもので、正倉院に蔵されている50本の箭(矢)に「下毛野那須 郷※二」※(仝のエが干)という刻銘があり、従来、「那須郷」と判読紹介されていたのは誤りで、正しくは「奈須評」であることを字形や他の根拠から論証され、この50本の箭は評制の時代のものであるとされたのです。
 確かに、「下毛野」という国名の次にいきなり「那須郷」とあるのは不審です。やはり国名の次には「郡」か「評」であるのが通例です。字形に至ってはとても 「郷」と読めたものではなく、他の木簡の字形と比較しても「評」と読むべきものでしたから、東野氏の指摘には説得力があります。
 東野氏はこの箭以外にも正倉院に「評」史料があることを紹介されています。それは『書陵部紀要』29号(1978年)に報告されている「黄施*幡残片」の墨書で、「阿久奈弥評君女子為父母作幡」と「評」銘記されています。この幡はその様式や評制の時代という点から見て。法隆寺系の混入品と見られています。 このように正倉院には「評」史料が現存しており、やはり大和朝廷での「評」史料の取扱は一様ではなかったと考えざるを得ないのです。
  施*は、方偏の代わりに糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41


第255話 2010/05/01

『古代に真実を求めて』

   第13集発刊

 古田史学の会の論集『古代に真実を求めて』第13集が明石書店より発刊されました。古田史学の会の2009年度賛助会員には会則に従って発送しました。一般書店でもお取り寄せ、お求めできます。定価2400円+税です(257頁)。
 13集には古田先生の講演録1編(日本の未来−日本古代論-、2009年講演)の他、会員による9論文が収録されており、古田史学・多元史観による最新研究成果が報告されています。
 中でも、伊東義彰さんの「太宰府考」と拙論「太宰府条坊と宮域の考察」は九州王朝の首都太宰府研究に関する最新の考古学的知見に基づいたもので、是非、
ご一読いただければと思います。正木裕さんの「『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都」も氏の近年の研究成果がまとめられており、示唆的です。四国松山
の合田洋一さんからは2論文(「越智国の実像」考察の新展開、娜大津の長津宮考)が寄せられました。いずれも現地調査に基づかれた力作です。その他の論文
も貴重な視点や発見が含まれており、読み応えのある一冊となりました。

『古代に真実を求めて』第13集目次
○巻頭言  水野孝夫
○特別掲載 日本の未来ーー日本古代論 古田武彦講演録
○研究論文
 北部九州遠賀川系土器はロシア沿海州から伝わった  佐々木広堂
 『日本書紀』の「二国併記」と漢の里単位問題  草野善彦
 太宰府条坊と宮域の考察  古賀達也
 太宰府考  伊東義彰
不破道を塞げ 三 ーー天子宮が祀るのは、瀬田観音にいた多利思北孤  秀島哲雄
「越智国の実像」考察の新展開 ーー「温湯碑」建立の地と「にぎたつ」  合田洋一
 『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都  正木 裕
  娜大津の長津宮考 ーー斉明紀・天智紀の長津宮は宇摩国津根・長津の村山神社だった  合田洋一
 淡路島考 ーー国生み神話の「淡路洲」は瀬戸内海の淡路島ではない  野田利郎
○付録
 古田史学の会・会則
 「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
 第14集投稿募集要項/古田史学の会 会員募集
 編集後記


第254話 2010/04/25

 

二つの四天王寺

 現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(619年)に創建した天王寺だったとする私の仮説には、実は越えなければならないハードルがありました。 それは、『日本書紀』に建立が記された四天王寺は何処にあったのか、あるいは建立記事そのものが虚構だったのかという検証が必要だったのです。
 崇峻紀や推古紀に記された四天王寺建立記事が全くの虚構とは考えにくいので、わたしは本来の四天王寺が別にあったのではないかと考え、調べてみました。すると、あったのです。
 難波宮跡の東方にある森之宮神社の社伝には、もともと四天王寺は今の大阪城公園辺りに造られたとあるのです。あるいは、平安期の成立とされる『聖徳太子 伝暦』に、玉造の岸に始めて四天王寺を造ったとの記録もありました。遺跡などの詳細は不明ですが、今の大阪城付近に初めて四天王寺が造られたとの伝承や史料があったのです。
 これらの事実は、現在の四天王寺は九州王朝の天王寺であって、『日本書紀』の記す四天王寺ではないとする、私の仮説にとって偶然とは言い難い大変有利な証拠でもあるのです。このことを4月17日の関西例会で報告したのですが、この「二つの四天王寺」問題と「九州王朝の難波天王寺」仮説は、『日本書紀』の 新たな史料批判の可能性をうかがわせます。このことも、追々、述べていきたいと思います。
 なお、4月の関西例会での発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 禅譲・放伐、他(豊中市・木村賢司)

2). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)

3). 豊雲野神(大阪市・西井健一郎)
 1)豊日の国の祖神・豊雲野神 2)豊の位置の探索

4). 九州王朝と菩薩天子(川西市・正木裕)
 多利思北孤等九州王朝の天子が「菩薩天子」を自負していたと考えれば、以下の仮説が提起できる。
  1. 筑紫君薩夜麻の「薩」は菩薩思想を表す彼の中国風一字名である。なお「讃・珍・済・興・武」や七支刀に刻す「倭王旨」の「旨」、人物画像鏡の「日十大王年」の「年」等(磐井の磐・壹與の與もそうか)から、九州王朝の天子は中国風一字名を併せ持っていたと考えられる。
  2. 薩夜麻の為に大伴部博麻が「身を売った」とされる行為は、菩薩天子に対する仏教上の「捨身供養」である。博麻への恩賞はこれに伴うもので、持統四年九州王朝はその授与権をしっかりと有していた。(これは天武末期から持統初期の叙位・褒賞等記事の主体問題に繋がる)
  3. 『隋書』に記す、開皇二十年(六〇〇)の多利思北孤の親書に対し、隋の高祖が「大いに義理なし」と非難したのは、地上の権威と宗教(仏教)上の権威を併せ持つ統治形態・施政方式に対するものである。

5). 二つの四天王寺(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・『倭姫命世記』の「櫛田宮」「宇礼志」・他(奈良市・水野孝夫)


第253話 2010/04/11

古田武彦初期三部作復刻

ミネルヴァ書房より待望の復刻が、「古田武彦・古代史コレクション」と銘打ってスタートしました。古田ファンからは「初期三部作」と呼ばれている、『「邪馬台国」はなかった』 『失われた九州王朝』 『盗まれた神話』の三冊がまず復刻されました。次いで『邪馬壹国の論理』ここに古代王朝ありき』『倭人伝を徹底した読む』の復刻が予定されています。
特に初期三部作は古田史学のデビュー作と言うだけでなく、その学問の方法を徹底して重視した論証スタイルに多くの古代史ファンが引きつけられました。 1971年に出された『「邪馬台国」はなかった』が古代史学界に与えたインパクトも強烈でした。わたしも、この本を書店で立ち読みして、「これは今までの邪馬台国ものとは違う」と感じ、買ったその日の内に読了し、是非とも著者に会ってみたいと強く願うようになりました。まさに、わたしの人生を変えた一冊となったのです。
朝日新聞社から出版された三部作は角川文庫、朝日文庫と文庫化されましたが、その後は長く絶版となり、書店に並ぶこともなく残念に思ってきました。恐らくは、この度の復刻に対し、古代史学界からは陰に陽に圧力や嫌がらせが出版社になされたことと思いますが、それらをものともせずに復刻に踏み切ったミネルヴァ書房に感謝したいと思います。是非、皆さんのご購入と近隣の図書館への購入要請を行っていただければと思います。
特に初期三部作はどちらかと言えば古田先生の著作の中では難しい本なのですが、古田史学の方法論が繰り返し論述されており、古田史学ビギナーの方々には 一読再読をお勧めします。この古田先生の学問の方法論が良く理解されていないと、古田史学の「亜流」と称されている似て非なる諸説との区別がつかなくなり ます。また、今回の復刻版には最新の古田説による追記もあり、こちらも貴重です。重ねて、皆さんの講読をお奨めします。


第252話 2010/04/04

天王寺の古瓦

 第250話で述べましたように、現在の四天王寺は地名(旧天王寺村)が示すように、本来は九州王朝の天王寺だったとしますと、その創建は『二中歴』所収「年代歴」の九州年号

「倭京」の細注「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)

