第95話 2006/08/22

白雉改元と前期難波宮

 昨年から今年にかけて、私は『日本書紀』白雉改元記事の史料批判から、あるいは前期難波宮の規模や様式などから、この難波宮を九州王朝の副都とする仮説を展開してきました。19日の関西例会でも最新の発見について報告しましたが、そのおり竹村順弘さんから、兵庫県南部に白雉年間創建の寺院が多いことを教えていただきました。この事実も難波宮建設と関連が深いと思われますが、「元壬子年」木簡の出土地も芦屋市だったことを考えると、なかなか興味深い現象です。
 今回の例会もバラエティーに富んだ内容で、毎回充実した例会となっています。例会後の二次会も参加者が多く賑やかですが、最近では三次会も参加者が多く場所探しが大変でした。また、二次会から参加される「熱心」な方もおられ、驚かされます。例会の内容は次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「海の道」
○研究発表
1. 孔明「出師の表」と岳飛・『なかった─真実の歴史学』創刊号を見て・守備範囲外(豊中市・木村賢司)
2. 「速吸門」についての若干の整理(川西市・正木裕)
3. サヌカイトと屋島訪問ー古田武彦先生同行記ー(豊中市・大下隆司)
4. 続・白雉改元の史料批判(京都市・古賀達也)
5. 熊本県浄水寺の平安時代石碑2(相模原市・冨川ケイ子)
6. さ迷える五十鈴の宮(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・阿胡根能浦は鹿児島県阿久根市か・他(奈良市・水野孝夫)


第94話 2006/08/16

水鏡天満宮と櫛田神社

 お盆休みは、同窓会(久留米高専・化学科11期)に出席するために帰省しました。途中、福岡で友人と会うために博多駅で下車し、炎天下の博多の町を天神 まで歩きました。その時、水鏡天満宮の前を通りました。鳥居に掲げられた「天満宮」の額の文字は、いわゆるA級戦犯とされ、刑死した広田弘毅(総理大臣・ 外相)が11歳の時に書いたものです。

 博多祇園山笠で有名な櫛田神社の境内も通り抜けたのですが、社殿などが工事中で、その説明板には「1250年記念改修」というようなことが記されていま した。それを見て、そうすると同社鎮座は756年になるけれど、私は7世紀末頃だったと記憶していたので、京都に戻ってから調べてみました。
 『筑前国続風土記』には天平宝字元年(756)に勧請されたとありますから、ちょうど1250年前です。しかし、『筑前国続風土記拾遺』には中巌円月の書が引用されており、それには「持統天皇朱雀中之建也」とあります。朱雀は九州年号で、684〜685年のことですから、私はこちらの説を記憶していたので した。
  どうも櫛田神社の歴史も九州王朝と関係が深そうです。機会があれば調査研究したいものです。中巌円月の名前は冨川ケイ子さんの研究で知ったのですが(第67話「鎌倉時代の学問弾圧」を参照)、朱雀という九州年号とともに、ここに中巌円月の名前が出てきたことにちょっと驚きました。


第92話 2006/07/29

筑後の九州年号

 九州王朝の筑後遷宮説や筑後副都説を裏づける史料状況として、九州年号の残存量が上げられます。以前に「筑後地方の九州年号」という論文(『古田史学会報』44号)で紹介したのですが、私が調べてわかっただけでも筑後地方には下記の九州年号史料が存在しています。
 初期の「善記」から末期の「朱鳥」まで多くの九州年号が諸史料に残存しているのですが、青森県から鹿児島県まで分布している九州年号史料の全国的状況と比較しても、かなり濃密な分布です。こうした史料状況からも九州王朝筑後遷宮説は有力な仮説と思われます。現地史料を丹念に調査すれば、さらに多くの九州年号が見つかるはずです。地元研究者の活躍に期待したいところです。
 なお、端正元年(589)から白鳳まで80年ほど史料の「空白」がありますが、これは7世紀初頭の大宰府建都により、九州王朝の中心勢力が筑前に移動したことと対応しているのではないでしょうか。

