第2146話 2020/05/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(14)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由について、庚午年籍を始めとして庚寅年籍・「持統九年籍」などの造籍時に、十歳ごとにまとめて推定記入した結果、十歳ごとの年齢ピークが発生し、そのピークが「大宝二年籍」にまで遺存したとする南部昇さんの説は概ね納得できます。しかし、庚午年籍(670年)造籍時になぜ年齢が不詳・不審とされる人々が存在していたのでしょうか。この点について南部さんの次の説明だけでは不十分と思われるのです。

 「国郡司が『盗賊』や『浮浪』を把握し、これを庚午年籍に登録したとき、彼らが親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明である――本人の申告は信用できない――場合がしばしばあったのではないか、『盗賊』や『浮浪』ではない一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかったのであるから同様のことが生じたのではないか」(『日本古代戸籍の研究』382-383頁)

 南部さんは、「一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかった」とされますが、「大宝二年籍」にはピーク年齢以外の多くの人々の年齢が記載されており、この事実から「一般農民」は基本的に自らの年齢を把握しており、一部の農民に年齢不詳・不審のケースがあったと理解すべきです。
 さらに指摘されたピークを精査すると、次の疑問点が見えてきます。それは33歳の大ピークの存在です。南部さんの仮説によれば、大宝二年(702)の造籍時に33歳の人は、庚午年籍(670年)造籍時に年齢不詳・不審により、まとめて「一歳」として年齢認定されたということになります。それは当時、乳幼児年齢の人たちであり、母親や養育者が身近にいなければ生きていけない人たちです。そうであれば、その乳幼児の年齢は母親や養育者が知っていたはずであり、造籍を担当した地方役人たちもその申告をそのまま登録すればよいわけですから、年齢不詳・不審によるピークは少なくともこの年齢層には発生しにくいはずなのです。従って、南部さんの仮説だけでは「大宝二年籍」の33歳の大ピーク発生理由をうまく説明できないのではないでしょうか。(つづく)

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