という記事から、619年になります。
 他方、『日本書紀』には四天王寺の創建を推古元年(593)としています。あるいは、崇峻即位前紀では587年のことのように記されています。いずれにしても、倭京2年(619)より約20〜30年も早いのです。どちらが正しいのでしょうか。
 ここで考古学的知見を見てみましょう。たとえば、岩波『日本書紀』の補注では四天王寺の項に次のような指摘があります。
 「出土の古瓦は飛鳥寺よりも後れる時期のものと見られる点から、推古天皇末年ごろまでには今の地に創立されていたと考えられる。」(岩波書店日本古典文学大系『日本書紀・下』558頁)
 『日本書紀』では飛鳥寺(法興寺)の完成を推古4年(597)としています。四天王寺出土の古瓦はそれよりも後れるというのですから、7世紀初頭の頃となります。そうすると『二中歴』に記された倭京2年(619)に見事に一致します。従って、考古学的にも『日本書紀』の推古元年(593)よりも『二中歴』の方が正確な記事であったこととなるのです。このことからも、この寺の名称は『日本書紀』の四天王寺よりも『二中歴』の天王寺が正しいという結論が導き出されます。
 このように、地名(旧天王寺村)の論理性からも、考古学的知見からも四天王寺は本来は天王寺であり、倭京2年に九州王朝の聖徳により建立されたという『二中歴』の記述は歴史的真実だったことが支持されるに至ったのです。この史料事実と考古学的事実という二重の論証力は決定的と言えるのではないでしょうか。


第251話 2010/03/28

『古田史学会報』97号の紹介

 『古田史学会報』97号の編集が完了しました。今号には正木さんによる九州年号「端政」の意味と出典に関する貴重な発見が報告されています。その正木説を受けて、わたしも「法隆寺の菩薩天子」を執筆できました。
 会員以外では、東北大学名誉教授の吉原賢二さんから「東日流外三郡誌」真作説に立った玉稿をいただきました。著名な化学者でもある吉原さんによる
自然科学の立場からの優れた論文です。和田家文書真偽論争へ新たな一石を投じられたものといえます。

 『古田史学会報』97号の内容
○九州年号「端政」と多利思北孤の事績 川西市 正木 裕
○天孫降臨の「笠沙」の所在地ーー「笠沙」は志摩郡「今宿」である 姫路市 野田利郎
○法隆寺の菩薩天子 京都市 古賀達也
○東日流外三郡誌の科学史的記述についての考察 いわき市 吉原賢二(東北大学名誉教授)
○纒向遺跡 第一六六次調査について 生駒市 伊東義彰
○「葦牙彦舅は彦島(下関市)の初現神」 大阪市 西井健一郎
○史跡めぐりハイキング
○関西例会のご案内
○2010年度会費納入のお願い


第250話 2010/03/27

天王寺と四天王寺

 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「倭京」の細注にある「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)という記事中の難波が、摂津難波
と博多湾岸にあったと考えられている「難波」のいずれなのかというテーマを検討し始めた当初から、わたしには気にかかっていたことがありました。現在の
「結論」は摂津難波と考えていますが、その場合、大阪に今もある四天王寺と『二中歴』の天王寺がはたして同じ寺かという問題でした。もっとはっきり言え
ば、四天王寺と天王寺とどちらが本来の名称なのかという疑問でした。
 関西の方なら特にご存じのはずですが、お寺の名前は四天王寺ですが、現地名は天王寺(大阪市天王寺区)なのです。古い地図でも「天王寺村」と記されてい
ますから、地名が天王寺であることは間違いありません。考えてみれば、これは大変不可解な現象です。
 四天王寺というお寺は聖徳太子が建立したと『日本書紀』にも記されており、古代からあった名称であることは確かと思いますが、それならその四天王寺が建
てられた場所としての地名も「四天王寺村」であるはずで、寺名とは異なる「天王寺村」とはしないはずです。しかし、事実は「天王寺村」であり「四天王寺
村」ではないのです。
 また、もともと「四天王寺村」であったのが、いつのまにか「天王寺村」に変わったということも考えられません。何故なら、お寺の四天王寺は現在まで立て
替えはあっても、当地に存続しているのですから、勝手に寺名とは異なる村名に変えることなどできないのではないでしょうか。また、する必要もありません。
 そうすると、考えられるケースはただ一つ。天王寺村の由来となった本来の寺名は「天王寺」だった。このケースです。すなわち『二中歴』に記された「天王
寺」が正しく、『日本書紀』の四天王寺は別の場所に建てられた別のお寺だった。あるいは、本来「天王寺」という名前のお寺が、九州王朝滅亡後に大和朝廷に
より四天王寺と名称変更されたのではないでしょうか。現存地名「天王寺」の存在が、この論理性を支持する動かぬ証拠なのです。
 この論理性の帰結からも、『二中歴』の「倭京二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」という記事が正しかったこととなります。すなわち、この難
波は摂津難波であり、天王寺は大阪市天王寺区にあった「天王寺」のことだったのです。『二中歴』編者は『日本書紀』に影響されて「難波四天王寺」とはせず
に、原史料に忠実に「難波天王寺」と記したのです。更には、九州年号と共に記されたこの記事は、九州王朝の事績であり、この時代の摂津難波は九州王朝の直
轄支配領域だったのです。