九州年号    西暦      出典・備考
善記 元年    522    大善寺玉垂宮縁起
明安戊辰年    548    久留米藩社方開基、三井郡大保村「御勢大霊大明神再興」 ※二中歴では「明要」。
貴楽 二年    553    久留米藩社方開基、三井郡東鰺坂両村「若宮大菩薩建立」
知僧 二年    566    久留米藩社方開基、山本郡蜷川村「荒五郎大明神龍神出現」 ※二中歴では「和僧」。
金光 元年    570     柳川鷹尾八幡太神祝詞、久留米市教育委員会蔵。
端正 元年    589    大善寺玉垂宮縁起軸銘文・太宰管内志 ※二中歴では「端政」。
白鳳 九年    669    筑後志巻之二、御勢大霊石神社 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」の可能性も有り。
白鳳 九年    669    永勝寺縁起、久留米市史。久留米市山本町  ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」の可能性も有り。
白鳳 元年    672    全国神社名鑑、八女市「熊野速玉神社縁起」 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳十三年    673    高良玉垂宮縁起
白鳳十三年    673    高良山高隆寺縁起
白鳳十三年    673    高良記  ※他にも白鳳年号が散見される。
白鳳 二年    673    二十二社註式、高良玉垂神社縁起。 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    高良山隆慶上人伝 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    家勤記得集 ※元年を672とする後代の改変型「白鳳」。
白鳳 二年    673    久留米藩社方開基、竹野郡樋口村「清水寺観世音建立」 ※後代の改変型「白鳳」。
白鳳中    661〜683    大善寺古縁起二軸 外箱蓋銘
白鳳年中     661〜683     筑後志巻之三、御井寺
白鳳年中     661〜683    久留米藩社方開基、山本郡柳坂村「薬師堂建立」
白鳳年中     661〜683    高良山雑記
朱雀二年     685    宝満宮年譜、井本家記録。三池郡開村新開。
朱雀年中     684〜685    高良山雑記
朱鳥元年丁亥    686    高良山隆慶上人伝 ※干支に1年のずれがある。二中歴では朱鳥元年は丙戌。


第91話 2006/07/21

『古田史学会報』75号のご案内

 『古田史学会報』75号の編集が終わり、印刷に送りました。8月初旬には会員の皆様にお届けできる予定です。今号よりA4サイズの封筒に入れて、宅配便でお届けします。これは、この度の総会で事務局次長になられた大下さんのアイデアです。これで折り作業の手間が合理化でき、会員の皆様にも余計な折り目のない会報をお届けできます。
 75号の内容は次の通りで、バラエティーに富んだ会報となりました。楽しんでいただけることと思います。

『古田史学会報』75号の内容
  大野城大宰府口出土木材に就いて(奈良市・飯田満麿)
 泰澄と法蓮(奈良市・水野孝夫)
 巣山古墳(第五次調査)出土木製品(生駒市・伊東義彰)
 遺稿・「和田家文書」に依る『天皇紀』『国紀』及び日本の古代史についての考察4(藤崎町・藤本光幸)
 私考・彦島物語III 外伝 伊都々比古(前編)(大阪市・西井健一郎)
 多賀城碑の西(柏原市・菅野拓)
  「元壬子年」木簡の論理(京都市・古賀達也)
 第12回定期会員総会の報告
 連載小説「彩神」第十一話  杉神(6)(町田市・深津栄美)
 「粛慎の矢」菅江真澄もそれを知っていた?(奈良市・太田斉二郎)
 関西例会のご案内・史跡めぐりハイキング・事務局便り・他


