第2071話 2020/01/28

難波京朱雀大路の造営年代(6)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という現象の発生理由が(B)のケース、すなわち造営に関わった勢力が異なっており、前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営したのだとすれば、都市設計と造営工程の常識的な理解として次の展開が推定されます。

(1)難波京造営にあたり、最初に都市のグランドデザインとして、宮殿の位置とそれに繋がる中央道路(朱雀大路)や条坊区画が決定される。この決定は九州王朝(倭国)によりなされた。

(2)その都市設計や条坊造営は、「尺(29.49cm)」を採用する勢力が担当した。

(3)難波京条坊の設計尺(29.49cm)と藤原宮・京の設計尺(29.5cm)がほぼ同じであることから、難波京条坊と藤原宮・京の設計や造営は同一勢力によりなされたと考えられる。藤原京が近畿天皇家の都であることから、難波京条坊の設計・造営を担当したのも近畿天皇家(後の大和朝廷)などの在地勢力と考えるのが穏当である。

(4)その条坊都市設計に基づいて、条坊区画内に前期難波宮やその周辺官衙が築造された。その築造は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が担当した。この勢力とは、九州王朝が動員した「番匠」(『伊予三島縁起』に見える)のことと思われる。

 以上のような造営工程が考えられます。条坊都市の区画割りと平地の造成、谷の埋め立てなどのような膨大な労働力が必要とされる整地作業を、九州王朝が近畿天皇家を初めとする在地の豪族に命じたのではないでしょうか。その在地勢力の使用尺(29.49cm)と宮殿を築造した勢力の使用尺(29.2cm)がなぜ異なるのかという疑問は未だに解決できませんが、同一宮都の造営に二つの異なる尺が採用されたという事実は、前期難波宮九州王朝複都説であれば説明が可能です。他方、前期難波宮を近畿天皇家(孝徳であろうと天武であろうと)の王宮とする説では説明困難です。
 このように、高橋さんから教えていただいた、二つの異なる尺が前期難波宮造営期には併存していたという考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しているのです。(つづく)

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