第249話 2010/03/21

九州年号と大正新脩大蔵経

 昨日の関西例会では九州王朝研究に大変役に立つ基礎研究ともいうべき、二つのデータベースが発表されました。
 一つは竹村さんによる「評・郡」別、地名別、紀年別の木簡データベースで、奈良文化財研究所の大量の木簡データベースから検索分類グラフ化したものです。これにより、藤原宮や飛鳥池・石神遺跡などからの出土木簡にどのような傾向があるのか、多元史観の視点から把握できるようになりました。これは九州王朝滅亡過程の研究に有効なツールとなりそうです。
 二つ目は、西村さんによる膨大な大正新脩大蔵経からの「九州年号」検索データベースです。これも、九州年号が仏教経典との関係が深いことを指し示しただけでなく、九州王朝がどのような経典を重視したのかを研究する上で、大変便利なデータベースです。

 こうした労作により、九州王朝研究が加速することは間違い有りません。お二人に感謝したいと思います。なお、今回も遠方(埼玉県)からの初参加者があったり、久々に冨川さんの参加発表もあり、盛会でした。発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「南九州一元史観・神話の旅」・「リコール」(豊中市・木村賢司)
2). 日本(倭)年号の大蔵経における出現回数(向日市市・西村秀己)
3). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)
4). 評木簡と藤原宮(木津川市・竹村順弘)
5). 夢殿救世観音と法華経(川西市・正木裕)
6). 藤原宮(相模原市・冨川ケイ子)
7). 纏向遺跡・第166次調査について(生駒市・伊東義彰)
8). 『海東諸国紀』中の「太子を殺す」記事について(川西市・正木裕)
9). 『二中歴』鏡當「新羅人来従筑紫至播磨焼之」(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・神武を祀る神社(熊本県最多。天草に多い)・他(奈良市・水野孝夫)


第248話 2010/03/13

法隆寺と難波

 『日本書紀』天智紀に記された法隆寺(若草伽藍)焼失後、和銅年間頃、跡地に移築された現法隆寺の移築元寺院の所在地や名称について、古田学派内で検討が進められてきましたが、未だ有力説が提示されていないように見えます。わたし自身も、倭国の天子である多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院ですから、九州王朝倭国の中枢領域にあったはずと考え、筑前・筑後・肥前・肥後を中心に調査検討を行ってきましたが、有力な手掛かりを見いだせずにきました。
 しかし、近年到達した前期難波宮九州王朝副都説により、摂津難波も九州王朝が副都をおけるほどの直轄支配領域であるという認識を持つに至ったことから、この地も法隆寺移築元寺院探索の調査対象に加えるべきではないかと考えています。
 前期難波宮が九州王朝の副都として創建されたのは652年、九州年号の白雉元年ですが、それ以前の七世紀前半から摂津難波が九州王朝にとって寺院建立の有力地であった史料根拠があります。それは現存最古の九州年号群史料として著名な『二中歴』所収「年代歴」です。そこには、九州年号「倭京」の細注に次の記事があります。

「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)