第90話 2006/07/16

『筑後国正税帳』の証言

 筑後国府には考古学的に謎が多いことを述べてきましたが、文献上にも不思議な記事があります。既に古田先生が指摘されているテーマですが、天平10年(738)の正倉院文書『筑後国正税帳』に筑後国より都あるいは律令制下の大宰府に献上された品目が記されています。その中に他国の正税帳とは全く異なる品目が列挙されているのです。
 たとえば、銅釜工、轆轤工3人、鷹養人30人、鷹狩り用と思われる犬15匹です。そして何よりも驚きなのが、白玉113枚、紺玉71枚、縹玉933枚、緑玉72枚、赤勾玉7枚、丸玉4枚、竹玉2枚、勾縹玉1枚という大量の玉類です。これら全ての玉類が筑後地方から産出するとは考えられませんから、他国から筑後国に集められたと思われます。
 こうした史料事実は通説では説明不可能です。九州王朝説やわたしの筑後遷宮説でなければ説明できないと思います。すなわち、天子や王侯の遊びであった鷹狩りが行われていた証拠である「鷹養人30人」や「鷹狩り用の犬」の献上は、この地に九州王朝の都があった証拠なのです。大量の玉類も同様です。もしかすると、九州王朝の「正倉院」が筑後国にあったのではないでしょうか。そうすると、大量の玉類はそこに収蔵されていた可能性が濃厚です。
 第三期筑後国府跡に曲水の宴遺構が隣接していたことも、このことと関連して考察するべきでしょう。
古田史学会報36号「両京制」の成立 古田武彦 参照)

 話は変わりますが、昨日15日に古田史学の会・関西例会が行われました。残念ながら勤務の都合で私は欠席しましたが、テーマのみお知らせしておきます。
  〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕

 ○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「天台の道」

 ○研究発表
  1. 伊予の大族、越智・河野系譜にみる、国政とのかかわり伝承(豊中市・木村賢司)
  2. コバタケ珍道中・信州編(木津町・竹村順弘)
  3. 彦島物語・別伝(大阪市・西井健一郎)
  4. 九州年号古賀試案の検証(奈良市・飯田満麿)
  5. 大野城創建と城門柱の刻書(岐阜市・竹内強)
  6. 熊本県浄水寺の平安時代石碑群(相模原市・冨川ケイ子)
  7. 敵を祀る・旧真田山陸軍墓地(豊中市・大下隆司)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・教科書から消える聖徳太子・他(奈良市・水野孝夫)


第89話 2006/07/08

筑後国府跡の字地名

 第一期筑後国府跡は合川町枝光の南側にありますが、同地には「フルコフ」と呼ばれていた字地名があることが、『久留米市史』(昭和七年発行)に紹介されています。同書によれば「フルコフ」とは「古国府」のこととされ、そうであれば「古国府」と呼ばれるようになったのは、「新国府」である第二期筑後国府成立以後と考えられます。地名の遺存性の強さには本当に驚かされます。
 さらに、「フルコフ」の「西隈高隆の地を『コミカド』と称す」とあり、「小朝廷」の意味ではないかとしています。大変興味深い地名で、もし「小朝廷」であれば、九州王朝説や筑後遷宮説にとって貴重な傍証となるでしょう。
 この他にも「チョウジャヤシキ」などの地名も記されており、筑後国府跡地名の多元史観による調査検証が待たれます。


第88話 2006/07/07

筑後国府の不思議

 第87話で紹介した、久留米市の筑後国府跡から出土した大型建造物の柱穴について、この一週間検討を続けてきました。特に筑後国府に関する文献や発掘調査報告書を丹念に読み直したのですが、筑後国府には実に不思議な問題があることがわかりました。
 まず第一に、筑後国府跡は第一期から第四期まであり、通説でも第一期の国府(合川町古宮地区)は七世紀末の成立とされ、最古級の国府であること。なぜ、近畿ではなく九州の筑後国府が最古なのか、通説では説明困難です。
 第二に、律令体制が全国的に崩壊していた12世紀後半まで国府(第四期、御井町)が存続していたこと。このように500年も続いた国府は筑後国府だけです。
 第三に、第二期国府(合川町阿弥陀地区)は太宰府政庁と同じような配置を有していたこと。
 第四に、第三期国府(朝妻町三丁野地区)は全国最大希望の国府であったこと。
 第五に、第三期国府の東側に隣接して「曲水の宴」遺構が存在していたこと。
 第六に、国府跡の発掘調査報告を読むと、弥生時代の住居跡なども出土しているのに、古墳時代や飛鳥時代の遺跡がほとんど見当たらず、いきなり八世紀以後の遺跡となっていること。この地帯が古墳時代や飛鳥時代は無人の地だったとは考えられません。須恵器を中心とする土器編年がおかしいのではないでしょうか。

