第2823話 2022/09/01

「二倍年暦」研究の思い出 (11)

―周代と漢代の「寿命」の落差《ケースD》―

 周代の二倍年暦から一倍年暦に代わった漢代では、人の年齢や寿命の表記が半減するわけですから、この激変の痕跡が漢代史料に遺されているはずとわたしは考えました。この痕跡《ケースD》を発見できれば、周代に二倍年暦が実在したとする論証上の有力なエビデンスになります。

《ケースD》周代の二倍年暦(二倍年齢)記事と、漢代の一倍年暦(一倍年齢)時代の記事とで、ちょうど二倍の年齢差が発生した史料痕跡がある場合。寿命や年齢が半減するため、そのことによる影響が漢代史料に遺る可能性がある。

 この史料調査は難航しましたが、京都府立図書館に通い詰め、ついに見つけることができ、論文発表しました(注①)。それは中国の古典医学書『黄帝内経素問』に記された、黄帝と天師岐伯との問答です。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」『素問』上古天真論第一(注②)

 上古の人の百歳という長寿命に疑義を呈した黄帝から天師岐伯への質問形式を採った記事です。同書の作者は二倍年暦による百歳を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。
 ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦時代に入っており、上古の二倍年暦の記憶が失われていたことになります。『黄帝内経素問』の書名は『漢書』「芸文志」に見え、前漢代に編纂されたようですから、漢代では二倍年暦の記憶が失われていたことがわかります。そして、その時代の人の動作が衰える年齢が百歳ではなく五十歳(年半百)と認識されていたこともわかります。
 更に、この記事の重要な点は、比較した年齢、上古の百歳と今時の五十歳がちょうど半分になっていることです。このことから、二倍年暦が漢代よりはるか昔に存在していたとしなければ、この記事に示された作者の疑問(認識)の発生理由を説明できないのです。なお、同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
 こうして、『論語』や周代の二倍年暦説を論証するための四つのケース《A・B・C・D》全てのエビデンスを確認できました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1660話(2018/04/29)〝『論語』二倍年暦説の史料根拠(4)〟
 同「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2019年。
 同「二倍年暦と『二倍年齢』の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
 同「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』171号、2022年。
②『素問』はweb辞書「維基文庫」に収録されている。

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