 倭京二年に九州王朝の聖徳と呼ばれていた人物が難波に天王寺を建てたという内容ですが、当初わたしはこの記事の難波を博多湾岸の「難波」という地名と考え、その地に天王寺が建てられたと考えていました。しかし、筑前の「難波」であれば、九州王朝内部の記事ですから、単に天王寺を建てたとだけ記せば、九州王朝内の読者には判るわけですから、「難波」は不要なのです。しかし、あえて「難波天王寺」と記されているからには、筑前ではなく摂津難波の難波であることを特定するための記述と考えざるを得ません。
 たとえば、同じ『二中歴』「年代歴」の九州年号「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」と寺院建立記事がありますが、こちらには観世音寺の場所に関する記述がありません。それは観世音寺と言えば太宰府の観世音寺であることは九州王朝内の読者には自明なことであり、従って、わざわざ「筑紫観世音寺」などとは表記されなかったのです。ですから、「難波天王寺」とあれば、読者には摂津難波の天王寺と理解されるように記されたと考えるほかないのです。
 また、倭京二年の建立とされていますが、倭京は多利思北孤の時代の九州年号です。その二年に「聖徳」という人物が建てたというからには、これも同様に聖徳と記せばわかるほどの九州王朝内の有力者と考えられます。恐らく、多利思北孤の太子である利歌弥多弗利のことではないでしょうか。多利思北孤の太子である利歌弥多弗利が聖徳と称されていれば、文字通り「聖徳太子」となり、この利歌弥多弗利の伝承や業績が、『日本書紀』に盗用されたのものが、いわゆる聖徳太子記事ではないかと推察しています。
 このように、九州王朝は七世紀前半の倭京二年(619年)に、難波に天王寺を建立していた史料根拠があるのですから、天王寺以外にも多利思北孤自身が建立した寺院が摂津難波にあっても不思議ではないのです。地理的にも、遠く九州の寺院を移築するよりも、摂津難波の寺院を移築した方がはるかに容易ですから。
 このような認識の進展により、法隆寺移築元寺院の探索地に摂津難波を加えなければならないと考えています。更には、難波の四天王寺の調査研究も九州王朝との関係から再検討しなければならないと思っているのです。


第247話 2010/03/07

菩薩天子と現人神

 法隆寺建立当初(七世紀初頭頃)の本尊が、夢殿の救世観音だったとするわたしの仮説が正しければ、多利思北孤は自らを菩薩天子と認識していたのみなら
ず、自らの姿に似せた菩薩像を本尊としたことになります。ここに新しいテーマが出現するのです。それは日本仏教思想史上のテーマです。
 すなわち、仏教国において、時の最高政治権力者が自らに似せた仏像を崇拝の対象にさせたというテーマです。このような先例が古代アジアの仏教国にあった
のかどうか、今後調べてみたいと思いますが、権力者の仏教信仰において、まず思い起こされるのが中国南朝梁の武帝の逸話ではないでしょうか。
 梁の武帝は仏教を深く信仰し、度々仏前に捨身し三宝の奴と称したほどで、この時代、南朝では仏教が興隆しました。日本でも聖武天皇が自らを「三宝の奴」と
称した宣命が『続日本紀』に記されていることは有名です(天平勝宝元年四月:749)。
 こうした例から、権力者が仏教に帰依している、いわゆる仏教国においては仏法僧の三宝が上位で、世俗の権力者が相対的に下位にあるものと、わたしはこれま
で理解していました。ところが、仏教国である九州王朝倭国では世俗権力のトップが菩薩天子となり、その姿に似せた菩薩像を崇拝の対象にさせたとすれば、何
とも異質な宗教観が倭国には存在していたように思われるのです。おそらく、キリスト教国やイスラム教国では絶対に起こり得ない現象ではないでしょうか。も
ちろん、一神教と多神教の差異がありますので、単純な比較はできないでしょうが。
 それでは、こうした「異質」な宗教観は多利思北孤の時代に始めて成立したのか、それともずっと以前からあったものなのでしょうか。おそらく、日本列島や倭
国において、仏教伝来以前から存在した宗教観のように思われます。それは、『日本書紀』の景行紀や雄略紀に見える「現人神」(あらひとがみ)という表現に
表された、神が人間の姿となって現れる、あるいは「天皇」を現人神とする宗教観が淵源ではないかと考えています。『万葉集』に見える「大君は神にしあれ
ば」という表現も同類の思想です。
 すなわち、九州王朝では天子やトップを「現人神」とする伝統があり、仏教を受け入れて以降は「現人仏」「現人菩薩」「菩薩天子」などへと「発展進化」した
のではないでしょうか。中国での「菩薩天子」「如来天子」思想の調査研究を含めて、新たな研究テーマにしたいと思います。(つづく)