 以上、ちょっと考えただけでも不思議だらけなのです。おそらく、これらは九州王朝説に基づかなければ解決しないものと思われますが、それでも判らないことが多く、研究課題は山積しています。
 8月5日には愛媛県の松山市で講演しますが(古田史学の会・四国主催)、この問題をテーマにしたいと思います。それまでに、どれだけ解決している、今からワクワクするような研究テーマです。


第87話 2006/06/28

九州王朝の筑後遷宮

 わたしは「九州王朝の筑後遷宮」というテーマを発表したことがあります(『新・古代学』第4集、1999年)。4世紀後半から6世紀にかけて、九州王朝は筑前から筑後へ遷宮したという仮説です。九州王朝は、高句麗や新羅の北方からの脅威に対して、より安全な筑後地方に首都を移したと思われ、それはちょうど倭の五王や筑紫の君磐井の時代にあたります。また、筑後川南岸の水縄連山に装飾古墳が多数作られる時期とも対応します。そして、輝ける天子多利思北孤の太宰府建都(倭京元年、618年頃)により再び筑前に首都を移すまで、筑後に遷宮していたと考えられるのです。この論証の詳細は「玉垂命と九州王朝の都」(『古田史学会報』24号)、「高良玉垂命と七支刀」(『古田史学会報』25号)をご参照下さい。
 しかしながら、この仮説には解決すべき問題がありました。それは九州王朝の王宮に相応しい遺跡が筑後地方になければならないという考古学的な問題でした。一応の目途としては、久留米市にある筑後国府跡(合川町、他)や大善寺玉垂宮(三瀦町)付近にあるのではないかと推定していましたが、やはり5〜6世紀の王宮に相応しい規模の遺跡は発見されていませんでした。ところが、先週、ビッグニュースが飛び込んできたのです。
 福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から毎日新聞(6月22日、地元版)のコピーがファックスされてきました。「筑紫国の役所か」「7世紀後半の建物跡」「九州最大規模、出土」という見出しで、久留米市合川町から、ひさし部分も含めて幅18メートル、奥行き13メートルの建物跡の 柱穴(直径30〜60センチ)40本が出土したことが報じられていました。近くで出土した須恵器から7世紀後半の遺跡とされていますが、この時期の九州北部の編年はC14測定などから、土器編年よりも百年ほど古くなりますから、6世紀後半の遺跡と考えるべきでしょう。そうすると、筑後遷宮期の九州王朝の王宮の有力候補となるのです。なによりも、この時期の九州最大規模の建物という事実は注目されます。
 新聞記事からは遺跡の正確な位置や詳しい内容がわかりませんので、これ以上の推測はやめておきますが、わたしの筑後遷宮説にとって、待ちに待ったニュースでした。


第86話 2006/06/21

事務局体制を強化

 古田史学の会は18日に大阪で定期会員総会を開催しました。総会では、会則の改訂を行い、事務局次長(若干名)ポストを新設し、横田幸男さん(全国世話人・インターネット担当)と大下隆司さん(書籍部担当)が事務局次長に選任されました。この人事により、事務局体制はわたしを含めて3名となり、かなり強化されました。本会の影響力の増大と期待に応えられるよう、頑張ります。
 総会に先だって、午前中は関西例会が、午後は記念講演会が行われました。関西例会の内容は次の通りです。

〔古田史学の会・6月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「浄土の憧れと国風文化」
○研究発表
1.『古事記』序文と天武紀の「実」(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・大兵主神社とは・他(奈良市・水野孝夫)

 午後の講演会は次の通りでした。パワーポイントとプロジェクターを使用した発表で、カラフルな大画面がなかなか良かったのではないかと自賛しています。

1. 古川清久氏(本会会員・武雄市)
 馬門─阿蘇ピンク石と「石走る淡海」─
2. 古賀達也(本会事務局長)
 「三壬子年」木簡と大長年号の史料批判

 夜の懇親会も、講師の古川さん、福岡の力石さん、松山の合田さん、名古屋の林さんら遠方の全国世話人や会員を交えて、遅くまで宴が続きました。


第85話 2006/06/15

「白鳳壬申」骨蔵器の証言

 第83話に掲載した次の七世紀後半部分の九州年号を御覧になって、白鳳年間が他と比べて異常に長いことに気づかれたと思います。実はこの点も九州年号真作の論理性が現れているところです。そのことについて述べたいと思います。
常色 元(丁未)〜五 647−651
白雉 元(壬子)〜九 652−660
白鳳 元(辛酉)〜二三 661−683
朱雀 元(甲申)〜二 684−685
朱鳥 元(丙戌)〜九 686−694
大化 元(乙未)〜六 695−700

