第2570話 2021/09/16

『東日流外三郡誌』に使用された和紙(2)

 『東日流外三郡誌』を始めとする和田家文書に使用されている紙が明治時代末頃の和紙らしいことまでは分かってきたのですが、それを確認する方法はないものかと思案していたところ、古田先生が講演(注①)で次のようなことを話されました。

〝『丑寅風土記』(和田家文書)の先頭に和田末吉が、佐々木嘉太郎(五所川原の豪商)という紙問屋の御主人に対して感謝の言葉を書いてある。つまり寛政原本が古びて破損してきたので和田末吉が筆写しています。それが出来たのは、もっぱら和紙を提供していただいた佐々木嘉太郎さんのおかげであると、感謝の辞を筆写した文言の中に書き連ねている。
 和田末吉は不用になった大福帳を貰ってきて、それに『東日流外三郡誌』を筆写している。この「北斗抄」の最後のところに岐阜県の美濃の会社名の判子がいくつも押してありました。つまり和紙は美濃紙なのです。美濃紙のことを、岐阜県の博物館や美術館に行って郷土史に詳しい方にお聞きすれば、この判子は明治何年まで使っていました。そのようなことが分かるのではないか。〟〈講演録を古賀が要約〉

この講演を聴いた、当時岐阜県に住んでいた竹内強さん(古田史学の会・東海 会長)による執念の美濃紙調査が始まりました。この時のことを竹内さんは次のように報告されています(注②)。

〝講演終了後、「私は岐阜に住んでいます。一度調べてみましょうか。」と申し出ていた。こんな大変なことを素人の私が申し出たことを今思えば、冷汗の出る思いです。
 古田氏から渡された九枚の「北斗抄」のコピーをよく見ると四つに大別することができる。

 A、判印の無いもの
 B、岐阜市元濱町山下商店の角印
  「常盤」の大判、「ヤマセ」の記号(屋号)
 C、「岐阜市岡田商舗」の角印
  「八島」の大判、「マル小」の記号
 D、読みとれない角印「白龍」の大判、「カネト」の記号

 Cの「八島」の大判、岡田商舗の印の用紙は、明治三十年から明治末期までの間に「紙兵」の前身、玉井町に店のあった岡田商舗から売られた美濃和紙にまちがいない。(中略)
 美濃史料館の(中略)一番奥の資料展示室をのぞいて興奮した。なんと私が探していた、Dの大判「白龍」の版木がそこに展示してあるのだ。よくわからなかった角印も、更に見わたすとあの「カネト」の屋号の入った判天や提灯があちこちに置いてあるのです。
 係の人に話を聞くと、ここ今井家は、江戸時代からの庄屋で、その一方で和紙問屋も商っていた。当主は、代々今井兵四郎を名乗り明治三十年代に最も栄えたが、昭和十六年子孫が絶えて紙問屋も廃業となり、現在この建物は美濃市の管理となって、史料館として利用されているとのことです。
 これまでの調査の結果をまとめてみると、B、C、Dの紙がほぼ同時期の品物であれば明治三十年から四十年代末のものと思われる。〟

 和田家文書に捺されていた角印を手がかりに、現在は廃業している紙問屋の御子孫を探し出し、それらの問屋が明治末頃に操業していたことを突き止められたのです。竹内さんの執念の調査により、和田家文書に明治末頃の美濃和紙が使用されていたことが判明したのでした。この調査結果は真作説を決定づけるものです。戦後偽作説では、あれだけの大量の明治末頃の美濃和紙の入手を説明できないからです。

(注)
①古田武彦講演録「王朝の本質1 九州王朝から東北王朝へ」2003年6月29日、大阪市 毎日新聞社ビル六階研修センター。
②竹内強「寄稿 和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」『和田家資料3 北斗抄 一~十一』藤本光幸編、北方新社、2006年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosa108/takeutim.html

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