第497話 2012/11/28

大宰府とアンチモン

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれているアンチモンが、越智国や伊予国から献上されていたと見られる記事が『続日本紀』文武二年七月条(698)と『日本書紀』持統五年(691)七月条にあります。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」(『日本書紀』持統五年七月条)

 『続日本紀』には霊亀二年(716)五月条にも「白(金へん+葛)」が見えます。大宰府の百姓が白(金へん+葛)を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、官司に納めよという詔勅記事です。

 「勅したまはく、『大宰府の佰姓が家に白(金へん+葛)を蔵(おさ)むること有るは、先に禁断を加へたり。然れども
遒奉(しゅんぶ)せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加へ、更に然
(しか)らしむること無かるべし。もし白(金へん+葛)有らば、捜(さぐ)り求めて官司に納めよ』とのたまふ。」

 このように霊亀二年(716)の詔勅によれば、大宰府の人々が所蔵している白(金へん+葛)が和同開珎の私鋳に使用
されていることがうかがえます。おそらくこの時期の和同開珎であれば古和同銅銭と考えられますから、この記事の「白(金へん+葛)」もアンチモンのことと
見てよいと思われます。すなわち、越智国や伊予国産のアンチモンが九州王朝中枢の人々により収蔵されていたと考えられるのです。
 こうした理解が正しければ、銅とアンチモン合金により貨幣を鋳造する技術が九州王朝に存在したことになります。ちなみに『続日本紀』によれば、近畿天皇による和同銀銭や銅銭の発行は和銅元年(708)のことです。

 「始めて銀銭を行う。」(『続日本紀』和銅元年五月条)
 「始めて銅銭を行う」(『続日本紀』和銅元年八月条)

 そして、その二年後の和銅三年(710)には早くも大宰府から銅銭が献上されています。

 「大宰府、銅銭を献ず。」(『続日本紀』和銅三年正月条)

 この銅銭は和同開珎(おそらくは「古和同」銅銭)のことと思われますが、この素早い銅銭献上記事こそは九州王朝に貨幣発行の伝統があったことの傍証といえるのではないでしょうか。(つづく)

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