 九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は661年辛酉であり、二三年癸未(683)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
 こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
 この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(737)「太政官符謹奏」にも現れています。

 「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
  『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

  「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事
右得皇后宮織*觧稱*。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。(以下略)」
  『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年三月十日(737)

織*は、身編に織。糸編無し。
稱*は、人編に稱。禾偏無し。

 このように、近畿天皇家の公文書にも九州年号が使用されていたのです。特に聖武天皇の詔報に使用されている点など、九州年号真作説の大きな証拠と言えます。通説では、この白鳳を『日本書紀』の白雉が後に言いかえられたとしていますが、これも無茶な主張です。そして何よりも、白鳳年号の金石文が江戸時代に出土していたのです。
 江戸時代に成立した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』の博多官内町海元寺の項に、次のような白鳳年号を記した金石文が紹介されています。

 「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れす。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」
  『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺

 博多湾岸から出土した「白鳳壬申」(672年)と記された骨蔵器の記事です。残念ながらこの骨蔵器はその後行方不明になっています。なお、この『筑前国続風土記附録』は筑前黒田藩公認の地誌で、信頼性の高い史料です。
 これでも、大和朝廷一元史観の人々は、「九州年号はなかった。九州王朝もなかった。」と言い張るつもりでしょうか。少しは科学的で学問的な思考をしていただきたいものです。


第84話 2006/06/14

「大化五子年」土器の証言

第83話で九州年号にも大化があり、しかも『日本書紀』の大化(645〜649年)とは異なり、七世紀末(695〜700年)であることを紹介しました。そして、『日本書紀』は九州年号の大化を50年遡らせて盗用したものと結論づけました。日本古代史学界からは無視されていますが、実はこのことを裏づける金石文が既に出土しているのです。茨城県岩井市矢作の冨山家が所蔵している「大化五子年」土器がそれです。
わたしは古田先生らと共に、1993年に見せていただいたのですが、同土器は高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて

「大化五子年
二月十日」

と線刻されています。
この土器は江戸時代天保九年(1838)春に冨山家の近くの熱田社傍らの畑より出土したもので、大化年号が彫られていたことから出土当時から注目され、色川三中著『野中の清水』(嘉永年間<1848〜1854>の記録)や清宮秀堅著『下総旧事考』(弘化二年<1845>の自序あり、刊行は1905年)などに紹介されています。また、当時の領主も当土器を見に来たとのこと。冨山家には、その時領主のおかかえ絵師による同土器が描かれた掛軸がありました(絵師の号は南海)。
その掛軸の絵や『野中の清水』の絵にもはっきりと「大化五子年二月十日」と記されていますが、現在では「子」の字が故意による摩耗でほとんど見えなくなっていました。おそらくこれは『日本書紀』の大化五年(649)の干支「己酉」と異なるため、それを不審として削られたものと思われます。
『二中歴』では大化六年(700)が庚子で子の年となっており、この土器とは干支が一年ずれています。おそらく、この土器には干支が一年ずれた暦法が採用されたためと考えられますが、詳しくは拙論「二つの試金石−九州年号金石文の再検討−」(『古代に真実を求めて』第二集)を御覧下さい。
一方、『日本書紀』の大化年間には全く子の年はありません。従って、この土器の大化五子年は七世紀末の699年のことと考えざるを得ず、九州年号の大化を証明する貴重な同時代金石文となるのです。しかも、地元の土器専門家によって、七世紀後半から八世紀前半に属すると鑑定されており、699年はこの鑑定のど真ん中に位置しています。なお、この土器は煮炊きに使用された後、骨蔵器に転用された痕跡があるとのことで、刻された「大化五子年二月十日」とは命日か埋葬日のことと推定されます。
このように「大化五子年」土器は、九州年号の大化が存在したという真実を証言しているのです。同土器の存在は、地元の考古学者により専門誌で報告されているにもかかわらず、古代史学界は無視しています。大和朝廷一元史観の学者の、九州年号や九州王朝を認めたくないという気持ちは分からないではありませんが、何とも非学問的でアンフェアな態度と言わざるを得ません。

