第1895話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(4)

 日野さんへの返答の2回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答②】
 九州王朝(倭国)が摂津難波の支配権を有していた時期について、7世紀初頭とする史料があることから、それ以前に九州王朝は難波に進出していたと、わたしは考えていました。その史料とは「九州年号群」史料として最も成立が早く、信頼性が高いとされている『二中歴』所収「年代歴」の次の記事でした。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」 ※倭京二年は619年。

 「倭京」は7世紀前半(618〜622年)の九州年号です。ちょうど多利思北孤の晩年に相当する期間です。『隋書』に見える九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)は倭京五年(622年、「法興32年」法隆寺釈迦三尊像光背銘による)に没し、翌623年に九州年号は「仁王元年」と改元されています。
 この「難波天王寺」とは現「四天王寺」のことで、創建当時は「天王寺」と呼ばれていたようです。四天王寺のことを「天王寺」と記す中近世史料は少なからず存在しますし、当地から「天王寺」銘を持つ軒瓦も出土しています。
 また、『日本書紀』には四天王寺の創建を六世紀末(推古元年、593年)と記されていますが、大阪歴博の考古学者による同笵瓦の編年研究から、四天王寺の創建を620〜630年頃とされており、『日本書紀』の記述よりも『二中歴』の「倭京二年」(619年)が正しかったことも判明しています。こうしたことから、『二中歴』のこの記事の信頼性は高まりました。
 以上の考察から、九州王朝(倭国)は7世紀初頭には摂津難波に巨大寺院を建立することができるほどの勢力であったことがわかります。しかし、その難波支配がいつ頃から始まったのかは不明でした。(つづく)

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