第915話 2015/04/07

久留米市の「伊我理神社」

 わたしたち「古田史学の会」のホームページには多くのメールが送られてきます。スパムメールも少なくないのですが、わたし宛のメールはインターネット事務局の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)から転送されてきます。なるべくご返事を書くようにしているのですが、内容的に返答に困るものもあり、かつ忙しいこともあってご返事が滞ることもあります。
 そうしたホームページ読者の近藤さん(久留米市在住)から久しぶりにメールをいただきました。「洛中洛外日記」911話で紹介した『筑後志』に見える三潴郡「威光理明神社、同郡六丁原村にあり。」「威光理明神社、同郡高津村にあり。」の両神社を調査していただけるというご連絡でした。
 わたしは「威光理」を「いひかり」と考え、記紀の神武東征説話に登場する「井光」「井氷鹿」のことではないかと考えていますが、近藤さんが地図で事前調査されたところ、久留米市城島町の六町原(ろくちょうばる)と高津にあるのは「伊我理神社」とのことで、「いがり」と読めます。「いひかり」とは異なりますので、不思議に思いましたが、本来はやはり『筑後志』にある「威光理」ではないでしょうか。
 というのも、明治時代に全国で荒れ狂った廃仏毀釈騒動のとき、破却されたのはお寺や仏像だけではなく、記紀に見えない「地方神」も淫祠邪教として統廃合や弾圧の対象になりました。そこで、地元の人々は神社名を変えたり、御祭神を記紀に見える有名な神名に変更して神社を守ったという歴史があります。この久留米市の「威光理明神社」も同様に記紀に見えず、神社の破却を免れるため、有名な伊勢神宮下宮の末社の一つ「伊我理神社」に名称変更したのではないかとわたしは推察しています。
 もし、そうであれば「威光理」と似た読みの「伊我理(いがり)」へ変更されたと考えられ、このことは「威光理」が「いひかり」と読まれていたとする理解を支持するのです。そこで、わたしは近藤さんに久留米市城島町の「伊我理神社」調査に当たり、現地の人は既に改名後の「いがり」と発音している可能性が高いので、江戸時代の石碑や鳥居などに「威光理」とあるのか「伊我理」とあるのかを調べてほしいとお願いしました。近藤さんから調査報告がありましたら、「洛中洛外日記」でご紹介します。とても楽しみにしています。

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