闘論二つの試金石ー九州年号金石文の再検討参照


第83話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の論理

 前話に続いて、「元壬子年」木簡がテーマです。今回はこの木簡の持つ論理性について更に深く考えてみたいと思います。「元壬子年」木簡の記述が直接的に指し示すことは、この時間帯(七世紀中頃)の年号の元年干支が「壬子」であるという事実です。『日本書紀』によれば、この時期の「壬子」の年は、孝徳天皇の時代、「白雉三年」(652年)が相当します。従って、木簡解読時に担当者が「元」の字を「三」と読み誤ったのには、それなりの理由があったわけです。

 一方、『二中歴』などに掲載されている九州年号では、この時期の「壬子」の年が「白雉元年」とされているのです。『日本書紀』と同じ「白雉」という年号が二年ずれて九州年号史料には多数収録されているのですが、この史料状況は九州年号真作説に有利な論理性を有していました。すなわち、もし九州年号が後代の偽作なら、「白雉」という年号名を『日本書紀』から盗用しておきながら、年次は二年ずらしたという、何とも奇妙な偽作方法となるからです。偽作するのに、全く必要のない手法です。従って、逆にこうした史料状況は偽作ではない証拠となるのです。この点を、偽作説論者は全く説明できていません。

 従って九州年号の白雉が偽作でなく、真実であるとなると、事態は逆転し、『日本書紀』の白雉が九州年号からの年次をずらしての盗用となること、当然でしょう。そして、この論理性が正しかったことを、「元壬子年」木簡が無比の物的証拠として証言しているのです。ここに、今回の発見の画期性があります。

 そこで次に問題となるのが、なぜ『日本書紀』編者は九州年号から白雉をわざわざ二年ずらして盗用したのかということです。それには一応の推測が可能です。すなわち、「大化の改新(詔勅)」の5年間を孝徳紀にはめ込みたかった。この可能性です。次の九州年号群を見て下さい。

常色 元(丁未)〜五  647−651
白雉 元(壬子)〜九  652−660
白鳳 元(辛酉)〜二三 661−683
朱雀 元(甲申)〜二  684−685
朱鳥 元(丙戌)〜九  686−694
大化 元(乙未)〜六  695−700

 これは『二中歴』から九州年号の後期部分を抜粋し、西暦等を付記したものです。このように年号は時間軸を表す「記号」として連続していなければ意味がありません。この点からも『日本書紀』の「大化・白雉・朱鳥」の三年号の現れ方は異常だったのです。

 この九州年号に「大化」があることに着目して下さい。『日本書紀』にも「大化」(645〜649)がありますが、既に述べてきましたように、「九州年号」が正しく、『日本書紀』が誤っていた、あるいは盗用していたという事実から見ると、ここでも九州年号の「大化」が『日本書紀』に50年ずらして盗用されていると考えるほかありません。

 そして、わざわざ50年もずらして盗用した理由は、「大化」という年号だけを盗用したかったなどとは考えられず、『日本書紀』の大化年間に散りばめられている、いわゆる「大化の改新(詔勅)」を年号の「大化」と一緒に盗用したとしか考えられないのではないでしょうか。少なくともその可能性が最も大きいと思います。このことから、結論は次のようです。

 七世紀末に九州王朝が発した「大化の詔勅」を大和朝廷は自らが発したものとして歴史を造作した。

 これです。そうでなければ、九州年号の大化を50年も遡らせて、自らの史書『日本書紀』に盗用する必要など全くないのですから。従来から、古代史学会で論争となってきた「大化の改新」の史実性についても、こうした「九州王朝の詔勅からの盗用」という新たな視点により、有効な解決がなされると思われます。